男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
翌朝、野営地の真ん中の、折り畳みの卓の上に、日程表が広げてあった。
リゼットが作った、遠征中の供給の日程表。
横に日付。縦に、朝、昼、夜。二十一日分の升目に、細い字で名前が書き込まれている。
三日目、夜、「リース」。五日目、夜、「ヴァイス」。七日目、夜、「ハーシェル」。
それから、四日目、夜。
昨日までは、空欄だった升目に、字が書いてあった。
太い字だった。
炭で書いたらしい。升目からはみ出して、隣の升目まで侵食している。字の形も、ひどかった。ところどころ、字の向きが逆になっている。
それでも、読めた。
『ロッサ』
「……これは」
リゼットが、日程表を見下ろして、眼鏡を押し上げた。
朝の光の中で、他の三人も、卓の周りに集まっていた。
セラフィナ。クラウディア。それから、焚き火の燃えさしで指を黒くしたロッサ。
「あたしが書いた」
ロッサが、胸を張った。
「空いてたから」
「空いていたのは、休息日だからです」
リゼットが、淡々と言った。
「四日目の夜は、フェンネル殿の回復のための空欄で」
「じゃあ、回復のついでに」
「ついでに、とは」
「難しいことはいい」
ロッサは、卓に両手をついた。
それから、少し離れたところで、天幕の支柱にもたれていたアルトを見た。
「なあ」
ロッサは、まっすぐにアルトを見ていた。
「あたし、強くなりたいんだ」
朝の野営地に、その声がよく通った。
「王都で一番強いって言われてる。でも、一番強い魔物には、まだ届かない。もっと強い魔物を、狩りたい」
「……はい」
「お前の力を借りれば、もっと強くなれるんだろ。副長の剣筋、昨日の朝、見たぞ。別人みたいだった」
クラウディアが、わずかに眉を動かした。
「だから」
ロッサは、卓から手を離した。
アルトの方へ、まっすぐに歩いてきた。
一歩。二歩。
アルトの目の前で、止まった。
見下ろしていた。頭一つ分、高いところから。
土と、焚き火と、汗の匂い。
「難しいことはいい」
ロッサは、言った。
「抱かせろ。強くなるから」
野営地が、静まり返った。
見張りに立っていた若い騎士が、草地の端で、槍を取り落とした。
セラフィナの鎖が、鳴らなかった。
クラウディアが、腰の剣の柄に手をかけかけて、やめた。
リゼットのペンが、記録板の上で止まった。
アルトは、天幕の支柱にもたれたまま、ロッサを見上げていた。
いつもの台詞を、探した。
建前を。
「国のためなら」とか。「この身を捧げます」とか。十八年間、何百回と使ってきた、この国の男らしい言葉を。
震え声で、目を伏せて。嫌々ながら、という顔で。
アルトは、口を開いた。
閉じた。
ロッサの目を、見ていた。
金茶色の目が、まっすぐにこちらを見ていた。
からかっている目ではなかった。試している目でもなかった。
ギルドで初めて会ったときと、同じ目だった。
見たままを言う目。思ったままを言う目。
(……この人の前で)
アルトは、思った。
(建前、意味ないな)
この人には、裏がない。計算もない。駆け引きもない。
欲しいものを、欲しいと言う。強くなりたいから、抱かせろと言う。
その人の前で、嫌々のふりをしたところで。
全部、顔に書いてある、と言われるだけだった。
(……初めてだ)
(建前を、演じなくていい人)
アルトは、支柱から背を離した。
まっすぐに、立った。
ロッサの目を、見上げた。
それから、何も言わずに、頷いた。
ロッサが、にかっと笑った。
「よし」
それだけだった。
彼女は、くるりと振り返って、卓の方へ戻っていった。
日程表の、四日目の夜の升目を、炭のついた指でとんとんと叩いた。
「決まりな」
三人が、それを見ていた。
セラフィナは、しばらく黙っていた。
それから、胸の前の鎖を、一本、ぎゅっと締め直した。
いつもより、少しだけきつく。
何も言わなかった。ただ、空色の目で、アルトを一度だけ見た。
困ったような、少しだけ寂しいような目だった。
クラウディアは、真顔だった。
卓の上の、野営地の配置図を引き寄せた。天幕の位置と、見張りの位置を、ペンで書き直し始めた。
「……今夜は、見張りの位置を変更します」
彼女は、淡々と言った。
「フェンネル殿の天幕から、離れた位置に」
若い騎士が、草地の端で、槍を拾い上げながら顔を赤くした。
リゼットは、記録板にペンを走らせていた。
一行ずつ。正確に。秒まで。
「八時十二分。冒険者ロッサ・グレイヴ、契約を申し出る。申し出の文言」
ペンが、一瞬止まった。
それから、続けた。
「……『抱かせろ。強くなるから』。対象、無言で同意」
彼女は、記録板から顔を上げた。
眼鏡越しに、アルトを見た。
「……対象が、建前を述べずに同意したのは、記録上、初めてです」
それから、少しだけ間を置いて、付け加えた。
「なお、七都商盟の議長殿は、五枠目について、帰還後に改めてご提案を、と仰っていました」
「知らん」
ロッサは、日程表の升目を指で叩いたまま言った。
「早い者勝ちだろ」
その夜。
四日目の夜。
野営地の、アルトの小天幕。
クラウディアは、見張りの位置を、天幕から一番遠い草地の端に移していた。セラフィナは、いつも通り、天幕の周りに結界を張っていた。二重ではなく、一重だった。リゼットは、天幕の中に、計測器を置かなかった。
天幕の入口の布が、めくれた。
ロッサが、入ってきた。
大剣は、背負っていなかった。
革の上衣を、脱いでいた。袖のない薄い肌着だけ。日焼けした腕。傷痕が、あちこちに白く走っている。
天幕の中に、土と焚き火と汗の匂いが満ちた。
ロッサは、アルトの前にどかりと座った。
あぐらをかいて。
「なあ」
「……はい」
「お前、最初、なんか言おうとしてたろ。朝」
アルトは、少し考えた。
「……国のためなら、とか。この身を捧げます、とか」
ロッサが、吹き出した。
腹を抱えて、豪快に笑った。
「なんだそれ」
「この国の男は、そう言うものなので」
「お前、全然そういう顔してないぞ」
「……そうですね」
アルトも、少しだけ笑った。
建前を、言わなかった。
ロッサの前では、言う必要がなかった。
(……楽だ)
(この人の前だと、楽だ)
十八年間、ずっと演じてきた。
家族の前でも。友人の前でも。神官の前でも。騎士の前でも。研究員の前でも。商人の前でも。
貞淑な男を。嫌々ながらの男を。
それが、この人の前では、要らなかった。
「ロッサ殿」
「ん」
「……ありがとう」
ロッサは、笑うのをやめた。
金茶色の目が、アルトを見ていた。
それから、にかっと笑った。
「礼を言うのは、あたしの方だろ。強くなるのは、あたしなんだから」
ロッサが、手を伸ばした。
大きな手だった。剣だこのある、硬い手。
その手が、アルトの頬に触れた。
荒っぽいくせに、驚くほど、そっと。
翌朝。
ロッサは、天幕の外で、伸びをしていた。
両腕を、空に向かって、思いきり。背中が、ぱきぱきと鳴った。
朝日を浴びて、日焼けした肌が光っていた。
「あー」
彼女は、空を見上げて、大きく息を吐いた。
それから、天幕の方を振り返った。
入口の布の隙間から、アルトが顔を出していた。
寝台代わりの毛布の上で、半分だけ体を起こして。起き上がれずにいた。
ロッサは、その顔を見て、にかっと笑った。
「強い男って、いいな!」
晴れやかな声だった。
野営地中に、響き渡った。
悩みも、後悔も、照れも、何一つない声だった。
見張りの若い騎士が、草地の端で、また槍を取り落とした。
クラウディアが、焚き火の前で、無言で朝食の粥をかき混ぜていた。少しだけ、かき混ぜる速さが上がった。
セラフィナが、祭壇の前で、朝の祈りを捧げていた。祈りの言葉が、一行だけ飛んだ。
リゼットが、記録板にペンを走らせていた。
「六時四分。ロッサ・グレイヴ、天幕より退出。第一声、『強い男って、いいな』」
ペンが、止まった。
「……『強い男』の定義について、追加の聞き取りを要す」
アルトは、天幕の中で、毛布の上に仰向けになっていた。
天幕の布越しに、朝の光が透けていた。
ロッサの声が、まだ耳の奥に残っていた。
強い男って、いいな。
(強い男)
この国で、男が「強い」と言われることは、まずない。
男は弱い。女は強い。それが、この世界の常識だった。
王都で一番強い女が。大剣で魔物を叩き斬る、S級の冒険者が。
自分のことを、強い男と。
(……そうか)
アルトは、天井の布を見つめていた。
セラフィナ。クラウディア。リゼット。マルグリット。ロッサ。
五人。
神官も、騎士も、研究員も、商人も、冒険者も。
寝所では、誰一人として、自分に勝てなかった。
前世の感覚と、第七号と、十八年分の我慢。それが、この世界の女たちに対して、どれだけのものだったのか。
ようやく、分かった気がした。
(この世界で)
アルトは、静かに思った。
(俺に勝てる女は、いない)
それは、慢心だった。
本人は、まだ、それに気づいていなかった。
水晶板の携帯版が、天幕の隅で淡く光っていた。
リゼットが、昨夜のうちに、そっと置いていったものだった。
計測器は置かなかった。ただ、鑑定の板だけは、置いていった。
【ステータス貸与】
契約成立:ロッサ・グレイヴ
契約5/5
五つの枠が、全部、埋まっていた。
アルトは、その表示を見て、それから自分の手のひらを見た。
握ってみる。
力が、ほとんど入らなかった。
貸せる量の上限まで、五人に貸し出していた。手元に残っているのは、素の力の、四割だけ。
その四割から、さらに疲労を引いた分しか、今の体にはなかった。
(……体、空っぽに近いな)
その日の昼。
一行は、街道を外れて、森の縁の道を進んでいた。
ネーベルフルトまで、あと一日。
道の真ん中に、大木が倒れていた。
何十年も前に倒れたらしい、苔むした巨木。幹の太さは、大人が三人で手を回しても届かないほどだった。
馬車が、通れなかった。
「迂回しましょう」
クラウディアが、地図を確かめた。
「半日の遠回りになりますが」
「いや」
ロッサが、背中の大剣に手をかけた。
「斬る」
「斬る、とは」
「斬るんだよ」
ロッサは、大剣を抜いた。
身の丈ほどの刃が、昼の陽射しを受けて光った。
彼女は、倒木の前に立った。
両手で柄を握る。
腰を落とす。
それから、ほんの一瞬だけ、首を傾げた。
自分の腕を見下ろしていた。握った手のひらを、確かめるように。
「……軽い」
彼女は、小さく呟いた。
「大剣が、軽い」
次の瞬間、大剣が振り下ろされた。
音が、遅れて届いた。
倒木が、真っ二つに割れていた。
切り口は、鏡のように滑らかだった。
一撃だった。
野営道具を積んだ馬車の御者台で、若い騎士が口を開けて固まっていた。
クラウディアが、無言で切り口を見つめていた。
セラフィナとリゼットが、幌の中から顔を出していた。
ロッサは、大剣を肩に担いで、振り返った。
晴れやかな顔だった。
「な?」
彼女は、馬車の荷台の上に座っているアルトを見た。
荷物のように、毛布にくるまれて。体に力が入らないので、もう歩くことも、担がれることも諦めて、荷台に積まれていた。
「強くなったろ」
アルトは、荷台の上で、穏やかに頷いた。
(強くなりすぎでは)