男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
森の最深部は、霧が晴れていた。
晴れていた、というより、霧が、そこだけ避けていた。
古い木々の群れの、さらに奥。樹齢が何百年なのか見当もつかない巨木が、円を描くように立ち並んでいた。その円の内側だけ、霧がなかった。
円の中は、薄明るかった。
どこから光が来ているのか、分からなかった。空は、枝に覆われて見えない。それなのに、円の中だけが、夜明け前の空のような、淡い青白い光に満ちていた。
苔の上に、人が並んで横たわっていた。
若い女たちだった。
十一人。
羊飼いの服を着た娘。宿屋の前掛けをつけた娘。寝間着のままの娘。全員が、目を閉じていた。
眠っていた。
穏やかな顔だった。口元に、かすかな微笑みを浮かべている娘もいた。
幸せな夢を、見ているようだった。
遠征の、三週目の朝だった。
一行は、巨木の円の縁に立っていた。
ロッサ。クラウディア。セラフィナ。リゼット。
それから、アルト。
「……生きています」
リゼットが、記録板を握りしめて言った。
「呼吸が、あります。全員」
「眠らされてるだけ、ってことか」
ロッサが、大剣を肩から下ろした。
「なら、起こせばいい」
「本体を倒せば、魅了は解けると推定します」
リゼットは、円の中央を見た。
そこに、何かがいた。
最初は、霧の塊に見えた。
円の中央の、一番大きな巨木の根元。その根の間に、白い靄が、渦を巻いてうずくまっていた。
靄が、ゆっくりと形を変えた。
人の形に。
少年の形に。
幻影と、同じだった。
月の光を透かしたような、淡い髪。白い肌。細い体。怯えたような、潤んだ目。
ただ、幻影より、ずっと大きかった。
巨木の根の間に座っているのに、その頭は、一行の背丈の倍の高さにあった。
そして、少年の背中から、何かが伸びていた。
翼だった。
霧でできた、蝶の翅のような。薄く、透けて、ゆっくりと開いたり閉じたりしていた。
その翅が開くたびに、眠っている娘たちの寝息が、深くなった。
「……夢魔の王」
リゼットが、記録板に書き留めた。
ペンは、震えていなかった。
少年が、こちらを見た。
潤んだ目が、一行を、一人ずつ見た。
それから、唇が、動いた。
「……おいで」
声が、森全体を震わせた。
幻影のときとは、比べものにならなかった。
声が、耳からではなく、胸の奥から聞こえてくるようだった。心臓の、すぐ裏側から。
セラフィナが、聖具を胸に押し当てた。
クラウディアが、剣の柄を握りしめた。
リゼットが、記録板を抱きしめた。
ロッサが、大剣を構えた。
四人とも、足が止まらなかった。
一歩も、少年の方へ引き寄せられなかった。
「……抗えます」
リゼットが、言った。
「精神、百三十以上。推定通り」
「よし」
ロッサが、踏み込んだ。
「ぶっ叩く」
戦いが、始まった。
少年の翅が、大きく開いた。
霧が、円の外から流れ込んできた。流れ込んで、獣の形になった。
眷属だった。
一昨日より、ずっと多かった。
三十匹。四十匹。
円の縁を、ぐるりと取り囲むように。
「陣形、組みます!」
クラウディアが、叫んだ。
「ロッサ殿、前へ!私が左!リース神官、結界を後方に!ハーシェル殿、計測を!」
四人が、動いた。
一昨日の撤退のときより、ずっと滑らかに。
ロッサが、大剣を振るった。
眷属が、三匹まとめて裂けた。
精神に配分した分、筋力と敏捷は三割減っていた。それでも、速かった。
クラウディアが、左に回り込んだ。
剣筋が、乱れていなかった。
少年の声が、森を震わせても。一昨日、彼女の剣を苔に刺させた、あの声が。
今日は、届いていなかった。
「……効いてる」
アルトは、円の縁の、巨木の陰に立っていた。
セラフィナの結界の、内側。
四人の背中を、見ていた。
「みんな、効いてる」
声に、出ていた。
精神は、二十のままだった。
「右から来る!」
アルトが、叫んだ。
クラウディアの右から、眷属が二匹。
クラウディアが、振り返った。
一瞬、遅れて。
剣が、一匹目を薙いだ。二匹目の牙を、肩当てで受けた。
「……っ」
「あと今のクラウディアの踏み込み最高!」
アルトの口が、続けた。
クラウディアの剣先が、ほんの少しだけぶれた。
「……っ、今、それは」
「左足の、地面の蹴り方!訓練場で見てたのより、ずっと速い!かっこいい!」
「……集中、できません!」
クラウディアが、叫び返した。
叫びながら、眷属を斬り伏せた。
顔が、赤かった。
「ロッサ、後ろ!」
ロッサが、振り向きざまに大剣を払った。
眷属が、裂けた。
「ロッサの大剣の振り方、毎回見とれる!腰の回し方が、すごく綺麗!」
「知ってる!」
ロッサが、笑いながら叫び返した。
「もっと言え!力が出る!」
「背中の筋肉が、汗で光ってて最高!」
「おう!」
ロッサの大剣が、さらに速くなった。
「セラフィナ、結界、少し右が薄い!」
セラフィナが、聖具を右に傾けた。
結界の光が、右側で厚くなった。
「祈ってる声、すごく綺麗!鎖が光に照らされて、金色になってるのも最高!」
セラフィナの祈りの言葉が、一行だけ飛んだ。
「……っ、フェンネル様っ」
「ごめん、止まらない!」
「リゼット、計測、どう!」
リゼットは、記録板にペンを走らせていた。
円の縁の、結界の内側で。眷属の数、四人の動き、少年の翅の開閉の間隔、全部を。
「眷属、残り十八!」
彼女が、叫んだ。
叫ぶ声を、初めて聞いた。
「本体の翅、開閉の間隔、短くなっています!魅了を、強めようとしている!」
「リゼットの叫び声、初めて聞いた!かわいい!」
ペンが、記録板の上で、がりっと音を立てた。
「……記録、継続、します!」
指示と、本音が、混ざって飛んでいた。
右。左。後ろ。結界。計測。
最高。綺麗。かわいい。かっこいい。
アルトは、もう止めようとしていなかった。
止められなかった。
ただ、指示だけは、正確だった。
不思議なことに、本音が混ざるほど、指示の声がよく通った。
建前を挟まない声。考える前に、口から出る声。
それが、霧の中でも、まっすぐに四人に届いていた。
眷属が、減っていった。
十八が、十に。十が、五に。
少年が、巨木の根元で、翅を大きく広げた。
潤んだ目が、四人を見ていた。
一人ずつ。
神官を。副長を。研究員を。
それから、冒険者を。
少年の目が、ロッサの上で、止まった。
少年の翅が、ゆっくりと閉じた。
それから、もう一度、開いた。
今までで、一番大きく。
霧が、少年の体を包んだ。
少年の姿が、揺らいだ。
細い体が、霧の中で、形を変えていった。
月の光を透かした淡い髪が、色を変えていった。
濃い、焦げ茶の色に。
怯えた潤んだ目が、色を変えていった。
琥珀の色に。
細い腕が、太くなった。薄い胸が、厚くなった。
背が、伸びた。
肩が、広がった。
霧の中から、一人の男が、立ち上がった。
アルトだった。
いや、アルトではなかった。
アルトの顔をしていた。アルトの髪の色と、目の色をしていた。
けれど、体が、違った。
大きかった。
ロッサと同じくらいの背丈。ロッサよりも厚い胸。日焼けした肌。鍛え抜かれた腕。傷痕が、あちこちに白く走っている。
大剣を、片手で軽々と担いでいた。
その男が、ロッサを見た。
にかっと、笑った。
ロッサが、いつも浮かべている、あの笑い方で。
「よう」
男が、言った。
アルトの声だった。
ただ、低かった。太かった。
「強い女って、いいな」
ロッサの足が、止まった。
大剣を、振りかぶったまま。
金茶色の目が、男を見ていた。
「……あ」
小さな声が、ロッサの唇から漏れた。
「おい、ロッサ」
男が、手を差し伸べた。
大きな手だった。剣だこのある、硬い手。
「こっち来いよ。一緒に、もっと強い魔物を狩ろう。お前より強い男が、ここにいるぞ」
ロッサの大剣が、ゆっくりと下がった。
「……強い、男」
「ああ。お前が担がなくても、自分で歩ける男だ。お前と並んで、戦える男だ」
男は、にかっと笑った。
「そっちのヒョロいのより、ずっといいだろ」
ロッサの目が、揺れた。
金茶色の目が、男と、巨木の陰のアルトのあいだで、揺れた。
それから、焦点が、ぼやけた。
「ロッサ殿!」
クラウディアが、叫んだ。
「それは、幻です!」
ロッサは、聞いていなかった。
男の方へ、一歩、踏み出していた。
「……単純な人ほど」
リゼットが、記録板を握りしめて、呟いた。
声が、震えていた。
「欲求に、素直な人ほど、魅了にかかりやすい。……ロッサ殿の欲しいものは、強くなること。強い男。それを、そのまま見せられたら」
「精神は、百二十九あるはずでは!」
セラフィナが、叫んだ。
「足りません。……他の三人なら、ぎりぎり抗えたかもしれない。でも、ロッサ殿にだけは、あまりにも、まっすぐに」
リゼットのペンが、記録板の上で止まっていた。
ロッサが、男の前に立った。
男が、ロッサの肩に手を置いた。
それから、耳元で、何かを囁いた。
ロッサの体が、ゆっくりと、振り返った。
こちらを、向いた。
金茶色の目が、空っぽだった。
ロッサが、大剣を構えた。
一行の方に、向けて。
「……ロッサ、殿」
クラウディアが、剣を構え直した。
声が、かすれていた。
ロッサは、何も言わなかった。
金茶色の目が、円の縁を見ていた。
クラウディアを。セラフィナを。リゼットを。
それから、巨木の陰の、アルトを。
ロッサの足が、苔を蹴った。
速かった。
貸与の力が、彼女の脚に宿っていた。アルトが貸した、筋力と敏捷が。
その力で、ロッサは、まっすぐに。
アルトの方へ、跳んだ。
大剣が、振り上げられた。
身の丈ほどの刃が、淡い青白い光を受けて、冷たく光った。
アルトは、巨木の陰で、それを見上げていた。
逃げられなかった。
体の中に、何も残っていなかった。全部、貸していた。
ロッサに貸した力が、ロッサの腕の中で、大剣を振り上げていた。
「ロッサ」
アルトの口が、言った。
大剣が、振り下ろされた。