男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~   作:朝凪小夜

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第29話 手形と、保険と

 

七都商盟の会議室は、思っていたより質素だった。

石の壁に、大きな地図が一枚。王国の七つの商業都市が、赤い点で記されている。都市と都市のあいだを、細い線が網の目のように結んでいた。

長い卓の向こうに、マルグリットが座っていた。

赤褐色の髪を、きっちりとまとめている。深緑の上衣。腕の横に、革装の帳簿が三冊。

その手元に、一枚の書類が置かれていた。

 

「本日は、ご足労いただき、ありがとうございます」

 

マルグリットは、穏やかに言った。

 

「七都商盟議長、マルグリット・オーベールです」

 

「アルト・フェンネルです」

 

アルトは、卓のこちら側で一礼した。

隣に、付き添いのエルゼが座っている。エルゼは背筋を伸ばして、議長の顔をじっと見ていた。値踏みするような目だった。

 

(エルゼ姉上、母上に似てきたな)

 

「先日の試用会では、失礼いたしました」

 

マルグリットが言った。

 

「あの首飾り、お気に召しませんでしたか」

 

「……造りが、珍しかったので」

 

「拝見しただけ、と仰っていましたね」

 

マルグリットは、微笑んだ。

商談用の、隙のない微笑みだった。

 

「十二呼吸のあいだ」

 

(数えられてた)

 

「本日は、ご相談がございまして」

 

マルグリットは、手元の書類を卓の上に滑らせた。

 

「研究協力の、ご提案です。七都商盟として、フェンネル卿のお力添えをいただきたく」

書類には、細かい字で条項が並んでいた。

 

一、二、三。番号の横に、それぞれの条件。

マルグリットが、一つ目の条項に指を置いた。

 

「まず、第一条から読み上げます。協力の対価として、当盟は」

 

「あの」

 

アルトの声が、それを遮った。

マルグリットの指が、止まった。

アルトは、書類の下の方を見ていた。

条項の後ろに、数字の表がついていた。協力の対価の、試算表だった。

 

「その計算、ここが違います」

 

アルトは、表の一行を指さした。

 

「三年目の利益を出すところで、二年目の端数を繰り越していません。このまま足すと、三年目は実際より、一割ほど少なく出ます」

 

会議室が、静かになった。

エルゼが、弟の横顔を見ていた。

マルグリットは、表を見下ろした。

指で、該当の行をなぞる。二年目。三年目。

一呼吸。

 

「……おっしゃる通りです」

 

彼女は、顔を上げた。

深緑の目が、さっきまでとは違う光を帯びていた。

 

「失礼しました。誰も、気づかなかった」

 

「計算が、お得意なのですか」

 

マルグリットが、条項の読み上げを脇に置いて聞いた。

 

「家庭教師に、恵まれまして」

 

アルトは、穏やかに答えた。

知力四十四。この世界の男としては、ずいぶん高い数字だった。前世の教室で、三年間、男だらけの中で数学の問題を解き続けていた。それ以外にやることがなかったからだ。

 

(男子校の数学、こんなところで役に立つとは)

 

「では、少し伺っても」

 

マルグリットは、帳簿を一冊開いた。

 

「当盟の、目下の悩みです」

 

頁に、七つの都市の名前が並んでいた。それぞれの横に、数字の列。

 

「七つの都市で、それぞれ、量りと枡が違います。同じ一斤の小麦でも、都市によって重さが違う。貨幣も、都市ごとに鋳造所が違って、純度がばらばらです」

 

「それは、取引のたびに」

 

「換算が要ります。換算を間違えれば、損が出ます。間違えなくても、手間がかかる」

 

マルグリットは、帳簿の別の頁を開いた。

 

「それから、輸送です。都市から都市へ、商品と代金を運ぶ。代金は、金貨や銀貨です。重い。盗賊に狙われる。馬車ごと奪われれば、商品も代金も、全部失います」

 

「…………」

 

「海路も同じです。船が沈めば、積荷は全部、海の底」

 

彼女は、帳簿を閉じた。

 

「商人というのは、いつもこういうものと戦っています」

 

アルトは、少し考えた。

前世の、社会科の教科書を思い出していた。

 

(……手形)

 

(為替)

 

(保険)

 

教科書の、小さな囲み記事に載っていた言葉だった。中世の商人たちが、どうやって遠くの町と取引をしたか。

 

「……代金を、運ばなければいい、のでは」

 

アルトは、ぽつりと言った。

マルグリットが、眉を上げた。

 

「運ばない」

 

「はい。たとえば、王都の商会が、別の都市の商会から品物を買うとします。代金を金貨で運ぶ代わりに、紙に『この紙を持ってきた者に、いくら払う』と書いて、署名して渡す」

 

「紙」

 

「その紙を、別の都市の、同じ商盟の商会に持っていけば、そこで金貨に換えてもらえる。金貨は、運ばなくていい。紙だけが、動く」

マルグリットの手が、帳簿の上で止まっていた。

 

「盗賊が、紙を奪ったら」

 

「署名がなければ、ただの紙です。受け取る側が、誰に払うかを決めておけば」

 

「……」

 

「それと、船の話ですが」

 

アルトは、続けた。

 

「船が沈んだときの損を、一人で背負うから、大きな損になる。だったら、たくさんの商人が、少しずつ、お金を出し合っておく。どこかの船が沈んだら、その積立から、沈んだ船の持ち主に払う」

 

「出し合う」

 

「十の商会が、一割ずつ出し合えば、どれか一つの船が沈んでも、その損は十で割られる。誰も、全部は失わない」

 

アルトは、そこまで言って、口を閉じた。

 

(喋りすぎた)

 

(男が、商売の仕組みの話をするのは、この世界ではたぶん、かなり変だ)

 

「……失礼しました。昔、異国の書物で読んだ話を、少し」

 

マルグリットは、黙っていた。

深緑の目が、アルトを見ていた。

まばたきを、していなかった。

彼女の指先が、帳簿の表紙の上で、かすかに動いていた。何かを、計算しているように。

 

「……紙が、金貨の代わりに動く」

 

彼女は、小さく繰り返した。

 

「損を、多くの者で割る」

 

それから、彼女は帳簿を開いた。

白紙の頁に、ペンを走らせ始めた。

速かった。

インクが、紙の上を滑っていく。数字。矢印。都市の名前。また数字。

 

「七つの都市に、それぞれ商盟の支店がある。そこを窓口にすれば……署名の照合は……割引の率は……」

 

彼女は、独り言のように呟きながら、頁を埋めていった。

アルトのことも、エルゼのことも、忘れているようだった。

エルゼが、そっとアルトの袖を引いた。

 

「……アルト。あなた、何を言ったの」

 

「異国の、書物の話を」

 

「議長さん、目の色が変わってるわよ」

 

マルグリットが、ペンを止めた。

頁は、三枚埋まっていた。

彼女は顔を上げた。

 

「フェンネル卿」

 

声が、少しだけ上ずっていた。

 

「今のお話を、もっと詳しく伺いたい。手形と……保険、と仰いましたか」

 

「……そういう呼び名だったかと」

 

「それから、量りと貨幣の統一。法の整備。商盟の仕組み全体を、作り直したいのです」

 

彼女は、身を乗り出した。

卓の上で、アルトとの距離が縮まった。

匂いがした。

羊皮紙とインク。倉庫の香辛料と、織物の匂い。それから、彼女が纏っている高価な香水。華やかで、少し強い、商談用の香り。

その香水の奥から、何か別のものが立ち上ってきた。

素朴な匂いだった。

洗いたての石鹸と、焼きたての焼き菓子のような。甘くて、温かくて、香水とは全然違う、飾り気のない匂い。

 

(……っ)

 

(香水の、下に)

 

(焼き菓子)

 

「ただ」

 

マルグリットは、身を乗り出したまま、続けた。

 

「お話を伺うだけでは、足りません」

 

「足りない」

 

「私一人が理解しても、七つの都市の商人全員が使えなければ、仕組みは動きません」

 

彼女は、帳簿を指でとんとんと叩いた。

 

「計算の力と、法の知恵。それを、商盟の中の、仕組みを動かす立場の者が、持っていなければならない」

 

「……つまり」

 

「つまり、借りたいのです」

 

マルグリットの深緑の目が、まっすぐにアルトを見ていた。

 

「フェンネル卿の、そのお力を」

 

 

アルトは、黙っていた。

彼女の言いたいことは、分かった。

 

【ステータス貸与】。契約を結べば、力を貸せる。

 

ただ。

 

「……私の契約の枠は、三つとも埋まっています」

 

「存じております」

 

「それに、私が貸せるのは、ステータスです。筋力や、体力や、知力。計算の技術や、法の知識そのものを、貸せるわけでは」

 

「それも、存じております」

 

マルグリットは、穏やかに言った。

 

「魔導院の研究員が、突き止めましたね。壁がある、と」

 

アルトは、目を瞬いた。

 

(なんで、知ってる)

 

「壁の先に、何があるのかは、まだ誰も知らない。でも、壁がある以上、先はある」

 

彼女は、帳簿を閉じた。

 

「商人は、まだ誰も見ていない先に、賭けるものです」

 

それから、彼女は少しだけ姿勢を崩した。

商談の微笑みではなかった。

もう少し、素の顔だった。

 

「……それにしても」

 

彼女は、ふっと息をついた。

 

「異国の書物、ですか。手形も、保険も。ほかに、どんなことが書いてありましたか」

 

「ほかに」

 

「商人の暮らしとか。服装とか。異国の商人は、どんな格好で商談をするのでしょう」

 

(服装)

 

アルトの頭に、前世の記憶がよぎった。

駅のホーム。朝の満員電車。上下揃いの、細身の仕立て。白いシャツ。膝丈の、細い裾のスカート。踵の高い靴。

前世の通学路で、毎朝すれ違っていた人たち。

 

(……前世の、OLさん)

 

(スーツ……タイトスカート……ストッキング……)

 

(あれ、この人が、着たら)

 

(この、赤褐色のまとめ髪で、深緑の目で、帳簿を抱えて、タイトスカートで)

 

(——あ、だめだ)

 

「……上下揃いの、細身の仕立てを着ていた、と書いてありました」

 

アルトの声は、穏やかだった。

 

「男女とも。白い襟の下着に、腰で絞った上着。女性は、膝丈の、細い裾の」

 

「細い裾」

 

「歩幅が、狭くなるくらいの」

 

マルグリットは、帳簿の余白に、何かを書き留めていた。

 

「……珍しい形ですね」

 

「ええ。異国の、書物ですので」

 

会議室を出る直前、マルグリットが言った。

 

「フェンネル卿。最後に、一つだけ」

 

「はい」

 

彼女は、帳簿を胸に抱えて立っていた。

深緑の目が、穏やかに笑っていた。

 

「枠がないなら、増やしましょう」

 

アルトは、目を瞬いた。

 

「……増やす」

 

「壁の先に枠がある、と仮定するなら。壁を越えれば、枠は増える。では、どうすれば壁を越えられるのか」

 

彼女は、首を傾げた。

商人の目だった。まだ誰も見ていない先に、賭ける目。

 

「……どうすれば増えるのか、ご存じの方は?」

 

 

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