男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
「新商品の試着を、お願いしたく」
七都商盟の、仕立て部の応接間だった。
扉が開いて、マルグリットが入ってきた。
アルトは、椅子から立ち上がりかけて、そのまま止まった。
(……え)
彼女は、見覚えのある形の服を着ていた。
見覚えがあるといっても、この世界で見たことはなかった。
上下揃いの、濃紺の仕立てだった。
腰で絞った上着。肩の線がまっすぐで、襟が細く折り返してある。前は、釦が二つだけ。
その下に、白いシャツ。襟の立った、糊のきいた白。首元の一番上の釦だけが、開いていた。
そして、裾。
上着と同じ濃紺の生地が、腰から膝まで、体の線に沿ってまっすぐに落ちていた。細い。歩幅が狭くなるくらいに。
膝の少し上で、裾が終わっていた。
その下に、薄い、黒い靴下。足首から膝の上まで、肌が透けて見えるほど薄い。
踵の高い、黒い革の靴。
赤褐色の髪は、いつもよりきっちりとまとめてあった。手には、革装の帳簿が一冊。
(スーツ)
(タイトスカート)
(ストッキング……っぽいもの)
(ヒール)
(——前世の、OLさんだ)
「先日、フェンネル卿から伺ったお話をもとに、仕立てさせました」
マルグリットは、応接間の真ん中に立った。
背筋を伸ばす。帳簿を胸の前に抱える。
「異国の商人の装い、ということでしたので。上下揃いの細身の仕立て。白い襟の下着。腰で絞った上着。女性は、膝丈の、細い裾」
彼女は、自分の服を見下ろした。
「……合っていますか」
アルトは、口を開いた。
閉じた。
もう一度、開いた。
「……おおむね」
声が、少しだけ掠れた。
「おおむね、合っています」
「よかった」
マルグリットは、微笑んだ。
商談用の、隙のない微笑みだった。
付き添いのエルゼが、アルトの隣で目を丸くしていた。
「……変わった服ねえ」
エルゼは、正直に言った。
「足が、ずいぶん出ているわね。それに、あの裾じゃ歩きにくそう」
「ええ」
マルグリットは、あっさりと頷いた。
「この国の女性には、まず売れないと思います」
「では、なぜ」
「試しに、です」
マルグリットは、帳簿を開いた。
「この服の形は、当盟の誰も見たことがありませんでした」
彼女は、淡々と説明した。
「仕立て部の職人たちも、最初は首を傾げていました。こんな細い裾では歩けない、こんな薄い靴下では寒い、こんな襟では首が詰まる、と」
彼女は、裾の端をつまんだ。
「それでも、作らせてみました。新しい形というのは、作ってみなければ、売れるかどうか分かりませんので」
それから、アルトを見た。
「ですので、ご意見を伺いたいのです」
「意見」
「売れるかどうか。殿方の目から見て、どう思われるか」
マルグリットは、帳簿のペンを構えた。
真顔だった。
商談の、真剣な顔だった。
「率直に、お願いします」
(率直に)
(率直に言ったら、終わる)
(でも、何か言わないと)
アルトは、穏やかな顔を作った。
十八年分の演技を、総動員した。
「……そうですね」
彼は、顎に手を当てた。考え込むふりをした。
「まず、上着の肩の線が、とても良いと思います。まっすぐで、体が引き締まって見える」
マルグリットのペンが、走った。
「白いシャツとの対比も、清潔な印象で」
ペンが、走った。
「それから……」
アルトの視線が、下がった。
上着の裾。腰の線。そこから、膝の上まで、まっすぐに落ちる濃紺の生地。
その下の、黒く透ける脚。
「……裾の、長さが」
声が、ほんの少しだけ止まった。
「とても、絶妙かと」
マルグリットのペンが、走った。
「絶妙、と」
「ええ。膝の、少し上というのが」
「少し上、が絶妙」
(なんで復唱するの)
(記録されてる)
(全部、記録されてる)
「歩いてみましょうか」
マルグリットが言った。
「実際に動いたときの印象も、伺いたいので」
彼女は、応接間の端まで歩いていった。
細い裾のせいで、歩幅が狭かった。
一歩。一歩。踵の高い靴が、床の上で小さな音を立てる。
かつ。かつ。かつ。
腰が、歩くたびにわずかに揺れた。細い裾が、その揺れに合わせて、膝の上で布を張った。
応接間の端で、彼女はくるりと振り返った。
それから、戻ってきた。
かつ。かつ。かつ。
(……っ)
(音……)
(ヒールの、音……)
彼女はアルトの目の前で止まって、帳簿を胸に抱え直した。
「いかがでしたか」
「……歩き姿が」
アルトは、言葉を探した。
「凛として、見えます」
「凛として」
ペンが、走った。
「では、座った姿も」
マルグリットは、アルトの向かいの椅子に腰を下ろした。
細い裾で座るのは、少し窮屈そうだった。彼女は、脚を揃えて、斜めに流した。
裾が、膝の上で、少しだけずり上がった。
黒く透ける脚が、膝の上まで見えた。
彼女は、それに気づいていなかった。いや、気づいていて、気にしていなかった。この国の女は、男の前で脚を出すことを、何とも思わないのだ。男が、それを見ないから。
(わぁ……)
(脚……組んでる……斜めに……)
(SO……Erotic……)
(オフィス……ここ、オフィス……異世界の、オフィス……)
「……座った姿も、知的な印象です」
アルトの声は、穏やかだった。
「商談の席に、よく合うかと」
マルグリットは、ペンを走らせた。
試着は、一刻ほどで終わった。
マルグリットは、帳簿を閉じた。
「ご意見、たいへん参考になりました」
「お役に立てたなら」
「ええ。とても」
彼女は立ち上がって、一礼した。
それから、ふと首を傾げた。
「フェンネル卿」
「はい」
「一つだけ、伺っても」
「どうぞ」
「先ほど、私が歩いたとき」
彼女は、帳簿の頁をめくった。
さっき書き留めた頁を。
「肩の線について、十二語。シャツについて、七語。裾について、四語。歩き姿について、三語。座った姿について、九語」
(数えてる)
「そして、裾について話されているときだけ、声の調子が、少し低くなっていました」
マルグリットは、帳簿から目を上げた。
深緑の目が、まっすぐにアルトを見ていた。
「それから、私が座ったとき。膝の上に視線が向いて、戻るまでに、五呼吸」
アルトは、黙っていた。
穏やかな顔を、保っていた。
「……試用会の首飾りが、十二呼吸でしたね」
マルグリットは、微笑んだ。
商談用の微笑みではなかった。
もっと、ずっと、楽しそうな顔だった。
「つまり、この服は、売れる見込みがあります」
「……売れる」
「この国の女性には、まず売れません。でも」
彼女は、帳簿を胸に抱いた。
「売る相手が、一人いれば十分ですので」
マルグリットは、応接間を出ていった。
扉が閉まる。
エルゼが、アルトの袖を引いた。
「……ねえ、アルト」
「はい」
「あの方、何の話をしてたの」
「新商品の、評判の話かと」
「売る相手が一人って」
「……さあ」
アルトは、閉じた扉を見ていた。
(最初から、全部、計算ずくだった)
(俺に、この服の話をさせたのも)
(この服を着て、見せたのも)
(俺が、何語話して、何呼吸見てたかも)
(全部)
(……この人、怖い)
(怖いけど)
(すっごく、いい)
応接間を出て、マルグリットは仕立て部の廊下を歩いていた。
かつ。かつ。かつ。
細い裾。踵の高い靴。慣れない歩き方だった。
廊下の角を、曲がった。
誰もいないことを、確かめた。
それから、壁に額をつけた。
ごつん、と小さな音がした。
帳簿を、胸に抱えたまま。濃紺の上着の肩が、小刻みに震えていた。
計算ずくの、はずだった。
あの方がどういう方かは、二か月前から分かっていた。十二呼吸。どんな服なら刺さるかも、先日の雑談で分かった。分かったから、仕立てさせた。
着て見せれば、反応が出る。反応が出れば、記録できる。記録できれば、次の手が打てる。
全部、計算通りに進んだ。
あの方の目は、ちゃんと膝の上で五呼吸止まった。
ただ、一つだけ、計算に入っていなかったことがあった。
自分の心臓の方だった。
あの方が、「裾の長さが、とても、絶妙かと」と言ったとき。あの低い声を聞いたとき。
帳簿のペンが、一瞬だけ、紙の上で止まった。
五呼吸のあいだ、見られていると分かっていたとき。脚を斜めに流したまま、動けなかった。
計算外だった。
マルグリットは、壁に額をつけたまま、しばらく動かなかった。
濃紺の上着の下で、香水の匂いの奥から、焼き菓子のような匂いが、ふわりと立ち上っていた。
体温が、上がっていたからだ。
彼女は、それにも気づいていなかった。