男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
「……見えない」
縁談審議会の事務室に、ペトラ・ノイマンの声が響いた。
声だけが、響いた。
姿は、見えなかった。
書類の山の、向こう側にいたからだ。
机の上に積み上がったフェンネル家の案件の書類は、もう山ではなかった。
壁だった。
机の端から端まで。天板から、座ったペトラの頭の上まで。
ペトラは、その壁の向こうで、椅子に座っていた。
眼鏡を、押し上げていた。
「……机が、見えない」
ペトラ・ノイマン。三十八歳。
縁談審議会の担当官になって、八年。
事なかれ主義と、人一倍の出世欲。その二つだけで、ここまでやってきた。
難しい案件は、後回しにする。前例のない案件は、前例を調べてから、と言って寝かせる。寝かせているうちに、たいていの案件は、誰かが勝手に片付けてくれる。
八年間、それでうまくいっていた。
フェンネル家の案件は、違った。
誰も、片付けてくれなかった。
寝かせれば寝かせるほど、増えていった。
天賦の儀から、八か月近く。
ペトラは、一度も、この案件の審議を開いていなかった。
「ノイマン担当官」
壁の向こうから、声がした。
若い事務官の声だった。
「上役が、お呼びです」
ペトラは、椅子から立ち上がった。
壁の脇を、横歩きですり抜けた。
上役の部屋は、事務室の奥にあった。
ペトラが入ると、上役は書類から顔を上げなかった。
声だけが、聞こえた。
「ノイマン」
「はい」
「フェンネル家の件」
「……はい」
「何か月、寝かせている」
ペトラは、答えなかった。
「軍務院から、照会が来ている。神殿からも。魔導院からも。七都商盟からも。冒険者ギルドからも」
上役の声は、低かった。
「それから、王宮からも」
ペトラの背筋が、ぴんと伸びた。
「王宮の、どちらから」
「侍女長からだ。『審議の進捗について、伺いたい』と。丁寧な文面だった」
上役は、書類を一枚、机の上に置いた。
「丁寧な文面ほど、怖いものはない」
「……はい」
「ノイマン。来年の昇進の審査で、お前の名前が挙がっていた」
ペトラの指先が、ぴくりと動いた。
「この件が片付かなければ、名前は消える」
上役は、ようやく顔を上げた。
「今月中に、何とかしろ」
事務室に戻ったペトラは、書類の壁の前に立っていた。
腕を組んで。
眼鏡の奥の目が、壁を睨んでいた。
昇進。
八年間、待ち続けた昇進。
それが、この壁の向こうに、消えかけていた。
「……崩すしかない」
ペトラは、袖をまくった。
一番上の書類を、手に取った。
崩し始めて、二刻が経った。
事務室の床に、書類が並んでいた。
分類ごとに。
縁談の申込み。差し戻し。各勢力からの照会。契約報告。新規契約の申し出。一時凍結の通達と、それへの異議申し立て。
床が、見えなくなり始めていた。
ペトラは、汗をかいていた。
眼鏡が、ずり落ちていた。
それでも、手を止めなかった。
縁談の申込みの束を、さらに分類する。
伯爵家。子爵家。男爵家。騎士爵家。豪商。地方の名家。
一通ずつ、差出人を確かめていく。
申込みは、八百通を超えていた。
日が、暮れた。
事務室の燭台に、灯りを灯した。
ペトラは、まだ床に座り込んで、書類を分類していた。
若い事務官は、とっくに帰っていた。
書類の壁は、もう半分以下になっていた。
机の天板が、少しだけ見え始めていた。
ペトラは、残りの山に手を伸ばした。
一番下の方。
天賦の儀から間もない頃に届いた、最初の頃の書類。
母の差し戻しの束の、さらに下。
一通の、封書があった。
他の申込みとは、明らかに違った。
厚い、上質な羊皮紙。
封蝋は、蒼かった。
紋章が、押されていた。
アズール王家の、紋章だった。
ペトラは、その封書を手に取ったまま、動かなかった。
燭台の灯りが、蒼い封蝋を照らしていた。
封蝋の下に、署名があった。
女王陛下の、直筆の署名。
日付は、天賦の儀から、一か月ほど後。
ペトラは、封書を開いた。
中に、羊皮紙が一枚。
『稀少技能保有男性アルト・フェンネル殿に対し、アズール王家より、第一王女エリシア・アズールとの縁談を申し込む』
ペトラは、その一行を、三度読んだ。
それから、封書を床に置いた。
両手で、顔を覆った。
王家の。
申込みが。
七か月、山の一番下に。
……私の、机の上で。
指の隙間から、封書の蒼い封蝋が見えていた。
ペトラは、しばらく、顔を覆ったまま動かなかった。
それから、ゆっくりと、手を下ろした。
眼鏡を、押し上げた。
封書を、もう一度見た。
王家からの、縁談の申込み。
七か月、放置していた。
それは、事実だった。
上役に知られれば、昇進どころではない。王宮の侍女長の、丁寧な文面の照会。あれは、この申込みの、催促だったのだ。
ペトラの頭の中で、何かが、高速で回り始めた。
待って。
逆に、考えれば。
この申込みは、王家からのものだ。
王家が、フェンネル卿を欲しがっている。
フェンネル卿は、稀少度測定不能。神殿の祝福を倍にした。騎士団を強くした。七都商盟の制度改革を動かした。夢魔を討った。
この国で、今、最も価値のある男。
一級品だった。
その一級品を、王家に回せば。
ペトラの眼鏡の奥で、目が光った。
王家の縁談を、審議会が、まとめた。
その担当官は。
……私。
ペトラは、立ち上がった。
床に散らばった書類を、見下ろした。
八百通の申込み。各勢力の照会。契約報告。新規契約の申し出。異議申し立て。
全部、片付けなければならない。
今夜のうちに。
「……全部、王家案件のため、保留」
ペトラは、呟いた。
それから、机に向かった。
天板が、半分だけ見えていた。
羊皮紙を一枚、広げた。
ペンを、取った。
夜が、更けていった。
事務室の燭台が、一本、また一本と燃え尽きていった。
ペトラは、書き続けていた。
縁談の申込みへの返書。
『本件、王家案件のため、審議を保留いたします』
八百通。
一通ずつ、署名をして、封をした。
各勢力の照会への返書。
『本件、王家案件として、近日中に審議を行います』
契約報告への受領書。新規契約の申し出への返書。異議申し立てへの回答。
全部、同じ一文で、片付けた。
『王家案件のため』
夜明けが、近づいていた。
事務室の窓が、ほんのりと白み始めていた。
ペトラは、最後の一通に、封をした。
ペンを、置いた。
机の上を、見た。
天板が、見えていた。
端から端まで。
書類の壁は、どこにもなかった。
床の上に、返書の束が、きれいに積み上げられていた。
八か月分の、案件が。
一晩で。
ペトラは、椅子の背にもたれた。
眼鏡を外して、目頭を揉んだ。
それから、眼鏡をかけ直した。
机の真ん中に、一枚だけ、羊皮紙が残っていた。
王家の、蒼い封蝋の封書。
その横に、新しい羊皮紙が一枚。
ペトラが、最後に書いたものだった。
『稀少技能保有男性アルト・フェンネルの縁談に関する、審議の開催について』
朝。
上役の部屋の扉を、ペトラが叩いた。
「入れ」
ペトラは、中に入った。
一睡もしていなかった。
眼鏡の奥の目の下に、隈ができていた。
髪が、少しだけ乱れていた。
それでも、背筋は、まっすぐに伸びていた。
上役が、顔を上げた。
ペトラの手に、二枚の羊皮紙があった。
王家の封書と、審議の開催の通知。
ペトラは、それを、上役の机の上に置いた。
一礼する。
「フェンネル家の件」
ペトラは、言った。
声が、少しだけ掠れていた。
徹夜明けの声だった。
それでも、はっきりと、言った。
「本件、王家案件として処理いたします」