男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
七都商盟の会議室は、思っていたより質素だった。
石の壁に、大きな地図が一枚。王国の七つの商業都市が、赤い点で記されている。都市と都市のあいだを、細い線が網の目のように結んでいた。
長い卓の向こうに、マルグリットが座っていた。
赤褐色の髪を、きっちりとまとめている。深緑の上衣。腕の横に、革装の帳簿が三冊。
その手元に、一枚の書類が置かれていた。
「本日は、ご足労いただき、ありがとうございます」
マルグリットは、穏やかに言った。
「七都商盟議長、マルグリット・オーベールです」
「アルト・フェンネルです」
アルトは、卓のこちら側で一礼した。
隣に、付き添いのエルゼが座っている。エルゼは背筋を伸ばして、議長の顔をじっと見ていた。値踏みするような目だった。
(エルゼ姉上、母上に似てきたな)
「先日の試用会では、失礼いたしました」
マルグリットが言った。
「あの首飾り、お気に召しませんでしたか」
「……造りが、珍しかったので」
「拝見しただけ、と仰っていましたね」
マルグリットは、微笑んだ。
商談用の、隙のない微笑みだった。
「十二呼吸のあいだ」
(数えられてた)
「本日は、ご相談がございまして」
マルグリットは、手元の書類を卓の上に滑らせた。
「研究協力の、ご提案です。七都商盟として、フェンネル卿のお力添えをいただきたく」
書類には、細かい字で条項が並んでいた。
一、二、三。番号の横に、それぞれの条件。
マルグリットが、一つ目の条項に指を置いた。
「まず、第一条から読み上げます。協力の対価として、当盟は」
「あの」
アルトの声が、それを遮った。
マルグリットの指が、止まった。
アルトは、書類の下の方を見ていた。
条項の後ろに、数字の表がついていた。協力の対価の、試算表だった。
「その計算、ここが違います」
アルトは、表の一行を指さした。
「三年目の利益を出すところで、二年目の端数を繰り越していません。このまま足すと、三年目は実際より、一割ほど少なく出ます」
会議室が、静かになった。
エルゼが、弟の横顔を見ていた。
マルグリットは、表を見下ろした。
指で、該当の行をなぞる。二年目。三年目。
一呼吸。
「……おっしゃる通りです」
彼女は、顔を上げた。
深緑の目が、さっきまでとは違う光を帯びていた。
「失礼しました。誰も、気づかなかった」
「計算が、お得意なのですか」
マルグリットが、条項の読み上げを脇に置いて聞いた。
「家庭教師に、恵まれまして」
アルトは、穏やかに答えた。
知力四十四。この世界の男としては、ずいぶん高い数字だった。前世の教室で、三年間、男だらけの中で数学の問題を解き続けていた。それ以外にやることがなかったからだ。
(男子校の数学、こんなところで役に立つとは)
「では、少し伺っても」
マルグリットは、帳簿を一冊開いた。
「当盟の、目下の悩みです」
頁に、七つの都市の名前が並んでいた。それぞれの横に、数字の列。
「七つの都市で、それぞれ、量りと枡が違います。同じ一斤の小麦でも、都市によって重さが違う。貨幣も、都市ごとに鋳造所が違って、純度がばらばらです」
「それは、取引のたびに」
「換算が要ります。換算を間違えれば、損が出ます。間違えなくても、手間がかかる」
マルグリットは、帳簿の別の頁を開いた。
「それから、輸送です。都市から都市へ、商品と代金を運ぶ。代金は、金貨や銀貨です。重い。盗賊に狙われる。馬車ごと奪われれば、商品も代金も、全部失います」
「…………」
「海路も同じです。船が沈めば、積荷は全部、海の底」
彼女は、帳簿を閉じた。
「商人というのは、いつもこういうものと戦っています」
アルトは、少し考えた。
前世の、社会科の教科書を思い出していた。
(……手形)
(為替)
(保険)
教科書の、小さな囲み記事に載っていた言葉だった。中世の商人たちが、どうやって遠くの町と取引をしたか。
「……代金を、運ばなければいい、のでは」
アルトは、ぽつりと言った。
マルグリットが、眉を上げた。
「運ばない」
「はい。たとえば、王都の商会が、別の都市の商会から品物を買うとします。代金を金貨で運ぶ代わりに、紙に『この紙を持ってきた者に、いくら払う』と書いて、署名して渡す」
「紙」
「その紙を、別の都市の、同じ商盟の商会に持っていけば、そこで金貨に換えてもらえる。金貨は、運ばなくていい。紙だけが、動く」
マルグリットの手が、帳簿の上で止まっていた。
「盗賊が、紙を奪ったら」
「署名がなければ、ただの紙です。受け取る側が、誰に払うかを決めておけば」
「……」
「それと、船の話ですが」
アルトは、続けた。
「船が沈んだときの損を、一人で背負うから、大きな損になる。だったら、たくさんの商人が、少しずつ、お金を出し合っておく。どこかの船が沈んだら、その積立から、沈んだ船の持ち主に払う」
「出し合う」
「十の商会が、一割ずつ出し合えば、どれか一つの船が沈んでも、その損は十で割られる。誰も、全部は失わない」
アルトは、そこまで言って、口を閉じた。
(喋りすぎた)
(男が、商売の仕組みの話をするのは、この世界ではたぶん、かなり変だ)
「……失礼しました。昔、異国の書物で読んだ話を、少し」
マルグリットは、黙っていた。
深緑の目が、アルトを見ていた。
まばたきを、していなかった。
彼女の指先が、帳簿の表紙の上で、かすかに動いていた。何かを、計算しているように。
「……紙が、金貨の代わりに動く」
彼女は、小さく繰り返した。
「損を、多くの者で割る」
それから、彼女は帳簿を開いた。
白紙の頁に、ペンを走らせ始めた。
速かった。
インクが、紙の上を滑っていく。数字。矢印。都市の名前。また数字。
「七つの都市に、それぞれ商盟の支店がある。そこを窓口にすれば……署名の照合は……割引の率は……」
彼女は、独り言のように呟きながら、頁を埋めていった。
アルトのことも、エルゼのことも、忘れているようだった。
エルゼが、そっとアルトの袖を引いた。
「……アルト。あなた、何を言ったの」
「異国の、書物の話を」
「議長さん、目の色が変わってるわよ」
マルグリットが、ペンを止めた。
頁は、三枚埋まっていた。
彼女は顔を上げた。
「フェンネル卿」
声が、少しだけ上ずっていた。
「今のお話を、もっと詳しく伺いたい。手形と……保険、と仰いましたか」
「……そういう呼び名だったかと」
「それから、量りと貨幣の統一。法の整備。商盟の仕組み全体を、作り直したいのです」
彼女は、身を乗り出した。
卓の上で、アルトとの距離が縮まった。
匂いがした。
羊皮紙とインク。倉庫の香辛料と、織物の匂い。それから、彼女が纏っている高価な香水。華やかで、少し強い、商談用の香り。
その香水の奥から、何か別のものが立ち上ってきた。
素朴な匂いだった。
洗いたての石鹸と、焼きたての焼き菓子のような。甘くて、温かくて、香水とは全然違う、飾り気のない匂い。
(……っ)
(香水の、下に)
(焼き菓子)
「ただ」
マルグリットは、身を乗り出したまま、続けた。
「お話を伺うだけでは、足りません」
「足りない」
「私一人が理解しても、七つの都市の商人全員が使えなければ、仕組みは動きません」
彼女は、帳簿を指でとんとんと叩いた。
「計算の力と、法の知恵。それを、商盟の中の、仕組みを動かす立場の者が、持っていなければならない」
「……つまり」
「つまり、借りたいのです」
マルグリットの深緑の目が、まっすぐにアルトを見ていた。
「フェンネル卿の、そのお力を」
アルトは、黙っていた。
彼女の言いたいことは、分かった。
【ステータス貸与】。契約を結べば、力を貸せる。
ただ。
「……私の契約の枠は、三つとも埋まっています」
「存じております」
「それに、私が貸せるのは、ステータスです。筋力や、体力や、知力。計算の技術や、法の知識そのものを、貸せるわけでは」
「それも、存じております」
マルグリットは、穏やかに言った。
「魔導院の研究員が、突き止めましたね。壁がある、と」
アルトは、目を瞬いた。
(なんで、知ってる)
「壁の先に、何があるのかは、まだ誰も知らない。でも、壁がある以上、先はある」
彼女は、帳簿を閉じた。
「商人は、まだ誰も見ていない先に、賭けるものです」
それから、彼女は少しだけ姿勢を崩した。
商談の微笑みではなかった。
もう少し、素の顔だった。
「……それにしても」
彼女は、ふっと息をついた。
「異国の書物、ですか。手形も、保険も。ほかに、どんなことが書いてありましたか」
「ほかに」
「商人の暮らしとか。服装とか。異国の商人は、どんな格好で商談をするのでしょう」
(服装)
アルトの頭に、前世の記憶がよぎった。
駅のホーム。朝の満員電車。上下揃いの、細身の仕立て。白いシャツ。膝丈の、細い裾のスカート。踵の高い靴。
前世の通学路で、毎朝すれ違っていた人たち。
(……前世の、OLさん)
(スーツ……タイトスカート……ストッキング……)
(あれ、この人が、着たら)
(この、赤褐色のまとめ髪で、深緑の目で、帳簿を抱えて、タイトスカートで)
(——あ、だめだ)
「……上下揃いの、細身の仕立てを着ていた、と書いてありました」
アルトの声は、穏やかだった。
「男女とも。白い襟の下着に、腰で絞った上着。女性は、膝丈の、細い裾の」
「細い裾」
「歩幅が、狭くなるくらいの」
マルグリットは、帳簿の余白に、何かを書き留めていた。
「……珍しい形ですね」
「ええ。異国の、書物ですので」
会議室を出る直前、マルグリットが言った。
「フェンネル卿。最後に、一つだけ」
「はい」
彼女は、帳簿を胸に抱えて立っていた。
深緑の目が、穏やかに笑っていた。
「枠がないなら、増やしましょう」
アルトは、目を瞬いた。
「……増やす」
「壁の先に枠がある、と仮定するなら。壁を越えれば、枠は増える。では、どうすれば壁を越えられるのか」
彼女は、首を傾げた。
商人の目だった。まだ誰も見ていない先に、賭ける目。
「……どうすれば増えるのか、ご存じの方は?」