男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
雨は、夜になっても止まなかった。
小鑑定室の窓を、絶え間なく水が叩いている。 燭台の灯りが一つ。机の上の水晶板が、その灯りをぼんやりと映していた。
客間に案内されたエルゼからは、少し前に言伝が届いていた。 『こちらは大丈夫。あなたも早く休みなさい』
アルトは窓際の椅子に座って、雨を見ていた。
寝台代わりに、神殿の下働きが毛布を一枚運んでくれていた。 それを膝に掛けたまま、眠る気にはなれなかった。
扉が叩かれた。
「……フェンネル様。まだ、起きていらっしゃいますか」
「はい」
扉が開いて、セラフィナが入ってきた。
手に、小さな盆を持っていた。 湯気の立つ茶が二杯。
「温かいものを、と思いまして」
「ありがとうございます」
彼女は盆を机に置いた。 縛られた腕で器用に茶碗を差し出して、それから自分も向かいの椅子に腰を下ろした。
鎖は、三本だった。
手首の枷から伸びる鎖の端は、今夜はどこにも繋がれていなかった。 小鑑定室の壁の金具は、扉のすぐ横にある。そこまで鎖を伸ばしたら、彼女は椅子に座れない。
だから彼女は、鎖の端を自分の膝の上に置いていた。
「……温かいですね」
アルトが茶を一口飲んで言った。
「はい。生姜を、少しだけ」
それきり、会話が途切れた。
雨の音。 燭台の芯が、ときどき小さく爆ぜる音。
セラフィナが、膝の上の鎖をいじっていた。
肩口の留め具が、少し緩んでいるらしかった。 縛られた手でそれを直そうとして、うまく指が届かない。何度か試して、そのたびに鎖がしゃらしゃらと鳴った。
「お手伝い、しましょうか」
「いえ」
彼女は首を振った。 それから、留め具から手を離した。
「……いいえ。直らなくても、構いません」
「フェンネル様」
雨音の中で、セラフィナが言った。
「お話ししたいことが、ございます」
アルトは茶碗を置いた。
「儀式の日のことです」
彼女は膝の上の鎖を見つめていた。
「祈りの最中に、視線を感じました。……鎖の上を。私の、胸の上を」
アルトは黙っていた。
「一度だけ、止まった視線でした」
雨が、窓を叩いた。
「それから、鑑定のたびに」
彼女の声は、静かだった。
「毎回、感じます。読み上げている間も、記録を書いている間も、お帰りになる前も」
彼女は顔を上げた。
空色の目が、燭台の灯りを映していた。
「私、二十年生きてまいりました。神官になって、何人もの殿方の儀式を務めました。けれど」
息を吸う。
「殿方に、あのように見られたのは。生まれて、初めてです」
アルトは、口を開いた。
いつもの答えが、喉元まで来ていた。 緊張していて。目のやり場に困って。そういうつもりでは。
十八年間、何百回と使ってきた言葉だった。
(……違うな)
アルトは、その言葉を飲み込んだ。
この人は、一週間前からずっと分かっている。 分かっていて、それでも毎回、同じ部屋で待っていてくれた。
その人に、また建前を返すのか。
「……見ていました」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「すみません」
セラフィナが、目を見開いた。
それから、困ったように笑った。
「謝られると、困ります」
「……困らせてしまいましたか」
「はい。とても」
彼女は膝の上で、縛られた手をぎゅっと握った。
「私は、怒るべきなのだと思います。神官として、殿方にそのような目を向けられたのですから」
「ええ」
「でも、怒れないのです」
彼女の頬に、ゆっくりと朱が差していった。
「見られていると分かって、困って。困っているのに、来週もいらっしゃるか、毎日考えてしまって」
「…………」
「臨時の申請が届くたびに、喉が渇くような気がして」
雨の音が、遠くなった気がした。
「鎖を一本増やしたのも、静まるかと思ったのに、少しも静まらなくて」
彼女はそこで、言葉を切った。
自分が何を言っているのか、分かっている顔だった。 分かっていて、止められない顔だった。
アルトも、同じ顔をしていたのかもしれない。
沈黙が落ちた。
雨。燭台の灯り。 机一つを挟んだ、二人の距離。
(十八年)
アルトは、静かに思った。
(いや、三十六年)
前世の三年間。男しかいない教室。合格通知を握りしめた、あの春の夜。 この世界の十八年。女を目で追うたびに逸らしてきた視線。誰にも言えなかった言葉。
その全部の先に、今、この部屋があった。
セラフィナが、口を開いた。
「……誓いは」
小さな声だった。
「神官の誓いは。神官の側から、男に触れてはならない。……です」
彼女はアルトを見ていた。
一言ずつ、確かめるように。 自分が見つけてしまったものを、差し出すように。
「神官の、側から」
アルトは、その意味を理解した。
経典の一行。 初めての定期鑑定の日に、彼女が鎖を机の角に引っかけながら言った言葉。
神官の側から触れてはならない。
(……それなら)
アルトは、ゆっくりと立ち上がった。
机を回り込む。 一歩。二歩。
セラフィナは椅子に座ったまま、動かなかった。 逃げなかった。顔を伏せもしなかった。
ただ、膝の上の鎖を握る指先が、かすかに震えていた。
アルトは、彼女の前に立った。
「……では」
声が、掠れた。
「私の方から触れるのは」
セラフィナが、目を伏せた。
長い睫毛が、燭台の灯りの中で震えていた。
「……誓いには、反しません」
アルトは手を伸ばした。
指先が、まず鎖に触れた。 彼女の肩から斜めに走る、銀の鎖。
冷たかった。
それから、その鎖越しに、彼女の頬に触れた。
温かかった。
雨の夜の冷えた空気の中で、彼女の頬だけが熱を帯びていた。 指先の下で、その熱が少しずつ上がっていくのが分かった。
セラフィナが、目を閉じた。
鎖が、しゃら、と鳴った。
緩んでいた肩口の留め具が、外れた音だった。
(ああ)
アルトは思った。
言葉にはならなかった。 十八年分の言葉を、もう何も用意していなかった。
ただ、その一言だけがあった。
(ああ、やっと)
燭台の灯りが、揺れた。
雨の音が、すべてを包んだ。
夜明け前。
雨は、いつの間にか止んでいた。
小鑑定室の窓が、ほんのりと白み始めていた。 燭台の蝋燭は燃え尽きて、細い煙だけが残っている。
床に、三本の鎖が落ちていた。
その上に、毛布が一枚、半分だけかかっていた。
アルトは、目を開けていた。
隣で、規則正しい寝息が聞こえる。 金色の髪が、枕代わりの彼の腕の上に広がっていた。
陽だまりのミルクの匂いが、すぐそこにあった。
(……夢じゃ、ないな)
体が、ひどく重かった。
指一本動かすのも億劫だった。この世界の男たちが「消耗の種」と呼ぶものの意味が、少しだけ分かった気がした。
それでも、胸の内は静かだった。
満ちていた。
十八年、ずっと空っぽだった場所が、満ちていた。
ふと、視界の端で、何かが光った。
机の上の水晶板だった。
誰も手を置いていないのに、その表面に、淡い金色の文字が浮かび上がっていた。
【ステータス貸与】
契約成立:セラフィナ・リース
契約 1/3
文字は、ほんの数呼吸のあいだ灯っていた。
それから、朝の光に溶けるように、静かに消えた。