男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
王宮の東の庭の奥に、小さな東屋があった。
楓の林に囲まれた、白い石の東屋。屋根の下に、小さな円卓と、椅子が二脚。
秋が、深まっていた。
楓の葉が、真っ赤に色づいていた。風が吹くたびに、葉が一枚、また一枚と、東屋の屋根に落ちてきた。
アルトは、その東屋の椅子に座っていた。
向かいの椅子に、王女が座っていた。
二人きりだった。
侍女が一人、楓の林の入口に控えていた。東屋から、声の届かない距離に。
付き添いの母は、王宮の控えの間で待っていた。「お茶会よ。二人きりの」と聞いて、母は朝から三回卒倒しかけた。
王女は、茶を淹れていた。
手袋のまま。
白い、肘の上まである手袋。その上に、もう一枚、薄い手袋を重ねていた。
二重の手袋で、ポットを傾ける。茶碗に、琥珀色の茶が注がれる。
手つきは、丁寧だった。
一滴も、こぼさなかった。
王女は、茶碗をアルトの前に置いた。
「どうぞ」
静かな声だった。
「……ありがとうございます」
アルトは、茶碗を手に取った。
温かかった。
王女は、自分の茶碗にも茶を注いだ。
それから、椅子に座り直した。
背筋を伸ばして。両手を膝の上に重ねて。
ドレスは、深い蒼の絹だった。その上に、肩掛け。その上に、外套。
外套の襟が、顎の下まで立てられていた。
首筋は、見えなかった。
沈黙が、落ちた。
楓の葉が、屋根に落ちる音。遠くで、鳥が鳴く音。
王女は、何も言わなかった。
茶碗を、手に取ることもしなかった。
ただ、膝の上で手袋を重ねて、まっすぐに座っていた。
迫ってこなかった。
身を寄せなかった。囁かなかった。手に触れなかった。
香りも、纏っていなかった。
洗いたての布の匂いだけが、かすかに。
(……二人きりでも、同じなんだ)
侍女がいてもいなくても。女王がいてもいなくても。
この人は、何もしてこない。
アルトは、茶を一口飲んだ。
それから、言った。
「……殿下は、お茶を、召し上がらないのですか」
王女が、顔を上げた。
銀灰色の目が、アルトを見た。
今日は、すぐには逸らさなかった。
「……後ほど」
王女は、言った。
それから、少しだけ間を置いた。
「先に、お伺いしたいことが、ございます」
王女は、円卓の端に置いてあった、羊皮紙の束を手に取った。
紐で綴じた、薄い束だった。
表紙に、王立大神殿の紋章が押されていた。
「王家の権限で、取り寄せました」
王女は、手袋のまま、束を開いた。
「フェンネル卿の、天賦の儀からの、鑑定の記録の写しです」
アルトは、目を瞬いた。
(取り寄せた)
(王家の権限で)
王女は、頁をめくっていった。
一頁目。天賦の儀の日。
筋力十四。体力十六。敏捷十五。器用二十二。魔力十八。知力四十一。
その次の欄で、王女の指が止まった。
二重の手袋の、指先が。
「……精神」
王女は、その数字を、声に出して読んだ。
「八十五」
楓の葉が、一枚、円卓の上に落ちてきた。
王女は、それを払いもしなかった。
鑑定の記録を、見つめていた。
「一般の男性の、精神の平均は、十五前後と伺っております」
王女は、静かに言った。
「八十五は、その五倍を超えています」
それから、頁をめくった。
天賦の儀から、今日まで。定期鑑定の記録が、一週ごとに並んでいた。
八十五。八十六。八十七。九十。
遠征から戻って。
百四。
「……今は、百を超えていますね」
王女は、記録から顔を上げた。
銀灰色の目が、アルトを見ていた。
まっすぐに。
逸らさずに。
「この数値は」
王女は、言った。
「長く、何かを我慢してきた人のものです」
アルトは、動かなかった。
茶碗を、手に持ったまま。
(……え)
十八年。
天賦の儀の日、記録係のペンが止まった。セラフィナの声が止まった。
「何か、心当たりは」
聞かれて、アルトは答えた。
「……特には」
(十八年我慢してました)
誰にも、言わなかった。
セラフィナは、儀式の日に、口の端を見て、何かに気づいた。クラウディアは、花の香油の夕暮れに。リゼットは、心拍計の山脈に。マルグリットは、十二呼吸に。ロッサは、顔に書いてある、と。
五人とも、気づいた。
ただ、五人が気づいたのは、アルトが「何を」欲しがっているか、だった。
この人は、違った。
この人が見ていたのは、アルトが「どれだけ長く」それを抑えてきたか、だった。
「王家の情報網で、伺っておりました」
王女は、鑑定の記録を、円卓の上に置いた。
「天賦の儀の後、ほどなくして。フェンネル卿には、その」
王女は、少しだけ言葉を選んだ。
「……世界的に見ても、異常な、女好きの疑惑がある、と」
(バレてた)
(王家にまで、バレてた)
アルトは、穏やかな顔を保とうとした。
保てなかった。
顔が、少しだけ、熱くなった。
王女は、それを見ていた。
ほんの少しだけ、口元が動いた。
笑ったのかもしれなかった。分からなかった。すぐに、元の表情に戻ったから。
「それを聞いて、わたくしは、フェンネル卿に、興味を持ちました」
王女は、言った。
「……正直に、申し上げます」
「……はい」
「この国で、女を恐れない殿方がいる。それだけで、わたくしには、十分に興味深いことでしたので」
王女は、膝の上で、二重の手袋を重ね直した。
「ですが」
銀灰色の目が、円卓の上の、鑑定の記録を見下ろした。
精神、八十五。
「この数値を見て、別のことを、知りました」
「フェンネル卿は、女を恐れない」
王女は、言った。
「それどころか、女に、惹かれる。この国の殿方とは、正反対に」
「……」
「けれど、この国では、そのような殿方は、いないことになっております。いれば、病か、淫魔憑きを疑われる」
王女は、アルトを見た。
「ですから、フェンネル卿は、それを、隠してこられた」
楓の葉が、また一枚、落ちてきた。
「十八年間」
王女の声は、静かだった。
「誰にも、言えずに。誰にも、相談できずに。この国の、普通の殿方を、演じ続けて」
王女は、鑑定の記録の、精神の数字を、二重の手袋の指先で、そっとなぞった。
「その十八年が、この数字です」
アルトは、何も言えなかった。
誰にも、言ったことがなかった。
十八年。
家族にも。男友達にも。神官にも。騎士にも。研究員にも。商人にも。冒険者にも。
精神を貸して、本音を全部吐き出したときでさえ。
口から出たのは、鎖が最高だとか、跪く角度が完璧だとか、脇がいいとか。
欲しいものの話ばかりだった。
我慢していた、という話は、一度もしなかった。
我慢していたことは、自分でも、当たり前すぎて。
言葉に、したことがなかった。
それを、この人は。
鑑定の記録の、一つの数字から。
(この人も)
アルトは、王女を見た。
外套の高い襟。二重の手袋。首筋を隠す蒼い髪。迫らない。囁かない。触れない。香りを纏わない。
一杯だけの茶。
(この人も、何かを)
それは、王女の前で、初めて言葉になった内心だった。
崩れたのではなかった。微震したのでもなかった。
ただ、静かに、言葉になった。
(この人も、何かを、我慢してる)
「……殿下」
アルトは、言った。
声が、少しだけ掠れていた。
「なぜ、それが、お分かりになったのですか」
王女は、すぐには答えなかった。
円卓の上の、鑑定の記録を見つめていた。
それから、外套の内側に手を入れた。
もう一枚、羊皮紙を取り出した。
小さな、折り畳んだ羊皮紙だった。
王女は、それを、円卓の上に置いた。
アルトの方へ、そっと押しやった。
「……わたくしの、鑑定の写しです」
アルトは、目を見開いた。
王族の鑑定の記録は、王家の秘密だった。誰にでも見せるものでは、なかった。
王女は、それを、差し出していた。
アルトは、羊皮紙を開いた。
エリシア・アズール十八歳女
筋力35(+80)/体力40(+80)/敏捷40(+80)/器用45(+80)
魔力50(+80)/知力60(+80)/精神110(+80)
スキル:【臣従の冠】
全部の項目に、括弧書きで、八十が加算されていた。
それは、後で考えることにした。
アルトの目は、一つの数字に、止まっていた。
精神。
素の値で、百十。
アルトの、百四より、高かった。
アルトは、顔を上げた。
王女が、こちらを見ていた。
銀灰色の目が、まっすぐに。
逸らさずに。
「同じ数字を、毎日、鏡の中で見ておりますので」
王女は、静かに言った。
それだけだった。
それ以上は、何も言わなかった。
何を我慢しているのか。どうして、服が厚くなっていくのか。どうして、一杯だけの茶なのか。
何も。
アルトも、聞かなかった。
聞けなかった。
聞いたら、この人の、何かが壊れてしまう気がした。
二人は、しばらく、黙って向かい合っていた。
楓の葉が、円卓の上に、ひらひらと落ちてきた。
王女が、ようやく茶碗を手に取った。
一口だけ、飲んだ。
冷めていたはずだった。
それでも、王女は、ゆっくりと飲み干した。
王女が、立ち上がった。
アルトも、慌てて立ち上がった。
「本日は、ありがとうございました」
王女は、一礼した。
それから、自分の鑑定の写しを、円卓の上から取り上げた。
外套の内側に、しまった。
アルトの鑑定の記録の束は、円卓の上に残したままだった。
「……殿下」
アルトは、思わず言った。
何を言うつもりだったのか、自分でも分からなかった。
ただ、何か言わなければ、と思った。
「殿下は、大丈夫、なのですか」
王女の動きが、止まった。
背を向けかけたまま。
外套の高い襟の上から、肩越しに、アルトを振り返った。
銀灰色の目が、一瞬だけ、揺れた。
それから、王女は、穏やかに微笑んだ。
初めて見る、王女の微笑みだった。
完璧な微笑みだった。
「お気遣いなく」
王女は、言った。
「わたくしは、平気ですので」
それから、背を向けて、楓の林の方へ歩いていった。
一度も、振り返らなかった。
アルトは、東屋に立ったまま、その背中を見送っていた。
外套の裾が、赤い楓の葉を、静かに払っていった。
王女の、二重の手袋の指先が。
歩きながら、体の脇で、小さく、震えていた。