男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
王都の商工会館の大広間に、長い卓が一つ置かれていた。
卓の片側に、王立魔導院。院長ドロテア・クラムと、研究棟のリゼット・ハーシェル。それから、魔導院の法務担当が一人。
反対側に、七都商盟。議長マルグリット・オーベールと、七つの都市の商会の会頭たち。
卓の真ん中に、小瓶が一本だけ置いてあった。
琥珀色の液体が入った、硝子の小瓶。
『第七号疲労回復法定上限内』
大広間の壁際には、王都の商人や官吏が、見物人として並んでいた。魔導院と七都商盟の公開交渉。第七号の流通をめぐる、二度目の話し合いだった。
一度目は、魔導院の応接室で決裂した。
それから、三週間が経っていた。
その三週間で、状況が変わった。
七都商盟は、王都の外の都市で、第七号の「類似品」を売り始めた。魔導院の製品ではない。滋養強壮の薬草を煮出した、ただの煎じ薬だった。
ただ、瓶の形と色が、第七号によく似ていた。
地方では、第七号の品切れが続いていた。人々は、似た瓶を見て、それを買った。
効かなかった。
「第七号は効かない」という噂が、地方から広まり始めた。
魔導院の販売部に、苦情の手紙が届き始めた。
院長は、それを読んで胃薬を飲んだ。
一方で、魔導院は、七都商盟の倉庫に第七号を卸さないよう、王都の薬局に通達を出した。卸せば、今後の取引を打ち切る、と。
七都商盟の流通網は、王都の外では強い。けれど、王都の中では、魔導院の販売部に勝てなかった。
王都の商盟の店から、第七号の棚が消えた。
マルグリットは、それを帳簿に書き留めて、眉ひとつ動かさなかった。
三週間の流通合戦。
どちらも、少しずつ損をしていた。
「本日は、決着をつけに参りました」
マルグリットが、卓の向こうで言った。
穏やかな声だった。
「この三週間で、お互いに損をしました。数字にすれば」
彼女は、帳簿を開いた。
「当盟の損失、銀貨にして四百二十枚。地方の類似品の販売で得た利益を差し引いても、です」
院長の眉が、わずかに動いた。
「魔導院の損失は」
マルグリットは、リゼットを見た。
リゼットは、記録板を開いた。
「地方からの苦情への対応費用、返品、評判の毀損による売上の減少。概算で、銀貨三百八十枚」
淡々とした声だった。
「当院の損失の方が、四十枚少ない」
「ええ。ですが、評判の毀損は、まだ続きます。来月には、当盟の損失を上回る試算です」
「……試算の根拠を」
「地方の噂の広がる速さです。当盟の支店から、毎週報告が上がっています」
リゼットは、少しだけ黙った。
それから、記録板に一行書き足した。
「……来月の損失見込み、修正します」
見物人たちが、ざわついた。
マルグリットは、帳簿を閉じた。
「ですので、提案があります」
彼女は、卓の真ん中の小瓶を指さした。
「製造は、魔導院で。流通は、当盟で」
「前回と、同じ提案ね」
院長が、眼鏡を押し上げた。
「いいえ。前回とは、条件が違います」
マルグリットは、二冊目の帳簿を開いた。
「卸値は、販売価格の七割五分。前回より、五分上げます」
院長が、黙った。
「当盟の類似品は、すべて回収します。地方の店頭から、今月中に」
「……」
「品質の管理は、魔導院の検査官に、当盟の倉庫へ立ち入っていただく。抜き打ちで、いつでも」
「……」
「それから」
マルグリットは、三冊目の帳簿を開いた。
「王都の中の販売は、引き続き魔導院の販売部で。当盟は、王都の外だけを受け持ちます」
院長の指が、卓の上で組まれた。
「……王都の外だけ」
「はい。王都の中は、魔導院の縄張りのまま。当盟は、手を出しません」
院長は、しばらく考えていた。
七割五分。類似品の回収。検査官の立ち入り。王都の中は、魔導院のまま。
どれも、魔導院に有利な条件だった。
商盟の取り分は、前回の試算よりさらに薄くなる。
「……なぜ、そこまで譲るのかしら」
院長が、聞いた。
マルグリットは、微笑んだ。
「譲っているのではありません」
彼女は、帳簿の一頁を開いて、卓の上に滑らせた。
院長が、それを覗き込んだ。
リゼットも、横から覗き込んだ。
頁には、一つの表が書いてあった。
『フェンネル卿の契約枠の推移(推定)』
現在、三。第一の壁を越えた場合、推定五。第二の壁を越えた場合、推定七。
その横に、第七号の需要の試算。
枠が三なら、週に三本。枠が五なら、五本。枠が七なら、七本。
「フェンネル卿の契約が増えれば、第七号の需要は増えます。王都の中だけではなく、契約者が王都の外にいれば、そちらにも」
マルグリットは、表の一点を指さした。
「そして、契約が増えるのは、フェンネル卿が壁を越えたときです。壁を越えるための費用は」
彼女は、顔を上げた。
「当盟が、出資しています」
院長は、表を見つめていた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……つまり、こういうことね」
院長は、指を組み直した。
「七都商盟は、フェンネル卿の育成に出資している。壁を越えれば、契約が増える。契約が増えれば、第七号が売れる。第七号が売れれば、流通を握る当盟が儲かる」
「はい」
「そして、魔導院も儲かる」
「はい。製造は、魔導院だけですので」
院長は、隣のリゼットを見た。
リゼットは、マルグリットの表を、まだ見ていた。
指先で、数字をなぞっていた。
「……計算は、正確です」
リゼットが、淡々と言った。
「推定の前提も、当院の研究と矛盾しません」
院長は、ふっと息をついた。
それから、法務担当に目配せした。
法務担当が、卓の上に契約書の雛形を広げた。
交渉は、それから二刻続いた。
条項の文言。検査の頻度。回収の期限。細かいところで、何度か言い合いになった。
その言い合いの中心にいたのは、マルグリットとリゼットだった。
「第四条の『適正な保管』の定義が、曖昧です」
「では、温度と湿度の上限を、数字で入れましょう」
「数字の根拠は」
「当盟の倉庫の、過去三年の記録から」
「当院の、保管試験の記録の方が、精度が高いかと」
「……では、そちらの数字を使いましょう。ただし、試験の記録の写しを、当盟にも」
「……構いません」
見物人たちは、途中から、ほとんど言葉の応酬を追えなくなっていた。
二人とも、帳簿も記録板も、ほとんど見ていなかった。
数字は、全部頭に入っていた。
日が傾く頃、契約書に署名がなされた。
製造は、魔導院。流通は、王都の外を七都商盟が、王都の中を魔導院の販売部が。
どちらも、損をしない落としどころだった。
院長と、マルグリットが、署名を交わした。
見物人たちが、拍手をした。
卓の真ん中の小瓶は、最後まで誰も手に取らなかった。
大広間を出る前に、マルグリットがリゼットの前で足を止めた。
「ハーシェル殿」
「……はい」
「今日は、引き分けですね」
リゼットは、眼鏡を押し上げた。
「当院の卸値は、前回より五分上がりました。王都の中の販売も、守りました」
「当盟は、王都の外の流通を得ました。それから、検査の記録の写しも」
「……」
「引き分けです」
マルグリットは、微笑んだ。
リゼットは、少しだけ黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……引き分け、です」
「あなたの記録の形式、当盟でも使い始めました」
「存じております。先週、当院の様式とそっくりな帳票が、商盟の支店から送られてきましたので」
「お気づきでしたか」
「当院の様式には、一か所、わざと左右の欄の幅を変えてある箇所があります」
マルグリットの目が、わずかに見開かれた。
「写しを作れば、その幅まで写る。どこから流れたか、分かるように」
「……」
「引き分け、です」
リゼットは、淡々と言った。
マルグリットは、しばらくリゼットを見つめていた。
それから、声を立てずに笑った。
「本当に、手強い方」
「お互いさまです」
二人は、それぞれ反対の方へ歩いていった。
大広間の隅で、院長は帰り支度をしていた。
法務担当が、署名済みの契約書を丁寧に巻いている。
院長は、契約書の写しを手に、頭の中で計算をしていた。
王都の外に、第七号が流れる。七つの商業都市。その周りの、無数の町と村。
第七号を使う家が、増える。
使う家が増えれば、第七号の評判が、王国中に広がる。
評判が広がれば、議会の議員たちの地元でも、第七号を使う家が増える。
使う家が増えれば。
院長は、契約書の写しを握りしめた。
先日、議員たちに送った陳情書のことを考えていた。
『滋養強壮魔導薬の上限規定見直しに関する陳情』
これまでは、王都の一部の家の話だった。議員たちの地元には、関係のない話だった。
けれど、これからは違う。
王国中の家が、第七号を使う。そうなれば、上限の話は、王国中の話になる。
議員たちも、無視できなくなる。
追い風だ、と院長は思った。
院長は、胃のあたりを押さえなかった。
珍しいことだった。
大広間の反対側の隅で、一人の女が、見物人に混じって立っていた。
年配の女性だった。鋭い目つき。腕を組んで、卓の方を見据えている。
七都商盟の、会頭の一人だった。
ベルナデット・デュマ。
七つの都市の一つ、港湾都市の大商会の主。議長選挙で、マルグリットに敗れた人だった。
彼女は、交渉の一部始終を見ていた。
議長が、魔導院に譲った条件。七割五分の卸値。類似品の回収。王都の中から手を引くこと。
全部、商盟にとっては薄い商売だった。
そして、議長が帳簿から出して見せた、一枚の表。
『フェンネル卿の契約枠の推移(推定)』
フェンネル卿の、育成への出資。
ベルナデットは、組んだ腕の中で、指先を動かしていた。
議長が、準男爵家の若い男に、商盟の金を注ぎ込んでいる。家庭教師。訓練の費用。装備。食事。医師。
先日の総会で、議長は「四つ目は、当盟が取ります」と言った。
当盟が。
本当に、当盟が、だろうか。
ベルナデットは、大広間を出ていくマルグリットの背中を、目で追っていた。
赤褐色のまとめ髪。深緑の上衣。その歩き方が、近頃、少しだけ変わった気がしていた。
その夜。
港湾都市の商会の、王都の出張所。
ベルナデットの机の上に、一冊の帳簿が置かれていた。
革装の帳簿だった。
表紙に、七都商盟の紋章。その下に、議長の私的な印章。
本物ではなかった。
写しだった。
議長室の書記が、金貨十枚で、一晩だけ持ち出してきたものの、写し。
ベルナデットは、その頁をめくっていった。
出資の記録。家庭教師への支払い。仕立て部への発注。
仕立て部への発注。
『濃紺毛織上下揃い細身仕立て一着白麻襟付き下着一着黒絹極薄脚覆い一足黒革高踵靴一足発注者:議長私費』
ベルナデットの指が、その行で止まった。
私費。
彼女は、その一行をしばらく見つめていた。
それから、帳簿の余白に、小さく書き込んだ。
『議長の出資は、私的な投資ではないのか』