男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~   作:朝凪小夜

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第33話 真夏の冬服

 

 

「三角形の内角の和は」

 

「百八十度です」

 

「では、この図形の、この角は」

 

「……七十二度」

 

「正解。次」

 

フェンネル家の書斎で、白髪の老学者が、石板にチョークで図を描いていた。

七都商盟が雇った家庭教師だった。王立学院の元教授で、算術と幾何の大家。七十を過ぎていたが、声はよく通った。

 

「フェンネル卿は、筋がいい」

 

老学者は、石板を拭きながら言った。

 

「殿方で、これほど飲み込みの早い方は、初めてです」

 

「恐れ入ります」

 

(男子校で三年間、数学しかやることなかったので)

 

アルトは、石板の新しい問題に目を落とした。

真夏だった。

書斎の窓を開け放っても、風はほとんど入ってこなかった。額に、汗が滲んでいた。

 

毎日が、表の通りに過ぎていった。

六時、起床。

七時、騎士団の訓練場。クラウディアの計画書に従って、走り込み、素振り、組み手。最初の頃のように倒れることは、もうなかった。走り込みは三周を超え、腕立て伏せは二十回に届いた。

十一時、第七号。琥珀色の小瓶を飲み干すと、午前の疲れが溶けていく。

十二時、算術。

十四時、法学。

十六時、地理と歴史。

 

家庭教師は、科目ごとに替わった。算術は老学者。法学は、王都の法廷で長年書記を務めた女性。地理と歴史は、王立学院の若い講師。

三人とも、口を揃えて言った。

 

「フェンネル卿は、筋がいい」

 

前世の記憶が、少しずつ掘り起こされていく感覚があった。

教室の黒板。教科書の頁。試験の前夜に詰め込んだ公式。この世界の学問と、前世の学問は、ところどころで形が似ていた。似ているところを入口にすると、驚くほど速く頭に入った。

神殿の定期鑑定で、セラフィナが数値を読み上げた。

 

「知力、五十八」

 

翌週。

 

「知力、六十三」

 

その翌週。

 

「……知力、六十七」

 

セラフィナは、水晶板から顔を上げた。

 

「フェンネル様。お疲れでは、ございませんか」

 

「大丈夫です」

 

「本当に?」

 

彼女は、少しだけ眉を寄せた。

 

「近頃、鑑定の最中に、眠そうなお顔をなさいます」

 

「……少しだけ、寝不足で」

 

「少しだけ、ですか」

 

セラフィナは、記録簿を見下ろした。

それから、鎖を一本、そっと握った。

 

「では、今日は」

 

彼女の声が、少しだけ小さくなった。

 

「……鑑定だけに、いたしましょうか」

 

(鑑定だけ)

 

(それが、一度も鑑定だけで済んだことがない言葉だということを、俺は知ってる)

 

十八時の、供給。

表の上では、曜日ごとに一か所ずつだった。

月曜、神殿。火曜、騎士団。水曜、魔導院。

表の上では。

実際には、表の上の文字の横に、毎週、赤い字が増えていった。

 

「連携訓練の、追加の一本を」「祝福が、少し薄れた気がいたしまして」「データの安定のため、追加の経過観察を」

 

それから、誘いの作法。

身を寄せる。耳元で囁く。手に触れる。香りを纏う。

神殿の小鑑定室で、セラフィナが鎖を巻き直しながら身を屈める。騎士団の訓練場で、クラウディアが跪いて「ご命令を」と見上げる。魔導院の観察室で、リゼットが三つ編みを肩から垂らして、首筋に指を当てる。

どれも、作法だった。この国の女が、何百年も男に向けて使ってきた作法。普通の男には、一度も効いたことのない作法。

アルトには、全部効いた。

一行だけ抵抗して、全部負けた。

 

「……仕方ありませんね」

 

毎晩、その台詞を言っていた。

二十一時の、復習。

表の上では、そうなっていた。

二十一時に家にいた日は、一週間に一日もなかった。

 

その日は、法学の家庭教師が早めに帰った。

十五時。十六時の地理と歴史までに、一刻の空きができた。

アルトは、付き添いのヘルガと二人で、王都の大通りを歩いていた。

本屋に、法学の参考書を買いに行くためだった。

真夏の陽射しが、石畳に照りつけていた。

大通りは、人で溢れていた。

女たちは、薄い麻の上衣に、短い袖。裾を膝の上までからげて、日除けの帽子をかぶっている。肩も、腕も、脚も、陽に焼けていた。

 

(……目の毒だ)

 

(いや、目の薬か)

 

(どっちでもいい、暑い)

 

「アルト、揚げ菓子食べる?」

 

「この暑さで、ですか」

 

「暑いときこそ、揚げ菓子だよ」

 

ヘルガが屋台に走っていった。

アルトは、日陰を探して、通りの端に寄った。

そのとき、大通りの向こうから、馬車の列がやってきた。

 

先頭に、騎馬の衛兵が二人。

その後ろに、四頭立ての大きな馬車が一台。

蒼く塗られた車体に、金の紋章。アズール王家の紋章だった。

通りの人々が、道の両端に寄った。帽子を取って、頭を下げる者もいた。

アルトも、通りの端で頭を下げた。

馬車が、ゆっくりと目の前を通り過ぎていく。

その窓に、人影が見えた。

蒼い髪。

首筋を隠すように、肩のあたりで下ろした髪。

第一王女だった。

アルトは、思わず顔を上げた。

王女は、窓の向こうで、まっすぐ前を見ていた。こちらを見ては、いなかった。

その服を見て、アルトは目を疑った。

 

厚手だった。

叙任式のときも、首元から足首まで覆うドレスを着ていた。あのときは、初夏だった。それでも、暑そうだった。

今は、真夏だった。

窓の向こうの王女は、叙任式のときよりも、さらに厚い服を着ていた。

詰まった襟が、喉元の一番上まで閉じられている。その上に、もう一枚、肩掛けのようなものを羽織っていた。毛織の、冬物の生地に見えた。

袖は、手首を越えて、手の甲を覆っていた。

両手に、白い手袋。肘の上まである、長い手袋。

窓は、閉まっていた。

真夏の、昼下がりの、大通りで。

外を歩く女たちが、汗をかいて、肩も脚も出して歩いている、その真ん中を。

王女だけが、冬の中にいた。

 

(……熱中症になる)

 

アルトは、本気で心配した。

 

(あの格好で、あの窓を閉め切った馬車の中で)

 

(大丈夫なのか、あの人)

 

馬車が、目の前を通り過ぎていった。

王女は、最後まで、こちらを見なかった。

 

 

「アルト、揚げ菓子……あ、王家の馬車だ」

 

ヘルガが、揚げ菓子の袋を抱えて戻ってきた。

 

「すごいねえ、四頭立て。誰が乗ってたの?」

 

「……王女殿下が」

 

「えっ、見えた?どんな人だった?」

 

アルトは、遠ざかっていく馬車を見ていた。

 

「……冬服を、着ていました」

 

「冬服?この暑さで?」

 

ヘルガが、目を丸くした。

 

「変わった方なのかなあ。体が弱いとか?」

 

「……さあ」

 

アルトは、馬車の窓が見えなくなるまで、通りの端に立っていた。

叙任式の、手袋の震えを思い出していた。

騎士が跪くたびに、指先が震えていた。あの日も、今日も、あの人は一度もこちらを見なかった。

他の女性たちは、みんな、何かを差し出してくる。誘いの作法を、全力で。

あの人だけが、何も差し出してこない。

それどころか、服が、厚くなっていく。

 

(なんで、あの人だけ)

 

(なんで、あんなに、隠すんだ)

 

答えは、なかった。

揚げ菓子の油の匂いが、真夏の空気の中に漂っていた。

 

その日の夕方。

フェンネル家の居間に、来客があった。

トビアス・メルケだった。

男爵家の三男。天賦の儀の日、控えの間で膝を抱えていた友人。

今日も、居間の椅子の上で、膝を抱えていた。

 

「アルト殿……相談が……」

 

「どうしました」

 

「縁談が、まとまらないんです……」

 

トビアスは、膝に顔を埋めた。

 

「【帳簿整理】ですから……下から二番目ですから……」

 

「申込みは」

 

「三通、来ました……」

 

「三通も」

 

「三通とも、顔合わせで、駄目になりました……」

 

彼は、膝の間から、恨めしそうな目でアルトを見た。

 

「僕、女の人の前に出ると、震えちゃうんです。声も出なくなるし。そうしたら、相手の方が『頼りないわね』って」

 

「……なるほど」

 

「でも、震えるのは仕方ないじゃないですか。女の人、怖いんですから」

 

(怖いんだ)

 

(まあ、この世界の男は、みんなそうだよな)

 

アルトは、少し考えた。

前世の記憶を、探った。

教室の後ろの席で、恋愛の相談をし合っていた男子たち。三年間、男だらけの中で、ああでもないこうでもないと、根拠のない作戦を立て合っていた日々。

あの頃、誰かが言っていた。

 

「無理に格好つけなくていいんだよ。素のままでいけばいい」

 

(……これだ)

 

「トビアス殿」

 

「はい……」

 

「無理に、頼もしく見せなくていいのでは」

 

トビアスが、顔を上げた。

 

「震えるなら、震えたままで。声が出ないなら、出ないままで。それを、隠さずに」

 

「……隠さずに」

 

「それから、自分の好きなことの話をすればいい。トビアス殿は、帳簿の話なら、震えずに話せるでしょう」

 

「帳簿の、話」

 

「ええ。顔合わせの席で、ずっと帳簿の話をすればいい」

 

トビアスは、しばらく黙っていた。

それから、頭を抱えた。

 

「アルト殿……それ、絶対に駄目なやつです……」

 

「駄目、ですか」

 

「顔合わせで、震えながら、ずっと帳簿の話をする男……」

 

彼は、膝を抱えたまま、ぶるぶると首を振った。

 

「そんな男、誰が貰ってくれるんですか……」

 

(……前世では、わりと通用したんだけどな)

 

(いや、前世でも、通用したかどうかは知らない。俺、誰とも付き合ったことないし)

 

トビアスが帰った後、もう一人、来客があった。

玄関の扉が、ノックもなしに開いた。

 

「よう」

 

赤毛の短髪。日焼けした肌。背中に、身の丈ほどの大剣。

ロッサだった。

 

「……ロッサ殿」

 

「ギルドの依頼の帰りだ。通りがかったから、顔見に来た」

 

彼女は、玄関に立ったまま、アルトを上から下まで眺めた。

ギルドで初めて会ったときと、同じ目だった。

 

「お前」

 

「はい」

 

「また体、細くなってないか」

 

ロッサは、大きな手で、アルトの肩をばしんと叩いた。

アルトは、半歩よろめいた。

 

「……騎士団で、鍛えているのですが」

 

「鍛えてても、それ以上に何かに吸われてる顔だな」

 

ロッサは、にやにやと笑った。

 

「まあ、何に吸われてるかは、顔に書いてあるけどな」

 

玄関の奥から、母のマルタが顔を出した。

 

「まあ、ロッサさん。いらっしゃい」

 

「おう、奥方。邪魔した。もう帰る」

 

ロッサは、もう一度だけアルトの肩を叩いて、背を向けた。

扉の前で、振り返った。

 

「なあ。今度、ギルドの依頼で辺境に行くかもしれないんだ。もし行くことになったら」

 

「……なったら」

 

「お前も、来いよ」

 

それだけ言って、ロッサは出ていった。

母が、首を傾げていた。

 

「何に吸われてる、って、何のことかしら」

 

「……さあ」

 

その夜。

フェンネル家の書斎で、家庭教師の老学者が、試験の採点をしていた。

アルトが今日解いた、算術と幾何の問題。それから、法学の家庭教師が置いていった、法学の小試験。地理と歴史の講師の、年号の暗記の確認。

老学者は、採点を終えて、羊皮紙に何かを書き込んだ。

七都商盟への、週次の報告書だった。

 

『対象の学習進度、極めて良好。神殿の本日の鑑定値、知力七十一。素の力の合計、二百九十。』

 

老学者は、筆を置いて、窓の外を見た。

真夏の夜空に、星が瞬いていた。

壁まで、あと十。

 

 

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