男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
フェリクスの新居は、王都の東の外れにあった。
小さな屋敷だった。
白い漆喰の壁に、蔦が這っていた。門をくぐると、庭いっぱいに、秋の花が咲いていた。
菊。秋桜。竜胆。それから、名前の分からない、小さな白い花。
「アンネが、全部植えたんだ」
フェリクスが、庭を見回しながら言った。
いつもの眠そうな目が、少しだけ誇らしげだった。
「僕の【園芸】より、ずっと上手いんだよ。スキルなんて持ってないのに」
庭の奥で、一人の女性が、花の手入れをしていた。
麦わら帽子をかぶって、土のついた手袋をはめて。しゃがみ込んで、菊の根元の土を、丁寧にならしていた。
フェリクスの婚約者、アンネだった。
アンネは、門の方を振り返った。
男が四人、門のところに立っているのを見て、少しだけ目を見開いた。
それから、帽子のつばに手をかけて、小さく会釈した。
近づいてこなかった。
その場から、一歩も動かずに。
「……優しい人だろう」
フェリクスが、小さく言った。
「男が四人もいたら、女は怖いだろうって、近づかないでいてくれるんだ」
フェリクスの新居の客間で、男が四人、茶を飲んでいた。
アルト。ユリウス。フェリクス。トビアス。
天賦の儀の日、控えの間で並んで座っていた四人だった。
付き添いの家族たちは、別室で待っていた。アンネが、焼き菓子を出してくれたらしい。別室の方から、ときどき笑い声が聞こえていた。
「……で、ユリウス殿は」
アルトが聞くと、ユリウスは茶碗を置いた。
顔色が、よかった。
天賦の儀の後、縁談の嵐で痩せこけていた頬に、肉が戻っていた。金の巻き毛にも、艶が戻っていた。
「おかげさまで」
ユリウスは、少しだけ苦笑した。
「申込みが、減ったんだ」
「減った」
「ああ。半分以下に」
ユリウスは、アルトを見た。
「……アルト殿の、おかげだ」
「私の」
「世の女性の関心が、すっかりアルト殿に移ったのでね」
ユリウスは、肩をすくめた。
「夢魔を討った英雄。神殿の祝福を倍にした男。騎士団を強くした男。女を怖がらない男、という噂まである。……そんな男がいるなら、【剣聖の器】の伯爵家の嫡男など、二番手、三番手だ」
彼は、深く息をついた。
「門の前で、使者同士が喧嘩することも、なくなった。母上が申込みを読み上げる時間も、半分になった。夜、眠れるようになった」
ユリウスは、茶碗を持ち上げた。
「感謝している。心から」
(……感謝されてる)
(俺のせいで、ユリウス殿の縁談が、減った)
(それを、感謝されてる)
「……それは、何よりです」
「僕は、来春、結婚するよ」
フェリクスが、言った。
「アンネと。下限は一名だから、アンネだけ」
彼は、窓の外の庭を見た。
アンネが、まだ菊の手入れをしていた。
「毎朝、一緒に庭に出るんだ。アンネが土を耕して、僕が種を蒔く。それだけ」
フェリクスは、少しだけ笑った。
「それだけで、いいんだ」
アルトは、窓の外を見た。
麦わら帽子の女性が、しゃがみ込んで、花の根元を見つめていた。
フェリクスに、一度も迫らない人。怯えていたら、一歩下がってくれる人。
(……これが、母上の、願った人生だ)
いいスキルで、優しい奥さん一人と、穏やかに。
天賦の儀の朝、母と姉たちが、口を揃えて言った。
それを、フェリクスが、生きていた。
「僕は……」
トビアスが、膝を抱えたまま言った。
客間の椅子の上で。いつものように。
「まだ、です……」
「まだ」
「顔合わせ、あれから二回ありました。……二回とも、駄目でした」
トビアスは、膝に顔を埋めた。
「アルト殿の助言、試してみたんです。震えたまま、帳簿の話をずっと」
「……どうでしたか」
「一人目は、途中で帰りました」
「……」
「二人目は、最後まで聞いてくれました。でも、最後に、『帳簿の話以外は、何かないの』って」
トビアスは、膝の間から、恨めしそうな目でアルトを見た。
「ないです、って答えました」
(それは、駄目だ)
(いや、俺の助言が、駄目だったのか)
「……申し訳、ありません」
「いえ……」
トビアスは、また膝に顔を埋めた。
「二人目の方、帳簿の話は、ちょっと面白そうに聞いてくれてたんです。……それだけが、救いで」
話題が、アルトに移った。
「それで、アルト殿」
ユリウスが、身を乗り出した。
「王家の茶会に、何度も招かれていると聞いた」
「……二十回ほど」
「二十回」
三人が、顔を見合わせた。
「それに、女王陛下の私室に、一人で呼ばれたとも」
「……耳が早いですね」
「王都中の噂だよ」
フェリクスが、言った。
「王家が、アルト殿を王配に迎えたがっている、って」
アルトは、黙っていた。
否定は、しなかった。
「大丈夫なのか」
ユリウスが、真剣な顔で言った。
「王家の女性は、皆、強いと聞く。【臣従の冠】とかいう血統のスキルで。……王配殿下は、あの隈だ」
「……ご覧になったのですか」
「一度だけ、遠目に。父上の、宮廷の会合で」
ユリウスは、少しだけ身を震わせた。
「あれは、二十人の妻を娶った父上の友人より、ひどかった」
アルトは、茶碗を手に、少しだけ黙っていた。
それから、言った。
「……一つ、相談しても、いいですか」
三人が、アルトを見た。
アルトが、相談を持ちかけるのは、初めてだった。
天賦の儀から、半年。三人は、いつもアルトを心配していた。アルトは、いつも「大丈夫です」と答えていた。
「……迫ってこない人が、いるんです」
アルトは、言った。
「王家の茶会で、何度も会っているのに。一度も、迫ってこない。身を寄せない。囁かない。手に触れない。香りも、纏わない」
三人が、黙って聞いていた。
「他の女性たちは、皆、迫ってきます。誘いの作法を、全力で。でも、その人だけは、何もしてこない。一杯だけ茶を飲んで、席を立つ」
アルトは、茶碗を見下ろした。
「……その人のことが、気になって、仕方がないんです」
客間が、静まり返った。
三人が、顔を見合わせた。
それから、ユリウスが、慎重に言った。
「……それは」
「はい」
「普通では?」
「普通、と」
「ああ」
ユリウスは、首を傾げた。
「迫ってこない女性。……それは、男にとって、一番の安らぎだろう」
フェリクスが、頷いた。
「僕がアンネを選んだのも、迫ってこないからだよ。怯えていたら、一歩下がってくれる。それが、どれだけありがたいか」
「僕も……」
トビアスが、膝の間から言った。
「迫ってこない人なら、怖くないです……」
三人が、アルトを見ていた。
当然のことを、当然のように。
アルトは、三人の顔を見回した。
(……そうか)
(この世界の男にとっては、迫られないことが、普通なんだ)
(迫られないことが、安らぎなんだ)
(俺だけが、迫られないことで、眠れなくなってる)
「……そう、ですね」
アルトは、穏やかに微笑んだ。
「普通、ですね」
「ただ」
ユリウスが、少しだけ眉をひそめた。
「アルト殿の場合、少し、事情が違うのかもしれないな」
「事情」
「アルト殿は、鎖の神官が怖くないと言っていただろう。以前、僕の屋敷の茶会で」
(あ)
「いや、むしろ、と言いかけていた。……冗談だと言っていたが」
三人の視線が、アルトに集まった。
アルトは、茶碗を口に運んだ。
(あれ、覚えてたのか)
「……冗談、でしたので」
「本当に?」
フェリクスが、聞いた。
いつもの眠そうな目が、今日は、少しだけ鋭かった。
「アルト殿。遠征のとき、夢魔の森で、何かいろいろ叫んでいたと聞いたよ。ネーベルフルトの娘たちが、王都で話してるんだ。殿方が、女の人のことを、最高だとか、かわいいとか」
(広まってる)
(ネーベルフルトから、王都まで、広まってる)
「……精神を、貸していたので」
アルトは、穏やかに言った。
「普段とは、少し、違う状態で」
「何を、叫んだんだ」
ユリウスが、身を乗り出した。
アルトは、少しだけ迷った。
それから、ほんの一部だけ、言った。
「……神官殿の鎖が、毎回、最高だとか」
客間が、凍りついた。
「騎士殿の、跪く角度が、完璧だとか」
ユリウスの手から、茶碗の受け皿が滑った。
「研究員殿の、脇が」
フェリクスの眠そうな目が、完全に開いた。
トビアスが、膝を抱えたまま、椅子ごと後ろにずり下がった。
「……脇が?」
ユリウスが、かすれた声で聞いた。
「……いい、と」
三人が、揃って、ドン引きしていた。
ユリウスは、受け皿を拾い上げるのも忘れていた。フェリクスは、口を開けたまま固まっていた。トビアスは、ずり下がった位置から、さらに半歩下がった。
「……アルト殿」
ユリウスが、絞り出すように言った。
「それは、精神を貸していたから、だよな?」
「……はい」
「普段は、そんなこと、考えていない、よな?」
アルトは、穏やかに微笑んだ。
答えなかった。
ユリウスが、両手で顔を覆った。
しばらくして、ユリウスとトビアスが、別室の家族の様子を見に行った。
客間に、アルトとフェリクスの二人が残った。
フェリクスは、窓の外を見ていた。
庭で、アンネが、まだ花の手入れをしていた。
「アルト殿」
フェリクスが、窓の外を見たまま言った。
「はい」
「さっきの、迫ってこない人の話」
「……はい」
「その人の話をしているとき」
フェリクスは、ゆっくりと振り返った。
いつもの、眠そうな目だった。
ただ、その目が、まっすぐにアルトを見ていた。
「君、普通の顔をしてたよ」
アルトは、目を瞬いた。
「……普通の、顔」
「うん」
フェリクスは、少しだけ笑った。
「鎖の話とか、脇の話とか、してるときは、なんていうか、すごく遠い顔をしてた。僕らには分からない、どこか別の世界の顔」
「……」
「でも、迫ってこない人の話をしているときだけ、君は、普通の顔をしてた」
フェリクスは、窓の外のアンネを、もう一度見た。
「僕が、アンネの話をするときと、同じ顔」
アルトは、何も言えなかった。
(……普通の、顔)
(あの人の話をするときだけ)
窓の外で、アンネが立ち上がった。
麦わら帽子のつばを持ち上げて、客間の窓を見た。
フェリクスと目が合って、小さく手を振った。
フェリクスも、手を振り返した。
眠そうな目を、少しだけ細めて。
アルトは、その顔を見ていた。
(……)
それ以上、内心は、言葉にならなかった。
その夜。
縁談審議会の事務室。
灯りが、一つだけ灯っていた。
ペトラ・ノイマンの机の上の、燭台だった。
ペトラは、もう帰っていた。
燭台の灯りは、消し忘れだった。
その灯りが、机の上を照らしていた。
正確には、机の上にあるはずの、何かを。
書類の山だった。
一段目。二段目。三段目。四段目。
その上に、五段目。六段目。
フェンネル家の案件の、書類の山。
縁談の申込み。差し戻し。照会。契約報告。新規契約の申し出。一時凍結の通達。凍結への異議申し立て。
山は、机の端から始まって、いつの間にか、机の真ん中まで広がっていた。
真ん中から、反対の端まで。
机の天板が、どこにも見えなかった。
燭台の灯りが、書類の山の、一番上の一枚を照らしていた。
その一枚が、夜風に吹かれて、かさりと揺れた。
ペトラの机は、もう、机の形をしていなかった。