男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
焚き火の前に、折り畳みの卓が置かれていた。
その上に、リゼットが記録板を立てかけていた。
黒板代わりだった。
白い炭で、表題が書いてある。定規を当てたように、まっすぐな字で。
『精神九十の配分案』
「魅了への抵抗力は、精神に依存します」
リゼットは、炭を手に、記録板の前に立っていた。
焚き火の明かりが、彼女の眼鏡に映っていた。
「本日の記録から、本体の魅了の強さを推定しました。抗うのに必要な精神の値は、およそ百三十から百五十」
彼女は、四人の名前を書いた。
「現在の、私たちの精神です」
セラフィナ、七十。クラウディア、七十五。リゼット、五十五。ロッサ、五十。
「全員、足りません」
誰も、反論しなかった。
今日、森の中で、四人ともそれを身をもって知った。
「一方」
リゼットは、もう一つの名前を書いた。
アルト・フェンネル、九十。
「対象の精神は、九十。一般男性の、六倍です」
彼女は、炭で、その数字を丸く囲んだ。
「これを、貸します」
「精神の、同種貸与」
リゼットは、記録板に式を書いた。
「現在の倍率は三。同種の場合、さらに一・五倍。つまり、対象の精神を一貸せば、受け取る側の精神は四・五上がります」
炭が、記録板の上を走った。
「対象の精神から、七十を貸し出す。四・五倍で、三百十五。これを四人で分ければ、一人あたり、およそ七十九」
四人の名前の横に、新しい数字が書き込まれた。
セラフィナ、七十プラス七十九で、百四十九。
クラウディア、七十五プラス七十九で、百五十四。
リゼット、五十五プラス七十九で、百三十四。
ロッサ、五十プラス七十九で、百二十九。
「ロッサ殿だけ、わずかに足りませんが、ロッサ殿はもともと幻影に惑わされにくい性質です。全員、抗えると推定します」
焚き火が、ぱちんと爆ぜた。
「……貸与の上限は」
クラウディアが、聞いた。
「現在、他の項目で、上限いっぱいまで貸していたはずでは」
「はい。ですので、他の項目からの貸与を、一時的に減らします」
リゼットは、記録板の端に、小さく書き足した。
「筋力、敏捷、体力の貸与を、それぞれ三割ずつ削る。その分を、精神に回す。戦闘力は少し落ちますが、魅了に呑まれるよりは」
「……理屈は、通っている」
クラウディアが、頷いた。
ロッサも、腕を組んで頷いた。
セラフィナは、黙って記録板を見ていた。
「ただし」
リゼットが、炭を置いた。
「一つ、問題があります」
全員が、彼女を見た。
リゼットは、眼鏡を押し上げた。
それから、焚き火の向こうのアルトを見た。
「比較実験の、四日目のことを、覚えておられますか」
アルトは、黙って頷いた。
忘れるはずがなかった。
「精神を、十だけ貸した日。対象の発言に、変化が出ました」
リゼットは、記録板の別の頁をめくった。
『十一時十四分。精神の貸与時、検体の発言に変化。通常の発言制御が、一時的に緩むと推定』
「精神は、意志の力です。忍耐の力。己を律する力」
リゼットは、淡々と言った。
「十を貸しただけで、対象は、普段なら口にしないことを、口にしかけました」
彼女は、少しだけ間を置いた。
「七十を貸せば、対象に残る精神は、二十。一般男性と、ほぼ同じ値になります」
「……一般男性と、同じなら」
セラフィナが、小さく言った。
「問題は、ないのでは」
「一般男性には、抑えるべきものが、ほとんどありません」
リゼットは、言った。
「対象には、あります」
焚き火の周りが、静まり返った。
三人の視線が、アルトに集まった。
ロッサだけが、にやにやと笑っていた。
アルトは、焚き火の炎を見つめていた。
(……分かってる)
(精神を、七十も貸したら)
十八年間、押さえつけてきたもの。
それを押さえていた力が、二十しか残らない。
二十では、押さえきれない。
(全部、出る)
(考えてることが、全部、口から出る)
(この四人の前で)
アルトは、顔を上げた。
四人を、見回した。
セラフィナ。クラウディア。リゼット。ロッサ。
今日、森の中で、四人とも声に呑まれかけた。ロッサは腕に傷を負った。セラフィナは魔力を使い果たした。クラウディアは剣を落としかけた。リゼットは記録を失った。
それでも、全員、ここにいた。
(……仕方ない)
(いや、仕方ないじゃない)
(これは、選ぶことだ)
「……やりましょう」
アルトは、静かに言った。
四人が、アルトを見た。
「ただ、一つだけ、お願いが」
「何でしょうか」
クラウディアが、聞いた。
アルトは、少しだけ目を伏せた。
「……これから、何を言っても」
穏やかな声だった。
「聞かなかったことに、していただけますか」
アルトは、目を閉じた。
胸の奥の、重くて、硬くて、冷たいものを、意識した。
(精神)
(十八年の)
(七十)
意図した。
硬いものが、ほどけていった。
比較実験の日とは、比べものにならなかった。
あの日は、端の方が、ほんの少しだけほどけた。
今日は、根元から、ほどけていった。
ほどけて、細い糸を通って、四つの方向へ流れていった。
神官へ。副長へ。研究員へ。冒険者へ。
体が、軽くなった。
軽くなって、何か大事なものが、抜けていく感覚があった。
いつも胸の真ん中にあって、全部を押さえていた、重しのようなもの。
それが、なくなっていく。
アルトは、目を開けた。
焚き火の炎が、明るかった。
四人が、こちらを見ていた。
セラフィナの、空色の目。クラウディアの、灰色の目。リゼットの、眼鏡越しの目。ロッサの、金茶色の目。
リゼットが、携帯の水晶板を差し出した。
アルトは、手を置いた。
精神素90/貸出−70現在20
「……配分、完了」
リゼットが、淡々と記録した。
「各人の精神を、確認します」
四人が、それぞれ自分の水晶板に手を置いた。
数字が、浮かんだ。
百四十九。百五十四。百三十四。百二十九。
「推定通りです」
リゼットが、頷いた。
「対象の、体調は」
アルトは、口を開いた。
「セラフィナの鎖、毎回最高だと思ってる」
焚き火が、ぱちんと爆ぜた。
誰も、動かなかった。
アルトは、自分の口を押さえた。
押さえた手の下で、口が、まだ動いていた。
「あれ、胸の上と下を通ってるの、最初の儀式の日から、ずっと気になってた。毎回、本数が増えるたびに、ありがとうって思ってた。今日も、五本。五本目のやつが、一番いい角度」
セラフィナが、固まっていた。
空色の目が、まん丸に見開かれていた。
それから、顔が、耳まで、真っ赤になった。
鎖を、両手でぎゅっと握りしめた。
縛られた腕で、精一杯に。
「……っ、あ、あの」
「何本にいたしましょうか、って聞かれるたび、毎回、心の中で手を合わせてた」
セラフィナが、鎖を握ったまま、俯いた。
肩が、小刻みに震えていた。
アルトの視線が、隣に移った。
「クラウディア、跪いたときの角度が完璧すぎる」
クラウディアの背筋が、びくりと伸びた。
「右膝の、地面への下ろし方。左の拳の置き方。背中が一本の線になって、首だけ少し上を向く、あの角度。毎日、訓練の最後の四分の一の体力、あれのためだけに取っておいてた」
「……っ」
「髪を解いたときも、すごかった。あの花の香油、一滴じゃなくて、部屋中に撒いてたの、知ってる」
クラウディアの顔から、表情が消えた。
それから、首筋から、赤くなっていった。
彼女は、剣の柄を握りしめていた。
握りしめたまま、言った。
「……集中、できません」
報告の声だった。
報告の声が、裏返っていた。
アルトの視線が、さらに隣に移った。
リゼットは、記録板を構えていた。
ペンを、握っていた。
眼鏡の奥の目が、まっすぐにアルトを見ていた。
淡々とした顔だった。
「リゼット、今日も脇がいい」
ペンが、記録板の上で、がりっと音を立てた。
「対照群、毎朝、洗面台の前で悩んでるの、知ってる。悩んだ結果、毎日、残してくれてる。ありがとう。三つ編みも、下手なのがいい。うなじのとこで跳ねてるのが、すごくいい」
リゼットの顔が、崩れた。
淡々とした顔が。
耳が、首筋が、頬が、一気に赤くなった。
それでも、ペンは止まらなかった。
震える手で、記録板に書き続けていた。
「……二十時、十一分」
声が、上ずっていた。
「対象の、発言……『脇が、いい』……」
ペンが、記録板の上を、がたがたと走った。
「……継続、記録、します」
最後に、アルトの視線が、ロッサに移った。
ロッサは、焚き火の前に、あぐらをかいていた。
にやにやと、笑っていた。
「ロッサ、担がれてるとき、実は一番幸せ」
アルトの口が、言った。
「肩の上、熱くて、汗の匂いがして、笑うと背中に響く。王都を出てから、毎日、担がれるの楽しみにしてた。歩けるけど、歩けないふりしたこと、二回ある」
ロッサは、笑っていた。
腹を抱えて、豪快に。
「知ってた」
「知ってたんだ」
「心臓、うるさかったからな」
ロッサだけが、少しも崩れていなかった。
アルトは、焚き火の前で、両手で顔を覆っていた。
覆った手の下で、口が、まだ動いていた。
「みんな、いい匂いがする。セラフィナは陽だまりのミルクで、クラウディアは革と花で、リゼットは日向の猫で、ロッサは土と草と焚き火。マルグリットは、香水の下に焼き菓子。全部、違う。全部、好き」
「……アルト、殿」
クラウディアが、絞り出すように言った。
「聞かなかったことにしてほしいって言ったけど、無理だよね、これ。ごめん。でも、止まらない。ずっと、言いたかった。十八年、ずっと」
焚き火の周りで、四人が、それぞれのやり方で撃沈していた。
セラフィナは、鎖を握りしめて、俯いたまま震えていた。
クラウディアは、剣の柄を握ったまま、焚き火の一点を凝視していた。
リゼットは、耳まで真っ赤になりながら、記録板にペンを走らせ続けていた。
ロッサだけが、笑い転げていた。
夜が、更けていった。
アルトの口は、止まらなかった。
焚き火の前で、天幕の前で、水を飲みに行った小川のほとりで。
目に映るもの、全部について。
「セラフィナ、祈ってるときの横顔、ずっと見てられる」
「クラウディア、見張りの交代のとき、一瞬だけ欠伸を我慢したの、見えた。かわいい」
「リゼット、記録板に書くとき、舌の先がちょっと出てる。気づいてないよね」
「ロッサ、骨付き肉の食べ方が豪快すぎて、見てるだけでお腹空く」
四人は、撃沈しながらも、決戦の準備を進めていた。
クラウディアは、顔を赤くしたまま、明日の陣形を地図に書き込んだ。セラフィナは、耳まで赤くしたまま、聖具に祈りを込めた。リゼットは、震える手で、計算の確認を三回繰り返した。ロッサは、大剣を研いでいた。ときどき吹き出しながら。
アルトは、焚き火の前に座っていた。
もう、口を押さえていなかった。
押さえても、無駄だった。
「明日、勝ったら、みんなで美味しいもの食べたい」
「町の宿屋の、羊の煮込み。あれ、絶対美味しい」
「みんなが、無事だったら、それでいい」
その最後の一言だけは、四人とも、手を止めて聞いた。
夜が、明けた。
森の縁に、朝の光が差し込んでいた。
霧が、薄く白んでいた。
四人が、焚き火の燃えさしの前に立っていた。
装備は、整っていた。
ロッサの大剣。クラウディアの剣と鎧。セラフィナの聖具と鎖。リゼットの記録板と計測器。
全員、目の下に、薄い隈があった。
一晩中、本音を浴びせ続けられていた。
それでも、全員、背筋を伸ばして立っていた。
アルトが、天幕から出てきた。
四人を、見た。
朝の光の中で、四人の顔を、一人ずつ。
「みんな、綺麗だね」
アルトは、言った。
四人が、同時に、目を逸らした。
それから、クラウディアが、咳払いを一つした。
「……出発します」
声が、まだ少しだけ、裏返っていた。