男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
院長室の机の上に、報告書が置かれていた。
羊皮紙、十八枚。紐で綴じて、表紙に几帳面な字で件名が書いてある。
『件名:滋養強壮魔導薬・第七号の効果に関する追加知見』
ドロテア・クラムは、それを最後の頁まで読み終えた。
眼鏡を外す。目頭を揉む。眼鏡をかけ直す。
それから、顔を上げた。
机の前に、リゼットが立っていた。
白衣のボタンは、一つずつずれていた。髪は、束ねていなかった。眼鏡のつるが、片方だけ少し曲がっていた。
いつも通りの、淡々とした顔だった。
「……読んだわ」
院長は、報告書を机の上で揃えた。
「第七号の継続服用により、対象の疲労値はほぼ解消。素の体力の伸びと合わせて、供給の頻度を維持できる状態に回復。……ここまでは、予定通りね」
「はい」
「問題は、十二枚目からよ」
院長は、報告書をめくった。
十二枚目。
『観察事項(続)十九時十八分以降、対象の自発的行為により、【ステータス貸与】の契約が成立。契約者:本研究の観察担当者。これにより、当院は対象の契約枠の一つを確保した。』
院長は、その一段落を、指でなぞった。
「被験者の、自発的行為により」
「はい」
「契約成立」
「はい」
「当院の一枠を、確保」
「はい」
院長は、報告書から顔を上げた。
リゼットの顔を見た。それから、報告書を見た。それから、もう一度リゼットの顔を見た。
「……つまり」
「つまり、当院は、対象の契約枠の三つ目を確保しました」
リゼットは、淡々と答えた。
「神殿、騎士団に続く、三つ目の協力機関として。第七号の定期納入と合わせて、当院は対象の体を支える立場と、契約者の立場を、両方得たことになります」
院長は、しばらく黙っていた。
窓の外で、研究棟の中庭の木が風に揺れていた。
報告書は、よくできていた。
第七号の効果の検証。疲労値の推移。素の力との相関。比較実験の結果。同種貸与の効率。精神の貸与と、発言の変化。
どの頁を取っても、魔導院の研究として、申し分のないものだった。
そして十二枚目で、当院は、三つしかない契約枠の一つを手に入れていた。
神殿は、祝福が倍になった。騎士団は、副長の動きが別人のようになった。
それと同じものを、魔導院も得たのだ。
院長として、これを称賛しないわけにはいかなかった。
「……よくやったわ、ハーシェル」
院長は、言った。
声は、落ち着いていた。
「統計課の末席に置いておくのは、もう無理ね。研究棟に、席を用意しましょう。研究予算も、正式につけます」
「ありがとうございます」
リゼットは、一礼した。
淡々とした礼だった。ただ、白衣の袖の中で、指先がかすかに動いた。
「昇進の手続きは、来週中に」
「はい」
院長は、報告書を机の端に寄せた。
そうして、指を組んだ。
ここからが、本題だった。
「それで」
院長は、穏やかに言った。
「その一枠は、誰に?」
当院の一枠。
三つしかない契約枠の、最後の一つ。魔導院が、組織として確保したもの。
その椅子に、誰が座るのか。
院長は、この一か月、それを考えていた。
研究協力の窓口は、末席の研究員に任せた。警戒されないために。正確な記録を取るために。理屈は、通っていた。
けれど、窓口と、契約者は、別の話だ。
当院を代表して、対象と契約を結ぶ者。それは、当院を代表する者であるべきだった。
院長室に、それは一人しかいなかった。
院長は、穏やかな顔で、部下の答えを待っていた。
リゼットは、眼鏡を押し上げた。
「既に、私に」
院長室が、静かになった。
院長の、組んだ指が、止まっていた。
「……今、何と」
「既に、私に」
リゼットは、同じ調子で繰り返した。
「報告書の十二枚目に記載の通りです。契約者は、本研究の観察担当者。つまり、私です」
院長は、報告書の十二枚目を、もう一度開いた。
『契約者:本研究の観察担当者』
観察担当者。
研究協力の窓口。第七号の提供と経過観察を任せた者。
院長自身が、一か月前に、この部屋で許可を出した者。
『許可します。研究協力の窓口は、統計課、リゼット・ハーシェル』
院長は、ゆっくりと報告書を閉じた。
「……被験者の、自発的行為により」
「はい」
「つまり、あなたから迫ったのでは、ないのね」
「はい。私は、観察をしていただけです」
リゼットは、まっすぐに院長を見ていた。
淡々とした目だった。
嘘は、一つもついていなかった。
経過観察の時間を、三十分から九十分まで延ばしたこと。椅子の位置を、少しずつ近づけたこと。髪を束ねるようになったこと。砂時計を、二度ひっくり返したこと。
どれも、報告書の中に、ちゃんと書いてあった。
「データの安定のため」という理由とともに。
院長は、窓の方を向いた。
表情は、変わらなかった。
王立魔導院院長。四十三歳。部下の手柄を正当に評価する程度には、有能だった。部下の前で表情を崩さない程度には、矜持もあった。
ただ、右手が、机の端の小瓶に伸びていた。
胃薬の小瓶だった。
院長は、それを握った。握ったまま、栓は抜かなかった。
左手は、胃のあたりを押さえていた。
「……ハーシェル」
「はい」
「あなた、最初から、そのつもりだったの」
リゼットは、少しだけ考えた。
眼鏡の奥の目が、ほんの一瞬、揺れた。
「最初は、研究上の関心でした」
「最初は」
「……今は、記録を続けています」
それは、答えになっていなかった。
院長は、それ以上聞かなかった。
「下がってよろしい」
「失礼いたします」
リゼットは一礼して、扉に向かった。
扉の前で、彼女は一度だけ振り返った。
「院長」
「何かしら」
「報告書の、十五枚目の脚注を、ご確認いただけますか」
院長は、報告書をめくった。
十五枚目。
『脚注:対象の契約枠は、現在三つすべてが埋まっている。ただし、対象のスキルのレベルは上昇を続けている。枠が今後増える可能性について、継続観察を要す』
院長は、その脚注を読んだ。
顔を上げたときには、扉はもう閉まっていた。
院長は、一人になった院長室で、報告書の十五枚目を見つめていた。
枠が、今後増える可能性。
増えるのなら、また、椅子が空く。
院長は、胃薬の小瓶の栓を抜いた。
一口、飲んだ。苦かった。
それから、机の引き出しを開けた。
一番奥に、薄い書類の束が入っていた。魔導院の法務担当が、数年前にまとめたものだった。
『滋養強壮魔導薬の法定上限について現行規定の問題点』
院長は、その束を取り出して、机の上に広げた。
現行の法律では、第七号の濃度には上限が定められている。疲労の回復量、最大三割増。それ以上の濃度の製造は、許されていない。
理由は、男性の体への負担だった。回復させすぎれば、それだけ消耗も増える。男性の体を守るための、上限だった。
これまでは、それで十分だった。
この国の男は、消耗を望まない。回復量が三割増えれば、それで用は足りた。
けれど、消耗を望む男が、一人現れた。
その男の契約枠が、今後増えるかもしれない。増えれば、もっと消耗する。もっと消耗すれば、三割では足りなくなる。
院長は、法務担当の書類を、最後までめくった。
それから、羊皮紙を一枚、新しく広げた。
ペンを取る。
宛名は、王国議会の、薬事を所管する委員会の議員たちだった。
一人ずつ、名前を書き連ねる。その下に、件名。
『滋養強壮魔導薬の上限規定見直しに関する陳情』
院長は、件名を書き終えて、少しだけペンを止めた。
窓の外は、夏の陽射しだった。
研究棟の中庭を、白衣の研究員が一人、横切っていくのが見えた。
床まで垂れた、灰銀の髪。一定の歩幅で。等間隔の足音で。
ほんの少しだけ、いつもより大きな歩幅で。
院長は、窓から目を離した。
陳情書の末尾に、署名をした。
『王立魔導院院長ドロテア・クラム』
インクが乾くのを待つあいだ、院長は、胃のあたりをもう一度だけ押さえた。