男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
金属がぶつかる音が、森を震わせた。
大剣が、止まっていた。
アルトの頭上、拳ひとつ分のところで。
その刃を、一本の剣が受け止めていた。
クラウディアだった。
円の縁から、一息で跳んできていた。アルトとロッサのあいだに、体を滑り込ませて。
両手で剣を握り、大剣の刃を、真下から受け止めていた。
腕が、震えていた。
ロッサの大剣は、重かった。アルトが貸した筋力が、その刃に乗っていた。素の百四十に、百近くが上乗せされた力が。
クラウディアの足が、苔の上で、じりじりと沈んでいった。
「……っ、ロッサ殿!」
クラウディアが、叫んだ。
「目を、覚ませ!」
ロッサの金茶色の目は、空っぽだった。
何も、映していなかった。
「アルト殿!下がってください!」
クラウディアが、歯を食いしばって言った。
アルトは、下がらなかった。
下がれなかった。
体が、動かなかった。全部、貸していた。精神も、筋力も、敏捷も。
それに、下がりたくなかった。
「ロッサ」
アルトは、言った。
大剣の刃の向こうの、空っぽの目に向かって。
「ロッサ、そっちは、違う」
ロッサの目は、動かなかった。
円の中央で、偽物のアルトが笑っていた。
大きな体。厚い胸。日焼けした腕。大剣を担いで、にかっと笑っている。
「強い女って、いいな」
偽物が、言った。
ロッサの大剣に、さらに力がこもった。
クラウディアの膝が、折れかけた。
「……届かない」
アルトは、目を閉じた。
胸の奥を、意識した。
貸与の回路。四本の細い糸。
セラフィナへ。クラウディアへ。リゼットへ。ロッサへ。
その糸を通じて、契約者には、意図がかすかに伝わる。騎士団の詰所の朝、水が欲しいと思っただけで、クラウディアが杯を差し出した。
今、ロッサへの糸の先で、何かが詰まっていた。
霧のような。厚い、白い、壁のような。
夢魔の魅了だった。
「なら」
アルトは、三本の糸を、意識した。
セラフィナへ。クラウディアへ。リゼットへ。
その先に、自分が貸した精神が、流れていた。七十のうち、四分の三。
「それを、全部、ロッサに」
意図した。
三本の糸から、精神が、引き戻されてくる。
セラフィナが、円の縁で、聖具を取り落とした。リゼットが、記録板を胸に抱いたまま、膝をついた。
クラウディアの剣が、ぶれた。
三人とも、魅了の声に、一瞬、呑まれかけた。
その精神を、ロッサへの糸に、流し込もうとした。
詰まっていた。
糸の先の、霧の壁に。
流れていかなかった。
「……だめだ」
「この糸じゃ、細すぎる」
「声が、届かない」
「アルト殿、精神を、三人に戻してください!」
クラウディアが、叫んだ。
「このままでは、全員が!」
アルトは、目を開けた。
三人に、精神を戻した。
セラフィナが、聖具を拾い直した。リゼットが、立ち上がった。クラウディアの剣が、また大剣を押し返した。
ロッサへの糸の先は、まだ、詰まったままだった。
「どうすれば」
アルトは、ロッサの空っぽの目を見ていた。
担がれていた肩。響いていた笑い声。土と、焚き火と、汗の匂い。
強い男って、いいな。
あの朝、天幕の外で、あんなに晴れやかに言った人が。
今、偽物の強い男に、連れていかれようとしていた。
(届け)
アルトは、思った。
本音でも、内心でもなかった。
ただ、それだけだった。
(届け)
その瞬間、胸の奥で、何かが、鳴った。
体の奥で、閉じていた扉が、また一枚、開いていく感覚があった。
天賦の儀から、五か月。
騎士団の訓練場。家庭教師の書斎。遠征の街道。眠りの森。
体が、少しずつ、変わっていた。担がれながら、歩きながら、霧の中を走りながら。
筋力も、体力も、敏捷も、少しずつ。
そして、精神。
精神を手放して、本音を全部吐き出して、それでも、この場から逃げなかった。
大剣の前に、立っていた。
我慢を失くしたまま、それでも、踏みとどまっていた。
そのことが、何かを、押し上げていた。
リゼットが、円の縁で、携帯の水晶板を握りしめていた。
板が、金色に光っていた。
「……っ」
リゼットが、板を見下ろした。
「素の力の、合計」
声が、震えていた。
「三百、六十」
金色の光が、アルトの体から溢れた。
いや、アルトの体からではなかった。
アルトと、四人を繋ぐ、四本の糸から。
糸が、光っていた。
細かった糸が、太くなっていた。
太く、明るく、まっすぐに。
リゼットの手の中の水晶板に、文字が流れていった。
アルト・フェンネル十八歳男
筋力40/体力46/敏捷38/器用33
魔力25/知力74/精神104(合計360)
スキル:【ステータス貸与】Lv49→Lv55
【第二の壁を突破】
契約5/7
増幅倍率×4
貸与上限素の合計の七割
意図伝達:明瞭
ロッサへの糸の先の、霧の壁が。
光に、照らされていた。
(——届く)
アルトは、もう、目を閉じなかった。
ロッサを、まっすぐに見ていた。
口を、開かなかった。
声は、口からではなく、糸を通って、流れていった。
まっすぐに。
霧の壁を、貫いて。
ロッサの頭の中に、直接。
『そっちのでかいのは、偽物』
ロッサの目が、揺れた。
『本物は、こっち。ひょろいし、自分で歩けないし、すぐ倒れるし、全然強くない』
金茶色の目に、ほんの少しだけ、光が戻った。
『でも、担がれるの、好きだった』
建前は、なかった。
精神を、全部貸したままだった。押さえるものが、何もなかった。
『ロッサの肩の上が、一番よかった。熱くて、汗の匂いがして、笑うと背中に響いて。歩けるのに、歩けないふりしたの、二回。もう知ってると思うけど』
ロッサの大剣が、止まった。
クラウディアの剣を押していた力が、ふっと抜けた。
『だから、戻ってきて』
アルトは、まっすぐに、ロッサを見ていた。
『また、担いで』
ロッサが、まばたきをした。
一度。
二度。
金茶色の目に、焦点が戻った。
目の前に、クラウディアの剣があった。その向こうに、巨木の陰の、アルトがいた。
ひょろくて。自分で歩けなくて。すぐ倒れて。
全然、強くない男。
ロッサは、大剣を下ろした。
振り返った。
円の中央に、偽物が立っていた。
大きな体。厚い胸。日焼けした腕。アルトの顔で、にかっと笑っている。
「強い女って、いいな」
偽物が、また言った。
ロッサは、偽物を見た。
それから、巨木の陰の本物を、肩越しに振り返った。
声を枯らして。顔を赤くして。自分の頭の中に、恥ずかしいことを全部流し込んできた男を。
ロッサは、にかっと笑った。
いつもの、あの笑い方で。
「……そっちの方が、いい男だな」
ロッサが、苔を蹴った。
速かった。
アルトの貸した敏捷が。倍率四で、さらに増した力が。
円の中央まで、一息で。
大剣が、振り上げられた。
偽物の笑顔が、一瞬、凍りついた。
それから、霧に戻ろうとした。
遅かった。
大剣が、振り下ろされた。
偽物が、真っ二つに裂けた。
裂けた霧の中から、少年の姿が、一瞬だけ見えた。
月の光を透かした髪。潤んだ目。細い体。夢魔の王の、本当の姿。
その姿も、大剣の刃が、通り抜けていった。
声が、森を震わせた。
悲鳴とも、溜め息ともつかない、長い、細い声。
それから、静かになった。
霧の翅が、ほどけて、散っていった。
円の縁で、眷属たちが、揺らいでいた。
主を失って、形を保てなくなっていた。
ただ、まだ、十匹ほどが残っていた。
散る前に、最後の力で、円の中へ飛びかかってこようとしていた。
『クラウディア、右から三、左から二、後ろから五』
アルトの声が、糸を通って、クラウディアの頭に届いた。
口からではなかった。
クラウディアが、目を見開いた。
それから、動いた。
右の三匹を、一閃で。左の二匹を、返す刃で。
『ロッサ、後ろの五、まとめて』
ロッサが、振り返りざまに大剣を払った。
五匹が、霧に散った。
『セラフィナ、結界を、眠ってる人たちの上に』
セラフィナが、聖具を掲げた。
金色の光が、眠っている十一人の娘たちを、覆った。
『リゼット、残りは』
「……ゼロ、です」
リゼットが、記録板から顔を上げた。
「眷属、全滅。本体、消滅を確認」
クラウディアが、剣を下ろした。
荒い息をついていた。
それから、アルトを振り返った。
灰色の目が、大きく見開かれていた。
「……今の、は」
「意図伝達、です」
リゼットが、答えた。
記録板を、震える手で抱えていた。
「第二の壁を越えて、明瞭になった。フェンネル殿の声が、口を介さずに、契約者の頭に直接届く」
クラウディアは、自分の手の中の剣を見下ろした。
「……戦場で」
彼女は、呟いた。
「指揮官の声が、全員の頭に、同時に、直接届く」
灰色の目が、光っていた。
「これが、あれば」
アルトは、巨木の根元に座り込んでいた。
声が、出なかった。
一晩中、本音を吐き出し続けた。戦いの最中も、指示と本音を叫び続けた。
最後は、糸を通して、全部を流し込んだ。
喉が、からからだった。声が、枯れていた。
ロッサが、大剣を肩に担いで、戻ってきた。
アルトの前で、しゃがみ込んだ。
金茶色の目が、アルトを見ていた。
「担いでほしいんだろ」
アルトは、枯れた声で、何か言おうとした。
声にならなかった。
代わりに、頷いた。
ロッサが、にかっと笑った。
その時、円の中で、誰かが身じろぎした。
眠っていた娘たちの一人だった。
羊飼いの服を着た娘。
ゆっくりと、目を開けた。
二か月ぶりに。
娘は、ぼんやりと、天を見上げていた。
枝の隙間から、朝の光が落ちてきていた。霧が、晴れていた。
それから、娘は、首を横に向けた。
円の縁の、巨木の根元。
そこに、一人の男が座っていた。
声を枯らして。顔を赤くして。赤毛の女冒険者の肩に、今まさに担ぎ上げられようとしている男。
娘は、それを見て、目を瞬いた。
「……殿方?」
か細い声だった。
二人目の娘が、目を開けた。三人目。四人目。
十一人の娘たちが、次々と目を覚ましていった。
そして、全員が、最初に見たのは。
声を枯らし切って、女冒険者の肩の上で揺られている、その男の姿だった。