男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
リゼットの髪が、編んであった。
観察室の扉を開けた瞬間、アルトはそれに気づいた。
床まで垂れていた灰銀の髪が、一本の三つ編みになっていた。
ぎこちない三つ編みだった。編み目の太さが、場所によってばらばらだった。途中で一度、編む順番を間違えたらしく、一か所だけ不自然にねじれている。毛先の方は、力尽きたように編み目がほどけかけていた。
それでも、三つ編みだった。
「……おはようございます」
「おはようございます」
リゼットは、記録板から目を上げずに答えた。
「本日の経過観察を、開始します」
(三つ編み)
(あの、切るのが面倒で伸ばし放題だった人が)
(三つ編み)
契約が成立してから、一週間が経っていた。
観察は、相変わらず続いていた。第七号の効果の検証は、研究としてはもう十分すぎるほど終わっていた。それでも、リゼットは「継続観察を要す」と書き続けた。
院長は、何も言わなかった。
アルトは琥珀色の小瓶を飲み干して、椅子に座った。
リゼットが、計測器を貼りに来た。
身を屈める。手首に。首筋に。
その指先が、いつもと違った。
荒れていなかった。
試薬で白くひび割れていた指先が、なめらかになっていた。爪の際のささくれも、きれいに整えてあった。
それから、匂いが違った。
紙とインクの匂いは、まだあった。けれど、その奥の日向の猫の匂いが、薄くなっていた。
代わりに、石鹸の匂いがした。
清潔で、少し硬い、洗いたての匂い。
「……ハーシェル殿」
「はい」
「何か、変えましたか」
リゼットの指が、アルトの首筋の上で止まった。
「……何を、でしょうか」
「指先が。それから、髪も」
リゼットは、しばらく黙っていた。
それから、計測器を貼り終えて、椅子に戻った。
記録板を、膝の上に置いた。
「十時三分。対象、計測者の身体の変化について言及」
淡々と記録した。
それから、ペンを止めた。
「……一週間前の、夜のことです」
リゼットは、記録板を見下ろしたまま話した。
「あの夜、フェンネル殿は、私の髪がもつれていると仰いました」
アルトは、思い出した。
燭台の灯りの中で。床まで垂れた髪に指を通そうとして、途中で引っかかって。
『ずいぶん、もつれていますね』
確かに、言った。
「それから、指先が荒れている、と」
『試薬で、荒れてるんですね』
それも、言った。
「翌朝には、寝癖がひどい、と」
『……すごい寝癖ですね』
それも、言った。
(言ったな、全部)
(何も考えずに、思ったまま)
「それまで、私は自分の体を、気にしたことがありませんでした」
リゼットは、淡々と続けた。
「髪は、伸びるもの。指先は、荒れるもの。寝癖は、つくもの。どれも、研究の妨げにならなければ、どうでもよいことでした」
「……はい」
「誰も、見ていなかったからです」
彼女は、眼鏡を押し上げた。
「見られるものだと、知りませんでした」
観察室が、静かになった。
「あの夜から、私は自分の体を」
リゼットは、そこで言葉を探した。
探して、探して、一番正確な言葉を選んだ。
「……観察されるものとして、意識するようになりました」
彼女の耳が、赤くなっていた。
「髪がもつれているかどうか。指先が荒れているかどうか。寝癖がついているかどうか。それを、フェンネル殿が見るかどうか」
ペンを持つ手が、かすかに震えていた。
「そう考えると、なぜか、落ち着かなくなるのです」
彼女は、記録板を見下ろしたまま、小さく言った。
「落ち着かなくて、それが……」
その先は、言わなかった。
言わなかったが、耳の赤さが、続きを言っていた。
(……この人、恥ずかしいのが、いいんだ)
(見られて、恥ずかしくて、それが)
(淡々と、全部説明してくれてる)
「それで、手入れを始めました」
リゼットは、気を取り直したように言った。
「髪を、梳きました。三刻かかりました」
「三刻」
「理髪店に行くのと、同じ時間です」
「……切った方が、早かったのでは」
「切ると、元に戻せません」
彼女は、三つ編みの先を指でつまんだ。
「指先には、薬局で買った軟膏を塗りました。寝癖は、寝る前に髪を編むことで防いでいます」
それから、彼女は付け加えた。
「肌も、石鹸で洗うようにしました」
(だから、石鹸の匂い)
アルトは、リゼットを見た。
三つ編み。なめらかな指先。石鹸の匂い。
一週間で、ずいぶん変わった。
ただ、何かが、引っかかった。
「……ハーシェル殿」
「はい」
「白衣のボタンは」
リゼットは、自分の袖口を見た。
ボタンが、一つずつずれていた。
上から二番目の穴に、一番上のボタンが。
「ああ」
彼女は、何でもないことのように言った。
「これは、対照群です」
「……対照群」
「はい。手入れをした部位と、しなかった部位を比較するために、一箇所だけ、元の状態を残しています」
「元の状態を」
「変化の有無を確かめるには、比較対象が必要ですので」
リゼットは、淡々と言った。
(対照群)
(ボタンのずれが、対照群)
(……いや、待って)
「ボタンだけ、ですか」
アルトは聞いた。
リゼットのペンが、止まった。
「……ボタンは、毎日変えています」
「毎日」
「対照群は、毎日、一箇所だけ。昨日は、左手の小指の爪でした。一昨日は、右の耳の後ろの髪でした」
「…………」
「ボタンは、本日の対照群です」
彼女は、そこで口をつぐんだ。
何かを言い残したような、顔だった。
観察が、四十分を過ぎた頃だった。
リゼットが、計測器の位置を直すために立ち上がった。
アルトの胸元に貼った金属片が、少しずれていた。彼女はそれを貼り直そうと、腕を伸ばした。
右腕を、高く。
白衣の袖が、肘までずり落ちた。その下の、薄い夏服の袖も。
彼女の腕が上がって、脇が、アルトの顔のすぐ前に来た。
匂いが、した。
石鹸の匂いではなかった。
日向の猫だった。
一週間前と同じ。陽にあたって温まった、柔らかい毛の匂い。
腕も、指先も、髪も、首筋も、全部石鹸の匂いに変わっていたのに。
そこだけが、元のままだった。
(……え)
(ここだけ)
(ここだけ、残ってる)
アルトは、気づいたら、顔を近づけていた。
リゼットが、凍りついた。
腕を上げたまま。計測器の金属片を指先でつまんだまま。
「……フェンネル殿」
声が、淡々としていなかった。
「今、何を」
アルトは、答えなかった。
答えられなかった。
日向の猫の匂いが、すぐそこにあった。一週間、薄くなっていた匂い。どこを探しても、もう見つからないと思っていた匂い。
それが、ここに。
(ここが一番……)
(ここが、一番、この人の匂いがする……)
(ありがとうございます……)
「……計測」
リゼットの声が、震えていた。
腕を上げたまま、彼女は動けずにいた。耳が、真っ赤だった。耳だけではなかった。首筋も、頬も、上げた腕の内側まで。
淡々とした顔が、完全に崩れていた。
アルトは、初めて見た。
この人の、崩れた顔を。
「……計測を」
リゼットは、ぎゅっと目を閉じた。
「計測を、中断します」
彼女は腕を下ろした。
計測器の金属片が、床に落ちた。
拾わなかった。
彼女は記録板を胸に抱えて、観察室の隅まで歩いていった。壁の方を向いて、立ち止まった。
背中が、小刻みに震えていた。
「……対照群、です」
壁の方を向いたまま、彼女は言った。
蚊の鳴くような声だった。
「本日の、二つ目の、対照群です」
「……二つ目」
「ボタンは、一つ目です」
(ボタンが、カモフラージュだった)
アルトは、椅子の上で、穏やかな顔をしていた。
「……失礼、いたしました」
その週の終わり。
院長室の机の上に、報告書が置かれていた。
『件名:第七号継続服用時の経過観察に関する週次報告日時:第五週各日十八時より記録者:研究棟リゼット・ハーシェル
観察事項一、対象の疲労値、引き続き低水準で推移二、計測者の身体の手入れに伴い、対象の反応に変化を確認(髪、指先、肌の状態について、対象の言及あり)三、対照群の設定について手入れの効果を比較するため、毎日一箇所を未処置とした本週の対照群:白衣の釦(月〜金)、および■■■■■■(木)四、木曜十八時四十二分、対象が■■■■■■■■■■■■に接近■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■計測を一時中断五、継続観察を要す』
ドロテア・クラムは、その報告書を三度読んだ。
それから、四項目めの黒塗りを、指でとんとんと叩いた。
机の前に、リゼットが立っていた。
三つ編みだった。白衣のボタンは、一つずつずれていた。
「ハーシェル」
「はい」
「この削除箇所は?」
リゼットは、眼鏡を押し上げた。
いつも通りの、淡々とした顔だった。
ただ、耳だけが、少し赤かった。
「研究上の、機密です」
院長は、黒塗りを見つめていた。
それから、胃のあたりを押さえた。
翌朝。
研究棟の宿舎の洗面台の前で、リゼットは石鹸を手にしていた。
鏡の中の自分を、見ていた。
右腕を、上げる。下ろす。
もう一度、上げる。
石鹸を、右手から左手に持ち替えた。左手から、右手に戻した。
洗えば、石鹸の匂いになる。洗わなければ、元のままだ。
対照群として、残すべきか。比較対象は、もう十分に記録が取れたのではないか。いや、まだ一例だけだ。一例では、統計的に意味をなさない。
それに。
リゼットは、昨日の観察室を思い出していた。
あの人の顔が、すぐそこにあった。あの人の息が、肌に触れていた。
計測を中断するしかなかった。
あれをもう一度、と考えただけで、鏡の中の自分の顔が、見る間に赤くなっていった。
石鹸を、右手から左手に持ち替えた。
洗面台の前に立ってから、四分が経っていた。
統計課の机に着く時刻は、九時ちょうど。このままでは、五年間で初めての遅刻になる。
リゼットは、石鹸を洗面台に置いた。
腕を下ろした。
「……対照群は、継続します」
誰もいない洗面所で、彼女はそう呟いた。
鏡の中の顔は、耳まで赤かった。