男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
鎖が、増えていた。
神殿の奥、廊下の突き当たりにある小鑑定室。 扉を開けた先で待っていたセラフィナを見て、アルトはまずそれに気づいた。
一週間前、奥の間で見たときは、肩から斜めに走る鎖が二本だった。 今日は三本ある。
新しい一本は、まだ銀の色が明るかった。 胸の下を通って、背中へ回り、反対の肩から降りてくる。
結果として、胸の上に一本、下に二本。
(……増えてる)
「お待ちしておりました、フェンネル様」
セラフィナは、一週間前と同じ柔らかい声で言った。 目だけが、一週間前より少しだけ落ち着かなかった。
「本日より定期鑑定を担当いたします。どうぞ、お掛けください」
「よろしくお願いいたします」
アルトは静かに一礼した。
(なんで増えてるんだ)
小鑑定室は、奥の間よりずっと狭かった。
窓が一つ。机が一つ。椅子が二脚。 机の上には、奥の間のものより一回り小さな水晶板が据えられている。
壁際には小さな棚があって、乳香の香炉が細い煙を上げていた。
扉の外には、付き添いの長姉エルゼが控えている。 男性保護法では、外出時の付き添いは原則として同じ部屋にいなければならない。ただし純潔の鎖をつけた神官との面会に限っては、扉の外でよいことになっていた。
神官は縛られているから、安全だというのが理屈だった。
(その理屈、今日で崩れそうなんですけど)
「では、水晶板に両手を」
言われた通りに手を置く。
セラフィナが机を回り込んできた。 彼女の手首の枷から伸びた鎖は、今日は壁の金具に繋がっている。その長さいっぱいに、彼女はアルトの真横に立った。
「定期鑑定は、儀式のものより精度が低いのです。ですので、どうしても近くで見なければなりませんで」
「……そうなのですね」
「失礼いたします」
彼女が、身を屈めた。
水晶板を覗き込むために。 アルトの肩越しに。
金色の髪が、アルトの耳のすぐ横で揺れた。
(近い)
乳香の煙の奥から、あの匂いがした。 一週間、ずっと思い出していた匂い。陽だまりに置いたミルクのような、柔らかくて甘い匂い。
(いい匂い)
アルトは目を閉じた。
(2)
(3)
(5)
「鑑定を、始めます」
耳元で声がした。
(7)
(声)
(11)
水晶板が淡く光った。
「筋力十四、体力十六、敏捷十五」
彼女が数値を読み上げる。 一つ読むたびに、吐息がアルトの頬をかすめた。
(13……17……)
「器用二十二、魔力十八、知力四十一」
鎖が、しゃら、と鳴った。 新しい鎖だった。古い鎖より、音が少しだけ高い。
(19……鎖が増えてる……23……)
「精神、八十五」
彼女の声が、そこでほんの少しだけ止まった。
アルトは目を閉じたまま、横顔に視線を感じていた。
読み上げのたびに、彼女はこちらを見ている。 数値を読み、顔を見る。また数値を読み、また顔を見る。
(29……31……)
「スキル、【ステータス貸与】。レベル一。……前回と、変化はございません」
「そうですか」
声は、落ち着いていた。
(37……41……43……)
セラフィナが体を起こそうとして、鎖が机の角に引っかかった。 彼女は小さく声を上げて、もう一度身を屈め直した。
さっきより、近かった。
新しい鎖が、彼女の胸の下を締めつけて、そこが法衣の上からはっきりと形を持っていた。 アルトの目の前、手を伸ばせば届く距離で。
(47……49……あ、49は素数じゃない……)
(むり)
「……異常は、ないようですね」
アルトは目を開けて、穏やかに言った。
「ありがとうございます、セラフィナ殿」
鎖を机の角から外すのに、少し時間がかかった。
セラフィナは顔を赤くしながら、手首の枷ごと鎖を引っ張っている。 縛られた腕では、うまく角度がつけられないらしい。
「お手伝いしましょうか」
「い、いえ! 殿方に触れていただくわけには」
彼女は慌てて首を振った。
「神官の側から男性に触れてはならない、という誓いがございまして。触れていただくのも、その、紛らわしいので」
「失礼しました」
アルトは手を引っ込めた。
(神官の側から、ね)
鎖がようやく外れた。 セラフィナは小さく息をついて、机の向こうの椅子に戻った。
記録簿を開く。 ペンを取る。 数値を一つずつ、丁寧に書き込んでいく。
アルトはその手元を見ていた。
縛られた腕で書くのは不便そうだったが、字は驚くほど整っていた。 一つ書くたびに水晶板の表示を確かめて、一画も間違えないように。
「丁寧に、書かれるのですね」
「神の前で記すものですから」
彼女は顔を上げずに答えた。
「一つでも偽れば、それは神に嘘をつくことになります。……私には、できません」
書き終えて、ペンを置く。
それから、彼女は顔を上げた。
「フェンネル様」
「はい」
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
空色の目が、まっすぐにこちらを見ていた。
「儀式の日、なぜ……」
彼女はそこで言葉を探した。 探して、探して、結局一番素直なものを選んだ。
「……なぜ、あのようなお顔を」
来た、とアルトは思った。
一週間、考えていた答えがあった。 何度も頭の中で繰り返して、声の調子まで決めてあった。
アルトは少しだけ目を伏せて、静かに言った。
「男として生まれた以上、覚悟はしておりました」
間を置く。
「どのようなスキルを授かろうと、それが神の御心なら、受け入れる。そう決めて、あの日を迎えましたので」
完璧な模範解答だった。 天賦の儀の手引書に、そのまま載せられるような。
「……そう、ですか」
セラフィナは頷いた。
頷いて、それ以上は何も聞かなかった。
ただ、目は納得していなかった。 一週間前と同じ目だった。
(信じてないな、まだ)
彼女の視線が、ふっと下がった。 アルトの顔から、胸元へ。それから机の上の、自分の手首の枷へ。
彼女は枷を見つめたまま、小さな声で言った。
「鎖を、一本増やしました」
「……気づいておりました」
「神官長様に申し出て、新しく支給していただいたのです」
彼女は新しい鎖の上に、指先をそっと置いた。
「儀式の日、少し……落ち着かなかったものですから。もう一本あれば、心が静まるかと思いまして」
(逆効果です)
(完全に逆効果です)
「……静まりましたか」
聞いてから、しまったと思った。 聞くべきことではなかった。
セラフィナは、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……分かりません」
彼女は鎖から指を離した。
「この鎖を巻いて、今日を待っておりましたら、なぜか余計に」
そこで彼女は、自分が何を言いかけたのかに気づいたらしかった。
白い頬が、みるみる赤くなった。
「し、失礼いたしました。本日の鑑定は以上です」
「……はい」
アルトは立ち上がった。
(余計に、なに)
(余計に、なんなんですか)
聞けなかった。 聞いたら、たぶん何かが終わる気がした。あるいは、始まる気がした。
扉に手をかけたとき、背中で声がした。
「フェンネル様」
振り返る。
セラフィナは椅子に座ったまま、膝の上で縛られた手を組んでいた。 窓からの光が、金色の髪の縁を白く光らせていた。
「この部屋には、たくさんの殿方が鑑定にいらっしゃいます」
「ええ」
「皆さま、床ばかり見ておられます」
彼女の声は、静かだった。
「鎖をつけた神官の前で、殿方は顔を上げられません。怖いのだと思います。目を合わせたら、何かされるのではないかと」
彼女は少しだけ笑った。 困ったような、寂しいような笑みだった。
「私は、そういうものだと思っておりました。神官とは、殿方にとってそういうものなのだと」
アルトは何も言えなかった。
「……フェンネル様は」
彼女は、そこで言葉を切った。
続きは言わなかった。 ただ、空色の目でアルトを見ていた。
床ではなく、自分を見ていた男を。
「……また、来週。お待ちしております」
「……はい。また、来週」
アルトは一礼して、扉を開けた。
廊下では、エルゼが壁にもたれて待っていた。
「終わった?」
「はい。異常なしとのことです」
「そう。よかった」
姉はアルトの顔を覗き込んだ。
「顔が赤いわよ。暑かった?」
「香炉の煙が、少し」
「あそこ狭いものね」
二人で並んで、神殿の長い廊下を歩く。
石の床に、二人分の足音が響いた。 アルトは一定の歩幅を保ちながら、頭の中でずっと同じことを考えていた。
(来週)
(あと、七日)
(……七日って、長くないか?)
一週間前までは、十八年待てた。 それが今は、七日が長い。
(いや、待てよ)
アルトは歩きながら、通達の文面を思い出していた。
週に一度の定期鑑定。スキルの安定を確かめるため。
(安定しなかったら、どうなるんだろう)
神殿の大扉の手前で、エルゼが足を止めた。
「あ、手袋」
「手袋?」
「さっきの部屋の前の長椅子に置いてきちゃった。取ってくるから、ここで待ってて」
姉は小走りで廊下を戻っていった。
アルトは大扉の脇で、春の陽射しが差し込む中庭を眺めていた。
帰りの馬車の中で、エルゼが言った。
「ねえ、アルト」
「はい」
「あの神官様、何かあったの?」
アルトは窓の外から姉に目を移した。
「何か、とは」
「手袋を取りに戻ったらね」
エルゼは膝の上の手袋を指先でいじりながら、首を傾げた。
「扉が少し開いてたのよ。それで、中が見えたんだけど」
アルトは黙って続きを待った。
「あの神官様、あなたが部屋を出たあと」
姉は不思議そうに言った。
「真っ赤な顔で、壁に額をつけていたわよ。鎖をじゃらじゃら鳴らしながら」
「…………」
「具合でも悪かったのかしら。来週、何か差し入れでも持っていく?」
「……そう、ですね」
アルトは窓の外に視線を戻した。
馬車が揺れる。 王都の街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。
(壁に、額を)
(鎖を、鳴らしながら)
アルトは膝の上で、静かに拳を握った。
(来週まで、もたない)