男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
眠りの森は、昼でも暗かった。
古い木々が、頭上で枝を絡め合っていた。葉と葉の隙間から、ときどき細い光が落ちてくる。その光の筋の中を、霧がゆっくりと流れていた。
足元は、苔だった。
厚く、柔らかく、踏むと沈む。足音が、どこにも響かなかった。
一行は、その苔の上を、北へ進んでいた。
遠征の、二週目に入っていた。
最初の幻影から、四日。その間、リゼットは森の縁を何度も歩き、霧の濃さと、声の聞こえる方角を記録し続けた。
本体は、北にいる。
森の奥。町の猟師たちも足を踏み入れない、最も古い木々の群れの、さらに奥。
今日は、その手前まで行く。偵察を兼ねた、第一戦。
先頭に、ロッサ。
大剣を肩に担いで、苔の上を大股で歩いていた。その足取りが、王都を出た頃と違っていた。
軽かった。
アルトが貸した筋力と敏捷が、彼女の体を満たしていた。同じ項目から同じ項目へ。比較実験で見つけた、同種の貸与。倍率三に、一・五を掛けて。
彼女の素の筋力、百四十。そこに、百を超える力が上乗せされていた。
その少し後ろに、クラウディア。
抜き身の剣を、低く構えて歩いていた。灰色の目が、霧の向こうの木々の間を、絶えず探っている。
彼女には、敏捷と体力を貸していた。鍛え抜いた体の上に、さらに速さと持久力が。
中央に、セラフィナとリゼット。
セラフィナは、胸の前で聖具を握り、小声で祈りを唱え続けていた。一行の周りに、淡い金色の結界。それが、霧を少しだけ押し返している。
リゼットは、記録板を抱えて、足元の苔と、木々の幹と、霧の流れを見ていた。ときどき立ち止まって、何かを書き留めた。
そして、最後尾に、アルト。
今日は、担がれていなかった。
「自分で歩けるところまで」とアルトが言い、クラウディアが「では、倒れたら担ぎます」と言った。
ロッサが、少しだけ不満そうな顔をした。
森に入って、一刻ほど経った頃だった。
リゼットが、足を止めた。
「……霧が」
彼女は、記録板から顔を上げた。
「濃くなっています。急に」
言われて、アルトも気づいた。
さっきまで、十歩先の木の幹が見えていた。今は、五歩先が、白く滲んでいた。
霧が、生き物のように、一行の周りを渦巻き始めていた。
「来るぞ」
ロッサが、大剣を肩から下ろした。
両手で、柄を握る。
霧の中から、何かが現れた。
獣だった。
いや、獣の形をした、霧だった。
四つ足の、狼ほどの大きさの影。輪郭が、霧と同じように揺らいでいる。目のあるはずの場所に、二つの淡い光。
一匹ではなかった。
霧の中から、次々と。
五匹。十匹。二十匹。
一行を、取り囲むように。
「眷属です」
リゼットが、記録板を握りしめた。
「本体の力から生まれた、手先。幻影より、実体に近い」
「斬れるか」
ロッサが、短く聞いた。
「……斬れると、推定します」
「推定でいい」
ロッサが、踏み込んだ。
速かった。
大剣が、霧の中で弧を描いた。
一匹目の眷属が、真っ二つに裂けた。霧に戻って、散った。
二匹目。三匹目。
大剣が振るわれるたびに、霧の獣が、紙のように裂けていく。
クラウディアが、ロッサの左に滑り込んだ。
剣筋が、鋭かった。
訓練場で見ていたものと、同じ剣だった。ただ、速さが、まるで違った。
一呼吸のうちに、三匹を斬り伏せた。
「……っ」
クラウディア自身が、驚いた顔をしていた。
自分の剣の速さに。
セラフィナの結界が、金色に輝いた。
背後から飛びかかってきた眷属が、結界に触れた瞬間、霧に戻って散った。
(すごい)
アルトは、最後尾で、それを見ていた。
自分が貸した力が、目の前で、敵を薙ぎ払っていた。
ロッサの大剣に、筋力が。クラウディアの剣に、敏捷が。セラフィナの結界に、魔力が。
全部、自分の体から出ていったものだった。
(これが、貸与)
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眷属の数が、減っていった。
二十匹が、十匹に。十匹が、五匹に。
「いける」
ロッサが、笑った。
その時だった。
霧の奥から、声が聞こえた。
「……おいで」
あの声だった。
儚くて、頼りなくて、怯えたような。
ただ、幻影のときより、ずっと近かった。ずっと、濃かった。
森全体が、その声で、満たされていくようだった。
「……ひとりは、さびしいの」
「……だれか、そばに」
「……おいで」
クラウディアの剣筋が、乱れた。
振り下ろした刃が、眷属の脇をかすめて、苔に刺さった。
「……っ」
彼女は、剣を引き抜こうとして、手を止めた。
灰色の目が、霧の奥を見ていた。
声の、方を。
ロッサの足が、止まった。
大剣を振りかぶったまま。
金茶色の目が、ぼんやりと、霧の奥を見ていた。
「……なんだ、これ」
ロッサが、呟いた。
「幻影の、ときより……」
セラフィナが、聖具を高く掲げた。
「授与神アウレアの御名において」
祈りの言葉が、霧の中に響いた。
「迷える心に、光を」
聖具から、金色の光が溢れた。
光が、霧を押し返した。声が、一瞬、遠くなった。
クラウディアが、はっとして剣を引き抜いた。ロッサが、頭を振って、大剣を構え直した。
「……今の、なんだ」
「魅了です」
リゼットが、記録板を見下ろしていた。
ペンが、震えていた。
「森全体に、広がっています。幻影よりも、ずっと強い」
セラフィナの光が、揺らいだ。
光の輪が、少しずつ、縮んでいく。
「……っ、魔力が」
セラフィナの額に、汗が浮かんでいた。
「足りません。この声を、押し返し続けるには」
光が、また縮んだ。
声が、また近くなった。
「……おいで」
クラウディアの剣先が、下がりかけた。
ロッサの目が、また、霧の奥に引き寄せられかけた。
残っていた眷属が、その隙に、飛びかかってきた。
「右!」
アルトが、叫んだ。
クラウディアの右から、眷属が一匹、牙を剥いていた。
クラウディアが、反応した。
一瞬、遅れて。
剣が、眷属の牙を、ぎりぎりで弾いた。弾いた勢いで、彼女の体が、半歩よろめいた。
(……遅い)
アルトは、気づいていた。
叫んでから、クラウディアが動くまで。ほんの一瞬。瞬きひとつ分。
騎士団の詰所の朝、水が欲しいと思っただけで、彼女は杯を差し出した。あのときは、言葉より先だった。
今は、言葉より後だった。
(届くのが、遅い)
(声が、あの夢魔の声に、邪魔されてる)
「左、二匹!」
叫ぶ。
ロッサが、振り返る。
一瞬、遅れて。
大剣が、二匹目を薙いだ。一匹目の牙が、ロッサの腕をかすめた。
赤い線が、日焼けした肌に走った。
「……ちっ」
「撤退します」
クラウディアが、言った。
声が、低かった。
「このままでは、全員が呑まれる」
「まだ、いける」
ロッサが、腕の傷を見もせずに言った。
「いけません」
クラウディアの声は、揺るがなかった。
「リース神官の魔力が、尽きかけています。結界が消えれば、全員、声に呑まれる。ロッサ殿も、先ほど、足が止まっていた」
ロッサが、黙った。
「データは、取れました」
リゼットが、記録板を閉じた。
「本体の位置の推定と、魅了の強さの記録。今日の目的は、偵察です」
ロッサは、霧の奥を睨んでいた。
それから、大剣を肩に担いだ。
「……分かった」
彼女は、くるりと振り返った。
最後尾のアルトの前まで、大股で戻ってきた。
ひょいと、腰を屈めた。
アルトは、また、肩の上にいた。
「担いで、走る」
ロッサが、言った。
「舌、噛むなよ」
ロッサは、走った。
苔の上を、木々の間を、霧の中を。
アルトを肩に担いだまま、大剣を片手に。
速かった。
貸した敏捷が、彼女の脚に宿っていた。
その横を、クラウディアが並走していた。後ろから追ってくる眷属を、振り返りざまに斬り捨てながら。
セラフィナは、リゼットに肩を貸されていた。魔力を使い果たして、足元がおぼつかない。それでも、聖具だけは離さなかった。
声が、背後から追ってきた。
「……おいで」
「……いかないで」
「……ひとりに、しないで」
アルトは、ロッサの肩の上で、揺られながら、霧の奥を見ていた。
(どうすれば)
ロッサの肩越しに、彼女の心拍が響いていた。
速かった。走っているせいだけでは、なかった。
(どうすれば、あの声に、勝てる)
精神。
リゼットは、そう言っていた。
魅了への抵抗力は、精神に依存する。四人の精神では、足りない。
(足りないなら)
アルトは、自分の胸の奥を、意識した。
重くて、硬くて、冷たいもの。
十八年間、ずっと何かを押さえつけてきたもの。
比較実験の日に、十だけ貸した。「その髪型……」と、口が勝手に動いた。
(あれを、全部)
(全部、貸したら)
アルトは、ロッサの肩の上で、目を閉じた。
(……どうなるんだ)
野営地に戻ったのは、日が傾く頃だった。
森の縁の、町に近い草地。セラフィナが、最後の力で結界を張り直した。
それから、焚き火の前に崩れ落ちた。
クラウディアが、ロッサの腕の傷に薬草を当てていた。
ロッサは、されるがままに腕を差し出しながら、黙って焚き火を見ていた。
珍しく、笑っていなかった。
「……あたし、足、止まってた」
ぽつりと、言った。
「ヒョロいのは、見えなかった。でも、声に、引っ張られた」
クラウディアが、薬草を巻く手を止めた。
「私も、です」
彼女は、低く言った。
「剣筋が、乱れた。騎士として、あるまじき」
二人は、それきり黙った。
セラフィナは、焚き火の前で、聖具を胸に抱いていた。目を閉じて、何も言わなかった。
リゼットだけが、動いていた。
焚き火の明かりの下で、記録板を広げていた。
今日の記録。眷属の数。魅了の強さ。声の聞こえた方角。四人の動きが鈍った時刻。結界が縮んでいった速さ。
それから、王都から持ってきた、魔物の記録の書物。天賦の儀の日からの、アルトの鑑定記録の写し。比較実験の記録。
全部を、並べていた。
ペンが、走っていた。
速かった。
アルトは、焚き火の向こうで、それを見ていた。
日が、沈んだ。
焚き火の炎が、高くなった。
リゼットのペンが、止まった。
彼女は、記録板から顔を上げた。
焚き火の向こうの、アルトを見た。
眼鏡の奥の目が、まっすぐだった。
「……計算が、終わりました」
全員が、彼女を見た。
リゼットは、記録板を、焚き火の明かりの中に掲げた。
「対象の精神を、四人に配分すれば」
彼女は、淡々と言った。
「勝てます」