男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
王宮の正門前の広場が、人で埋まっていた。
広場だけではなかった。
広場から伸びる大通りも。大通りから枝分かれする路地も。路地に面した家々の窓も、屋根の上も。
初冬の、晴れた朝だった。
吐く息が、白かった。
それでも、誰一人として帰ろうとしなかった。
王都ローゼンハイムじゅうの民が、王宮のバルコニーを見上げていた。
「……すごい人ですね」
バルコニーの奥の、控えの間。
アルトは、厚い帳の隙間から、外を覗いていた。
王家の礼服を着せられていた。深い蒼の上着に、銀の刺繍。肩から、短い外套。
王配となる者の、婚約発表の装いだった。
朝から三人がかりで着付けられた。着付けの侍女たちは、全員、アルトの体に触れるたびに作法通り許しを請うた。
アルトは、全部「どうぞ」と答えた。
(朝から、それどころじゃなかった)
「王都の民の、ほぼ全員です」
背後で、侍女長のグレタが言った。
背筋を、定規を当てたように伸ばしていた。
「地方からも、昨夜のうちに、ずいぶん集まったと聞いております。夢魔を討った英雄と、第一王女殿下のご婚約ですので」
グレタは、帳の隙間から、広場を一瞥した。
「……王家の歴史で、これほどの人出は、記録にございません」
控えの間の奥の扉が、開いた。
女王が、入ってきた。
その後ろに、王女。
アルトは、振り返った。
王女は、冬の正装だった。
深い蒼の、厚手の絹。首元から足首まで。その上に、白い毛皮の縁取りのついた外套。
外套の襟は、顎の下まで立てられていた。
両手に、白い手袋。
二重だった。
初冬だった。
ようやく、季節が王女の服に追いついていた。
外の民衆も、毛織の外套を着込んでいた。マフラーを巻いていた。手袋をはめていた。
今日だけは、王女の装いが、誰の目にも不自然ではなかった。
それでも、アルトには分かった。
(……厚い)
季節に追いつかれたぶん、王女の服は、また一枚、先へ逃げていた。
外套の下に、もう一枚。白い毛皮の縁取りの奥に、さらに毛織の襟が覗いていた。
「では、参りましょう」
女王が、言った。
扉の前の衛兵が、バルコニーへの扉に手をかけた。
女王が、先に出た。
歓声が、上がった。
控えの間の壁が、震えるほどの。
それから、侍女長が、アルトと王女に目配せした。
「お二人で、どうぞ」
アルトは、王女を見た。
王女は、まっすぐ前を見ていた。
扉の向こうの、光の方を。
「……殿下」
アルトは、腕を差し出した。
婚約者として、エスコートする作法だった。
王女は、アルトの腕を見た。
一瞬だけ、動かなかった。
それから、二重の手袋の指先を、アルトの腕に、そっと乗せた。
触れるか、触れないか。
羽が乗ったほどの重さだった。
それでも、震えが、伝わってきた。
腕の上で、指先が、小さく、細かく。
バルコニーに出た瞬間、音が、壁になって押し寄せてきた。
歓声だった。
広場を埋め尽くした民衆が、一斉に叫んでいた。
「姫様、おめでとうございます!」「英雄殿!」「アズール王家、万歳!」「セレスタに、栄光を!」
帽子が、宙に舞った。花が、投げられた。冬の花。白い山茶花と、赤い寒椿。
旗が、振られていた。
蒼い、アズール王家の旗。
それから、ところどころに、別の旗も混じっていた。
蒼薔薇騎士団の旗。大神殿の、白い旗。王立魔導院の紋章の入った小旗。七都商盟の、深緑の旗。冒険者ギルドの、剣と盾の旗。
「……あれは」
アルトが呟くと、隣で女王が、くすりと笑った。
「あなたの、お仲間たちが配ったのでしょう。手回しのいいこと」
アルトは、王女の隣で、手を振った。
王女も、手を振った。
二重の手袋で。
ゆっくりと、優雅に。
完璧な、王女の所作だった。
歓声が、さらに大きくなった。
王女が手を振るたびに。アルトと王女が、並んで立つ姿を見るたびに。
民衆の声が、熱を帯びていった。
アルトは、王女の横顔を見た。
微笑んでいた。
完璧な、微笑みだった。
民衆に向けた、王族の、穏やかな微笑み。
その頬が、ほんのりと、赤かった。
寒さのせいでは、なかった。
外套の高い襟の上で、白い肌の奥から、熱が滲み出しているような赤さだった。
王女の手袋の指先が、振る手の先で、ずっと震えていた。
叙任式のときより。凱旋の式典のときより。
ずっと、大きく。
歓声が、波のように押し寄せてきた。
一つの波が引くと、また次の波が。
王女の体が、その波のたびに、ほんのわずかに強張った。
アルトの腕に乗せた指先に、少しだけ力がこもった。
すぐに、緩んだ。
また、こもった。
(……大丈夫なのか)
アルトは、王女を見ていた。
(この人、今、何かと、戦ってる)
その時だった。
冷たい風が、バルコニーを吹き抜けた。
王女の側から、アルトの方へ。
匂いが、した。
花の匂いだった。
第十七次の茶会で、一筋だけ届いた、あの匂い。
閉じ込められた場所で、たくさんの花が、一斉に咲いているような。
ただ、あのときとは、違った。
濃かった。
一筋ではなかった。
冷たい風に乗って、はっきりと。外套の、高い襟の隙間から。二重の手袋の、袖口から。
洗いたての布の匂いを、押しのけるように。
甘くて。熱くて。深くて。
(……っ)
アルトの手が、振る途中で、一瞬止まった。
(花の匂い、濃い……)
(前より、ずっと)
(この人の、どこから)
(……っ、だめだ、今、それは)
アルトは、手を振り続けた。
穏やかな顔で。
内心は、崩れなかった。
崩れることが、できなかった。
崩れかけて、その手前で、何かが、ぎゅっと止めた。
隣で、王女が、民衆に向かって微笑んでいたから。
震える指先で、手を振り続けていたから。
この人の隣で、自分だけが、崩れるわけにはいかなかった。
風が、止んだ。
花の匂いが、ふっと、薄くなった。
王女が、ほんのわずかに、肩の力を抜いた。
それから、ほんの一瞬だけ、アルトを見た。
銀灰色の目が、外套の高い襟の上から。
何かを、確かめるように。
アルトは、王女の目を見返した。
王女は、すぐに目を逸らした。
民衆の方を、向いた。
完璧な微笑みに、戻っていた。
(……気づいた、のか)
(俺が、匂いに、気づいたことに)
バルコニーの下の、広場の最前列。
衛兵の列のすぐ後ろに、五人が並んでいた。
セラフィナは、鎖を八本巻いた上に、神殿の白い外套を羽織っていた。
大神殿の白い旗を、縛られた手で、精一杯掲げていた。
空色の目が、バルコニーの二人を見上げていた。
クラウディアは、騎士団の正装だった。
直立不動で、バルコニーを見上げていた。
主君と。主君の婚約者を。
灰色の目が、少しだけ、潤んでいた。
リゼットは、記録板を抱えていた。
白衣の上に、毛織の外套。三つ編みを、マフラーの中に押し込んでいた。
ペンが、走っていた。
『十時三分。婚約の公式発表。民衆の推定人数、王都人口の九割超。王女殿下の着衣:外套の下に、さらに一枚。王女殿下の手袋:二重。指先の震え、目視で確認可能な水準』
マルグリットは、七都商盟の深緑の旗を、片手で振っていた。
もう片方の手で、帳簿を抱えていた。
「……旗の発注、四千本。完売です」
彼女は、小さく呟いた。
満足そうだった。
ロッサは、四人の後ろに立っていた。
頭一つ、抜けていた。
冒険者ギルドの旗を、大剣の鞘に括りつけて、肩に担いでいた。
金茶色の目が、バルコニーの王女を見ていた。
鼻が、ひくりと動いた。
「……やばいな」
ロッサは、小さく言った。
「前より、ずっと腹ぺこの匂いだ」
バルコニーの、反対の端。
フェンネル家の家族が、王家の客人として並んでいた。
母のマルタは、泣いていた。
声を立てずに。ハンカチを、顔に押し当てて。
肩が、震えていた。
「……アルト」
ハンカチの下から、声が漏れた。
「アルトが、王家に……王女様の、旦那様に……」
エルゼが、母の肩を支えていた。
笑顔だった。
拍手を、していた。
ただ、拍手の手が、ほんの少しだけ、ゆっくりだった。
ヘルガも、拍手をしていた。
揚げ菓子の袋は、今日は持っていなかった。
拍手をしながら、バルコニーの真ん中の弟を見ていた。
その目が、少しだけ赤かった。
「……よかったね、アルト」
小さく、言った。
それから、もっと小さく、付け加えた。
「弟じゃ…なかったら」
エルゼが、母を支えたまま、空いている方の手で、正確に妹の口を塞いだ。
今日は、少しだけ、その手が優しかった。
父のハインツは、黙ってバルコニーの真ん中を見ていた。
息子を。
その隣の、冬装束の王女を。
それから、王女の手袋の、震える指先を。
父の目が、その指先の上で、しばらく止まっていた。
穏やかで。優しくて。ほんの少しだけ、疲れている目で。
父は、懐に手を入れた。
包み紙にくるまれた小瓶を、取り出しかけた。
それから、手を止めた。
小瓶を、懐に戻した。
「……いいスキルで」
父は、言いかけた。
天賦の儀の日、玄関の前で、アルトの肩に手を置いて言った、あの言葉。
『……いいスキルで、よかったな』
父は、その続きを、言わなかった。
口を閉じた。
バルコニーの真ん中の、息子の背中を、もう一度見た。
それから、王女の指先を、もう一度見た。
父は、何も言わずに、小さく首を振った。
婚約の発表は、昼過ぎまで続いた。
バルコニーから退いても、歓声は止まなかった。
控えの間で、王女は侍女たちに囲まれていた。
外套を、脱がされようとしていた。
「そのままで」
王女は、言った。
静かな声だった。
侍女たちが、手を止めた。
王女は、控えの間の隅の椅子に、一人で座った。
外套を着たまま。二重の手袋のまま。
目を、閉じていた。
膝の上で、両手を重ねていた。
重ねた手が、震えていた。
アルトは、控えの間の反対の隅から、それを見ていた。
声を、かけられなかった。
同じ頃。
王国議会の、本会議の議場。
天井の高い、半円形の議場だった。階段状の議席に、議員たちが並んでいた。
窓の外から、遠く、王宮の方角の歓声が聞こえていた。
議場の中央の演壇で、議長が書類を読み上げていた。
「次の議案。滋養強壮魔導薬の、法定上限規定の改定について」
議員たちが、書類をめくる音がした。
傍聴席の、一番前の端に。
王立魔導院院長、ドロテア・クラムが座っていた。
膝の上で、両手を握りしめていた。
胃薬の小瓶を、その中に握り込んでいた。
議長が、言った。
「これより、採決に入ります」