男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
「三角形の内角の和は」
「百八十度です」
「では、この図形の、この角は」
「……七十二度」
「正解。次」
フェンネル家の書斎で、白髪の老学者が、石板にチョークで図を描いていた。
七都商盟が雇った家庭教師だった。王立学院の元教授で、算術と幾何の大家。七十を過ぎていたが、声はよく通った。
「フェンネル卿は、筋がいい」
老学者は、石板を拭きながら言った。
「殿方で、これほど飲み込みの早い方は、初めてです」
「恐れ入ります」
(男子校で三年間、数学しかやることなかったので)
アルトは、石板の新しい問題に目を落とした。
真夏だった。
書斎の窓を開け放っても、風はほとんど入ってこなかった。額に、汗が滲んでいた。
毎日が、表の通りに過ぎていった。
六時、起床。
七時、騎士団の訓練場。クラウディアの計画書に従って、走り込み、素振り、組み手。最初の頃のように倒れることは、もうなかった。走り込みは三周を超え、腕立て伏せは二十回に届いた。
十一時、第七号。琥珀色の小瓶を飲み干すと、午前の疲れが溶けていく。
十二時、算術。
十四時、法学。
十六時、地理と歴史。
家庭教師は、科目ごとに替わった。算術は老学者。法学は、王都の法廷で長年書記を務めた女性。地理と歴史は、王立学院の若い講師。
三人とも、口を揃えて言った。
「フェンネル卿は、筋がいい」
前世の記憶が、少しずつ掘り起こされていく感覚があった。
教室の黒板。教科書の頁。試験の前夜に詰め込んだ公式。この世界の学問と、前世の学問は、ところどころで形が似ていた。似ているところを入口にすると、驚くほど速く頭に入った。
神殿の定期鑑定で、セラフィナが数値を読み上げた。
「知力、五十八」
翌週。
「知力、六十三」
その翌週。
「……知力、六十七」
セラフィナは、水晶板から顔を上げた。
「フェンネル様。お疲れでは、ございませんか」
「大丈夫です」
「本当に?」
彼女は、少しだけ眉を寄せた。
「近頃、鑑定の最中に、眠そうなお顔をなさいます」
「……少しだけ、寝不足で」
「少しだけ、ですか」
セラフィナは、記録簿を見下ろした。
それから、鎖を一本、そっと握った。
「では、今日は」
彼女の声が、少しだけ小さくなった。
「……鑑定だけに、いたしましょうか」
(鑑定だけ)
(それが、一度も鑑定だけで済んだことがない言葉だということを、俺は知ってる)
十八時の、供給。
表の上では、曜日ごとに一か所ずつだった。
月曜、神殿。火曜、騎士団。水曜、魔導院。
表の上では。
実際には、表の上の文字の横に、毎週、赤い字が増えていった。
「連携訓練の、追加の一本を」「祝福が、少し薄れた気がいたしまして」「データの安定のため、追加の経過観察を」
それから、誘いの作法。
身を寄せる。耳元で囁く。手に触れる。香りを纏う。
神殿の小鑑定室で、セラフィナが鎖を巻き直しながら身を屈める。騎士団の訓練場で、クラウディアが跪いて「ご命令を」と見上げる。魔導院の観察室で、リゼットが三つ編みを肩から垂らして、首筋に指を当てる。
どれも、作法だった。この国の女が、何百年も男に向けて使ってきた作法。普通の男には、一度も効いたことのない作法。
アルトには、全部効いた。
一行だけ抵抗して、全部負けた。
「……仕方ありませんね」
毎晩、その台詞を言っていた。
二十一時の、復習。
表の上では、そうなっていた。
二十一時に家にいた日は、一週間に一日もなかった。
その日は、法学の家庭教師が早めに帰った。
十五時。十六時の地理と歴史までに、一刻の空きができた。
アルトは、付き添いのヘルガと二人で、王都の大通りを歩いていた。
本屋に、法学の参考書を買いに行くためだった。
真夏の陽射しが、石畳に照りつけていた。
大通りは、人で溢れていた。
女たちは、薄い麻の上衣に、短い袖。裾を膝の上までからげて、日除けの帽子をかぶっている。肩も、腕も、脚も、陽に焼けていた。
(……目の毒だ)
(いや、目の薬か)
(どっちでもいい、暑い)
「アルト、揚げ菓子食べる?」
「この暑さで、ですか」
「暑いときこそ、揚げ菓子だよ」
ヘルガが屋台に走っていった。
アルトは、日陰を探して、通りの端に寄った。
そのとき、大通りの向こうから、馬車の列がやってきた。
先頭に、騎馬の衛兵が二人。
その後ろに、四頭立ての大きな馬車が一台。
蒼く塗られた車体に、金の紋章。アズール王家の紋章だった。
通りの人々が、道の両端に寄った。帽子を取って、頭を下げる者もいた。
アルトも、通りの端で頭を下げた。
馬車が、ゆっくりと目の前を通り過ぎていく。
その窓に、人影が見えた。
蒼い髪。
首筋を隠すように、肩のあたりで下ろした髪。
第一王女だった。
アルトは、思わず顔を上げた。
王女は、窓の向こうで、まっすぐ前を見ていた。こちらを見ては、いなかった。
その服を見て、アルトは目を疑った。
厚手だった。
叙任式のときも、首元から足首まで覆うドレスを着ていた。あのときは、初夏だった。それでも、暑そうだった。
今は、真夏だった。
窓の向こうの王女は、叙任式のときよりも、さらに厚い服を着ていた。
詰まった襟が、喉元の一番上まで閉じられている。その上に、もう一枚、肩掛けのようなものを羽織っていた。毛織の、冬物の生地に見えた。
袖は、手首を越えて、手の甲を覆っていた。
両手に、白い手袋。肘の上まである、長い手袋。
窓は、閉まっていた。
真夏の、昼下がりの、大通りで。
外を歩く女たちが、汗をかいて、肩も脚も出して歩いている、その真ん中を。
王女だけが、冬の中にいた。
(……熱中症になる)
アルトは、本気で心配した。
(あの格好で、あの窓を閉め切った馬車の中で)
(大丈夫なのか、あの人)
馬車が、目の前を通り過ぎていった。
王女は、最後まで、こちらを見なかった。
「アルト、揚げ菓子……あ、王家の馬車だ」
ヘルガが、揚げ菓子の袋を抱えて戻ってきた。
「すごいねえ、四頭立て。誰が乗ってたの?」
「……王女殿下が」
「えっ、見えた?どんな人だった?」
アルトは、遠ざかっていく馬車を見ていた。
「……冬服を、着ていました」
「冬服?この暑さで?」
ヘルガが、目を丸くした。
「変わった方なのかなあ。体が弱いとか?」
「……さあ」
アルトは、馬車の窓が見えなくなるまで、通りの端に立っていた。
叙任式の、手袋の震えを思い出していた。
騎士が跪くたびに、指先が震えていた。あの日も、今日も、あの人は一度もこちらを見なかった。
他の女性たちは、みんな、何かを差し出してくる。誘いの作法を、全力で。
あの人だけが、何も差し出してこない。
それどころか、服が、厚くなっていく。
(なんで、あの人だけ)
(なんで、あんなに、隠すんだ)
答えは、なかった。
揚げ菓子の油の匂いが、真夏の空気の中に漂っていた。
その日の夕方。
フェンネル家の居間に、来客があった。
トビアス・メルケだった。
男爵家の三男。天賦の儀の日、控えの間で膝を抱えていた友人。
今日も、居間の椅子の上で、膝を抱えていた。
「アルト殿……相談が……」
「どうしました」
「縁談が、まとまらないんです……」
トビアスは、膝に顔を埋めた。
「【帳簿整理】ですから……下から二番目ですから……」
「申込みは」
「三通、来ました……」
「三通も」
「三通とも、顔合わせで、駄目になりました……」
彼は、膝の間から、恨めしそうな目でアルトを見た。
「僕、女の人の前に出ると、震えちゃうんです。声も出なくなるし。そうしたら、相手の方が『頼りないわね』って」
「……なるほど」
「でも、震えるのは仕方ないじゃないですか。女の人、怖いんですから」
(怖いんだ)
(まあ、この世界の男は、みんなそうだよな)
アルトは、少し考えた。
前世の記憶を、探った。
教室の後ろの席で、恋愛の相談をし合っていた男子たち。三年間、男だらけの中で、ああでもないこうでもないと、根拠のない作戦を立て合っていた日々。
あの頃、誰かが言っていた。
「無理に格好つけなくていいんだよ。素のままでいけばいい」
(……これだ)
「トビアス殿」
「はい……」
「無理に、頼もしく見せなくていいのでは」
トビアスが、顔を上げた。
「震えるなら、震えたままで。声が出ないなら、出ないままで。それを、隠さずに」
「……隠さずに」
「それから、自分の好きなことの話をすればいい。トビアス殿は、帳簿の話なら、震えずに話せるでしょう」
「帳簿の、話」
「ええ。顔合わせの席で、ずっと帳簿の話をすればいい」
トビアスは、しばらく黙っていた。
それから、頭を抱えた。
「アルト殿……それ、絶対に駄目なやつです……」
「駄目、ですか」
「顔合わせで、震えながら、ずっと帳簿の話をする男……」
彼は、膝を抱えたまま、ぶるぶると首を振った。
「そんな男、誰が貰ってくれるんですか……」
(……前世では、わりと通用したんだけどな)
(いや、前世でも、通用したかどうかは知らない。俺、誰とも付き合ったことないし)
トビアスが帰った後、もう一人、来客があった。
玄関の扉が、ノックもなしに開いた。
「よう」
赤毛の短髪。日焼けした肌。背中に、身の丈ほどの大剣。
ロッサだった。
「……ロッサ殿」
「ギルドの依頼の帰りだ。通りがかったから、顔見に来た」
彼女は、玄関に立ったまま、アルトを上から下まで眺めた。
ギルドで初めて会ったときと、同じ目だった。
「お前」
「はい」
「また体、細くなってないか」
ロッサは、大きな手で、アルトの肩をばしんと叩いた。
アルトは、半歩よろめいた。
「……騎士団で、鍛えているのですが」
「鍛えてても、それ以上に何かに吸われてる顔だな」
ロッサは、にやにやと笑った。
「まあ、何に吸われてるかは、顔に書いてあるけどな」
玄関の奥から、母のマルタが顔を出した。
「まあ、ロッサさん。いらっしゃい」
「おう、奥方。邪魔した。もう帰る」
ロッサは、もう一度だけアルトの肩を叩いて、背を向けた。
扉の前で、振り返った。
「なあ。今度、ギルドの依頼で辺境に行くかもしれないんだ。もし行くことになったら」
「……なったら」
「お前も、来いよ」
それだけ言って、ロッサは出ていった。
母が、首を傾げていた。
「何に吸われてる、って、何のことかしら」
「……さあ」
その夜。
フェンネル家の書斎で、家庭教師の老学者が、試験の採点をしていた。
アルトが今日解いた、算術と幾何の問題。それから、法学の家庭教師が置いていった、法学の小試験。地理と歴史の講師の、年号の暗記の確認。
老学者は、採点を終えて、羊皮紙に何かを書き込んだ。
七都商盟への、週次の報告書だった。
『対象の学習進度、極めて良好。神殿の本日の鑑定値、知力七十一。素の力の合計、二百九十。』
老学者は、筆を置いて、窓の外を見た。
真夏の夜空に、星が瞬いていた。
壁まで、あと十。