男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~   作:朝凪小夜

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第55話 わたくしは、平気ですので

 

王宮の小広間に、初冬の光が差し込んでいた。

秋が、終わろうとしていた。

窓の外の楓は、もうほとんど葉を落としていた。裸になった枝が、薄い灰色の空に、細い影を描いていた。

小広間の中央に、白い円卓。

その円卓に、アルトが座っていた。

向かいに、王女が座っていた。

婚約が決まってから、初めての対面だった。

 

円卓の上座に、女王が座っていた。

いつも通りの、肩を晒したドレス。ただ、今日は、その上に薄い肩掛けを羽織っていた。初冬の小広間は、少し冷えていた。

侍女長のグレタが、女王の背後に控えていた。

侍女たちは、壁際に並んでいた。

今日は、誰もアルトの隣に座らなかった。

婚約者同士の、初めての茶会だった。侍女たちは、場を温める役ではなかった。

小広間は、静かだった。

 

王女は、冬装束だった。

首元から足首まで覆う、深い蒼のドレス。その上に、肩掛け。肩掛けの上に、外套。

外套の襟は、顎の下まで立てられていた。

手袋は、二重だった。

秋の茶会と、何も変わっていなかった。

いや、変わっていた。

外套の生地が、さらに厚くなっていた。冬の夜に、雪の中を歩くときに羽織るような、毛足の長い、重い生地。

初冬だった。

ようやく、季節が、王女の服に追いつきかけていた。

それでも、まだ、王女の服の方が、季節より先にいた。

 

「本日は」

 

王女が、言った。

静かな声だった。

 

「お越しくださり、ありがとうございます」

 

それから、王女は、茶碗を手に取った。

二重の手袋で。

一口、飲んだ。

受け皿に、戻した。

かちん、と小さな音がした。

それきり、王女は何も言わなかった。

 

(……変わらない)

 

アルトは、王女を見ていた。

婚約が、決まったのに。

審議会の木槌が、鳴ったのに。

この人は、何も変わらなかった。

礼儀正しく。穏やかで。一定の距離を保って。

身を寄せなかった。囁かなかった。手に触れなかった。

香りも、纏っていなかった。

洗いたての布の匂いだけが、かすかに。

 

女王が、何か話していた。

婚礼の日取りのこと。王都の大聖堂のこと。祝宴に招く客のこと。

アルトは、女王の言葉に、穏やかに相槌を打っていた。

王女も、ときどき、短く答えていた。

 

「はい、母上」「承知いたしました」「お任せいたします」

 

それだけだった。

アルトの方を、王女は見なかった。

茶碗を、見ていた。

 

(……婚約者、なのに)

 

(俺の、婚約者なのに)

 

アルトの胸の奥に、何かが、少しずつ溜まっていった。

楓の東屋では、この人は、アルトを見た。

まっすぐに。逸らさずに。

精神の数字を見て、長く何かを我慢してきた人のものだと言った。自分の鑑定の写しを、差し出してくれた。

同じ数字を、毎日、鏡の中で見ている、と。

あのとき、この人と、何かが繋がった気がした。

それが、今は。

 

(……まさか)

 

アルトは、茶碗を口に運んだ。

 

(まさか、本当に、興味がないのでは)

 

天賦の儀から、八か月。

五人の女性と、契りを結んだ。

全員が、迫ってきた。誘いの作法を、全力で。

迫られることが、当たり前になっていた。

この世界の女は、男に迫る。欲が強いから。何百年も、そうしてきたから。

アルトには、全部効く。

それが分かっているから、女たちは、もっと迫ってくる。

だから。

迫ってこないということは。

 

(……興味が、ない、ということなのか)

 

王家が、アルトを欲しがった。女王が、アルトを王配に迎えたいと言った。

でも、それは、王家の話だった。

この人が、自分を欲しがっているとは、一度も言っていなかった。

 

(王家の、都合で)

 

(夢魔を討った英雄だから。神殿の祝福を倍にしたから。騎士団を強くしたから)

 

(この人は、それを、受け入れただけ)

 

(……王女として)

 

胸の奥が、冷たくなった。

崩れるような気持ちでは、なかった。

微震でもなかった。

ただ、純粋な、不安だった。

 

女王が、席を立った。

 

「少し、グレタと話があるわ。二人で、ゆっくりなさい」

 

女王は、侍女長を連れて、小広間の奥の扉へ向かった。

侍女たちも、壁際から、少しだけ下がった。

声の届かない、距離に。

円卓に、アルトと王女の、二人が残った。

 

沈黙が、落ちた。

窓の外で、裸の枝が、風に揺れていた。

王女は、茶碗を見ていた。

アルトは、王女を見ていた。

 

(何か、言わないと)

 

(婚約者として、何か)

 

アルトは、口を開いた。

 

「……殿下」

 

王女が、顔を上げた。

銀灰色の目が、アルトを見た。

ほんの一瞬。

それから、すぐに逸らした。

 

「……はい」

 

「このたびの、婚約のことですが」

 

アルトは、言葉を探した。

 

「殿下は、その」

 

何を聞けばいいのか、分からなかった。

嫌ではないか、と聞けばいいのか。無理をしていないか、と聞けばいいのか。

それとも。

 

(俺のこと、どう思ってるんですか)

 

そんなことは、聞けなかった。

この国の男は、そんなことを聞かない。

 

「……ご迷惑では、ありませんでしたか」

 

結局、アルトの口から出たのは、それだった。

 

王女は、しばらく黙っていた。

茶碗を、見ていた。

二重の手袋の指先が、受け皿の縁に、そっと触れていた。

それから、王女は顔を上げた。

アルトを、見た。

今度は、すぐには逸らさなかった。

銀灰色の目が、まっすぐに、アルトを見ていた。

王女は、微笑んだ。

完璧な、微笑みだった。

楓の東屋で見た、あの微笑み。

 

「お気遣いなく」

 

王女は、言った。

穏やかな声だった。

婚約者として、最初の言葉だった。

 

「わたくしは、平気ですので」

 

 

アルトは、王女の微笑みを見ていた。

完璧だった。

一分の隙も、なかった。

王族の、礼儀正しい、穏やかな微笑み。

 

(……平気、なのか)

 

(本当に)

 

アルトの視線が、下がった。

王女の顔から、胸元へ。胸元から、膝の上へ。

膝の上に、王女の手が重ねられていた。

二重の、白い手袋。

その指先が。

震えていた。

小さく。けれど、確かに。

叙任式で、騎士が跪くたびに震えていた、あの指先。凱旋の式典で、民の歓声を聞いて震えていた、あの指先。楓の東屋で、背を向けて歩きながら震えていた、あの指先。

今も、震えていた。

微笑みは、完璧なのに。

声は、穏やかなのに。

指先だけが。

アルトは、顔を上げた。

王女は、もう、アルトを見ていなかった。

茶碗を、見ていた。

膝の上の手を、そっと、もう片方の手で覆っていた。

震えを、隠すように。

 

アルトは、何も言えなかった。

 

(平気、なのか)

 

その問いが、胸の中で、ゆっくりと形を変えていった。

 

(平気、じゃ、ないのか)

 

(平気じゃないのに、平気だと、言っているのか)

 

(……何が、平気じゃないんだ)

 

答えは、なかった。

王女は、茶を一杯だけ飲んで、席を立った。

 

「本日は、ありがとうございました」

 

一礼して、扉の方へ歩いていった。

一度も、振り返らなかった。

 

その日の午後。

王国議会の、薬事委員会の議場。

院長のドロテア・クラムが、傍聴席の端に座っていた。

委員会の審議は、終わっていた。

結論は、出なかった。

賛成六名。反対六名。態度未定一名。

拮抗していた。

 

「最終の採決は」

 

委員長が、木槌を手に言った。

 

「来月、議会の本会議にて行う」

 

議員たちが、書類を揃え始めた。

 

「日取りは」

 

議員の一人が、聞いた。

委員長は、手元の暦を見た。

 

「……王家のご婚約の、公式発表の日と、同じ日になるな」

 

院長の指先が、膝の上で、ぴくりと動いた。

態度未定の、一名。

その一名が、どちらに転ぶかで、全部が決まる。

院長は、胃のあたりを押さえた。

傍聴席を立って、議場を出た。

廊下の窓から、王宮が見えた。

東の棟の、一番奥の窓。

厚い帳で閉ざされた、あの窓。

院長は、しばらく、その窓を見ていた。

それから、胃薬の小瓶を、懐から取り出した。

 

その夜。

王宮の南の棟。女王の私室。

女王は、長椅子に座っていた。

窓辺の花瓶に、冬の花が活けてあった。白い山茶花。赤い寒椿。

侍女長のグレタが、女王の前に立っていた。

今日の茶会の、報告を終えたところだった。

 

「……一杯だけ、ね」

 

女王が、扇を膝の上で開いたり閉じたりしていた。

 

「婚約が決まっても」

 

「はい」

 

「平気ですので、と言ったのね」

 

「はい。……完璧な、微笑みで」

 

女王は、扇を閉じた。

窓の外を、見た。

東の棟の、一番奥の窓。

厚い帳の、隙間から、かすかに灯りが漏れていた。

 

「グレタ」

 

「はい」

 

女王は、窓の外を見たまま、言った。

 

「あの子の手袋の替え、何組残っているかしら」

 

グレタは、すぐには答えなかった。

それから、背筋を伸ばしたまま、静かに言った。

 

「三組です」

 

女王は、何も言わなかった。

グレタは、少しだけ間を置いて、付け加えた。

 

「……昨日までは、五組でした」

 

 

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