男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
七都商盟本部の最上階に、議長の私室があった。
広い部屋だった。
壁一面の書架に、帳簿がぎっしりと並んでいる。大きな窓の外には、夜の王都の灯りが広がっていた。
窓際に、机が一つ。
その机の上に、分厚い書類の束が置いてあった。
紐で綴じた羊皮紙。表紙に、マルグリットの几帳面な字で件名が書いてある。
『七都商盟とアルト・フェンネル卿との協力契約付属書:寝所に関する取り決め』
アルトは、扉の前に立ったまま、その表紙を見つめていた。
(寝所に関する、取り決め)
(契約書が、ある)
(寝所の)
付き添いのエルゼは、一階の応接室で待っていた。
「議長と、協力契約の締結を」と言ったら、姉は少し考えてから頷いた。それから、真顔で付け加えた。
「契約書は、ちゃんと読むのよ」
(読みます)
(たぶん、今夜は、一行残らず読まされます)
「お掛けください」
マルグリットが、机の向かいの椅子を示した。
彼女は、いつもの深緑の上衣を着ていた。
スーツでは、なかった。
(……少し、残念)
(いや、何を考えてるんだ)
アルトは椅子に座った。
マルグリットも、向かいに座った。
二人のあいだに、机と、分厚い契約書。
「本日は、協力契約の締結にお越しいただき、ありがとうございます」
マルグリットは、穏やかに言った。
商談用の、隙のない声だった。
「本契約は、本体と付属書の二部構成です。本体は、技能の貸与に関する条項。こちらは、当盟の法務担当と、魔導院の研究員の助言を得て作成しました」
「ハーシェル殿の」
「ええ。貸与の仕組みについては、あの方が一番正確ですので」
マルグリットは、本体の頁をめくった。
「技能の貸与は、七日で減衰が始まる。ですので、週に一度の更新が必要。貸与する技能は、算術と法学を基本とし、必要に応じて追加。……ここまでは、よろしいですか」
「はい」
「では、付属書に入ります」
マルグリットは、本体を脇に置いた。
付属書を、手元に引き寄せた。
その手が、ほんの少しだけ、止まった。
「第一条」
マルグリットが、読み上げ始めた。
「本付属書は、本契約に基づく技能の貸与の、発動条件の履行に関する取り決めを定める」
(発動条件の、履行)
(言い方)
「第二条。履行の日時は、双方の合意により定める。原則として、週に一度」
「……はい」
「第三条。履行の場所は、当盟の議長私室とする。ただし、双方の合意により変更できる」
マルグリットの声は、淡々としていた。
商談で条項を読み上げるときと、同じ調子だった。
「第四条。履行に要する時間は、二刻を上限とする」
(上限)
「第五条。履行の手順は」
マルグリットの声が、そこで一瞬止まった。
それから、続けた。
「……双方の合意により、事前に定める」
(事前に)
「第六条。履行の前に、双方は体調を確認し、不調がある場合は延期を申し出ることができる」
「第七条。履行の際の着衣については」
マルグリットの指が、羊皮紙の上で止まった。
一呼吸。
「……別紙に定める」
(別紙)
(別紙があるんだ)
(何が書いてあるんだ、別紙)
条項は、続いた。
第八条。第九条。第十条。
事後の扱い。体調の確認。次回の日時の調整。秘密の保持。商盟の内部での記録の扱い。他の契約者との日程の調整。
マルグリットは、一条ずつ、正確に読み上げていった。
ただ、少しずつ、声が変わっていた。
最初は、商談の声だった。
第八条のあたりで、ほんの少しだけ低くなった。第十条のあたりで、言葉と言葉のあいだに、短い間が入るようになった。
アルトは、気づいていた。
彼女の指先が、羊皮紙の上で、かすかに震えていることに。
「第十一条」
マルグリットが、顔を上げた。
「……この条項は、特に重要ですので」
彼女は、立ち上がった。
付属書を手に持ったまま、机を回り込んできた。
アルトの椅子の横に、立つ。
それから、身を屈めた。
彼女の唇が、アルトの耳元に寄った。
「第十一条」
囁き声だった。
「履行の最中において、いずれかの当事者が中断を求めた場合、他方はただちにこれに応じるものとする」
吐息が、耳の縁をくすぐった。
羊皮紙とインクの匂い。高価な香水の匂い。
その奥から、焼き菓子の匂いが、ふわりと立ち上ってきた。
(……っ)
「第十二条」
マルグリットは、身を屈めたまま、続けた。
耳元で。
「本付属書に定める事項は、双方の書面による合意によってのみ、変更することができる」
(っ、っ)
彼女の声が、少しずつ、掠れていった。
「第十三条」
アルトの肩に、彼女の指先が触れていた。
羊皮紙を持っていない方の手。インクの染みのついた、細い指。
「本付属書に定めのない事項については」
彼女の声が、止まった。
耳元で、浅い呼吸が聞こえていた。
焼き菓子の匂いが、濃くなっていた。香水の匂いを、押しのけるように。
体温が、上がっているのだった。
「……定めの、ない、事項については」
(耳元で)
(条項)
(耳元で、条項を、読まれてる)
(この人、条項を読むふりをして、ずっと、俺の耳に)
(あ、だめだ)
(条項って、こんなにいやらしいものだったっけ)
「……双方、誠実に、協議して、定める」
マルグリットは、最後の一語を、ほとんど息だけで言った。
それから、付属書を机の上に置いた。
置いた手が、震えていた。
「以上、です」
アルトは、椅子の上で、穏やかな顔をしていた。
「……ご説明、ありがとうございました」
マルグリットは、身を起こさなかった。
アルトの肩に手を置いたまま、耳元に顔を寄せたまま。
「……署名を、いただけますか」
「付属書の、ですか」
「本体と、付属書の、両方に」
アルトは、ペンを取った。
本体の末尾に、署名した。付属書の末尾に、署名した。
マルグリットが、それを見ていた。
すぐ横から。
署名が終わると、彼女は自分の署名を、その下に書き入れた。
いつもの、几帳面な字だった。
ただ、最後の一画が、ほんの少しだけ、揺れていた。
「では」
マルグリットは、ペンを置いた。
アルトを見た。
深緑の目が、燭台の灯りを映して、揺れていた。
「第二条に基づき、履行の日時を、定めます」
「……はい」
「本日、ただいまより」
アルトは、少しだけ間を置いた。
「……双方の合意により」
「双方の合意により」
マルグリットは、燭台の灯りに手を伸ばした。
翌朝。
議長の私室の窓から、朝の光が差し込んでいた。
アルトは、寝台の上で、天井を見ていた。
体が、重かった。
ただ、以前ほどではなかった。壁を越えて、体の奥の何かが変わった気がしていた。倍率が上がったぶん、同じ量を貸しても、相手に届く力が大きい。その代わり、貸すものが増えた。
(技能貸与……)
(算術と、法学を、貸した)
(……どういう感覚なんだろう、貸された方は)
窓際の机に、マルグリットが座っていた。
ペンを、握っていた。
付属書を、開いていた。
その手が、震えていた。
アルトは、首だけを動かして、彼女を見た。
赤褐色の髪が、ほどけていた。いつもきっちりとまとめている髪が、肩の上に落ちて、乱れていた。
深緑の上衣は、羽織っているだけだった。
彼女は、付属書の最後の頁に、何かを書き足していた。
ペンが、何度も止まった。止まって、また動いて、また止まった。
「……マルグリット殿」
アルトが声をかけると、彼女の肩がびくりと跳ねた。
振り返った。
顔が、真っ赤だった。
耳も、首筋も、頬も。
「お、おはようございます」
声が、上ずっていた。
商談の声では、なかった。
「……何を、書いておられるのですか」
マルグリットは、付属書を胸に抱いた。
それから、深呼吸を一つした。
もう一つ。
「昨夜」
彼女は、言った。
「付属書に、定めのない事態が」
「……はい」
「定めのない事態が、たいへん、多く、発生いたしました」
アルトは、黙っていた。
「第五条の、事前に定めた手順は」
彼女は、付属書の頁を見下ろした。
「……三行目で、守られなくなりました」
「三行目」
「第四条の、二刻の上限は」
「……」
「……守られませんでした」
マルグリットの耳が、さらに赤くなった。
「第十一条の、中断を求める権利は、行使されませんでした。どちらからも」
「……どちらからも」
「ですので」
彼女は、付属書を机の上に置き直した。
ペンを、握り直した。
震える手で、最後の頁に向かった。
「条項第十四条」
マルグリットは、言った。
帳簿の上で、商談を決めるときの声ではなかった。
もっと、ずっと、切羽詰まった声だった。
「……追加、させてください」
顔を上げる。
深緑の目が、潤んでいた。
「今すぐに」
その週のうちに、七都商盟は動き始めた。
マルグリットは、算術と法学の技能を借りていた。
借りた技能は、彼女の頭の中で、彼女自身の知恵と混ざり合った。
手形の書式。署名の照合の手順。七つの都市の支店で、紙を金貨に換えるときの割引の率。
相互保険の積立の割合。海難の損失の査定の方法。積立金の運用。
度量衡の換算表。貨幣の純度の基準。
それらを支える、商法の条文。
彼女は、それを一晩で、帳簿に書き起こした。
翌朝、会頭たちを集めた。
ベルナデットも、その中にいた。
「港湾都市から、始めます」
マルグリットは、相互保険の草案を、ベルナデットの前に置いた。
ベルナデットは、それを読んだ。
一頁。二頁。三頁。
それから、顔を上げた。
「……これを、一晩で」
「ええ」
ベルナデットは、草案を見下ろした。
しばらく、黙っていた。
それから、腕を組んだ。
「港湾都市の商会の会合を、今週末に開くわ」
縁談審議会の事務室。
ペトラ・ノイマンの机の端に、書類の山があった。
一段目。二段目。
その上に、新しい束が置かれた。
「七都商盟から、正式な契約報告です」
若い事務官が言った。
「フェンネル家の案件。四つ目の契約が成立したとのことです。添付で、契約書の写しが」
ペトラは、束の一番上の頁をめくった。
『七都商盟とアルト・フェンネル卿との協力契約』
付属書は、ついていなかった。
「……四つ目」
「はい。神殿、騎士団、魔導院、それから七都商盟」
「縁談の申込みは」
「今週だけで、六十通。壁を越えたという話が、もう広まっているようで」
ペトラは、束を山の上に乗せた。
書類の山が、三段目の高さに届いた。
彼女は、眼鏡を押し上げた。
「前例は」
「……ございません」
「でしょうね」
冒険者ギルド王都本部。
一階の酒場の、依頼の掲示板に、新しい一枚が貼り出された。
ギルド長のハンナ・クロイツが、自ら貼ったものだった。
赤い縁取りの羊皮紙。指名依頼の印だった。
『辺境の町ネーベルフルトにて、女性の失踪が相次ぐ。すでに十一名。いずれも、夜のうちに森へ。原因の調査と、討伐を求む。指名:ロッサ・グレイヴ』
酒場の奥の卓で、赤毛の女が、骨付き肉を齧っていた。
依頼書が貼られる音に、顔を上げた。
金茶色の目が、羊皮紙の文字を読んだ。
ロッサは、骨を皿に置いた。
指についた脂を、ぺろりと舐めた。
それから、にかっと笑った。
「……辺境、か」