男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
「スキルが、疼く気がしまして」
王都大神殿の受付で、アルトは神妙な顔でそう言った。
受付の若い神官が、帳面から顔を上げた。
「……疼く、ですか」
「はい。胸の奥のあたりが、こう」
アルトは胸に手を当てて、少しだけ眉を寄せた。
「前例のないスキルだと伺いました。何かあってからでは遅いかと思いまして」
「それは……ご心配ですね」
受付の神官は慌てて帳面をめくった。
「定期鑑定は週に一度と伺っておりますが、臨時の鑑定も申請できます。担当は」
「セラフィナ・リース殿で」
「かしこまりました。本日の午後でしたら」
「お願いいたします」
アルトは深々と頭を下げた。
後ろで、付き添いの次姉ヘルガが首を傾げていた。
「アルト、あんた今朝、朝ごはん三杯食べてたよね」
「食欲と、スキルは別ですので」
「ふうん」
ヘルガはそれ以上聞かなかった。 アルトの肩越しに受付の帳面を覗き込んで、「臨時」の二文字を指でなぞっていた。
最初の定期鑑定から、四日目のことだった。
七日は長すぎた。 アルトは三日で限界を迎え、四日目の朝には受付に立っていた。
「……フェンネル様」
小鑑定室の扉を開けると、セラフィナが目を丸くしていた。
今日も鎖は三本だった。
「臨時の申請と伺いましたが、どこか」
「胸の奥が、少し」
「胸の、奥」
彼女はアルトの胸元を見た。 それから顔を見た。
何かを確かめるように、じっと。
「……それは、心配ですね」
彼女はそう言って、水晶板を示した。
声の調子は、受付の神官と同じだった。 ただ、空色の目だけが少し違った。
(バレてる気がする)
鑑定の結果は、もちろん異常なしだった。
翌週には、それが週二回になった。
月曜の定期鑑定。木曜の臨時鑑定。 臨時の申請理由は、毎回少しずつ変えた。
「胸の奥が疼く」 「指先が熱い」 「夢見が悪い」 「なんとなく、スキルが落ち着かない」
受付の神官は毎回心配そうに帳面に書き込み、セラフィナは毎回「それは、心配ですね」と言い、水晶板は毎回「変化なし」と表示した。
「アルト」
ある晩の夕食の席で、母が箸を止めた。
「神殿の方から、伺ったのだけれど」
「はい」
「あなた、週に二回も鑑定を受けているそうね」
食卓が静かになった。
父は小瓶を手にしたまま止まり、エルゼはスープの匙を宙に浮かせ、ヘルガだけがパンを齧り続けていた。
「……スキルが、少し不安定でして」
「まあ」
母の顔が曇った。
「辛いのね。そんなスキルを授かって、体も心も、きっと」
「いえ、母上、そこまでは」
「無理しなくていいのよ。神殿に通うのが怖ければ、母様が付き添いますからね」
「怖くはありません」
「強がって」
母はアルトの手を両手で包んだ。 その目は、本気で潤んでいた。
(すみません、母上)
(怖くないどころか、行きたくて仕方ないんです)
「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」
アルトは穏やかに微笑んだ。
ヘルガがパンを齧りながら、小声で言った。
「付き添い、あたしでいいよ。毎回」
「ヘルガ、あなたまで」
「だって神殿の帰りに、広場で揚げ菓子が買えるんだもん」
(ありがとう、ヘルガ姉上。揚げ菓子に感謝)
三週目に入る頃には、週三回になっていた。
王都大神殿の中で、ちょっとした噂が立ち始めていた。
「またいらしてるわ、フェンネル家のご子息」
「今週三回目よ」
「鎖の神官の部屋に、自分から」
廊下ですれ違う神官たちが、ひそひそと囁き交わす。 アルトが通り過ぎると、背中に視線が集まるのが分かった。
「女性を、恐れないのかしら」
「まさか。そんな殿方がいるはず」
「でも、顔色ひとつ変えずに通っていらっしゃるのよ」
アルトは穏やかな顔のまま、廊下を歩いた。
(噂になってる)
(でも、やめられない)
その噂は、神官長の耳にも届いた。
神殿の回廊で、アルトは白髪の老神官に呼び止められた。
「フェンネル殿、ですね」
背筋の伸びた、厳格そうな老女だった。 法衣の胸元に、神官長の徽章が光っている。
「神官長のオルテンシアです。お話は伺っております」
「……恐縮です」
アルトは身構えた。
(何の話を、伺ってるんだ)
神官長はアルトの顔をじっと見つめた。 皺の深い目元が、ふっと和らいだ。
「近頃の若い殿方は、神殿を恐れて寄りつきません」
「は」
「鎖の神官を前にして、震えるばかりの方が多い。それが悪いとは申しませんが」
神官長は、アルトの手を取った。
「あなたは違う。過酷な天賦を授かりながら、自ら神のもとへ足を運び、その御心を確かめようとしておられる」
「…………」
「なんと、信仰篤き若者でしょう」
神官長の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
(違います)
(全然違います)
「……神の御心に、従うまでです」
「ええ、ええ」
神官長は何度も頷いた。
「セラフィナにも申し伝えておきましょう。あの子は真面目な子です。あなたの信仰に、しっかりと寄り添うようにと」
神官長が去っていく。 その背中を見送りながら、アルトは胸の奥で、本当に何かが疼くのを感じていた。
たぶん、良心だった。
王都の官庁街。
縁談審議会の事務室は、石造りの建物の三階にあった。 窓の小さな、薄暗い部屋だった。
「……ノイマン担当官。フェンネル家の案件、本日分です」
若い事務官が、書類の束を机に置いた。
ペトラ・ノイマンは、眼鏡の奥の目を細めた。
三十八歳。審議会の担当官になって八年。 事なかれ主義と、人一倍の出世欲。その二つだけで、ここまでやってきた。
「本日分、って」
「縁談の申込みです」
「昨日も来たでしょう」
「はい。昨日分と、一昨日分と、その前の分が、そちらに」
事務官が指さした先に、すでに書類の束がいくつか積んであった。
ペトラは新しい束を手に取って、ぱらぱらとめくった。
伯爵家の三女。子爵家の長女。豪商の娘。騎士爵家の次女。 地方の男爵家からの、長い長い自己紹介文。
「……何通あるの、これ」
「本日分で、合計百十二通になります」
「百十二」
天賦の儀から、まだ三週間も経っていなかった。
「それと、こちらが」
事務官がもう一つの束を置いた。 さっきのものより、少し薄い。
「フェンネル準男爵夫人からの、差し戻し分です」
ペトラはその束の一番上の書類を手に取った。 申込書の余白に、丁寧な筆跡で書き込みがあった。
『肖像画の目つきが、少し鋭すぎるように存じます』
二枚目。
『ご趣味に乗馬とございますが、アルトは馬に乗せられると酔います』
三枚目。
『お声が大きいと伺いました。あの子は大きな声が苦手です』
ペトラは三枚目で書類を戻した。
「……審議会の決まりで、ご家族のご意向は尊重しなければならない」
「はい」
「つまり、これは全部、再審査」
「はい」
ペトラは書類の束を二つ、重ねた。
それから机の端に、そっと寄せた。
「急ぐ案件じゃないわね。稀少度が測定不能なら、前例を調べないと結論は出せないし」
「前例は、ないと伺っておりますが」
「だから時間がかかるのよ」
事務官が何か言いたげな顔をした。 ペトラは眼鏡を押し上げて、次の書類に目を落とした。
机の端で、フェンネル家の書類が、ちょうど一段分の高さになっていた。
その週の木曜日。
臨時鑑定の日、小鑑定室には珍しく先客がいた。
壁際の椅子に、記録係の年配の神官が座っていた。 奥の間で、ペンを落としたあの人だった。
「本日は、記録の照合がございまして」
セラフィナが申し訳なさそうに言った。
「私が読み上げる数値を、こちらの方が別の帳面に控えます。少しの間、ご辛抱ください」
「構いません」
アルトは水晶板に手を置いた。
セラフィナが、いつものように机を回り込んでくる。 鎖の長さいっぱいに、アルトの横へ。
「では、鑑定を始めます」
水晶板が光る。
セラフィナが身を屈めた。 数値を読み上げる、と思った。
彼女は、声を出さなかった。
代わりに、アルトの耳元に唇を寄せた。
「……筋力、十四」
囁き声だった。
記録係に聞こえないくらいの。 アルトにだけ、聞こえるくらいの。
(え)
「……体力、十六」
吐息が、耳の縁をくすぐった。
(え、え)
「……敏捷、十五」
記録係が顔を上げた。
「セラフィナ殿。聞こえませんが」
「あっ」
セラフィナが、跳ねるように体を起こした。
「し、失礼いたしました。喉の調子が、少し」
「数値は大きな声で。照合ができません」
「はい。……筋力、十四! 体力、十六!」
いつもより、ずっと大きな声だった。 狭い小鑑定室に響き渡るほどの。
記録係は満足げにペンを走らせた。
アルトは水晶板に手を置いたまま、動けなかった。
耳が、熱かった。 さっき囁かれた右の耳だけが、火がついたように熱かった。
(今の)
(今の、なに)
(喉の調子とかじゃなかった)
(耳元で、数値を、囁かれた)
(筋力十四って、こんなにいやらしい数字だったっけ?)
「……精神、八十五! 以上、変化ございません!」
セラフィナの声が、上ずっていた。 金色の髪の隙間から覗く耳が、真っ赤だった。
「ありがとうございました」
アルトは穏やかに頭を下げた。
記録係が帳面を閉じて立ち上がる。
「照合、完了いたしました。では、私はこれで」
扉が閉まった。
二人だけになった小鑑定室で、しばらく誰も口を開かなかった。
セラフィナは机の向こうで、記録簿に数値を書き写していた。 一画ずつ、丁寧に。いつもと同じように。
ただ、ペンを持つ手が少しだけ震えていた。
「……喉は、もう大丈夫ですか」
アルトが聞いた。
セラフィナのペンが止まった。
「……はい」
彼女は顔を上げなかった。
「もう、大丈夫です」
その夜。
王都大神殿の奥、神官たちの居住区。
セラフィナは自室の小さな机に向かっていた。
蝋燭が一本。 その灯りの下に、古い経典が開かれている。
神官の誓いを記した書だった。 見習いの頃から、何百回と読み返してきたものだ。
鎖は外してあった。 寝る前だけは、神官も鎖を解くことを許されている。
なのに今夜は、なぜか手首が寂しかった。
彼女は経典の頁をめくった。
清貧の誓い。 従順の誓い。 そして、貞潔の誓い。
指先で、一行ずつなぞっていく。
『神官は、神の前に己を律し』
『欲を鎖に預け』
『その身を清く保つこと』
指が、次の行に進んだ。
『神官の側から、男に触れてはならない』
指が、止まった。
セラフィナは、その一行を見つめていた。
蝋燭の炎が揺れて、文字の影が揺れた。
神官の側から。
神官の、側から。
彼女はもう一度、その行を最初から読んだ。 それからもう一度。
何百回と読んできた一行だった。 意味を考えたことなど、一度もなかった。
今夜初めて、彼女はそれを文字として見ていた。
神官の側から触れてはならない。 そう書いてある。
それ以外のことは、何も書いていない。
セラフィナは、ぱたんと経典を閉じた。
両手で頬を押さえた。 熱かった。
蝋燭の炎が、また揺れた。
彼女は経典を閉じたまま、しばらく動かなかった。 それから、そっともう一度開いた。
同じ頁を。
三週目の、定期鑑定の日。
朝から、空が暗かった。
神殿に着く頃には、ぽつぽつと雨粒が落ち始めていた。 鑑定を終えて小鑑定室を出る頃には、窓の外が白く煙るほどの大雨になっていた。
「……これは」
神殿の大扉の前で、付き添いのエルゼが空を見上げた。
石畳の上を、雨水が川のように流れている。 門の外に待たせていた馬車の御者が、ずぶ濡れで駆けてきた。
「坊ちゃん、お嬢様。申し訳ございません。この雨では、坂の下の橋が危のうございます」
「渡れないの?」
「水が引くまでは、とても」
エルゼは眉を寄せた。
「困ったわね。今夜中に引くかしら」
「この降りでは、明け方までは」
後ろから、柔らかい声がした。
「でしたら、神殿でお休みください」
振り返ると、セラフィナが立っていた。
鎖を三本、法衣の上に巻いて。 雨の音の中で、その声は少しだけ震えていた。
「客間がございます。お姉様には、そちらを」
「助かります」
エルゼがほっとした顔で頭を下げた。
「あの、アルトは」
「殿方は、神殿の奥でお預かりする決まりです。奥は神官の管理下ですので、付き添いの方がご一緒でなくとも、法に障りはございません」
セラフィナは、アルトを見た。
空色の目が、雨の薄暗がりの中で、まっすぐにこちらを見ていた。
「……奥の、小鑑定室が空いております。今夜は、そちらで」
雨音が、一段と強くなった。
アルトは一礼した。
「お世話に、なります」
(小鑑定室)
(二人きりの、あの部屋)
窓の外で、稲光が走った。