男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
王宮の小広間は、秋の光に満ちていた。
高い窓から、午後の陽射しが斜めに差し込んでいる。窓の外には、色づき始めた王宮の庭。楓の葉が、ところどころ赤く染まっていた。
小広間の中央に、白い円卓が一つ。
銀の茶器。焼き菓子の皿。磨き上げられた燭台。
円卓の周りに、侍女たちが並んでいた。
十二人。
全員が、若く、美しく、着飾っていた。
アルトは、小広間の入口に立っていた。
付き添いの母のマルタが、すぐ後ろにいた。今日の母は、朝から一言も喋っていなかった。緊張で、声が出ないのだった。
「ようこそ、お越しくださいました」
侍女長のグレタが、恭しく一礼した。
「どうぞ、お掛けくださいませ」
グレタが示したのは、円卓の、上座から少し離れた席だった。
その向かいの席は、空いていた。
上座の席も、空いていた。
アルトが席に着いた瞬間、両側の椅子に、侍女が座った。
給仕ではなく、座った。
初夏の、小庭園の茶会と同じだった。
「お茶を、お注ぎいたしますわ」
右の侍女が、ポットを手に身を寄せた。
肩が、触れそうなほど近い。花の香油の匂いがした。
(……っ)
「焼き菓子は、いかがですか」
左の侍女が、皿を差し出しながら身を寄せた。
髪が、アルトの頬をかすめた。
(……っ、っ)
背後の侍女が、アルトの肩に、そっと手を置いた。
「お疲れでしょう。遠征から、お戻りになったばかりで」
その手が、ゆっくりと、肩を揉んだ。
(……あ、これ、だめなやつ)
母が、隣の席で、目を白黒させていた。
アルトは、穏やかな微笑みを、顔に貼りつけた。
(2、3、5、7……)
(今日は、素数、どこまで持つかな)
扉が、開いた。
小広間の空気が、変わった。
侍女たちが、一斉に立ち上がった。アルトの両側の侍女も、背後の侍女も。
アルトも、母も、立ち上がった。
女王が、入ってきた。
蒼い髪を高く結い上げ、肩も鎖骨も惜しげなく晒したドレス。堂々と、上座の席へ歩いていく。
その後ろに、もう一人。
アルトは、息を止めた。
王女だった。
叙任式のときより、近かった。
凱旋の式典のときより、ずっと近かった。
蒼い髪。
首筋を隠すように、肩のあたりで下ろしている。結い上げてはいなかった。
銀灰色の目。
まっすぐ前を見ていた。女王の背中を。上座の席を。
ドレスは、深い蒼の絹だった。
首元から、手首まで。手首から、足首まで。
一分の隙もなく、体を覆っていた。
詰まった襟が、喉元の一番上まで閉じられている。その上に、薄い、けれど確かに一枚分厚い、何かが重ねてあった。
二重の、襟だった。
袖は、手首を越えて、手の甲の半ばまで。その先に、白い手袋。肘の上まである、長い手袋。
秋の初めの、陽射しの暖かい午後だった。
王女だけが、冬の中にいた。
王女は、女王の右の席に、静かに腰を下ろした。
アルトの、正面だった。
円卓を挟んで。手を伸ばせば、届きそうな距離。
アルトは、王女を見ていた。
王女は、アルトを見なかった。
茶器を、見ていた。
侍女が、王女の茶碗に茶を注いだ。
王女は、手袋のまま、茶碗を手に取った。一口、飲んだ。
それから、茶碗を、受け皿に戻した。
かちん、と小さな音がした。
「本日は」
王女が、言った。
静かな声だった。
叙任式で聞いたのと、同じ声。よく通るのに、少しも響かない。
「遠路の遠征、まことにお疲れさまでございました」
銀灰色の目が、初めて、アルトを見た。
ほんの一瞬だった。
「ネーベルフルトの娘たちを救ってくださったこと、王家の一員として、心より感謝申し上げます」
「……恐れ入ります」
アルトは、一礼した。
王女は、もう、アルトを見ていなかった。
茶碗を、見ていた。
茶会は、続いた。
女王が、遠征の話を聞きたがった。
アルトは、穏やかに答えた。霧の町のこと。夢魔の幻影のこと。騎士団と神殿と魔導院と冒険者ギルドの、合同の戦い。
本音を叫んだことは、言わなかった。
侍女たちは、作戦通りに動いていた。
アルトの両側で、身を寄せる。耳元で、相槌を囁く。茶を注ぐたびに、手に触れる。
全部、誘いの作法だった。
アルトには、全部、効いていた。
ただ、正面に、王女がいた。
王女は、何もしなかった。
身を寄せなかった。囁かなかった。手に触れなかった。
香りも、纏っていなかった。
侍女たちの花の香油の匂いが、円卓じゅうに漂っていた。その中で、王女の座っている場所だけが、何の匂いもしなかった。
洗いたての布の匂いだけが、かすかに。
(……この人、何もしてこない)
侍女たちの作法が、四方から押し寄せてくる中で。
正面の王女だけが、静かだった。
穏やかで、礼儀正しくて、一定の距離を保っていた。
女王の問いかけに、短く答える。侍女の勧めに、小さく首を振る。
アルトの方を見るのは、話しかけられたときだけ。
それも、ほんの一瞬だけ。
女王が、侍女長と何か話し始めた。
侍女たちが、焼き菓子の皿を下げに動いた。
円卓の周りが、少しだけ、静かになった。
アルトは、茶碗を口に運んだ。
その時だった。
風が、吹いた。
窓が、少しだけ開いていた。秋の、乾いた風が、小広間の中を通り抜けていった。
円卓の上を。
正面の、王女の側から、こちらへ。
匂いが、した。
かすかだった。
ほんの、かすかだった。
侍女たちの花の香油の匂いに紛れて、ほとんど分からないほど。
けれど、違った。
侍女たちの香油とは、違う匂いだった。
熱を帯びていた。
甘かった。
花の匂いだった。
ただ、花の香油の匂いではなかった。
もっと、深い。もっと、濃い。
一輪の花ではなかった。
たくさんの花が、閉じ込められた場所で、一斉に咲いているような。
その匂いが、ほんの一筋だけ、風に乗って届いた。
それから、すぐに消えた。
(……)
アルトは、茶碗を口元に止めたまま、動かなかった。
王女は、茶碗を見ていた。
何も、変わらない顔で。
アルトは、小広間を見回した。
壁際の飾り棚。窓辺。円卓の上。
王宮の茶会だった。
初夏の小庭園の茶会では、花が咲き乱れていた。王宮のどの部屋にも、季節の花が飾られていた。
この小広間には、花が、一輪もなかった。
飾り棚の上の花瓶は、空だった。窓辺の鉢も、空だった。円卓の上の、小さな一輪挿しも。
空だった。
(……花が、ない)
(でも、花の匂いが、した)
アルトは、正面の王女を見た。
王女は、茶碗を手に取っていた。
一口だけ、飲んだ。
受け皿に、戻した。
かちん、と小さな音がした。
(……)
内心が、言葉にならなかった。
侍女たちの作法に、ずっと微震していた。素数を数えていた。崩れそうになるのを、何度も堪えていた。
それが、王女の前では、何も起きなかった。
微震すら、言葉にならなかった。
ただ、空白だった。
王女が、立ち上がった。
侍女たちが、一斉に動きを止めた。
「失礼いたします」
王女は、女王に一礼した。
それから、アルトの方を向いた。
銀灰色の目が、アルトを見た。
ほんの一瞬だけ。
「本日は、ありがとうございました」
静かな声だった。
「どうぞ、ごゆっくり」
王女は、踵を返した。
扉の方へ、歩いていった。
一度も、振り返らなかった。
茶碗の中には、まだ、茶が半分以上残っていた。
扉が、閉まった。
小広間が、静まり返った。
侍女たちが、顔を見合わせていた。
グレタが、閉じた扉を見つめていた。
その顔に、表情はなかった。
ただ、手に持っていた扇が、ほんのわずかに、止まっていた。
女王が、くすりと笑った。
「……一杯だけ、ね」
それから、何事もなかったように、アルトに向き直った。
「さあ、フェンネル卿。焼き菓子が、まだ残っているわ。遠征の話の、続きを」
アルトは、女王に一礼した。
穏やかに、微笑んだ。
遠征の話の、続きをした。
ただ、話しながら、ずっと考えていた。
あの匂い。
花のない部屋で、一筋だけ届いた、花の匂い。
閉じ込められた場所で、たくさんの花が、一斉に咲いているような。
(……あの人、何なんだ)
その夜。
侍女長の執務室。
グレタは、机の前に座っていた。
『茶会作戦記録』の綴りを開いていた。
新しい頁に、ペンを走らせる。
『第十七次。初秋、小広間。フェンネル卿と準男爵夫人をお迎え。女王陛下ご臨席。姫様、ご出席。』
ペンが、一度止まった。
ご出席。
十六回の失敗のあとで、初めて書く言葉だった。
グレタは、続けた。
『姫様、茶を一杯のみ召し上がり、ご退席。フェンネル卿との会話、二言。誘いの作法、なし。』
ペンが、また止まった。
グレタは、窓の外を見た。
王宮の東の棟。その一番奥の窓だけが、今夜も、厚い帳で閉ざされていた。
グレタは、ペンを取り直した。
綴りの一番下に、一行を書いた。
『第十七次茶会作戦、……失敗です』