男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~   作:朝凪小夜

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第40話 理想の男

 

廊下に出ると、四人がもう揃っていた。

クラウディアは、騎士服の上着を羽織っただけの姿で、抜き身の剣を手にしていた。黒髪は、解いたままだった。束ねる暇がなかったのだろう。

セラフィナは、法衣の上に、五本の鎖を巻き終えたところだった。縛られた手で、胸の前に聖具を握っていた。

リゼットは、寝間着の上に白衣を羽織って、記録板を抱えていた。三つ編みが、半分ほどけていた。

ロッサは、肌着一枚で、大剣を肩に担いでいた。裸足だった。

 

「聞こえたか」

 

ロッサが、短く聞いた。

 

「……聞こえました」

 

アルトが答えた。

 

「おいで、と」

 

四人が、顔を見合わせた。

 

「私たちにも、聞こえました」

 

セラフィナが、静かに言った。

 

「……とても、悲しい声でした」

 

彼女は、聖具を握る手に、力を込めていた。

その指先が、わずかに震えていた。

 

声は、まだ続いていた。

屋敷の壁越しに。窓の硝子越しに。霧の中から、途切れ途切れに。

 

「……おいで」

 

「……ひとりは、さびしいの」

 

「……だれか」

 

クラウディアの剣先が、ほんのわずかに下がった。

すぐに、持ち上げ直した。

 

「……行きます」

 

クラウディアが、言った。

 

「声の主を、確かめる」

 

「町の娘たちが、出てしまうかもしれません」

 

リゼットが、記録板を開きながら言った。

 

「声に呼ばれて。今夜のうちに、十二人目が」

 

「なら、なおさらだ」

 

ロッサが、大剣を担ぎ直した。

 

「先に行って、ぶっ叩く」

 

「フェンネル殿は、ここに」

 

クラウディアが、アルトを見た。

 

「危険です。若い騎士を、護衛に残します」

 

アルトは、少し考えた。

それから、首を振った。

 

「……一緒に、行きます」

 

「フェンネル殿」

 

「皆さんへの貸与は、離れていても続きます。ただ」

 

アルトは、四人を見回した。

 

「声を聞いて、皆さんの様子が、少し変でした。私だけが、平気でした」

 

四人が、黙った。

 

「理由は、分かりません。でも、平気な者が一人いた方が、いいのでは」

 

クラウディアが、何か言いかけた。

ロッサが、先に言った。

 

「いいじゃねえか。連れてけ」

 

「ロッサ殿」

 

「あたしが担ぐ。それなら、文句ねえだろ」

 

霧の町を、一行は北へ歩いた。

ロッサの肩の上で、アルトは霧を見ていた。

通りの家々は、どこも窓が閉まっていた。ただ、いくつかの窓の向こうで、人影が動いていた。窓辺に立って、北の方を見つめている影。

娘たちだった。

声に、呼ばれているのだった。

 

「急ぎましょう」

 

クラウディアが、足を速めた。

町の北の外れ。牧草地の向こうに、森の入口があった。

シュラーフヴァルト。

霧の中に、黒い木々が、壁のように並んでいた。

声は、そこから聞こえていた。

 

「……おいで」

 

一行は、牧草地の真ん中で足を止めた。

森の入口の、一番手前の木の下に。

誰かが、立っていた。

 

青年だった。

少年と言った方がよかったかもしれない。

十六か、十七か。細い体。白い肌。月の光を透かしたような、淡い色の髪が、肩のあたりでふわりと揺れていた。

顔は、驚くほど整っていた。

整っていて、儚かった。

大きな目が、潤んでいた。怯えたように、こちらを見ていた。今にも泣き出しそうな顔で。

薄い衣を、一枚だけ纏っていた。裸足だった。霧に濡れた草の上に、細い足首が見えていた。

震えていた。

寒さにか、怯えにか。細い肩を、自分の腕で抱きしめるようにして。

 

「……たすけて」

 

少年が、言った。

か細い声だった。

 

「……ひとりは、こわいの」

 

 

セラフィナが、一歩、前に出た。

 

「……あ」

 

小さな声が、彼女の唇から漏れていた。

空色の目が、少年を見つめていた。潤んでいた。

 

「……あんなに、震えて」

 

聖具を握る手が、緩んでいた。

鎖が、しゃら、と鳴った。

クラウディアの剣先が、下がっていた。

さっきは、すぐに持ち上げ直した。今度は、持ち上がらなかった。

灰色の目が、少年を見ていた。

 

「……守らなければ」

 

彼女は、小さく呟いた。

騎士の声だった。

守るべきものを前にした、騎士の声。

リゼットのペンが、止まっていた。

記録板の上で。三つ編みのほどけかけた髪が、霧の中で揺れていた。

眼鏡の奥の目が、少年を見ていた。

まばたきを、していなかった。

 

「……記録、を」

 

彼女の唇が、かすかに動いた。

それきり、ペンは動かなかった。

 

三人が、少年の方へ、一歩、また一歩と、引き寄せられていた。

ゆっくりと。

自分でも気づかないうちに。

アルトは、ロッサの肩の上から、それを見ていた。

 

(……まずい)

 

三人の目が、同じだった。

濡れて、熱を帯びて、少年だけを見ていた。

守ってあげたい。抱きしめてあげたい。この子を、一人にしておけない。

そういう目だった。

この国の女が、心の底で望む、男。

色白で、儚くて、怯えた目をした。女が守ってあげなければ、すぐにでも壊れてしまいそうな。

それが、そこに立っていた。

 

(あれが、理想なのか)

 

アルトは、少年を見た。

細い腕。浮き出た鎖骨。透けるように白い肌。骨と皮ばかりの足首。

 

(あれが、この世界の女の人の、理想の男)

 

「……なんだ、あのヒョロいの」

 

アルトの下から、声がした。

ロッサだった。

肩にアルトを担いだまま、森の入口の少年を見ていた。

金茶色の目が、心底つまらなそうだった。

 

「あんなの、一発で折れるぞ」

 

ロッサは、鼻で笑った。

 

「抱いたら、骨が鳴るだろ。あんなの、守るもんじゃなくて、運ぶもんだ」

 

三人の足が、止まった。

ほんの一瞬だけ。

アルトは、それを見逃さなかった。

ロッサの声が、三人に届いていた。少年の声の隙間に、割り込んでいた。

アルトは、少年を見た。

月の光を透かした髪。潤んだ目。細い体。怯えて、震えて、今にも泣き出しそうな顔。

アルトの口が、勝手に動いた。

崩れるような気持ちではなかった。

もっと、素朴な気持ちだった。

前世で、部活帰りの痩せた後輩を見たときと、同じ気持ちだった。

 

「いや、もっと飯食えよ」

 

牧草地が、静まり返った。

少年が、目を見開いた。

潤んでいた目が、一瞬、乾いた。

怯えていた顔が、一瞬、何も映さなくなった。

まるで、仮面が、ずれたように。

それから、少年の輪郭が、揺らいだ。

霧の中で、細い体が、ゆらゆらと波打った。月の光を透かした髪が、霧に溶けていく。

 

「……あ」

 

少年が、何か言いかけた。

声は、もう、声になっていなかった。

ただの、風の音だった。

少年の姿が、霧の中に消えた。

最初から、そこに何もいなかったように。

 

セラフィナが、膝から崩れ落ちた。

鎖が、草の上でじゃらりと鳴った。

 

「……私、今」

 

彼女は、自分の手を見下ろしていた。

聖具を、取り落としていた。

 

「今、何を」

 

クラウディアが、剣を握り直した。

指の関節が、白くなるほど強く。

 

「……一歩、踏み出していました」

 

声が、低かった。

 

「騎士が、敵を前に、剣を下げて」

 

彼女は、唇を噛んでいた。

リゼットは、記録板を見下ろしていた。

ペンを、握り直していた。

記録板の上には、何も書かれていなかった。少年が現れてから、消えるまでの間の記録が、一行もなかった。

 

「……空白」

 

リゼットは、淡々と言った。

声が、少しだけ震えていた。

 

「記録が、空白です」

 

ロッサが、アルトを肩から下ろした。

草の上に、そっと。

それから、三人の方を見た。

 

「お前ら、大丈夫か」

 

ぶっきらぼうな声だった。

それでも、心配していた。

 

町長の屋敷の客間に戻ったのは、夜明け前だった。

霧は、まだ晴れていなかった。ただ、もう声は聞こえなかった。

リゼットが、机の上に記録板を広げていた。

空白の記録の、前と後ろ。

少年が現れる前の、最後の記録。少年が消えた後の、最初の記録。

その間を、思い出しながら、一行ずつ埋めていた。

 

「……幻影、です」

 

リゼットが、顔を上げた。

 

「本体ではありません。森の奥にいる何かが、自分の姿を、森の入口に映して見せていた」

 

「幻影」

 

クラウディアが、窓辺で腕を組んでいた。

 

「では、本体は」

 

「森の奥です。幻影は、本体の力の一部にすぎません」

 

リゼットは、記録板の別の頁をめくった。

 

「それから、一つ、気になることがあります」

 

「何だ」

 

「リース神官」

 

セラフィナが、顔を上げた。

 

「あの少年の髪は、何色でしたか」

 

「……金色、でした」

 

セラフィナは、少し考えてから答えた。

 

「柔らかい、淡い金色。……祈りを捧げるときのような、手の組み方をしていました」

 

「ヴァイス副長」

 

「……黒、だった」

 

クラウディアが、眉をひそめた。

 

「黒い、短い髪。それから、膝をついていた。こちらを見上げて」

 

リゼットは、記録板に書き留めた。

 

「私が見た少年は、灰銀の髪でした。手に、本を持っていました」

 

部屋が、静かになった。

 

「同じ少年を、見ていたはずです」

 

リゼットは、淡々と言った。

 

「けれど、細部が、見る者によって違う。……おそらく、幻影は、見る者の心の底にあるものを、少しずつ映して、形を変えている」

 

「ロッサ殿は」

 

アルトが聞いた。

ロッサは、窓際の床に、あぐらをかいていた。

 

「ヒョロいのだった」

 

「髪の色は」

 

「覚えてねえ。ヒョロいのしか覚えてねえ」

 

リゼットは、それも書き留めた。

 

「……それから、フェンネル殿は」

 

「月の光みたいな、淡い髪でした」

 

アルトは、答えた。

 

「細くて、白くて。……もっと食べた方がいい感じの」

 

リゼットのペンが、一瞬止まった。

それから、また動いた。

 

「魅了は、精神で抗えます」

 

リゼットが、記録板を閉じた。

 

「今夜、私たちは、抗えませんでした。ロッサ殿の声と、フェンネル殿の一言がなければ、三人とも、森へ歩いていたと思います」

誰も、反論しなかった。

 

「ロッサ殿だけが、惑わされなかった理由は」

 

リゼットは、ロッサを見た。

 

「……推定ですが、あの少年は、ロッサ殿の好みではなかったのだと」

 

「好みじゃねえな。全然」

 

ロッサが、あっさりと言った。

 

「ただ、本体は、もっと強い幻を見せてくるはずです」

 

リゼットは、淡々と続けた。

 

「幻影ですら、これです。本体の最大の魅了が、どれほどのものか。……ロッサ殿の好みに合わせた幻を、見せてくるかもしれない」

 

ロッサの眉が、わずかに動いた。

 

「そうなれば、四人の精神では、足りません」

 

客間が、静まり返った。

窓の外で、霧が、ゆっくりと白み始めていた。

 

「……では、どうする」

 

クラウディアが、低い声で聞いた。

リゼットは、記録板を胸に抱えた。

少しだけ、考えた。

それから、顔を上げた。

 

「まず、本体の位置と、性質を確かめる必要があります。データが、足りません」

 

彼女は、眼鏡を押し上げた。

 

「明日、偵察を兼ねた、第一戦を」

 

 

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