男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
研究棟の、リゼットの新しい研究室。
統計課の窓のない片隅から移ってきて、まだ二週間しか経っていなかった。窓が一つ。机が一つ。書架が二つ。
机は、もう書類の山に埋もれ始めていた。
その机の前に、二人の女が並んで座っていた。
三つ編みの研究員と、赤褐色のまとめ髪の議長。
同じ書類を、同じ角度で、覗き込んでいた。
(……なんで、この二人が並んでるんだ)
アルトは、部屋の隅の椅子に座っていた。
付き添いのエルゼは、扉の外。今日は、付き添いが二人いる日だった。もう一人は、扉の内側の壁際に直立していた。
クラウディアだった。
「騎士団の訓練計画に関わる話と伺いましたので」
彼女は、そう言って同席を申し出たのだった。
一週間前のことだった。
魔導院に、七都商盟から書状が届いた。
『研究協力の件で、改めてお話を。当盟は、フェンネル卿の壁について、魔導院の知見を必要としています。代わりに、当盟の持つ情報を提供いたします』
院長は、書状を読んで眉をひそめた。
先日、流通の件で決裂したばかりの相手だった。
「断りなさい」
院長は言った。
その書状に、リゼットが目を通した。
一行だけ、引っかかった。
『当盟の持つ情報』
「院長」
「何かしら」
「七都商盟は、王国全土の商会の記録を持っています。……スキルを持つ女性商人たちの、成長の記録も」
院長は、黙った。
「当院の記録だけでは、壁の条件を推定するには、データが足りません」
リゼットは、淡々と言った。
「利害が、一致します」
「こちらが、当院の記録です」
リゼットが、紐で綴じた束を机の上に置いた。
魔導院に残る、スキルを持つ女性たちの成長記録。レベルの推移。素の力の推移。壁で止まった期間と、越えた日。
「こちらが、当盟の記録です」
マルグリットが、革装の帳簿を一冊開いた。
七つの都市の、商人ギルドの記録だった。算術や交渉や鑑定のスキルを持つ女性商人たちが、何年もかけてレベルを上げてきた跡。
「商人は、自分の成長を記録するのが好きなのです」
マルグリットは、微笑んだ。
「どれだけ伸びたかは、どれだけ稼げるかに直結しますので」
リゼットは、帳簿の頁をめくった。
速かった。
一頁ごとに、彼女の目が、数字の列を上から下までなぞっていく。
「……データの質が、高いですね」
「ありがとうございます」
「記録の形式が、都市ごとに統一されていません」
「……それは、これから統一するつもりです」
リゼットは、記録板に何かを書き留めた。
マルグリットは、それを横から覗き込んだ。
「その表の作り方、効率がいいですね」
「当院の、標準形式です」
「当盟でも、使わせていただいても」
「……構いません」
(仲良くなってる?)
(いや、違う)
(お互いの手口を、盗み合ってる)
二人は、二つの記録を並べて、照らし合わせ始めた。
魔導院の記録。商盟の記録。レベルの推移と、素の力の合計の推移。
壁で止まった地点。越えた日。
「第一の壁は、レベル二十の手前」
リゼットが、表の一点を指さした。
「当院の記録では、例外がありません」
「当盟の記録でも、同じです」
マルグリットが、帳簿の一点を指さした。
「どのスキルでも、二十で一度止まる」
「止まったときの、素の力の合計は」
「人によって違います。ただ」
マルグリットは、帳簿の別の欄を指でなぞった。
「授与の日の合計と、越えた日の合計の比を取ると」
リゼットのペンが、走った。
一行。二行。三行。
「……一・四倍前後」
「当盟の記録でも、一・三八から一・四五の間に収まっています」
二人は、顔を見合わせた。
「授与の日の合計の、およそ一・四二倍」
リゼットが、記録板に書いた。
「フェンネル殿の、授与の日の合計は」
彼女は、天賦の儀の記録を開いた。
筋力十四。体力十六。敏捷十五。器用二十二。魔力十八。知力四十一。精神八十五。
「二百十一」
ペンが、静かに計算をした。
二百十一に、一・四二を掛ける。
「……二百九十九・六二」
リゼットは、ペンを止めた。
「端数を切り上げて」
彼女は、顔を上げた。
「三百」
部屋が、静かになった。
アルトは、部屋の隅の椅子で、その数字を聞いていた。
(三百)
「現在の、合計は」
マルグリットが聞いた。
リゼットが、最新の鑑定記録を読み上げた。
「筋力二十三。体力二十七。敏捷二十二。器用二十四。魔力十九。知力四十四。精神八十七」
「合計、二百四十六」
「あと、五十四」
マルグリットが、帳簿にその数字を書き込んだ。
「五十四、伸ばせば、壁を越える」
「それから、もう一つ」
リゼットが、魔導院の記録の束をめくった。
「壁を越えたときに、何が起きるか」
彼女は、ある女性の記録を指さした。
王都の鍛冶ギルドの、熟練の職人だった。鍛冶のスキルを持ち、第一の壁を十年前に越えている。
「この方の記録によれば、壁を越えた日から、自分の技能を弟子に分け与えられるようになったと」
「分け与える」
「スキルの効果が、一段階広がったのです。それまでは、自分の鍛冶の腕を上げるだけだったのが、自分の持っている技能そのものを、他者に伝えられるようになった」
マルグリットの手が、止まった。
「技能、そのもの」
「はい。似た記録が、当院に三件。いずれも、第一の壁を越えた日から」
リゼットは、記録の束を閉じた。
「フェンネル殿のスキルは、貸与型です。もし、同じように一段階広がるなら」
「……ステータスだけでなく、技能も、貸せるようになる」
マルグリットが、引き取った。
声が、わずかに上ずっていた。
「計算の技術も。法の知恵も」
リゼットが、頷いた。
「推定、です」
マルグリットは、帳簿を胸に抱えた。
深緑の目が、輝いていた。
「それに、契約の枠も」
「当院の記録では、壁を越えると、スキルの対象範囲が広がる例が多い。枠が増える可能性は、高いと推定します」
「何枠に」
「……推定に足る記録が、ありません」
マルグリットは、部屋の隅のアルトを見た。
まっすぐに。
商人の目だった。
まだ誰も見ていない先に、賭ける目。
「では」
マルグリットは、立ち上がった。
「七都商盟が、出資いたします」
「出資」
アルトが、椅子の上で聞き返した。
「フェンネル卿の、素の力を伸ばすための費用を。当盟が持ちます」
彼女は、帳簿を開いた。
「家庭教師を、つけましょう。知力を伸ばすために、王都で一番の学者を。算術、法学、地理、歴史。それから、訓練の費用も。騎士団の訓練に必要な装備、食事、医師」
ペンが、頁の上を走った。
「合計で、五十四。それを、最短で」
「……最短で」
「商人は、時間を買うものですので」
マルグリットは、にっこりと笑った。
その瞬間、扉の内側の壁際から、声がした。
「異議があります」
クラウディアだった。
直立のまま。灰色の目が、マルグリットを見ていた。
「家庭教師、と仰いましたね。知力を伸ばすための」
「ええ」
「素の力の合計を伸ばすなら、体力です」
クラウディアは、一歩前に出た。
「フェンネル殿の体力は、現在二十七。一般の成人女性の平均の、九割ほどです。まだ伸びる余地が、大きい」
「知力も、伸びる余地は大きいですよ」
マルグリットが、穏やかに返した。
「現在、四十四。家庭教師がつけば、短期間で大きく伸びます。それに、知力が伸びれば、技能の貸与にも直結する」
「体力が伸びれば、供給の頻度が維持できます。倒れずに済む」
「第七号がありますので」
「薬に頼りすぎるのは」
「……当院の製品に、何か」
リゼットが、机の前から口を挟んだ。
三人の視線が、交差した。
「効率の観点から申し上げれば」
リゼットが、記録板を開いた。
「伸ばしやすいのは、低い項目です。体力、筋力、敏捷。ただし、知力は、もともとの素地がある分、教育による伸びが急です。どちらも、合計への寄与は」
「体力です」
「知力です」
「……両方です、と申し上げようとしました」
アルトは、部屋の隅の椅子で、三人のやりとりを聞いていた。
体力。知力。効率。寄与。合計。
どの言葉も、自分の体のことだった。
(……俺の体の話、ですよね?)
(俺の体の、どこを伸ばすかを)
(俺抜きで、決めてる)
三人とも、こちらを見ていなかった。
互いの顔と、互いの書類だけを見ていた。
(まあ、いいか)
(……いや、よくない)
(いや、でも、三人とも真剣に、俺のこと考えてくれてるし)
(……いや、俺の体のことを考えてるだけだな、これ)
結局、その日の結論は、こうなった。
午前は、騎士団の訓練。昼は、家庭教師。夕刻は、供給。
体力と知力を、両方伸ばす。費用は、七都商盟が持つ。
マルグリットが、帳簿に最後の一行を書き込んだ。
「では、日程表を作成して、明日お届けします」
翌朝。
フェンネル家の玄関に、七都商盟の使いが現れた。
封筒を一通、差し出した。
母のマルタが受け取って、封を切った。
一枚の表が、出てきた。
羊皮紙に、細い線で升目が引いてある。横に曜日。縦に時刻。
月曜から日曜まで、全部の升目が、文字で埋まっていた。
六時、起床。
七時、騎士団訓練場。
十一時、第七号服用。
十二時、家庭教師(算術)。
十四時、家庭教師(法学)。
十六時、家庭教師(地理・歴史)。
十八時、供給(曜日ごとに、神殿・騎士団・魔導院)。
二十一時、復習。
母は、表を上から下まで読んだ。
それから、もう一度、上から下まで読んだ。
「……アルト」
「はい、母上」
「この表、どこにも、睡眠と書いていないのだけど」
アルトは、母の手元の表を覗き込んだ。
六時、起床。
その前の欄は、なかった。二十一時、復習。その後の欄も、なかった。
表の一番下に、マルグリットの几帳面な字で、小さく添え書きがあった。
『※休息の時間は、各自でご調整ください』
(各自で)
アルトは、静かに表を母の手から受け取った。
(……壁まで、あと五十四)