男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
王立魔導院の応接室の扉が、叩かれもせずに開いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、赤褐色の髪をきっちりとまとめた女だった。
二十六歳。仕立てのいい深緑の上衣に、同じ色の細身の裾。腕に、革装の帳簿を三冊抱えている。
深緑の目が、応接室を一度見回した。
上座に、院長のドロテア・クラム。その脇に、三つ編みの研究員が一人。
「七都商盟議長、マルグリット・オーベールです」
女は、帳簿を抱えたまま一礼した。
「本日は、お時間をいただき、ありがとうございます」
院長は、眼鏡の奥で目を細めた。
「約束の時刻より、十五分早いわね」
「商談は、早く始めた方が、早く終わりますので」
マルグリットは、勧められる前に向かいの椅子に腰を下ろした。
帳簿を、机の上に置く。三冊を、きっちりと角を揃えて。
それから、顔を上げた。
「滋養強壮魔導薬・第七号の流通について」
彼女は、穏やかに言った。
「独占には、異議があります」
応接室の空気が、わずかに張り詰めた。
院長は、表情を変えなかった。
「異議、と」
「はい」
マルグリットは、一冊目の帳簿を開いた。
「第七号は、現在、魔導院が製造し、魔導院が直接販売しています。王都の薬局に卸しているのも、魔導院の販売部。価格を決めているのも、魔導院」
「当院の製品ですもの」
「それ自体は、結構です」
マルグリットは、頁をめくった。
「ただ、この二か月で、状況が変わりました」
帳簿の頁に、数字が並んでいた。
「第七号の、王都での売上。二か月前と比べて、四倍」
院長の指が、机の上で止まった。
「理由は、ご存じの通りです。ある方が、定期的に服用を始められた。その方の噂が広まって、王都の女性たちが、試しに夫に飲ませ始めた。……効くかどうかは、別として」
マルグリットは、淡々と続けた。
「需要が四倍になったのに、供給は魔導院の販売部だけ。王都の外には、ほとんど出回っていません。地方の薬局では、品切れが続いている。闇で、三倍の値がついている町もあります」
「……それは」
「価格の不安定。供給の偏り。闇値の発生」
彼女は、帳簿を閉じた。
「独占の、典型的な弊害です」
院長が、ゆっくりと指を組んだ。
「それで、七都商盟は、何をお望みかしら」
「流通を、当盟にお任せいただきたい」
マルグリットは、二冊目の帳簿を開いた。
「七都商盟は、王国の主要な七つの商業都市に、倉庫と販売網を持っています。製造は、魔導院で。流通と販売は、当盟で。そうすれば、王国全土に、適正な価格で、安定して届けられます」
「当院の取り分は」
「卸値で、お買い上げします。現在の販売価格の、七割で」
院長の眉が、わずかに動いた。
「七割」
「流通の費用を考えれば、妥当な数字です」
「当院が直接売れば、十割よ」
「王都だけなら、ですね」
マルグリットは、帳簿の頁を指でとんとんと叩いた。
「王都の外では、魔導院の販売部は、ほとんど売れていません。売る手段がないからです。当盟に任せていただければ、王国全土の売上が、魔導院に入ります。七割でも、総額では今の三倍になる試算です」
院長は、黙っていた。
数字の説得力を、測っている顔だった。
「ご質問を、よろしいでしょうか」
院長の脇から、淡々とした声がした。
三つ編みの研究員だった。
記録板を胸に抱えて、眼鏡の奥から、マルグリットを見ていた。
「研究棟のリゼット・ハーシェルです。第七号の、研究協力の窓口を担当しております」
マルグリットの目が、わずかに細くなった。
「存じております」
「七割の卸値の根拠として、流通費用を挙げられました。七都商盟の、輸送一回あたりの費用の内訳を、伺えますか」
「……内訳」
「はい。馬車一台あたりの積載量、一日あたりの移動距離、倉庫の保管料。それぞれの数字が分かれば、七割が妥当かどうか、検証できます」
マルグリットは、リゼットを見つめた。
一呼吸。
それから、三冊目の帳簿を開いた。
「馬車一台あたり、小瓶で八百本。一日の移動距離は、街道の状態によって十二里から十八里。倉庫の保管料は、都市ごとに異なりますが、平均で」
彼女は、数字を淀みなく読み上げた。
リゼットは、それを記録板に書き留めていった。
一行ずつ。正確に。
書き終えて、ペンを止めた。
「……その数字で計算すると、流通費用は、販売価格の約一割八分です」
「ええ」
「卸値が七割なら、当盟の取り分は、残りの三割から一割八分を引いて、一割二分」
「そうなりますね」
「一割二分の利益で、王国全土に販売網を広げる。七都商盟としては、薄い商売です」
リゼットは、眼鏡を押し上げた。
「薄い商売を、なぜ、わざわざ持ちかけるのですか」
応接室が、静かになった。
マルグリットは、リゼットを見ていた。
リゼットも、マルグリットを見ていた。
院長は、二人の間で、黙って指を組んでいた。
「……鋭いですね」
マルグリットが、言った。
微笑んでいた。商談用の、隙のない微笑みだった。
「薄い商売でも、量が出れば、利益になります。第七号の需要は、まだ伸びる」
「需要が伸びる根拠は」
「ある方の、契約が増えれば」
マルグリットは、さらりと言った。
リゼットのペンが、止まった。
「契約枠は、三つとも埋まっています」
「今は、そうですね」
「今後、増える根拠は」
「……あなたの研究が、一番よくご存じでは?」
リゼットの目が、ほんの少しだけ、揺れた。
マルグリットは、それを見逃さなかった。
「それと」
マルグリットは、一冊目の帳簿の、後ろの方の頁を開いた。
「需要が伸びると考える根拠を、もう一つ」
頁の余白に、小さな書き込みがあった。
インクの染みのついた指先が、それを示す。
『香封じ手に取る、十二呼吸』
院長が、眉をひそめた。
「これは」
「二か月前に、当盟の展示室で開いた、新商品の試用会の記録です」
マルグリットは、淡々と説明した。
「香封じの首飾り。身につけた女性の香りを、近くでだけ強く立たせる品。殿方には、まったく売れていませんでした。手に取る方すら、ほとんどいない」
彼女は、書き込みを指でなぞった。
「ある方が、それを手に取りました。灯りにかざして、鎖をなぞって、戻すまでに、十二呼吸」
「……十二呼吸」
「普通の殿方なら、手に取りもしません。取ったとしても、二呼吸で戻します」
マルグリットは、顔を上げた。
「私は、二か月前から知っていました。あの方が、どういう方なのか」
リゼットが、記録板を握る手に、わずかに力を込めた。
「神殿よりも、騎士団よりも、魔導院よりも先に」
マルグリットの声は、穏やかだった。
「当盟は、気づいていたのです」
院長が、組んでいた指をほどいた。
「……それで、今になって、流通の話を」
「はい」
「独占を崩して、当盟が一枚噛む。第七号の流れを握れば、あの方の周りで何が起きているか、全部見える」
院長は、眼鏡を押し上げた。
「そういうことかしら」
マルグリットは、否定しなかった。
微笑んだまま、帳簿を三冊、きっちりと揃えた。
「商売とは、流れを握ることですので」
院長は、しばらく黙っていた。
それから、首を横に振った。
「お断りするわ」
「理由を、伺っても」
「第七号は、当院の研究の成果よ。流通を他所に任せれば、品質の管理が及ばなくなる。それに」
院長は、隣のリゼットを一瞥した。
「当院は、あの方の体を支える立場にある。その立場を、商売の都合で薄めるつもりはないわ」
マルグリットは、ゆっくりと立ち上がった。
帳簿を、腕に抱え直す。
「……承知しました」
一礼。
「本日は、決裂ということで」
「ええ」
「では、別の方法で」
マルグリットは、扉に向かった。
扉の前で、一度だけ振り返った。
深緑の目が、リゼットを見ていた。
「ハーシェル殿」
「……はい」
「数字の扱いが、正確ですね。あなたとは、いずれまた」
それだけ言って、マルグリットは応接室を出ていった。
扉が、閉まった。
リゼットは、閉じた扉を見つめていた。
記録板の上の、流通費用の数字。彼女が書き留めた、一行ずつ正確な数字。
あの人は、それを一度も帳簿を見ずに、淀みなく読み上げた。
全部、頭に入っていたのだ。
「……院長」
「何かしら」
「あの方は、手強いです」
院長は、胃のあたりを押さえた。
「知っているわ」
その夜。
七都商盟、本部の大会議室。
長い卓の周りに、七つの都市の商会の会頭たちが座っていた。
上座に、マルグリット。
「魔導院との交渉は、決裂しました」
彼女は、淡々と報告した。
会頭たちが、ざわついた。
「議長。だから申し上げたのです。魔導院は、独占を手放さないと」
「第七号の流通に、そこまでこだわる必要が」
「こだわる必要は、あります」
マルグリットは、帳簿を開いた。
「第七号は、入口にすぎません」
会頭たちが、口をつぐんだ。
「私が欲しいのは、薬の流れではありません。あの方の、力です」
「力、とは」
「【ステータス貸与】には、まだ私たちの知らない先がある。魔導院の研究員が、壁の存在を突き止めました。壁を越えれば、何が起きるのか」
マルグリットは、帳簿の頁を指でなぞった。
「契約の枠が、増えるかもしれない。そして、ステータス以外のものも、貸せるようになるかもしれない」
「ステータス、以外」
「たとえば」
マルグリットは、顔を上げた。
「知識。計算の力。法の知恵。……あの方が身につけたものを、そのまま借りられるとしたら」
会頭たちが、顔を見合わせた。
その意味が、商人たちにはすぐに分かった。
「契約の枠は、三つとも埋まっていると聞きましたが」
一番端の席から、声がした。
鋭い目つきの、年配の女性だった。腕を組んで、議長を見据えていた。
「議長。枠がないのに、どうやって」
マルグリットは、その会頭を見た。
それから、穏やかに微笑んだ。
「フェンネル卿の契約枠」
彼女は、会議室の全員に向かって、はっきりと言った。
「四つ目は、当盟が取ります」
会議室が、静まり返った。
「……四つ目は、まだ存在しないのでは」
端の席の会頭が、低い声で言った。
マルグリットは、帳簿を閉じた。
ぱたん、と乾いた音がした。
「ないなら、作るまでです」