男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~   作:朝凪小夜

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第51話 一番ヤバいぞ

 

「あの王女、一番ヤバいぞ」

 

冒険者ギルド王都本部の、一階の酒場。

奥の卓で、ロッサが骨付き肉に齧りつきながら言った。

向かいに、アルトが座っていた。

付き添いのエルゼが、隣で茶を飲んでいた。

ギルドに来たのは、ロッサに呼ばれたからだった。「話がある」と。

話というのが、これだった。

 

「……一番、とは」

 

アルトが聞くと、ロッサは骨を皿に置いた。

指についた脂を、ぺろりと舐めた。

 

「一番は、一番だ」

 

「何が、一番なのですか」

 

「全部」

 

ロッサは、金茶色の目でアルトを見た。

 

「凱旋の式典で、見た。あたし、来賓の端っこにいたんだ。あの王女、途中で帰っただろ」

 

「……はい」

 

「帰るとき、あたしの前を通った。そのとき、分かった」

 

ロッサは、自分の鼻を、指でとんとんと叩いた。

 

「匂いが、やばかった」

 

「匂い」

 

「おう」

 

ロッサは、新しい肉に手を伸ばした。

 

「あの王女、香も何もつけてないだろ。洗った布の匂いしかしない。普通の奴なら、そう思う」

 

「……はい」

 

「でも、すれ違ったとき、一瞬だけ、奥の方から匂った」

 

ロッサは、肉を齧った。

 

「森の、奥の匂いだった。花がいっぱい咲いてて、誰も入ったことない、みたいな」

 

(……花)

 

アルトは、第十七次の茶会を思い出していた。

風に乗って、一筋だけ届いた匂い。閉じ込められた場所で、たくさんの花が、一斉に咲いているような。

 

「あれは、腹ぺこの匂いだ」

 

ロッサは、言った。

 

「ものすごく、腹ぺこの奴の匂い。何年も、何も食ってないみたいな」

 

「……腹ぺこ」

 

「それを、あの分厚い服で、全部閉じ込めてる」

 

ロッサは、肉を噛みちぎった。

 

「あたしの勘だ。あの王女、一番ヤバい。お前の周りの誰よりも」

 

 

酒場の隣の卓で、冒険者たちが吹き出した。

 

「ロッサ、またかよ」「王女殿下が腹ぺこって」「王宮の飯、食ってないってか?」

 

笑い声が、酒場に広がった。

 

ギルド長のハンナが、二階の階段の上から顔を出した。

 

「ロッサ。王家の方を、そういうふうに言うな」

 

「本当のことだ」

 

「一割で聞いておく」

 

「九割だって」

 

ハンナは、首を振って、二階に引っ込んだ。

エルゼが、茶碗を置いて、困ったように笑った。

 

「ロッサさん。王女殿下は、お体が弱いと伺っているのよ。だから、厚着をなさっているの」

 

「弱くねえよ」

 

ロッサは、あっさりと言った。

 

「あれは、強い奴の匂いだ。強くて、腹ぺこで、全部我慢してる奴の」

 

エルゼは、もう何も言わなかった。

誰も、ロッサの言うことを、本気にしていなかった。

ロッサは、気にした様子もなかった。

肉を齧りながら、アルトを見ていた。

にやにやと、笑っていた。

 

「まあ、信じなくていいけどな。お前は」

 

それから、少しだけ、笑いを収めた。

 

「……気をつけろよ」

 

(気をつけろ)

 

(ロッサが、気をつけろ、って言った)

 

(夢魔の王の前でも、言わなかったのに)

 

 

その夜。

神殿の小鑑定室で、セラフィナが鎖を巻き直していた。

七本だった。

鑑定を終えて、記録簿を閉じたところだった。

 

「フェンネル様」

 

セラフィナが、鎖の留め具を直しながら言った。

 

「先日、王女殿下と、二人きりで、お茶を」

 

「……はい」

 

「どのような、お話を」

 

アルトは、少し考えた。

それから、正直に答えた。

 

「私の、精神の数値の話を」

 

セラフィナの手が、止まった。

 

「精神の」

 

「八十五。今は、百を超えている。長く、何かを我慢してきた人の数値だ、と」

 

小鑑定室が、静かになった。

セラフィナは、鎖の留め具を握ったまま、動かなかった。

それから、ゆっくりと、顔を上げた。

空色の目が、アルトを見ていた。

 

「……そう、仰ったのですか。殿下が」

 

「はい」

 

「それは」

 

セラフィナは、言葉を探した。

 

「それは、同じ数字を持っている方にしか、言えないことです」

 

セラフィナは、自分の胸の鎖を見下ろした。

七本の、銀の鎖。

 

「私の精神は、七十です」

 

彼女は、静かに言った。

 

「神官は、皆、精神が高いのです。毎日、欲を鎖に預けて、己を律していますから」

 

「……はい」

 

「でも、八十五は、出したことがありません。神殿で一番敬虔な神官長様でも、八十に届きません」

 

セラフィナは、鎖の一本を、指でなぞった。

 

「私は、鎖があるから、我慢できるのです」

 

「鎖が」

 

「はい。鎖が、私を縛ってくれます。神官の側から男に触れてはならない。鎖があれば、触れたくても、触れられません。ですから、我慢できる」

 

彼女は、少しだけ笑った。

 

「……もっとも、その鎖は、フェンネル様のせいで、我慢とは別のものになってしまいましたけれど」

 

(それは、ありがとうございます)

 

「でも、王女殿下には、鎖がありません」

 

セラフィナの声が、少しだけ低くなった。

 

「誰にも縛られていないのに。自分で、自分を、縛っている」

 

彼女は、アルトを見た。

 

「厚い服。二重の手袋。花のない部屋。一杯だけのお茶」

 

「……」

 

「あれは、見えない鎖です」

 

セラフィナは、鎖の留め具を、かちりと留めた。

 

「見える鎖より、ずっと、重い」

 

アルトは、何も言えなかった。

セラフィナは、燭台の灯りの中で、静かに続けた。

 

「新年の儀で、王女殿下をお見かけしたとき、同じ匂いがすると申し上げましたね」

 

「……はい」

 

「あのときは、なぜそう思ったのか、自分でも分かりませんでした」

 

彼女は、胸の前で、縛られた手を組んだ。

 

「今は、分かります。あの方も、私と同じなのです。……私よりも、ずっと深く」

 

セラフィナは、空色の目で、アルトを見た。

その目が、少しだけ、揺れていた。

 

「フェンネル様」

 

「はい」

 

「お気をつけください」

 

前にも、聞いた言葉だった。

今度は、少しだけ、意味が違って聞こえた。

 

「……あの方は、鎖がほどけたら」

 

セラフィナは、そこで言葉を切った。

鎖を、ぎゅっと握りしめた。

 

「私よりも、ずっと」

 

それ以上は、言わなかった。

 

(……ずっと、何なんだ)

 

(鎖がほどけたら、何が)

 

アルトは、聞けなかった。

セラフィナの指が、七本目の鎖の上で、白くなるほど強く握られていた。

 

翌日。

騎士団の訓練場で、クラウディアが跪いていた。

 

「本日の訓練、終了しました」

 

いつもの報告。いつもの作法。

ただ、報告が終わっても、彼女は顔を上げなかった。

跪いたまま、砂の上の一点を見つめていた。

 

「……副長殿?」

 

「フェンネル殿」

 

クラウディアが、言った。

声が、低かった。

 

「一つ、ご相談が」

 

「はい」

 

「王女殿下の、ことです」

 

アルトは、黙って待った。

クラウディアは、跪いたまま、言葉を探していた。

 

「私は、騎士です」

 

「……はい」

 

「蒼薔薇騎士団は、アズール王家の騎士団です。私は、王家に剣を捧げました。叙任式で。それから、何度も、誓約の更新で」

 

彼女の拳が、膝の上で、握りしめられていた。

 

「王女殿下は、私の、主君です」

 

「……はい」

 

「ですから」

 

クラウディアは、顔を上げた。

灰色の目が、揺れていた。

 

「主君が、フェンネル殿を、お望みなら。私は、騎士として、それを喜ぶべきです」

 

「……」

 

「喜ぶべき、なのです」

 

クラウディアの声が、少しだけ、震えた。

 

「それなのに」

 

彼女は、そこで口を閉じた。

続きを、言わなかった。

ただ、灰色の目で、アルトを見上げていた。

訓練場の夕暮れの中で。跪いたまま。

 

(……っ)

 

(この人、今、すごく、真面目に悩んでる)

 

(主君への忠誠と、それから)

 

(……俺への)

 

「……副長殿」

 

アルトは、言った。

 

「答えを、急がなくても、いいのでは」

 

クラウディアは、しばらくアルトを見ていた。

それから、深く、頭を垂れた。

 

「……ご命令と、あらば」

 

翌日。

魔導院の研究棟の、リゼットの研究室。

机の上に、大きな羊皮紙が一枚広げてあった。

表だった。

横に、日付。縦に、項目。

 

『王女殿下の着衣の推移』

 

アルトは、その表を見下ろしていた。

 

「……これは」

 

「公の場での、王女殿下の着衣を、記録したものです」

 

リゼットが、記録板を胸に抱えて言った。

三つ編みだった。

 

「叙任式から、今日まで。宮廷の記録係の描写と、王都の新聞の挿絵と、私自身の目視から」

 

表の中に、細かい字で、書き込みが並んでいた。

 

『初夏・叙任式:首元から足首までのドレス、手袋(一重)』

『盛夏・王都大通り:上記に毛織の肩掛け』

『晩夏・凱旋式典:上記に外套』

『初秋・第十七次茶会:襟を二重に』

『秋・第二十次茶会:外套の襟を立てる、手袋を二重に』

 

「……厚く、なっていますね」

 

「はい。一貫して」

 

リゼットは、表の右端の欄を指さした。

 

「こちらに、同じ時期の出来事を並べました」

 

『叙任式:新任騎士の誓約』

『盛夏:騎士団の連携訓練の成果、王都で評判に』

『晩夏:夢魔討伐の凱旋、民衆の歓声』

『初秋:凱旋の英雄を王家が労う茶会、民の評判上昇』

 

アルトは、二つの欄を見比べた。

着衣が厚くなるたびに。

その隣に、民の王家への評判が、高まる出来事が並んでいた。

 

「アズール王家の血には、民の忠誠を力に変えるスキルが伝わっている」

 

リゼットは、淡々と言った。

 

「これは、王国の民なら、誰でも知っている話です。歴代の女王が、民に慕われるほど強くなったことは、歴史書にも書いてある」

 

「……はい」

 

「ですから、民の忠誠が高まる出来事のたびに、王女殿下のステータスが上がっている。それは、推定できます」

 

リゼットは、表の二つの欄のあいだを、指でなぞった。

 

「ただ、それなら、なぜ、着衣が厚くなるのか」

 

「……」

 

「ステータスが上がることと、着衣を厚くすることのあいだに、何があるのか」

 

リゼットのペンが、表の余白の上で、止まっていた。

 

「仮説は、一つ、あります」

 

彼女は、言った。

それから、口を閉じた。

ペンを、記録板の上に置いた。

 

「……ですが」

 

リゼットは、眼鏡を押し上げた。

 

「これ以上は、王家の、秘密の領域です」

 

「秘密」

 

「血統スキルの詳細は、王家の秘伝です。外の者が、推測で踏み込むべきではありません」

 

彼女は、表を、丁寧に巻き始めた。

 

「研究者として、踏み込んではならない線が、あります」

 

アルトは、巻かれていく表を見ていた。

 

「……ハーシェル殿」

 

「はい」

 

「仮説、というのは」

 

リゼットの手が、止まった。

表を半分巻いたところで。

彼女は、しばらく黙っていた。

それから、眼鏡越しに、アルトを見た。

 

「……忠誠と一緒に、増えているものが、あるのかもしれません」

 

それだけ言って、彼女は表を巻き終えた。

紐で縛った。

記録板を、閉じた。

 

「記録は、ここで閉じます」

 

その翌日。

七都商盟の議長私室。

マルグリットが、机の上に帳簿を広げていた。

いつもの深緑の上衣だった。

 

「フェンネル卿。お掛けください」

 

アルトは、向かいの椅子に座った。

マルグリットは、帳簿の頁を一枚、アルトの方へ滑らせた。

細かい字で、条項が並んでいた。

 

『婚姻後の契約継続に関する条項案(草案)』

 

「……婚姻、後」

 

「ええ」

 

マルグリットは、穏やかに言った。

 

「王家は、フェンネル卿を王配に迎えたい。女王陛下が、そう仰ったと伺いました」

 

「どこで、それを」

 

「商人ですので」

 

マルグリットは、微笑んだ。

 

「王家との婚姻が成立すれば、フェンネル卿は王配になります。そうなったとき、既存の契約は、どうなるのか」

 

彼女は、条項案の一行目を指でなぞった。

 

「王配が、王女殿下以外の女性と、契りを結び続ける。それは、王家の体面に関わります。審議会が、既存の契約の解消を命じる可能性も、ゼロではありません」

 

「……」

 

「ですので、先に、手を打っておきます」

 

マルグリットは、条項案の頁をめくった。

 

「婚姻法では、男性の妻の数に、下限が定められています。フェンネル卿の下限は、まだ算定されていません。もし、審議会が下限を定めるとき、その数が」

 

彼女は、指を一本ずつ折った。

 

「正妻一人に、既存の契約者五人。合わせて、六」

 

「……六」

 

「既存の契約者を、全員、公認の妻として加えれば。契約は、婚姻の中で、継続できます」

 

マルグリットは、帳簿を閉じた。

 

「その場合の、条項案です。審議会に出す準備を、しておきます」

 

アルトは、マルグリットを見ていた。

 

(この人、もう、そこまで)

 

「……マルグリット殿は」

 

「はい」

 

「それで、いいのですか」

 

マルグリットは、少しだけ首を傾げた。

 

「何が、でしょう」

 

「正妻では、なく」

 

マルグリットは、しばらくアルトを見ていた。

それから、帳簿を胸に抱いた。

微笑んでいた。

商談用の微笑みでは、なかった。

 

「損得で言えば」

 

彼女は、言った。

 

「王女殿下と、正妻の座を争うのは、勝ち目のない商売です」

 

「……」

 

「勝ち目のない商売は、しません。勝ち目のある条件で、確実に、手元に残すものを、残す」

 

それから、彼女は、少しだけ声を落とした。

 

「……それに」

 

帳簿を抱く指先に、力がこもった。

 

「条項第十四条以降は、正妻でも、妾でも、変わらず有効ですので」

 

その夜。

フェンネル家の自室で、アルトは寝台に仰向けになっていた。

眠れなかった。

天井の木目を、目でなぞっていた。

ロッサの声。

 

「あの王女、一番ヤバいぞ」

 

セラフィナの声。

 

「あれは、見えない鎖です。見える鎖より、ずっと、重い」

 

クラウディアの声。

 

「喜ぶべき、なのです。それなのに」

 

リゼットの声。

 

「忠誠と一緒に、増えているものが、あるのかもしれません」

 

マルグリットの声。

 

「勝ち目のない商売は、しません」

 

それから。

楓の東屋で、二重の手袋の指先が震えていた、あの人の声。

 

「わたくしは、平気ですので」

 

アルトは、寝返りを打った。

天賦の儀から、半年。

五人の女性と、契りを結んだ。

全員が、迫ってきた。誘いの作法を、全力で。アルトは、全部に負けた。

それで、毎晩、ぐっすり眠れた。疲れ果てて。

今夜は、違った。

誰にも、迫られていなかった。

迫ってこない人のことを、考えていた。

 

(……眠れない)

 

窓の外で、秋の虫が鳴いていた。

 

(十八年、ずっと、迫られたかった)

 

(迫られて、全部、負けたかった)

 

(それが、叶った)

 

(なのに)

 

アルトは、天井を見上げた。

 

(今、一番気になるのは、迫ってこない人だ)

 

生まれて初めてだった。

迫ってこない人のことで、眠れない夜は。

 

 

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