男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~   作:朝凪小夜

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第42話 我慢が、消える

 

焚き火の前に、折り畳みの卓が置かれていた。

その上に、リゼットが記録板を立てかけていた。

黒板代わりだった。

白い炭で、表題が書いてある。定規を当てたように、まっすぐな字で。

 

 

『精神九十の配分案』

 

 

「魅了への抵抗力は、精神に依存します」

リゼットは、炭を手に、記録板の前に立っていた。

焚き火の明かりが、彼女の眼鏡に映っていた。

 

「本日の記録から、本体の魅了の強さを推定しました。抗うのに必要な精神の値は、およそ百三十から百五十」

 

彼女は、四人の名前を書いた。

 

「現在の、私たちの精神です」

 

セラフィナ、七十。クラウディア、七十五。リゼット、五十五。ロッサ、五十。

 

「全員、足りません」

誰も、反論しなかった。

今日、森の中で、四人ともそれを身をもって知った。

 

「一方」

 

リゼットは、もう一つの名前を書いた。

アルト・フェンネル、九十。

 

「対象の精神は、九十。一般男性の、六倍です」

 

彼女は、炭で、その数字を丸く囲んだ。

 

「これを、貸します」

 

「精神の、同種貸与」

 

リゼットは、記録板に式を書いた。

 

「現在の倍率は三。同種の場合、さらに一・五倍。つまり、対象の精神を一貸せば、受け取る側の精神は四・五上がります」

 

炭が、記録板の上を走った。

 

「対象の精神から、七十を貸し出す。四・五倍で、三百十五。これを四人で分ければ、一人あたり、およそ七十九」

 

四人の名前の横に、新しい数字が書き込まれた。

 

セラフィナ、七十プラス七十九で、百四十九。

クラウディア、七十五プラス七十九で、百五十四。

リゼット、五十五プラス七十九で、百三十四。

ロッサ、五十プラス七十九で、百二十九。

 

「ロッサ殿だけ、わずかに足りませんが、ロッサ殿はもともと幻影に惑わされにくい性質です。全員、抗えると推定します」

 

焚き火が、ぱちんと爆ぜた。

 

「……貸与の上限は」

 

クラウディアが、聞いた。

 

「現在、他の項目で、上限いっぱいまで貸していたはずでは」

 

「はい。ですので、他の項目からの貸与を、一時的に減らします」

 

リゼットは、記録板の端に、小さく書き足した。

 

「筋力、敏捷、体力の貸与を、それぞれ三割ずつ削る。その分を、精神に回す。戦闘力は少し落ちますが、魅了に呑まれるよりは」

 

「……理屈は、通っている」

 

クラウディアが、頷いた。

ロッサも、腕を組んで頷いた。

セラフィナは、黙って記録板を見ていた。

 

「ただし」

 

リゼットが、炭を置いた。

 

「一つ、問題があります」

 

全員が、彼女を見た。

リゼットは、眼鏡を押し上げた。

それから、焚き火の向こうのアルトを見た。

 

「比較実験の、四日目のことを、覚えておられますか」

 

アルトは、黙って頷いた。

忘れるはずがなかった。

 

「精神を、十だけ貸した日。対象の発言に、変化が出ました」

 

リゼットは、記録板の別の頁をめくった。

 

『十一時十四分。精神の貸与時、検体の発言に変化。通常の発言制御が、一時的に緩むと推定』

 

「精神は、意志の力です。忍耐の力。己を律する力」

 

リゼットは、淡々と言った。

 

「十を貸しただけで、対象は、普段なら口にしないことを、口にしかけました」

 

彼女は、少しだけ間を置いた。

 

「七十を貸せば、対象に残る精神は、二十。一般男性と、ほぼ同じ値になります」

 

「……一般男性と、同じなら」

 

セラフィナが、小さく言った。

 

「問題は、ないのでは」

 

「一般男性には、抑えるべきものが、ほとんどありません」

 

リゼットは、言った。

 

「対象には、あります」

 

焚き火の周りが、静まり返った。

三人の視線が、アルトに集まった。

ロッサだけが、にやにやと笑っていた。

 

アルトは、焚き火の炎を見つめていた。

 

(……分かってる)

 

(精神を、七十も貸したら)

 

十八年間、押さえつけてきたもの。

それを押さえていた力が、二十しか残らない。

二十では、押さえきれない。

 

(全部、出る)

 

(考えてることが、全部、口から出る)

 

(この四人の前で)

アルトは、顔を上げた。

四人を、見回した。

セラフィナ。クラウディア。リゼット。ロッサ。

今日、森の中で、四人とも声に呑まれかけた。ロッサは腕に傷を負った。セラフィナは魔力を使い果たした。クラウディアは剣を落としかけた。リゼットは記録を失った。

それでも、全員、ここにいた。

 

(……仕方ない)

 

(いや、仕方ないじゃない)

 

(これは、選ぶことだ)

 

「……やりましょう」

 

アルトは、静かに言った。

四人が、アルトを見た。

 

「ただ、一つだけ、お願いが」

 

「何でしょうか」

 

クラウディアが、聞いた。

アルトは、少しだけ目を伏せた。

 

「……これから、何を言っても」

 

穏やかな声だった。

 

「聞かなかったことに、していただけますか」

 

アルトは、目を閉じた。

胸の奥の、重くて、硬くて、冷たいものを、意識した。

 

(精神)

 

(十八年の)

 

(七十)

 

意図した。

硬いものが、ほどけていった。

比較実験の日とは、比べものにならなかった。

あの日は、端の方が、ほんの少しだけほどけた。

今日は、根元から、ほどけていった。

ほどけて、細い糸を通って、四つの方向へ流れていった。

神官へ。副長へ。研究員へ。冒険者へ。

体が、軽くなった。

軽くなって、何か大事なものが、抜けていく感覚があった。

いつも胸の真ん中にあって、全部を押さえていた、重しのようなもの。

それが、なくなっていく。

アルトは、目を開けた。

 

焚き火の炎が、明るかった。

四人が、こちらを見ていた。

セラフィナの、空色の目。クラウディアの、灰色の目。リゼットの、眼鏡越しの目。ロッサの、金茶色の目。

リゼットが、携帯の水晶板を差し出した。

アルトは、手を置いた。

 

精神素90/貸出−70現在20

 

「……配分、完了」

 

リゼットが、淡々と記録した。

 

「各人の精神を、確認します」

 

四人が、それぞれ自分の水晶板に手を置いた。

数字が、浮かんだ。

 

百四十九。百五十四。百三十四。百二十九。

 

「推定通りです」

 

リゼットが、頷いた。

 

「対象の、体調は」

 

アルトは、口を開いた。

 

「セラフィナの鎖、毎回最高だと思ってる」

 

焚き火が、ぱちんと爆ぜた。

誰も、動かなかった。

アルトは、自分の口を押さえた。

押さえた手の下で、口が、まだ動いていた。

 

「あれ、胸の上と下を通ってるの、最初の儀式の日から、ずっと気になってた。毎回、本数が増えるたびに、ありがとうって思ってた。今日も、五本。五本目のやつが、一番いい角度」

 

セラフィナが、固まっていた。

空色の目が、まん丸に見開かれていた。

それから、顔が、耳まで、真っ赤になった。

鎖を、両手でぎゅっと握りしめた。

縛られた腕で、精一杯に。

 

「……っ、あ、あの」

 

「何本にいたしましょうか、って聞かれるたび、毎回、心の中で手を合わせてた」

 

セラフィナが、鎖を握ったまま、俯いた。

肩が、小刻みに震えていた。

 

アルトの視線が、隣に移った。

 

「クラウディア、跪いたときの角度が完璧すぎる」

 

クラウディアの背筋が、びくりと伸びた。

 

「右膝の、地面への下ろし方。左の拳の置き方。背中が一本の線になって、首だけ少し上を向く、あの角度。毎日、訓練の最後の四分の一の体力、あれのためだけに取っておいてた」

 

「……っ」

 

「髪を解いたときも、すごかった。あの花の香油、一滴じゃなくて、部屋中に撒いてたの、知ってる」

 

クラウディアの顔から、表情が消えた。

それから、首筋から、赤くなっていった。

彼女は、剣の柄を握りしめていた。

握りしめたまま、言った。

 

「……集中、できません」

 

報告の声だった。

報告の声が、裏返っていた。

 

アルトの視線が、さらに隣に移った。

リゼットは、記録板を構えていた。

ペンを、握っていた。

眼鏡の奥の目が、まっすぐにアルトを見ていた。

淡々とした顔だった。

 

「リゼット、今日も脇がいい」

 

ペンが、記録板の上で、がりっと音を立てた。

 

「対照群、毎朝、洗面台の前で悩んでるの、知ってる。悩んだ結果、毎日、残してくれてる。ありがとう。三つ編みも、下手なのがいい。うなじのとこで跳ねてるのが、すごくいい」

 

リゼットの顔が、崩れた。

淡々とした顔が。

耳が、首筋が、頬が、一気に赤くなった。

それでも、ペンは止まらなかった。

震える手で、記録板に書き続けていた。

 

「……二十時、十一分」

 

声が、上ずっていた。

 

「対象の、発言……『脇が、いい』……」

 

ペンが、記録板の上を、がたがたと走った。

 

「……継続、記録、します」

 

最後に、アルトの視線が、ロッサに移った。

ロッサは、焚き火の前に、あぐらをかいていた。

にやにやと、笑っていた。

 

「ロッサ、担がれてるとき、実は一番幸せ」

 

アルトの口が、言った。

 

「肩の上、熱くて、汗の匂いがして、笑うと背中に響く。王都を出てから、毎日、担がれるの楽しみにしてた。歩けるけど、歩けないふりしたこと、二回ある」

 

ロッサは、笑っていた。

腹を抱えて、豪快に。

 

「知ってた」

 

「知ってたんだ」

 

「心臓、うるさかったからな」

 

ロッサだけが、少しも崩れていなかった。

 

アルトは、焚き火の前で、両手で顔を覆っていた。

覆った手の下で、口が、まだ動いていた。

 

「みんな、いい匂いがする。セラフィナは陽だまりのミルクで、クラウディアは革と花で、リゼットは日向の猫で、ロッサは土と草と焚き火。マルグリットは、香水の下に焼き菓子。全部、違う。全部、好き」

 

「……アルト、殿」

 

クラウディアが、絞り出すように言った。

 

「聞かなかったことにしてほしいって言ったけど、無理だよね、これ。ごめん。でも、止まらない。ずっと、言いたかった。十八年、ずっと」

 

焚き火の周りで、四人が、それぞれのやり方で撃沈していた。

セラフィナは、鎖を握りしめて、俯いたまま震えていた。

クラウディアは、剣の柄を握ったまま、焚き火の一点を凝視していた。

リゼットは、耳まで真っ赤になりながら、記録板にペンを走らせ続けていた。

ロッサだけが、笑い転げていた。

 

夜が、更けていった。

アルトの口は、止まらなかった。

焚き火の前で、天幕の前で、水を飲みに行った小川のほとりで。

目に映るもの、全部について。

 

「セラフィナ、祈ってるときの横顔、ずっと見てられる」

 

「クラウディア、見張りの交代のとき、一瞬だけ欠伸を我慢したの、見えた。かわいい」

 

「リゼット、記録板に書くとき、舌の先がちょっと出てる。気づいてないよね」

 

「ロッサ、骨付き肉の食べ方が豪快すぎて、見てるだけでお腹空く」

 

四人は、撃沈しながらも、決戦の準備を進めていた。

クラウディアは、顔を赤くしたまま、明日の陣形を地図に書き込んだ。セラフィナは、耳まで赤くしたまま、聖具に祈りを込めた。リゼットは、震える手で、計算の確認を三回繰り返した。ロッサは、大剣を研いでいた。ときどき吹き出しながら。

アルトは、焚き火の前に座っていた。

もう、口を押さえていなかった。

押さえても、無駄だった。

 

「明日、勝ったら、みんなで美味しいもの食べたい」

 

「町の宿屋の、羊の煮込み。あれ、絶対美味しい」

 

「みんなが、無事だったら、それでいい」

 

その最後の一言だけは、四人とも、手を止めて聞いた。

 

夜が、明けた。

森の縁に、朝の光が差し込んでいた。

霧が、薄く白んでいた。

四人が、焚き火の燃えさしの前に立っていた。

装備は、整っていた。

ロッサの大剣。クラウディアの剣と鎧。セラフィナの聖具と鎖。リゼットの記録板と計測器。

全員、目の下に、薄い隈があった。

一晩中、本音を浴びせ続けられていた。

それでも、全員、背筋を伸ばして立っていた。

アルトが、天幕から出てきた。

四人を、見た。

朝の光の中で、四人の顔を、一人ずつ。

 

「みんな、綺麗だね」

 

アルトは、言った。

四人が、同時に、目を逸らした。

それから、クラウディアが、咳払いを一つした。

 

「……出発します」

 

声が、まだ少しだけ、裏返っていた。

 

 

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