男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
七都商盟の総会は、年に二度開かれる。
夏と、冬。七つの都市の商会の会頭たちが、王都の本部の大会議室に集まる。
その夏の総会の、三日目の午後だった。
議題は、ほとんど片付いていた。
街道の補修の負担割合。港湾の使用料の改定。地方の市場の開催日の調整。どれも、例年通りの結論で決まった。
議長のマルグリットが、議事録を閉じかけたときだった。
「議長。一つ、よろしいかしら」
一番端の席から、声がした。
年配の女性だった。鋭い目つき。腕を組んで、議長を見据えている。
港湾都市の会頭、ベルナデット・デュマ。
「……どうぞ、デュマ会頭」
マルグリットは、穏やかに答えた。
ベルナデットは、腕をほどいた。
膝の上から、一冊の帳簿を取り出した。
革装の帳簿だった。
表紙に、七都商盟の紋章。その下に、議長の私的な印章。
ベルナデットは、それを高く掲げた。
大会議室が、ざわついた。
「これは、議長の帳簿の写しです」
ベルナデットの声は、よく通った。
「議長が、この二か月、商盟の金をどこに使ってきたか。その記録です」
マルグリットの表情は、変わらなかった。
ただ、帳簿を持つ指先が、わずかに止まった。
「どこで、それを」
「どこで手に入れたかは、問題ではありません」
ベルナデットは、帳簿を開いた。
「問題は、中身です」
彼女は、頁を読み上げ始めた。
「家庭教師への支払い。王立学院の元教授、法廷の元書記、学院の講師。三名、週五日。訓練の費用。騎士団の訓練に必要な装備、食事、医師」
会頭たちが、顔を見合わせた。
「受益者は、すべて同じです。準男爵家の子息、アルト・フェンネル」
ベルナデットは、帳簿を卓の上に置いた。
「議長は、商盟の金で、一人の若い男を育てています」
「それは、総会で承認を得た出資です」
マルグリットが、静かに言った。
「フェンネル卿の契約枠を、当盟が確保するための」
「承認したのは、出資の総額です。使い道の細目までは、承認していません」
ベルナデットは、帳簿の別の頁を開いた。
「それに、この項目は、商盟の出資ではありませんね」
彼女は、一行を指で叩いた。
「仕立て部への発注。濃紺毛織、上下揃い、細身仕立て。白麻の襟付き下着。黒絹の、極薄の脚覆い。黒革の、高踵靴」
会議室が、静まり返った。
「発注者、議長。……私費」
ベルナデットは、顔を上げた。
「議長。この服は、何のためのものですか」
マルグリットは、黙っていた。
「商盟の総会で、四つ目の枠は当盟が取る、と仰いましたね。当盟が、と」
ベルナデットの目が、細くなった。
「本当に、当盟が、ですか。それとも、議長ご自身が、ですか」
会頭たちのざわめきが、大きくなった。
「議長の私的な投資に、商盟の金を」
「出資の凍結を」
「少なくとも、使い道の監査を」
ベルナデットは、腕を組み直した。
「議長の育成計画への出資を、凍結することを提案します。監査が終わるまで」
マルグリットは、まだ黙っていた。
ゆっくりと、自分の帳簿を開いた。
本物の、帳簿だった。
一冊目。二冊目。三冊目。
三冊を、卓の上に並べた。
角を、きっちりと揃えて。
それから、顔を上げた。
「デュマ会頭」
「何かしら」
「その写しには、最後の頁が入っていますか」
ベルナデットの眉が、わずかに動いた。
「最後の、頁」
「ええ。仕立て部への発注の、三頁後です」
ベルナデットは、写しの帳簿をめくった。
仕立て部への発注。その後に、家庭教師への支払いの続き。それから。
白紙だった。
写しは、そこで終わっていた。
「……白紙ですね」
「そうでしょうね」
マルグリットは、穏やかに言った。
「最後の頁は、昨夜書きましたので」
マルグリットは、三冊目の帳簿の、最後の頁を開いた。
会議室の全員に見えるように、卓の中央に向けた。
頁には、表が書いてあった。
『フェンネル卿の技能を借りた場合の、当盟の制度改革試算』
「フェンネル卿は、異国の書物から、いくつかの商取引の仕組みをご存じでした」
マルグリットは、表の一行目を指さした。
「一つ目。手形」
会頭たちが、身を乗り出した。
「代金を金貨で運ぶ代わりに、署名した紙を渡す。紙を、商盟の別の支店で金貨に換える。金貨は、動かない。紙だけが、動く」
「紙が……」
「街道で盗賊に奪われる代金。年間、当盟全体で、銀貨にして二千四百枚。手形が使えれば、そのほとんどが、なくなります」
港湾都市の隣の都市の会頭が、息を呑んだ。
「二つ目。相互保険」
マルグリットは、二行目を指さした。
「船が沈んだ損を、一つの商会が背負うのではなく、多くの商会で積み立てて、割って負担する」
ベルナデットの指先が、写しの帳簿の上で止まった。
港湾都市。船の都市。
「港湾都市の商会が、海難で失う積荷。年間、銀貨にして三千八百枚。うち、一つの商会が潰れるほどの大損が、毎年二件か三件」
マルグリットは、ベルナデットを見た。
「デュマ会頭の商会も、五年前に、一隻」
ベルナデットの顔が、わずかに強張った。
「三つ目。度量衡と貨幣の換算の統一。四つ目。共同出資の組合。五つ目、それらを支える、商法の整備」
マルグリットは、表の最後の行を指さした。
「五つを合わせた、当盟全体の利益の試算。年間、銀貨にして、一万二千枚」
会議室が、静まり返った。
一万二千。
七都商盟の、一年の総利益の、四割に近い数字だった。
「これを実行するには」
マルグリットは、帳簿を閉じた。
「仕組みを作り、動かせる者が要ります。算術と、法学と、商取引の知恵を、持っている者が」
「……それが、フェンネル卿の」
「技能です」
マルグリットは、頷いた。
「フェンネル卿のスキルは、壁を越えれば、技能を貸せるようになる可能性がある。魔導院の研究と、当盟の記録で、そう推定しています」
「推定」
ベルナデットが、低い声で言った。
「推定に、商盟の金を」
「商人は、まだ誰も見ていない先に、賭けるものです」
マルグリットは、ベルナデットをまっすぐに見た。
「デュマ会頭。あなたの商会が、五年前に沈めた船の積荷。もし相互保険があったら、あなたの商会は、あの年、半分の倉庫を手放さずに済みました」
ベルナデットは、黙っていた。
「仕立て部への発注は、確かに私費です」
マルグリットは、続けた。
「フェンネル卿から、異国の装いについて伺いました。それを形にしたのは、私の個人的な関心です。商盟の金は、一枚も使っていません」
それから、彼女は少しだけ微笑んだ。
商談用の微笑みだった。
「……ただ、その装いを見たフェンネル卿が、いかに熱心に手形と保険の話をしてくださったかは、議事録には書けませんが」
総会は、議長の出資の継続を承認した。
ただし、条件付きだった。
「期限を設けます」
採決の後、ベルナデットが言った。
腕を組んだまま。けれど、さっきまでの鋭さは、少しだけ和らいでいた。
「この夏が終わるまでに、手形でも保険でも、どれか一つでいい。実際に動かして、成果を見せること。見せられなければ、出資は打ち切り」
「承知しました」
マルグリットは、即答した。
ベルナデットは、写しの帳簿を卓の上に置いた。
「それから、議長」
「何かしら」
「……保険の話。港湾都市の商会の会合で、もう一度、詳しく聞かせてもらえるかしら」
マルグリットは、少しだけ目を見開いた。
それから、微笑んだ。
「喜んで」
同じ頃。
王都大神殿の、小鑑定室。
アルトは、水晶板に両手を置いていた。
セラフィナが、数値を読み上げていた。
「筋力、二十九」
「体力、三十三」
「敏捷、二十六」
「器用、三十」
「魔力、二十」
部屋の隅に、もう一人いた。
リゼットだった。
「合計の計算が要るかもしれませんので」と言って、記録板を持って同席していた。
彼女の唇が、数値を聞くたびに、かすかに動いていた。
足し算をしていた。
「知力、七十二」
リゼットの唇が、止まった。
「精神、九十」
セラフィナが、最後の数値を読み上げた。
リゼットが、記録板から顔を上げた。
「……合計」
彼女の声が、ほんの少しだけ、震えていた。
「三百、ちょうど」
その瞬間、水晶板が光った。
白ではなかった。
金色だった。
天賦の儀の日、稀少度が測定不能と出たときと、同じ色。
いや、あのときよりも強かった。
小鑑定室の白い壁が、金色に染まった。窓から差し込む夏の陽射しよりも、明るかった。
「……っ」
セラフィナが、思わず一歩下がった。鎖が、しゃら、と鳴った。
リゼットは、記録板を握りしめたまま、水晶板を凝視していた。
水晶板の表面に、文字が浮かび上がっていた。
レベルの数字が、動いていた。
Lv19。
Lv20。
一瞬だけ、止まった。
それから、また動き始めた。
Lv21。Lv22。Lv23。
速かった。
溜まっていた経験値が、一気に流れ込んでいるのだった。三週間分。いや、壁で止まっていた間の、全部の分。
Lv26。Lv28。Lv30。
アルトは、水晶板に手を置いたまま、動けなかった。
手のひらの下が、熱かった。
体の奥で、何かが開いていく感覚があった。
閉じていた扉が、一枚ずつ。ずっと、そこにあったのに、開け方を知らなかった扉が。
Lv31。
Lv32。
数字が、止まった。
金色の光が、ゆっくりと収まっていった。
水晶板の表面に、新しい表示が残っていた。
アルト・フェンネル十八歳男
筋力29/体力33/敏捷26/器用30
魔力20/知力72/精神90(合計300)
スキル:【ステータス貸与】Lv32
【第一の壁を突破】
契約3/5
増幅倍率×3
貸与上限素の合計の六割
解放:【技能貸与】
小鑑定室が、静まり返っていた。
セラフィナが、表示を見つめていた。
リゼットが、表示を見つめていた。
アルトも、表示を見つめていた。
「契約、五分の、三」
セラフィナが、ゆっくりと読んだ。
「……枠が、二つ、増えました」
「倍率、三」
リゼットが、記録板にペンを走らせた。
「二から、三へ。推定と、一致」
ペンが、次の行に移った。
「技能、貸与」
彼女の手が、止まった。
「……解放」
アルトは、水晶板から手を離した。
手のひらを、見下ろした。
さっきまで熱かった手のひらが、今は静かだった。
(壁)
天賦の儀から、三か月半。
最初は、体力だった。体力さえあれば、と思った。救護室で、天井を見上げながら。
それから、合計だった。レベルが十九で止まって、壁があると知った。
あと五十四。あと十。
走り込み。素振り。算術。法学。地理。歴史。第七号。睡眠の欄のない、日程表。
(越えた)
崩れるような、喜びではなかった。
叫びたくなるような、興奮でもなかった。
ただ、静かに、胸の奥で何かが満ちていた。
天賦の儀の夜、自室の寝台で拳を握ったときと、少しだけ似ていた。
(壁、越えた)
アルトは、手のひらを、ゆっくりと握った。
その日の夕方。
七都商盟の大会議室で、総会が終わろうとしていた。
議長の出資の継続が承認され、期限が設けられた。会頭たちが、帰り支度を始めていた。
そこへ、一人の使いが駆け込んできた。
魔導院の、研究棟の若い研究員だった。
息を切らしながら、議長に一通の封筒を差し出した。
マルグリットは、封を切った。
中に、羊皮紙が一枚。
リゼットの、几帳面な字だった。
『本日十四時二十二分、フェンネル卿、素の力の合計三百に到達。第一の壁を突破。契約枠、五。増幅倍率、三。【技能貸与】、解放を確認。以上、取り急ぎ。研究棟リゼット・ハーシェル』
マルグリットは、羊皮紙を読み終えた。
一度。
それから、もう一度。
帳簿を、胸に抱いた。
深緑の目が、輝いていた。
彼女は、まだ席を立っていなかった会頭たちの方を向いた。
ベルナデットも、まだそこにいた。
「皆さま」
マルグリットは、穏やかに言った。
その声は、少しだけ、上ずっていた。
「では、契約の締結に入ります」