男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
王宮の小広間に、初冬の光が差し込んでいた。
秋が、終わろうとしていた。
窓の外の楓は、もうほとんど葉を落としていた。裸になった枝が、薄い灰色の空に、細い影を描いていた。
小広間の中央に、白い円卓。
その円卓に、アルトが座っていた。
向かいに、王女が座っていた。
婚約が決まってから、初めての対面だった。
円卓の上座に、女王が座っていた。
いつも通りの、肩を晒したドレス。ただ、今日は、その上に薄い肩掛けを羽織っていた。初冬の小広間は、少し冷えていた。
侍女長のグレタが、女王の背後に控えていた。
侍女たちは、壁際に並んでいた。
今日は、誰もアルトの隣に座らなかった。
婚約者同士の、初めての茶会だった。侍女たちは、場を温める役ではなかった。
小広間は、静かだった。
王女は、冬装束だった。
首元から足首まで覆う、深い蒼のドレス。その上に、肩掛け。肩掛けの上に、外套。
外套の襟は、顎の下まで立てられていた。
手袋は、二重だった。
秋の茶会と、何も変わっていなかった。
いや、変わっていた。
外套の生地が、さらに厚くなっていた。冬の夜に、雪の中を歩くときに羽織るような、毛足の長い、重い生地。
初冬だった。
ようやく、季節が、王女の服に追いつきかけていた。
それでも、まだ、王女の服の方が、季節より先にいた。
「本日は」
王女が、言った。
静かな声だった。
「お越しくださり、ありがとうございます」
それから、王女は、茶碗を手に取った。
二重の手袋で。
一口、飲んだ。
受け皿に、戻した。
かちん、と小さな音がした。
それきり、王女は何も言わなかった。
(……変わらない)
アルトは、王女を見ていた。
婚約が、決まったのに。
審議会の木槌が、鳴ったのに。
この人は、何も変わらなかった。
礼儀正しく。穏やかで。一定の距離を保って。
身を寄せなかった。囁かなかった。手に触れなかった。
香りも、纏っていなかった。
洗いたての布の匂いだけが、かすかに。
女王が、何か話していた。
婚礼の日取りのこと。王都の大聖堂のこと。祝宴に招く客のこと。
アルトは、女王の言葉に、穏やかに相槌を打っていた。
王女も、ときどき、短く答えていた。
「はい、母上」「承知いたしました」「お任せいたします」
それだけだった。
アルトの方を、王女は見なかった。
茶碗を、見ていた。
(……婚約者、なのに)
(俺の、婚約者なのに)
アルトの胸の奥に、何かが、少しずつ溜まっていった。
楓の東屋では、この人は、アルトを見た。
まっすぐに。逸らさずに。
精神の数字を見て、長く何かを我慢してきた人のものだと言った。自分の鑑定の写しを、差し出してくれた。
同じ数字を、毎日、鏡の中で見ている、と。
あのとき、この人と、何かが繋がった気がした。
それが、今は。
(……まさか)
アルトは、茶碗を口に運んだ。
(まさか、本当に、興味がないのでは)
天賦の儀から、八か月。
五人の女性と、契りを結んだ。
全員が、迫ってきた。誘いの作法を、全力で。
迫られることが、当たり前になっていた。
この世界の女は、男に迫る。欲が強いから。何百年も、そうしてきたから。
アルトには、全部効く。
それが分かっているから、女たちは、もっと迫ってくる。
だから。
迫ってこないということは。
(……興味が、ない、ということなのか)
王家が、アルトを欲しがった。女王が、アルトを王配に迎えたいと言った。
でも、それは、王家の話だった。
この人が、自分を欲しがっているとは、一度も言っていなかった。
(王家の、都合で)
(夢魔を討った英雄だから。神殿の祝福を倍にしたから。騎士団を強くしたから)
(この人は、それを、受け入れただけ)
(……王女として)
胸の奥が、冷たくなった。
崩れるような気持ちでは、なかった。
微震でもなかった。
ただ、純粋な、不安だった。
女王が、席を立った。
「少し、グレタと話があるわ。二人で、ゆっくりなさい」
女王は、侍女長を連れて、小広間の奥の扉へ向かった。
侍女たちも、壁際から、少しだけ下がった。
声の届かない、距離に。
円卓に、アルトと王女の、二人が残った。
沈黙が、落ちた。
窓の外で、裸の枝が、風に揺れていた。
王女は、茶碗を見ていた。
アルトは、王女を見ていた。
(何か、言わないと)
(婚約者として、何か)
アルトは、口を開いた。
「……殿下」
王女が、顔を上げた。
銀灰色の目が、アルトを見た。
ほんの一瞬。
それから、すぐに逸らした。
「……はい」
「このたびの、婚約のことですが」
アルトは、言葉を探した。
「殿下は、その」
何を聞けばいいのか、分からなかった。
嫌ではないか、と聞けばいいのか。無理をしていないか、と聞けばいいのか。
それとも。
(俺のこと、どう思ってるんですか)
そんなことは、聞けなかった。
この国の男は、そんなことを聞かない。
「……ご迷惑では、ありませんでしたか」
結局、アルトの口から出たのは、それだった。
王女は、しばらく黙っていた。
茶碗を、見ていた。
二重の手袋の指先が、受け皿の縁に、そっと触れていた。
それから、王女は顔を上げた。
アルトを、見た。
今度は、すぐには逸らさなかった。
銀灰色の目が、まっすぐに、アルトを見ていた。
王女は、微笑んだ。
完璧な、微笑みだった。
楓の東屋で見た、あの微笑み。
「お気遣いなく」
王女は、言った。
穏やかな声だった。
婚約者として、最初の言葉だった。
「わたくしは、平気ですので」
アルトは、王女の微笑みを見ていた。
完璧だった。
一分の隙も、なかった。
王族の、礼儀正しい、穏やかな微笑み。
(……平気、なのか)
(本当に)
アルトの視線が、下がった。
王女の顔から、胸元へ。胸元から、膝の上へ。
膝の上に、王女の手が重ねられていた。
二重の、白い手袋。
その指先が。
震えていた。
小さく。けれど、確かに。
叙任式で、騎士が跪くたびに震えていた、あの指先。凱旋の式典で、民の歓声を聞いて震えていた、あの指先。楓の東屋で、背を向けて歩きながら震えていた、あの指先。
今も、震えていた。
微笑みは、完璧なのに。
声は、穏やかなのに。
指先だけが。
アルトは、顔を上げた。
王女は、もう、アルトを見ていなかった。
茶碗を、見ていた。
膝の上の手を、そっと、もう片方の手で覆っていた。
震えを、隠すように。
アルトは、何も言えなかった。
(平気、なのか)
その問いが、胸の中で、ゆっくりと形を変えていった。
(平気、じゃ、ないのか)
(平気じゃないのに、平気だと、言っているのか)
(……何が、平気じゃないんだ)
答えは、なかった。
王女は、茶を一杯だけ飲んで、席を立った。
「本日は、ありがとうございました」
一礼して、扉の方へ歩いていった。
一度も、振り返らなかった。
その日の午後。
王国議会の、薬事委員会の議場。
院長のドロテア・クラムが、傍聴席の端に座っていた。
委員会の審議は、終わっていた。
結論は、出なかった。
賛成六名。反対六名。態度未定一名。
拮抗していた。
「最終の採決は」
委員長が、木槌を手に言った。
「来月、議会の本会議にて行う」
議員たちが、書類を揃え始めた。
「日取りは」
議員の一人が、聞いた。
委員長は、手元の暦を見た。
「……王家のご婚約の、公式発表の日と、同じ日になるな」
院長の指先が、膝の上で、ぴくりと動いた。
態度未定の、一名。
その一名が、どちらに転ぶかで、全部が決まる。
院長は、胃のあたりを押さえた。
傍聴席を立って、議場を出た。
廊下の窓から、王宮が見えた。
東の棟の、一番奥の窓。
厚い帳で閉ざされた、あの窓。
院長は、しばらく、その窓を見ていた。
それから、胃薬の小瓶を、懐から取り出した。
その夜。
王宮の南の棟。女王の私室。
女王は、長椅子に座っていた。
窓辺の花瓶に、冬の花が活けてあった。白い山茶花。赤い寒椿。
侍女長のグレタが、女王の前に立っていた。
今日の茶会の、報告を終えたところだった。
「……一杯だけ、ね」
女王が、扇を膝の上で開いたり閉じたりしていた。
「婚約が決まっても」
「はい」
「平気ですので、と言ったのね」
「はい。……完璧な、微笑みで」
女王は、扇を閉じた。
窓の外を、見た。
東の棟の、一番奥の窓。
厚い帳の、隙間から、かすかに灯りが漏れていた。
「グレタ」
「はい」
女王は、窓の外を見たまま、言った。
「あの子の手袋の替え、何組残っているかしら」
グレタは、すぐには答えなかった。
それから、背筋を伸ばしたまま、静かに言った。
「三組です」
女王は、何も言わなかった。
グレタは、少しだけ間を置いて、付け加えた。
「……昨日までは、五組でした」