男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~   作:朝凪小夜

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第25話 既に、私に

 

院長室の机の上に、報告書が置かれていた。

羊皮紙、十八枚。紐で綴じて、表紙に几帳面な字で件名が書いてある。

 

『件名:滋養強壮魔導薬・第七号の効果に関する追加知見』

 

ドロテア・クラムは、それを最後の頁まで読み終えた。

眼鏡を外す。目頭を揉む。眼鏡をかけ直す。

それから、顔を上げた。

机の前に、リゼットが立っていた。

白衣のボタンは、一つずつずれていた。髪は、束ねていなかった。眼鏡のつるが、片方だけ少し曲がっていた。

いつも通りの、淡々とした顔だった。

 

「……読んだわ」

 

院長は、報告書を机の上で揃えた。

 

「第七号の継続服用により、対象の疲労値はほぼ解消。素の体力の伸びと合わせて、供給の頻度を維持できる状態に回復。……ここまでは、予定通りね」

 

「はい」

 

「問題は、十二枚目からよ」

 

院長は、報告書をめくった。

 

十二枚目。

 

『観察事項(続)十九時十八分以降、対象の自発的行為により、【ステータス貸与】の契約が成立。契約者:本研究の観察担当者。これにより、当院は対象の契約枠の一つを確保した。』

 

院長は、その一段落を、指でなぞった。

 

「被験者の、自発的行為により」

 

「はい」

 

「契約成立」

 

「はい」

 

「当院の一枠を、確保」

 

「はい」

 

院長は、報告書から顔を上げた。

リゼットの顔を見た。それから、報告書を見た。それから、もう一度リゼットの顔を見た。

 

「……つまり」

 

「つまり、当院は、対象の契約枠の三つ目を確保しました」

 

リゼットは、淡々と答えた。

 

「神殿、騎士団に続く、三つ目の協力機関として。第七号の定期納入と合わせて、当院は対象の体を支える立場と、契約者の立場を、両方得たことになります」

 

院長は、しばらく黙っていた。

窓の外で、研究棟の中庭の木が風に揺れていた。

報告書は、よくできていた。

第七号の効果の検証。疲労値の推移。素の力との相関。比較実験の結果。同種貸与の効率。精神の貸与と、発言の変化。

どの頁を取っても、魔導院の研究として、申し分のないものだった。

そして十二枚目で、当院は、三つしかない契約枠の一つを手に入れていた。

神殿は、祝福が倍になった。騎士団は、副長の動きが別人のようになった。

それと同じものを、魔導院も得たのだ。

院長として、これを称賛しないわけにはいかなかった。

 

「……よくやったわ、ハーシェル」

 

院長は、言った。

声は、落ち着いていた。

 

「統計課の末席に置いておくのは、もう無理ね。研究棟に、席を用意しましょう。研究予算も、正式につけます」

 

「ありがとうございます」

 

リゼットは、一礼した。

淡々とした礼だった。ただ、白衣の袖の中で、指先がかすかに動いた。

 

「昇進の手続きは、来週中に」

 

「はい」

 

院長は、報告書を机の端に寄せた。

そうして、指を組んだ。

ここからが、本題だった。

 

「それで」

 

院長は、穏やかに言った。

 

「その一枠は、誰に?」

 

当院の一枠。

 

三つしかない契約枠の、最後の一つ。魔導院が、組織として確保したもの。

その椅子に、誰が座るのか。

院長は、この一か月、それを考えていた。

研究協力の窓口は、末席の研究員に任せた。警戒されないために。正確な記録を取るために。理屈は、通っていた。

けれど、窓口と、契約者は、別の話だ。

当院を代表して、対象と契約を結ぶ者。それは、当院を代表する者であるべきだった。

院長室に、それは一人しかいなかった。

院長は、穏やかな顔で、部下の答えを待っていた。

リゼットは、眼鏡を押し上げた。

 

「既に、私に」

 

院長室が、静かになった。

院長の、組んだ指が、止まっていた。

 

「……今、何と」

 

「既に、私に」

 

リゼットは、同じ調子で繰り返した。

 

「報告書の十二枚目に記載の通りです。契約者は、本研究の観察担当者。つまり、私です」

 

院長は、報告書の十二枚目を、もう一度開いた。

 

『契約者:本研究の観察担当者』

 

観察担当者。

研究協力の窓口。第七号の提供と経過観察を任せた者。

院長自身が、一か月前に、この部屋で許可を出した者。

 

『許可します。研究協力の窓口は、統計課、リゼット・ハーシェル』

 

院長は、ゆっくりと報告書を閉じた。

 

「……被験者の、自発的行為により」

 

「はい」

 

「つまり、あなたから迫ったのでは、ないのね」

 

「はい。私は、観察をしていただけです」

 

リゼットは、まっすぐに院長を見ていた。

淡々とした目だった。

嘘は、一つもついていなかった。

経過観察の時間を、三十分から九十分まで延ばしたこと。椅子の位置を、少しずつ近づけたこと。髪を束ねるようになったこと。砂時計を、二度ひっくり返したこと。

どれも、報告書の中に、ちゃんと書いてあった。

「データの安定のため」という理由とともに。

 

院長は、窓の方を向いた。

表情は、変わらなかった。

王立魔導院院長。四十三歳。部下の手柄を正当に評価する程度には、有能だった。部下の前で表情を崩さない程度には、矜持もあった。

ただ、右手が、机の端の小瓶に伸びていた。

胃薬の小瓶だった。

院長は、それを握った。握ったまま、栓は抜かなかった。

左手は、胃のあたりを押さえていた。

 

「……ハーシェル」

 

「はい」

 

「あなた、最初から、そのつもりだったの」

 

リゼットは、少しだけ考えた。

眼鏡の奥の目が、ほんの一瞬、揺れた。

 

「最初は、研究上の関心でした」

 

「最初は」

 

「……今は、記録を続けています」

 

それは、答えになっていなかった。

院長は、それ以上聞かなかった。

 

「下がってよろしい」

 

「失礼いたします」

 

リゼットは一礼して、扉に向かった。

扉の前で、彼女は一度だけ振り返った。

 

「院長」

 

「何かしら」

 

「報告書の、十五枚目の脚注を、ご確認いただけますか」

 

院長は、報告書をめくった。

十五枚目。

 

『脚注:対象の契約枠は、現在三つすべてが埋まっている。ただし、対象のスキルのレベルは上昇を続けている。枠が今後増える可能性について、継続観察を要す』

 

院長は、その脚注を読んだ。

顔を上げたときには、扉はもう閉まっていた。

 

院長は、一人になった院長室で、報告書の十五枚目を見つめていた。

枠が、今後増える可能性。

増えるのなら、また、椅子が空く。

院長は、胃薬の小瓶の栓を抜いた。

一口、飲んだ。苦かった。

それから、机の引き出しを開けた。

一番奥に、薄い書類の束が入っていた。魔導院の法務担当が、数年前にまとめたものだった。

 

『滋養強壮魔導薬の法定上限について現行規定の問題点』

 

院長は、その束を取り出して、机の上に広げた。

現行の法律では、第七号の濃度には上限が定められている。疲労の回復量、最大三割増。それ以上の濃度の製造は、許されていない。

理由は、男性の体への負担だった。回復させすぎれば、それだけ消耗も増える。男性の体を守るための、上限だった。

これまでは、それで十分だった。

この国の男は、消耗を望まない。回復量が三割増えれば、それで用は足りた。

けれど、消耗を望む男が、一人現れた。

その男の契約枠が、今後増えるかもしれない。増えれば、もっと消耗する。もっと消耗すれば、三割では足りなくなる。

院長は、法務担当の書類を、最後までめくった。

それから、羊皮紙を一枚、新しく広げた。

ペンを取る。

宛名は、王国議会の、薬事を所管する委員会の議員たちだった。

一人ずつ、名前を書き連ねる。その下に、件名。

 

『滋養強壮魔導薬の上限規定見直しに関する陳情』

 

院長は、件名を書き終えて、少しだけペンを止めた。

窓の外は、夏の陽射しだった。

研究棟の中庭を、白衣の研究員が一人、横切っていくのが見えた。

床まで垂れた、灰銀の髪。一定の歩幅で。等間隔の足音で。

ほんの少しだけ、いつもより大きな歩幅で。

院長は、窓から目を離した。

陳情書の末尾に、署名をした。

 

『王立魔導院院長ドロテア・クラム』

 

インクが乾くのを待つあいだ、院長は、胃のあたりをもう一度だけ押さえた。

 

 

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