男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
街道は、まっすぐ北へ伸びていた。
王都を出て二日目。両側には、刈り取りの近い麦畑が、どこまでも続いていた。晩夏の陽射しが、金色の穂を照らしている。
その街道を、一行が進んでいた。
先頭に、騎馬のクラウディア。その後ろに、幌馬車。御者台に、騎士団の若い騎士。幌の中に、セラフィナとリゼット。
それから、馬車の横を、一人の女が歩いていた。
赤毛の短髪。日焼けした肌。背中に、身の丈ほどの大剣。
そして、その肩の上に、男が一人、荷物のように担がれていた。
(……二日目も、これか)
アルトは、ロッサの右肩の上で、逆さまに流れていく麦畑を見ていた。
最初は、ちゃんと歩いていた。
王都を出て、最初の半日は。
馬車に乗っていればいい、とクラウディアは言った。けれど、馬車の荷台は、野営の道具と聖具と計測器と第七号の木箱で、ほとんど埋まっていた。幌の中には、セラフィナとリゼットが向かい合って座っていて、その間に男が一人挟まる隙間は、物理的には、あった。
物理的には。
「……歩きます」
アルトは、そう言った。
幌の中の空気が、二日前の居間の空気と、同じ匂いがしたからだった。
それで、半日歩いた。
半日で、足が上がらなくなった。
騎士団の訓練で、走り込みは三周を超えていた。ただ、それは訓練場の平らな砂の上の話だった。街道の固い石畳と、轍の凹凸と、晩夏の陽射しの中を、休みなく半日歩き続けるのとは、話が違った。
それに、体の中身の六割は、五人に貸し出していた。
壁を越えて、貸せる量が増えた。その分、手元に残る量は、減った。
「……少し、休憩を」
アルトが言いかけたとき、横を歩いていたロッサが、ひょいと腰を屈めた。
次の瞬間、アルトはまた、肩の上にいた。
「遅い」
ロッサは、それだけ言って歩き続けた。
アルトの体重など、大剣と変わらないとでも言うように。
以来、二日間。
アルトは、ほとんどの時間を、ロッサの肩の上で過ごしていた。
最初は、恥ずかしかった。
すれ違う農夫や行商人が、目を丸くしていた。街道沿いの村の子どもたちが、指をさして笑っていた。
男が、女の肩に担がれている。
それ自体は、この世界では珍しい光景ではなかった。男は弱い。女は強い。疲れた男を女が担いで運ぶのは、むしろ当たり前の、守られる男の姿だった。
ただ、担がれている男の顔が、問題だった。
(……っ)
ロッサの肩は、硬かった。
鍛え抜いた筋肉の上に、薄い革の上衣が一枚だけ。その下から、体温が直接伝わってきた。
熱かった。
晩夏の陽射しの中を、男一人を担いで歩き続けている体の熱。
汗の匂いがした。
それから、土と、焚き火の燃えさしと、獣脂の匂い。冒険者の匂いだった。何日も野営をして、森を歩いて、魔物を狩ってきた人の。
その奥に、日焼けした肌と、乾いた草の匂い。
(……全部、同じだ)
(表も、奥も)
セラフィナは、乳香の奥に陽だまりのミルクがあった。クラウディアは、革と鉄の奥に花があった。リゼットは、紙とインクの奥に日向の猫があった。マルグリットは、香水の奥に焼き菓子があった。
ロッサだけが、表と奥が、ほとんど同じ匂いだった。
土と、草と、汗と、陽。
(裏表、ないんだな、この人)
ロッサは、歩きながらよく笑った。
何がおかしいのか分からないことでも、腹の底から、豪快に。
笑うたびに、その振動が、肩越しにアルトの体に響いた。
背中から、胸へ。胸から、腹の底へ。
(……っ、っ)
「なあ」
ロッサが、歩きながら言った。
「お前、軽いな」
「……恐縮です」
「もっと食えよ。その方が揺れなくて担ぐ方が楽になる」
「担がない、という選択肢は」
「ない」
ロッサは、また笑った。
振動が、腹の底に響いた。
(担がれてるとき、実は、一番……)
(いや、何を考えてるんだ)
(考えてない、考えてない)
アルトは、逆さまの麦畑を見つめて、素数を数え始めた。
二日目の夕方、一行は街道沿いの開けた草地に、野営を張った。
三日目の夜、四日目の夜も、同じように。
野営の手順は、二日目にはもう、自然に決まっていた。
クラウディアが、警戒の指揮を執った。
草地の四隅に見張りの位置を定め、若い騎士と交代で番をする段取りを組む。焚き火の位置。馬の繋ぎ場。天幕の向き。
全部、一分の迷いもなく、てきぱきと。
リゼットが、地図を広げた。
焚き火の明かりの下で、今日進んだ距離を書き込む。街道沿いの村で聞いた話を、記録板に書き留める。ネーベルフルトの霧の季節。森の名前。失踪した女たちの、年齢と、職業と、消えた夜の月の形。
セラフィナが、簡易の祭壇を作った。
平らな石を三つ積んで、その上に小さな聖具を置く。祈りを捧げて、野営地の周りに、淡い金色の結界を張る。
毎晩、アルトの天幕の周りだけ、結界が二重になっていた。
誰も、役割を決めていなかった。
三人が、自然に、それぞれの持ち場に散っていた。
アルトは、焚き火の前に座って、それを見ていた。
(……チームだ)
救護室で、二人は目を合わせなかった。小鑑定室で、三人は牽制し合っていた。
それが、野営地では、言葉もなく動いていた。
それぞれが、自分にできることを、黙ってやっていた。
ロッサだけが、何もしていなかった。
焚き火の前に、あぐらをかいて座っていた。
骨付き肉を、炙っていた。
三日目の夜。
夕食が終わって、焚き火の周りに全員が座っていた。
クラウディア。セラフィナ。リゼット。ロッサ。それから、アルト。
若い騎士は、草地の端で見張りに立っていた。
焚き火が、ぱちぱちと爆ぜていた。
その夜は、セラフィナの番だった。
日程表の、三日目の夜。「リース」。
セラフィナは、焚き火の向こうで、膝の上で縛られた手を組んでいた。五本の鎖が、炎を受けて、金色に光っていた。
ときどき、アルトの方を見た。
目が合うと、少しだけ頬を染めて、視線を落とした。
クラウディアは、直立に近い姿勢で座っていた。焚き火の向こうの闇に、警戒の目を向けている。
リゼットは、記録板に何かを書いていた。今日の進行距離の、最後の書き込み。
静かな夜だった。
虫の声。焚き火の音。遠くで、馬が鼻を鳴らす音。
ロッサが、骨付き肉の最後の一口を齧った。
骨を、焚き火の中に放り込んだ。
指についた脂を、ぺろりと舐めた。
それから、アルトの方を見た。
「なあ」
金茶色の目が、焚き火の炎を映していた。
にやにやと、笑っていた。
「お前、本当はヤりたいんだろ」
焚き火が、ぱちんと大きく爆ぜた。
セラフィナの鎖が、鳴らなかった。
クラウディアの視線が、闇から、焚き火の前に戻った。
リゼットのペンが、記録板の上で止まった。
三人が、一斉に、ロッサを見た。
それから、三人が、一斉に、アルトを見た。
(……っ)
ロッサは、気にした様子もなかった。
あぐらをかいたまま、膝に肘をついて、アルトを見ていた。
「ギルドで初めて会ったときから、ずっとそう思ってた。顔に書いてあるって言ったろ」
「……ロッサ殿」
「で、この三日、担いで歩いてて、確信した」
ロッサは、自分の肩を、ぽんと叩いた。
「お前、担がれてるとき、ずっと心臓がうるさかった。あたしの肩に、どくどく響いてた」
(バレてた)
(肩越しに、心拍、バレてた)
「笑うと、もっとうるさくなった」
(そこまで)
「あたしが汗かくと、また、うるさくなった」
(そこまで、バレてた)
アルトは、焚き火の前で、背筋を伸ばしていた。
穏やかな顔をしていた。
(否定しないと)
(ここで否定しないと、全部、終わる)
(でも、この人の前で、否定しても)
(2……3……5……)
(この三日、担がれてる間ずっと数えてたから、もう、素数が残ってない)
(7……11……むり、むり)
「……ロッサ殿の、肩の上は、揺れますので」
アルトの声は、穏やかだった。
「心拍が、上がるのは、当然かと」
ロッサは、しばらくアルトを見ていた。
それから、にかっと笑った。
「そうか」
「ええ」
「そういうことに、しといてやるよ」
焚き火の周りが、静かになった。
誰も、何も言わなかった。
ただ、三人の視線が、焚き火を挟んで、交差していた。
セラフィナが、クラウディアを見た。クラウディアが、リゼットを見た。リゼットが、セラフィナを見た。
三人とも、同じことを考えている顔をしていた。
どうする。
三人とも、アルトのことは知っていた。
セラフィナは、儀式の日から。クラウディアは、花の香油の夕暮れから。リゼットは、心拍計の山脈から。
けれど、三人とも、それを口に出したことはなかった。
アルトの建前を、三人は、それぞれのやり方で、守ってきた。
ロッサは、それを、焚き火の前で、何の前置きもなく、言ってのけた。
「……ロッサ殿」
クラウディアが、低い声で言った。
「軽々しく、そのようなことを」
「軽くないぞ。本気で言ってる」
「なおさら、です」
「なんでだ?」
ロッサは、首を傾げた。
本気で、分からないという顔だった。
「本当のことだろ。お前らだって、知ってるだろ」
三人が、黙った。
否定は、しなかった。
ロッサは、焚き火の向こうの三人を、順番に見た。
神官。副長。研究員。
それから、もう一度、アルトを見た。
金茶色の目が、さっきまでとは少しだけ違う光を帯びていた。
「なあ」
ロッサは、言った。
「あたし、契約の枠、空いてるって聞いたんだけど」