男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
王宮の西の棟に、侍女長の執務室があった。
窓の大きな、明るい部屋だった。秋の初めの陽射しが、磨き上げられた床に、まっすぐ落ちていた。
その部屋の中央の大きな机の上に、一枚の紙が広げられていた。
紙というより、図面だった。
王宮の小広間の、見取り図。卓の位置。椅子の位置。窓の位置。扉の位置。
その上に、小さな駒がいくつも並べられていた。
白い駒が、十二個。蒼い駒が、一個。それから、焦げ茶色の駒が、一個。
駒と駒のあいだに、細い線が引かれていた。矢印。点線。数字。
軍略図だった。
図面の一番上に、几帳面な字で、表題が書いてあった。
『第十七次茶会作戦』
侍女長のグレタは、図面の前に立っていた。
五十歳。白いものの混じった髪を、一分の隙もなく結い上げている。背筋は、定規を当てたようにまっすぐだった。
その周りに、侍女たちが並んでいた。
十二人。
全員が、若く、美しく、そして真剣な顔をしていた。
「では、作戦の概要を説明します」
グレタは、指示棒を手に取った。
「目標は、二つ。第一に、フェンネル卿を王家の茶会に迎え、王家との縁を深めること。第二に」
指示棒が、蒼い駒を指した。
「姫様を、出席させること」
侍女たちが、頷いた。
全員が、その二つ目の目標の難しさを、知っていた。
グレタは、壁際の書架から、分厚い綴りを取り出した。
『茶会作戦記録』
表紙に、そう書いてあった。
彼女は、それを開いた。
「第一次。初夏、小庭園。フェンネル卿と準男爵夫人をお迎え。姫様、体調不良にてご欠席」
頁をめくる。
「第二次。初夏、東の庭。フェンネル卿のご都合により、準男爵夫人のみ。姫様、ご欠席」
「第三次。夏、温室。姫様、公務の重複にてご欠席」
「第四次。第五次。第六次」
グレタは、淡々と読み上げていった。
場所は、毎回違った。招いた客も、少しずつ違った。
結果は、毎回同じだった。
『姫様、ご欠席』
「第十六次。晩夏、北の露台。フェンネル卿は遠征中のため、ご不在。姫様、ご欠席」
グレタは、綴りを閉じた。
「十六回。すべて、失敗です」
執務室が、静まり返った。
「理由は、明白です」
グレタは、指示棒で図面を叩いた。
「これまでの茶会は、すべて、私的な茶会でした。王家の、ささやかな集まり。出席は、義務ではない。ですから、姫様は、体調を理由に、公務を理由に、いつでも欠席できた」
侍女たちが、顔を見合わせた。
「今回は、違います」
グレタは、机の上の書状を取り上げた。
王家の紋章の封蝋。女王陛下の、直筆の署名。
「凱旋の英雄を、王家が正式に労う。ネーベルフルトの夢魔討伐の功労者を、王家の名において招く。これは、公の茶会です」
グレタの目が、光った。
「公の茶会に、王家の第一王女が欠席することは、許されません」
侍女たちの間に、静かなどよめきが走った。
「ようやく、大義名分ができたのです」
グレタは、図面の上の駒を動かし始めた。
「卓は、円卓。上座に、女王陛下。その右に、姫様」
蒼い駒が、置かれた。
「姫様の、向かいに」
焦げ茶色の駒が、置かれた。
「フェンネル卿」
「向かい、ですか」
侍女の一人が、手を挙げた。
「隣の方が、よろしいのでは」
「隣にすれば、姫様は、椅子を少しずつずらされます」
グレタは、即答した。
「第九次の記録を見なさい。隣の席を用意したところ、姫様は、ご到着前に、ご自分の椅子を、隣の席から一尺離して置き直させました。……ご欠席でしたが」
侍女たちが、黙った。
「向かいなら、ずらしても、正面は変わりません」
グレタは、白い駒を、円卓の周りに並べていった。
「侍女は、六名を給仕に。残る六名は、フェンネル卿の両脇と、背後に。誘いの作法を、全力で」
「全力で」
「全力で、です」
グレタは、指示棒で、焦げ茶色の駒の周りに、ぐるりと円を描いた。
「フェンネル卿は、作法がよく効く方だと、王家の情報網で確認しております。……ただし、一つだけ、留意を」
「何でしょうか」
「姫様の前では、決して、姫様を差し置いて、フェンネル卿に迫りすぎないこと」
グレタは、図面を見下ろした。
「あくまで、姫様と、フェンネル卿のための茶会です。私たちは、その場を、温めるだけ」
その日の午後。
フェンネル家の玄関に、王宮の使いが現れた。
蒼い封蝋の書状を、恭しく差し出した。
母のマルタが、それを受け取って、封を切った。
読み上げる。
「ネーベルフルトにおける夢魔討伐の功を労い、アズール王家の名において、アルト・フェンネル殿を、王宮の茶会に招く」
母の声が、途中から震えていた。
「女王陛下、ならびに、第一王女殿下、ご臨席」
居間が、静まり返った。
それから、爆発した。
「王家の!」「女王陛下と!」「第一王女殿下!」
エルゼが、立ち上がった。ヘルガが、揚げ菓子の袋を放り投げた。
母は、書状を胸に抱いて、長椅子に崩れ落ちた。
「アルト……あなた、王家に……」
「母上、落ち着いてください」
「落ち着いていられますか!」
母は、書状を握りしめたまま、ぽろぽろと涙を流していた。
「天賦の儀の日、あんなに嘆いたのに。測定不能で、下限が算定できなくて、どうなることかと思ったのに。それが、王家の、茶会に」
「……母上」
「優しい奥さん一人と、穏やかに暮らしてほしかったのに」
母は、泣きながら笑っていた。
「それが、王家だなんて」
エルゼが、母の背中をさすっていた。
ヘルガは、揚げ菓子の袋を拾いながら、アルトの顔をじっと見ていた。
「ねえアルト。王女様って、どんな人?」
「……分かりません」
「会ったことあるんでしょ。叙任式とかで」
「見たことは、あります。でも」
アルトは、少しだけ言葉を探した。
「……分からない人です」
居間の隅で、父のハインツが、懐から小瓶を出していた。
包み紙にくるまれた、中身の見えない小瓶。
一本。
封を切って、飲み干した。
それから、もう一本出した。
朝の三本とは、別に。
父は、黙ってそれも飲み干した。
アルトは、それを見ていた。
(父上、今日、何本目なんだろう)
その夜。
神殿の小鑑定室で、セラフィナが言った。
「王家の、茶会ですか」
彼女は、記録簿から顔を上げていた。
空色の目が、まっすぐにアルトを見ていた。
「断れませんね。王家の、公のお招きでは」
「……はい」
セラフィナは、記録簿を閉じた。
それから、胸の前の鎖を、そっと握った。
六本だった。
遠征から戻って、また一本、増えていた。
「フェンネル様」
「はい」
「第一王女殿下のこと、どれほどご存じですか」
アルトは、少し考えた。
「叙任式で、一度。それから、大通りで、馬車の窓越しに一度。……凱旋の式典で、もう一度」
「三度」
「はい」
セラフィナは、しばらく黙っていた。
鎖を、握ったまま。
「……私も、一度だけ、お見かけしたことがあります」
彼女は、小さく言った。
「大神殿の、新年の祈りの儀で。王家の皆さまが、ご参列なさったとき」
「どんな、方でしたか」
セラフィナは、すぐには答えなかった。
燭台の灯りが、彼女の六本の鎖に映っていた。
「……鎖を、つけていらっしゃらないのに」
彼女は、ゆっくりと言った。
「鎖をつけているように、見えました」
アルトは、黙っていた。
「お気をつけください」
セラフィナは、穏やかに微笑んだ。
いつもの、柔らかい微笑みだった。
ただ、目だけが、笑っていなかった。
「……同じ匂いが、いたしますので」
(同じ、匂い)
(セラフィナと、同じ?)
(……王女……あの、見えない人)
王宮の東の棟。
その一番奥の部屋。
厚い帳で閉ざされた、花のない部屋。
王女は、鏡の前に立っていた。
侍女が二人、その背後に控えていた。
一人が、腕に、ドレスを掛けていた。
秋の茶会のための、新しいドレス。深い蒼の、上質な絹。首元から手首まで、足首まで覆う、王女のための仕立て。
晩夏の凱旋の式典で着たものより、生地が厚かった。
「姫様。明日の、茶会のお召し物です」
侍女が、ドレスを差し出した。
王女は、鏡の中の自分を見ていた。
詰まった襟。長い袖。白い手袋。首筋を隠すように下ろした、蒼い髪。
銀灰色の目が、鏡の中の自分を、静かに見つめていた。
それから、王女は言った。
「もう一枚」
侍女が、目を瞬いた。
「……姫様?」
王女は、鏡から目を離さなかった。
「もう一枚、重ねて」