男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
廊下に出ると、四人がもう揃っていた。
クラウディアは、騎士服の上着を羽織っただけの姿で、抜き身の剣を手にしていた。黒髪は、解いたままだった。束ねる暇がなかったのだろう。
セラフィナは、法衣の上に、五本の鎖を巻き終えたところだった。縛られた手で、胸の前に聖具を握っていた。
リゼットは、寝間着の上に白衣を羽織って、記録板を抱えていた。三つ編みが、半分ほどけていた。
ロッサは、肌着一枚で、大剣を肩に担いでいた。裸足だった。
「聞こえたか」
ロッサが、短く聞いた。
「……聞こえました」
アルトが答えた。
「おいで、と」
四人が、顔を見合わせた。
「私たちにも、聞こえました」
セラフィナが、静かに言った。
「……とても、悲しい声でした」
彼女は、聖具を握る手に、力を込めていた。
その指先が、わずかに震えていた。
声は、まだ続いていた。
屋敷の壁越しに。窓の硝子越しに。霧の中から、途切れ途切れに。
「……おいで」
「……ひとりは、さびしいの」
「……だれか」
クラウディアの剣先が、ほんのわずかに下がった。
すぐに、持ち上げ直した。
「……行きます」
クラウディアが、言った。
「声の主を、確かめる」
「町の娘たちが、出てしまうかもしれません」
リゼットが、記録板を開きながら言った。
「声に呼ばれて。今夜のうちに、十二人目が」
「なら、なおさらだ」
ロッサが、大剣を担ぎ直した。
「先に行って、ぶっ叩く」
「フェンネル殿は、ここに」
クラウディアが、アルトを見た。
「危険です。若い騎士を、護衛に残します」
アルトは、少し考えた。
それから、首を振った。
「……一緒に、行きます」
「フェンネル殿」
「皆さんへの貸与は、離れていても続きます。ただ」
アルトは、四人を見回した。
「声を聞いて、皆さんの様子が、少し変でした。私だけが、平気でした」
四人が、黙った。
「理由は、分かりません。でも、平気な者が一人いた方が、いいのでは」
クラウディアが、何か言いかけた。
ロッサが、先に言った。
「いいじゃねえか。連れてけ」
「ロッサ殿」
「あたしが担ぐ。それなら、文句ねえだろ」
霧の町を、一行は北へ歩いた。
ロッサの肩の上で、アルトは霧を見ていた。
通りの家々は、どこも窓が閉まっていた。ただ、いくつかの窓の向こうで、人影が動いていた。窓辺に立って、北の方を見つめている影。
娘たちだった。
声に、呼ばれているのだった。
「急ぎましょう」
クラウディアが、足を速めた。
町の北の外れ。牧草地の向こうに、森の入口があった。
シュラーフヴァルト。
霧の中に、黒い木々が、壁のように並んでいた。
声は、そこから聞こえていた。
「……おいで」
一行は、牧草地の真ん中で足を止めた。
森の入口の、一番手前の木の下に。
誰かが、立っていた。
青年だった。
少年と言った方がよかったかもしれない。
十六か、十七か。細い体。白い肌。月の光を透かしたような、淡い色の髪が、肩のあたりでふわりと揺れていた。
顔は、驚くほど整っていた。
整っていて、儚かった。
大きな目が、潤んでいた。怯えたように、こちらを見ていた。今にも泣き出しそうな顔で。
薄い衣を、一枚だけ纏っていた。裸足だった。霧に濡れた草の上に、細い足首が見えていた。
震えていた。
寒さにか、怯えにか。細い肩を、自分の腕で抱きしめるようにして。
「……たすけて」
少年が、言った。
か細い声だった。
「……ひとりは、こわいの」
セラフィナが、一歩、前に出た。
「……あ」
小さな声が、彼女の唇から漏れていた。
空色の目が、少年を見つめていた。潤んでいた。
「……あんなに、震えて」
聖具を握る手が、緩んでいた。
鎖が、しゃら、と鳴った。
クラウディアの剣先が、下がっていた。
さっきは、すぐに持ち上げ直した。今度は、持ち上がらなかった。
灰色の目が、少年を見ていた。
「……守らなければ」
彼女は、小さく呟いた。
騎士の声だった。
守るべきものを前にした、騎士の声。
リゼットのペンが、止まっていた。
記録板の上で。三つ編みのほどけかけた髪が、霧の中で揺れていた。
眼鏡の奥の目が、少年を見ていた。
まばたきを、していなかった。
「……記録、を」
彼女の唇が、かすかに動いた。
それきり、ペンは動かなかった。
三人が、少年の方へ、一歩、また一歩と、引き寄せられていた。
ゆっくりと。
自分でも気づかないうちに。
アルトは、ロッサの肩の上から、それを見ていた。
(……まずい)
三人の目が、同じだった。
濡れて、熱を帯びて、少年だけを見ていた。
守ってあげたい。抱きしめてあげたい。この子を、一人にしておけない。
そういう目だった。
この国の女が、心の底で望む、男。
色白で、儚くて、怯えた目をした。女が守ってあげなければ、すぐにでも壊れてしまいそうな。
それが、そこに立っていた。
(あれが、理想なのか)
アルトは、少年を見た。
細い腕。浮き出た鎖骨。透けるように白い肌。骨と皮ばかりの足首。
(あれが、この世界の女の人の、理想の男)
「……なんだ、あのヒョロいの」
アルトの下から、声がした。
ロッサだった。
肩にアルトを担いだまま、森の入口の少年を見ていた。
金茶色の目が、心底つまらなそうだった。
「あんなの、一発で折れるぞ」
ロッサは、鼻で笑った。
「抱いたら、骨が鳴るだろ。あんなの、守るもんじゃなくて、運ぶもんだ」
三人の足が、止まった。
ほんの一瞬だけ。
アルトは、それを見逃さなかった。
ロッサの声が、三人に届いていた。少年の声の隙間に、割り込んでいた。
アルトは、少年を見た。
月の光を透かした髪。潤んだ目。細い体。怯えて、震えて、今にも泣き出しそうな顔。
アルトの口が、勝手に動いた。
崩れるような気持ちではなかった。
もっと、素朴な気持ちだった。
前世で、部活帰りの痩せた後輩を見たときと、同じ気持ちだった。
「いや、もっと飯食えよ」
牧草地が、静まり返った。
少年が、目を見開いた。
潤んでいた目が、一瞬、乾いた。
怯えていた顔が、一瞬、何も映さなくなった。
まるで、仮面が、ずれたように。
それから、少年の輪郭が、揺らいだ。
霧の中で、細い体が、ゆらゆらと波打った。月の光を透かした髪が、霧に溶けていく。
「……あ」
少年が、何か言いかけた。
声は、もう、声になっていなかった。
ただの、風の音だった。
少年の姿が、霧の中に消えた。
最初から、そこに何もいなかったように。
セラフィナが、膝から崩れ落ちた。
鎖が、草の上でじゃらりと鳴った。
「……私、今」
彼女は、自分の手を見下ろしていた。
聖具を、取り落としていた。
「今、何を」
クラウディアが、剣を握り直した。
指の関節が、白くなるほど強く。
「……一歩、踏み出していました」
声が、低かった。
「騎士が、敵を前に、剣を下げて」
彼女は、唇を噛んでいた。
リゼットは、記録板を見下ろしていた。
ペンを、握り直していた。
記録板の上には、何も書かれていなかった。少年が現れてから、消えるまでの間の記録が、一行もなかった。
「……空白」
リゼットは、淡々と言った。
声が、少しだけ震えていた。
「記録が、空白です」
ロッサが、アルトを肩から下ろした。
草の上に、そっと。
それから、三人の方を見た。
「お前ら、大丈夫か」
ぶっきらぼうな声だった。
それでも、心配していた。
町長の屋敷の客間に戻ったのは、夜明け前だった。
霧は、まだ晴れていなかった。ただ、もう声は聞こえなかった。
リゼットが、机の上に記録板を広げていた。
空白の記録の、前と後ろ。
少年が現れる前の、最後の記録。少年が消えた後の、最初の記録。
その間を、思い出しながら、一行ずつ埋めていた。
「……幻影、です」
リゼットが、顔を上げた。
「本体ではありません。森の奥にいる何かが、自分の姿を、森の入口に映して見せていた」
「幻影」
クラウディアが、窓辺で腕を組んでいた。
「では、本体は」
「森の奥です。幻影は、本体の力の一部にすぎません」
リゼットは、記録板の別の頁をめくった。
「それから、一つ、気になることがあります」
「何だ」
「リース神官」
セラフィナが、顔を上げた。
「あの少年の髪は、何色でしたか」
「……金色、でした」
セラフィナは、少し考えてから答えた。
「柔らかい、淡い金色。……祈りを捧げるときのような、手の組み方をしていました」
「ヴァイス副長」
「……黒、だった」
クラウディアが、眉をひそめた。
「黒い、短い髪。それから、膝をついていた。こちらを見上げて」
リゼットは、記録板に書き留めた。
「私が見た少年は、灰銀の髪でした。手に、本を持っていました」
部屋が、静かになった。
「同じ少年を、見ていたはずです」
リゼットは、淡々と言った。
「けれど、細部が、見る者によって違う。……おそらく、幻影は、見る者の心の底にあるものを、少しずつ映して、形を変えている」
「ロッサ殿は」
アルトが聞いた。
ロッサは、窓際の床に、あぐらをかいていた。
「ヒョロいのだった」
「髪の色は」
「覚えてねえ。ヒョロいのしか覚えてねえ」
リゼットは、それも書き留めた。
「……それから、フェンネル殿は」
「月の光みたいな、淡い髪でした」
アルトは、答えた。
「細くて、白くて。……もっと食べた方がいい感じの」
リゼットのペンが、一瞬止まった。
それから、また動いた。
「魅了は、精神で抗えます」
リゼットが、記録板を閉じた。
「今夜、私たちは、抗えませんでした。ロッサ殿の声と、フェンネル殿の一言がなければ、三人とも、森へ歩いていたと思います」
誰も、反論しなかった。
「ロッサ殿だけが、惑わされなかった理由は」
リゼットは、ロッサを見た。
「……推定ですが、あの少年は、ロッサ殿の好みではなかったのだと」
「好みじゃねえな。全然」
ロッサが、あっさりと言った。
「ただ、本体は、もっと強い幻を見せてくるはずです」
リゼットは、淡々と続けた。
「幻影ですら、これです。本体の最大の魅了が、どれほどのものか。……ロッサ殿の好みに合わせた幻を、見せてくるかもしれない」
ロッサの眉が、わずかに動いた。
「そうなれば、四人の精神では、足りません」
客間が、静まり返った。
窓の外で、霧が、ゆっくりと白み始めていた。
「……では、どうする」
クラウディアが、低い声で聞いた。
リゼットは、記録板を胸に抱えた。
少しだけ、考えた。
それから、顔を上げた。
「まず、本体の位置と、性質を確かめる必要があります。データが、足りません」
彼女は、眼鏡を押し上げた。
「明日、偵察を兼ねた、第一戦を」