男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
王宮の南の棟は、静かだった。
女王の私室へ続く廊下は、長かった。
両側の壁に、歴代の王の肖像画が並んでいる。蒼い髪。蒼い髪。蒼い髪。アズール王家の血を引く者は、皆、同じ色の髪をしていた。
床には、厚い絨毯。足音が、どこにも響かなかった。
アルトは、侍女に案内されて、その廊下を歩いていた。
付き添いの母は、廊下の入口の控えの間で待っていた。
「一人で、いらっしゃい」
女王の書状の通りに。
(何の、話なんだろう)
アルトは、歩きながら考えていた。
茶会作戦は、二十回を数えていた。王女は、毎回、一杯だけ茶を飲んで、席を立った。
侍女長の綴りには、毎回、同じ言葉が書かれているのだろう。
失敗です、と。
(そのことで、何か)
廊下の、半ばだった。
向こうから、誰かが歩いてきた。
男性だった。
四十代の半ばを過ぎたくらい。背が高く、細身で、穏やかな顔立ちをしていた。
上質な服を着ていた。王家の者だけが身につける、蒼い糸の刺繍が、襟元に入っていた。
ただ、少しだけ、猫背だった。
それから、目の下に、隈があった。
深い、隈だった。
何年も、何十年も、一度も取れたことがないような。
男性は、アルトに気づいて、足を止めた。
案内の侍女が、深々と頭を下げた。
「王配殿下」
(王配)
女王の、夫。
この国で、女王の隣に立つ男。
アルトも、慌てて頭を下げた。
「アルト・フェンネルと申します」
「……ああ」
王配は、穏やかに頷いた。
「君が」
それだけ言って、王配はアルトの顔を見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
その目を、アルトは知っていた。
(……父上と、同じ目だ)
穏やかで。優しくて。それから、ほんの少しだけ、疲れている目。
フェンネル家の食卓で、毎朝、小瓶を三本並べている人と。
同じ目だった。
「……妻が、待っている」
王配は、静かに言った。
「行きなさい」
それから、アルトの横を通り過ぎていった。
ゆっくりとした足取りで。少しだけ猫背の背中で。
アルトは、その背中を見送っていた。
女王の私室の扉は、蒼く塗られていた。
侍女が、扉を叩いた。
「フェンネル卿を、お連れいたしました」
「お入りなさい」
扉の向こうから、声がした。
張りのある、よく響く声だった。
侍女が、扉を開けた。
アルトは、中に入った。
扉が、背後で閉まった。
女王の私室は、明るかった。
大きな窓が、三つ。秋の午後の陽射しが、部屋じゅうに満ちていた。
窓辺に、花が飾られていた。
大きな花瓶に、色とりどりの秋の花。菊。秋桜。竜胆。
花の匂いが、部屋に満ちていた。
(……花が、ある)
(王女の部屋には、一輪もなかったのに)
部屋の中央に、長椅子が一つ。
そこに、女王が座っていた。
蒼い髪を、高く結い上げていた。
それから、ドレス。
アルトは、目のやり場に困った。
肩が、出ていた。鎖骨が、出ていた。
胸元が、大きく開いていた。
腕は、袖がなかった。裾は、片側に深い切れ込みが入っていて、座っていると、膝の上まで脚が見えていた。
叙任式でも、茶会でも、女王は肌を見せるドレスを着ていた。
今日は、それ以上だった。
私室だから、なのか。
(……っ)
女王は、長椅子にゆったりともたれていた。
扇を、手にしていた。
蒼い目が、アルトを見ていた。
面白そうに。
「お掛けなさい」
女王は、向かいの椅子を扇で示した。
「近くに。遠慮はいらないわ」
アルトは、椅子に座った。
近かった。
女王の香りがした。
花の香油。華やかで、濃くて、自信に満ちた匂い。
(……っ、っ)
「フェンネル卿」
女王は、扇を広げた。
「単刀直入に言うわ」
扇の陰で、蒼い目が光った。
「王家は、あなたを、王配に迎えたいの」
アルトは、動かなかった。
(……え)
「茶会作戦のことは、知っているでしょう。二十回も、グレタが頑張っているのだから」
女王は、くすりと笑った。
「あれは、わたくしの指示よ。王家は、あなたが欲しい。夢魔を討った英雄。騎士団を強く
した男。神殿の祝福を倍にした男」
女王は、扇を閉じた。
それから、身を乗り出した。
胸元が、さらに大きく開いた。
(——っ、ちょ、待っ)
(近い、近い、近い)
(陛下、それは、さすがに)
(大変、結構な、お手前で)
「……光栄に、存じます」
アルトの声は、穏やかだった。
女王は、それを聞いて、もう一度くすりと笑った。
「あら。顔色ひとつ変えないのね」
「……恐れ入ります」
「グレタの報告では、侍女たちの作法には、全部効くと聞いていたのだけど」
女王は、扇で口元を隠した。
「わたくしでは、物足りないかしら」
「……とんでもございません」
(物足りないわけがない)
(全力で、効いてます)
女王は、しばらくアルトの顔を見ていた。
それから、長椅子の背にもたれ直した。
「まあ、いいわ。わたくしのことは、どうでもいいの」
女王は、扇を膝の上に置いた。
少しだけ、表情が変わった。
さっきまでの、面白がるような顔ではなかった。
「問題は、あの子よ」
「……第一王女殿下、ですか」
「ええ」
女王は、窓の外を見た。
王宮の東の棟が、窓の向こうに見えていた。
その一番奥の窓だけが、昼間なのに、厚い帳で閉ざされていた。
「二十回の茶会で、あの子は、あなたと何言話したかしら」
「……数えたことは」
「グレタが数えているわ。合わせて、九言」
女王は、小さく息をついた。
「二十回で、九言。一杯ずつの茶。それで、席を立つ」
「……殿下は、お体が、弱いのでは」
アルトは、言った。
「服も、いつも、厚着をなさっていて。秋なのに、外套まで。……私は、ずっと、心配していたのですが」
女王が、アルトを見た。
蒼い目が、少しだけ見開かれていた。
「……心配」
「はい。熱中症に、なるのではないかと。真夏にも、冬物を着ていらしたので」
女王は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
今度は、面白がる笑いではなかった。
もっと、静かな笑いだった。
「……あなた、本当に、あの子のことを心配しているのね」
「あの子は、体が弱いのではないわ」
女王は、言った。
「むしろ、丈夫よ。わたくしより、ずっと」
「では、なぜ、あのような」
女王は、答えなかった。
扇を、膝の上で、ゆっくりと開いたり閉じたりしていた。
それから、言った。
「フェンネル卿。【臣従の冠】という名を、聞いたことがあるかしら」
「……いえ」
「アズール王家の、血に伝わるスキルよ」
女王は、自分の胸に、そっと手を当てた。
「わたくしも、持っている。あの子も、持っている。この王家に生まれた女は、皆、これを持って生まれてくる」
「どのような」
「民の忠誠を、力に変えるの」
女王は、窓の外の王都を見た。
「民が、王家を慕えば慕うほど、わたくしたちは強くなる。だから、アズールの女王は、代々、民に慕われる統治をしてきた。慕われれば、強くなる。強くなれば、国を守れる」
「……素晴らしい、スキルですね」
女王は、アルトを見た。
蒼い目が、何かを測るように、アルトを見ていた。
「……そうね」
女王は、それ以上は、説明しなかった。
ただ、扇を閉じて、膝の上に置いた。
「あの子は」
女王は、ぽつりと言った。
窓の外の、東の棟の、厚い帳の窓を見ていた。
「わたくしより、我慢強いのよ」
声が、静かだった。
女王の声では、なかった。
母親の、声だった。
「わたくしは、十八で、ルートヴィヒと結婚したわ。あなたが廊下ですれ違った、あの人よ」
(王配殿下)
(父上と、同じ目の)
「わたくしは、我慢ができなかった。だから、早く結婚した。結婚すれば、我慢しなくていいから」
女王は、小さく笑った。
「ルートヴィヒには、苦労をかけているわ。……あの人は、一度も愚痴を言わないけれど」
アルトは、黙っていた。
廊下ですれ違った、王配の、深い隈を思い出していた。
「あの子は、違う」
女王は、言った。
「十八になっても、結婚しない。誰も、選ばない。どんな縁談も、断る。それでいて」
女王の扇が、膝の上で、きゅっと握られた。
「……一度も、弱音を吐かない。一度も、わたくしに助けを求めない。全部、自分一人で、抑え込んでいる」
女王は、アルトを見た。
「わたくしより、ずっと、我慢強いの」
それから、小さく付け加えた。
「……困ったことに」
アルトは、何も言えなかった。
女王の言葉の意味が、全部は分からなかった。
【臣従の冠】。民の忠誠を、力に変えるスキル。
それと、王女の厚い服と、一杯だけの茶と、震える手袋の指先が、どう繋がるのか。
まだ、分からなかった。
ただ、一つだけ、分かったことがあった。
女王は、王女を、心配していた。
露骨な茶会作戦も、侍女たちの誘いの作法も、王配に迎えたいという話も。
全部、あの子のためだった。
(……母上と、同じだ)
フェンネル家の居間で、縁談の書類を選り好みしている母。優しい奥さん一人と、穏やかに暮らしてほしい、と泣いていた母。
形は、違った。
けれど、同じだった。
「……陛下」
アルトは、言った。
「殿下は、何を、我慢していらっしゃるのですか」
女王は、しばらくアルトを見ていた。
それから、ゆっくりと首を振った。
「それは、わたくしの口から言うことではないわ」
女王は、扇を広げた。
扇の陰で、蒼い目が、少しだけ潤んで見えた。
「あの子が、自分で言えるようになるまで。……あるいは、あなたが、自分で気づくまで」
女王の私室を出たのは、日が傾き始めた頃だった。
扉の前で、アルトは一礼した。
廊下に出る。
扉が、背後で閉まった。
長い廊下を、入口の方へ歩き出した。
歴代の王の肖像画。蒼い髪。蒼い髪。蒼い髪。
廊下の、半ばだった。
向こうから、また、王配が歩いてきた。
さっきと同じ、ゆっくりとした足取りで。少しだけ猫背の背中で。
王配は、アルトの前で足を止めた。
何も、言わなかった。
ただ、アルトの顔を見ていた。
穏やかで。優しくて。少しだけ疲れている目で。
それから、王配は、手を伸ばした。
アルトの肩に、そっと置いた。
大きな手だった。重くて、温かかった。
ぽん、と一度だけ、叩いた。
何も言わずに。
それから、王配は、アルトの横を通り過ぎていった。
女王の私室の方へ。
アルトは、廊下の真ん中に立ったまま、動けなかった。
肩に、まだ、手の重さが残っていた。
(……え)
天賦の儀の日。
フェンネル家の玄関の前で、父が、肩に手を置いた。
『……いいスキルで、よかったな』
あのときと、同じ重さだった。
同じ、温かさだった。
(……この人も?)
(父上と、同じ……?)
アルトは、振り返った。
王配の背中が、廊下の向こうに遠ざかっていった。
蒼い扉の前で、王配は一度だけ立ち止まった。
懐に、手を入れた。
何かを取り出して、口に運んだ。
小瓶だった。
包み紙にくるまれた、中身の見えない小瓶。
女王の私室で、女王は窓辺に立っていた。
東の棟の、厚い帳の窓を見ていた。
扉が開いて、侍女長のグレタが入ってきた。
「陛下。フェンネル卿は、お帰りになりました」
「ええ」
女王は、窓から目を離さなかった。
「グレタ」
「はい」
「あの人、あの子のことを、心配していたわ」
グレタは、黙っていた。
「熱中症になるのではないか、ですって。真夏に冬物を着ているから」
女王は、くすりと笑った。
それから、笑いを収めた。
「……グレタ」
「はい」
「次の茶会は」
女王は、振り返った。
蒼い目が、まっすぐに侍女長を見ていた。
「あの子と、二人きりで」