男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~   作:朝凪小夜

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第56話 忠誠の、最高潮

 

王宮の正門前の広場が、人で埋まっていた。

広場だけではなかった。

広場から伸びる大通りも。大通りから枝分かれする路地も。路地に面した家々の窓も、屋根の上も。

初冬の、晴れた朝だった。

吐く息が、白かった。

それでも、誰一人として帰ろうとしなかった。

王都ローゼンハイムじゅうの民が、王宮のバルコニーを見上げていた。

 

「……すごい人ですね」

 

バルコニーの奥の、控えの間。

アルトは、厚い帳の隙間から、外を覗いていた。

王家の礼服を着せられていた。深い蒼の上着に、銀の刺繍。肩から、短い外套。

王配となる者の、婚約発表の装いだった。

朝から三人がかりで着付けられた。着付けの侍女たちは、全員、アルトの体に触れるたびに作法通り許しを請うた。

アルトは、全部「どうぞ」と答えた。

 

(朝から、それどころじゃなかった)

 

「王都の民の、ほぼ全員です」

 

背後で、侍女長のグレタが言った。

背筋を、定規を当てたように伸ばしていた。

 

「地方からも、昨夜のうちに、ずいぶん集まったと聞いております。夢魔を討った英雄と、第一王女殿下のご婚約ですので」

 

グレタは、帳の隙間から、広場を一瞥した。

 

「……王家の歴史で、これほどの人出は、記録にございません」

 

控えの間の奥の扉が、開いた。

女王が、入ってきた。

その後ろに、王女。

アルトは、振り返った。

王女は、冬の正装だった。

深い蒼の、厚手の絹。首元から足首まで。その上に、白い毛皮の縁取りのついた外套。

外套の襟は、顎の下まで立てられていた。

両手に、白い手袋。

二重だった。

初冬だった。

ようやく、季節が王女の服に追いついていた。

外の民衆も、毛織の外套を着込んでいた。マフラーを巻いていた。手袋をはめていた。

今日だけは、王女の装いが、誰の目にも不自然ではなかった。

それでも、アルトには分かった。

 

(……厚い)

 

季節に追いつかれたぶん、王女の服は、また一枚、先へ逃げていた。

外套の下に、もう一枚。白い毛皮の縁取りの奥に、さらに毛織の襟が覗いていた。

 

「では、参りましょう」

 

女王が、言った。

扉の前の衛兵が、バルコニーへの扉に手をかけた。

女王が、先に出た。

歓声が、上がった。

控えの間の壁が、震えるほどの。

それから、侍女長が、アルトと王女に目配せした。

 

「お二人で、どうぞ」

 

アルトは、王女を見た。

王女は、まっすぐ前を見ていた。

扉の向こうの、光の方を。

 

「……殿下」

 

アルトは、腕を差し出した。

婚約者として、エスコートする作法だった。

王女は、アルトの腕を見た。

一瞬だけ、動かなかった。

それから、二重の手袋の指先を、アルトの腕に、そっと乗せた。

触れるか、触れないか。

羽が乗ったほどの重さだった。

それでも、震えが、伝わってきた。

腕の上で、指先が、小さく、細かく。

 

バルコニーに出た瞬間、音が、壁になって押し寄せてきた。

歓声だった。

広場を埋め尽くした民衆が、一斉に叫んでいた。

 

「姫様、おめでとうございます!」「英雄殿!」「アズール王家、万歳!」「セレスタに、栄光を!」

 

帽子が、宙に舞った。花が、投げられた。冬の花。白い山茶花と、赤い寒椿。

旗が、振られていた。

蒼い、アズール王家の旗。

それから、ところどころに、別の旗も混じっていた。

蒼薔薇騎士団の旗。大神殿の、白い旗。王立魔導院の紋章の入った小旗。七都商盟の、深緑の旗。冒険者ギルドの、剣と盾の旗。

 

「……あれは」

 

アルトが呟くと、隣で女王が、くすりと笑った。

 

「あなたの、お仲間たちが配ったのでしょう。手回しのいいこと」

 

アルトは、王女の隣で、手を振った。

王女も、手を振った。

二重の手袋で。

ゆっくりと、優雅に。

完璧な、王女の所作だった。

歓声が、さらに大きくなった。

王女が手を振るたびに。アルトと王女が、並んで立つ姿を見るたびに。

民衆の声が、熱を帯びていった。

アルトは、王女の横顔を見た。

微笑んでいた。

完璧な、微笑みだった。

民衆に向けた、王族の、穏やかな微笑み。

その頬が、ほんのりと、赤かった。

寒さのせいでは、なかった。

外套の高い襟の上で、白い肌の奥から、熱が滲み出しているような赤さだった。

王女の手袋の指先が、振る手の先で、ずっと震えていた。

叙任式のときより。凱旋の式典のときより。

ずっと、大きく。

 

歓声が、波のように押し寄せてきた。

一つの波が引くと、また次の波が。

王女の体が、その波のたびに、ほんのわずかに強張った。

アルトの腕に乗せた指先に、少しだけ力がこもった。

すぐに、緩んだ。

また、こもった。

 

(……大丈夫なのか)

 

アルトは、王女を見ていた。

 

(この人、今、何かと、戦ってる)

 

その時だった。

冷たい風が、バルコニーを吹き抜けた。

王女の側から、アルトの方へ。

匂いが、した。

 

花の匂いだった。

第十七次の茶会で、一筋だけ届いた、あの匂い。

閉じ込められた場所で、たくさんの花が、一斉に咲いているような。

ただ、あのときとは、違った。

濃かった。

一筋ではなかった。

冷たい風に乗って、はっきりと。外套の、高い襟の隙間から。二重の手袋の、袖口から。

洗いたての布の匂いを、押しのけるように。

甘くて。熱くて。深くて。

 

(……っ)

 

アルトの手が、振る途中で、一瞬止まった。

 

(花の匂い、濃い……)

 

(前より、ずっと)

 

(この人の、どこから)

 

(……っ、だめだ、今、それは)

 

アルトは、手を振り続けた。

穏やかな顔で。

内心は、崩れなかった。

崩れることが、できなかった。

崩れかけて、その手前で、何かが、ぎゅっと止めた。

隣で、王女が、民衆に向かって微笑んでいたから。

震える指先で、手を振り続けていたから。

この人の隣で、自分だけが、崩れるわけにはいかなかった。

 

風が、止んだ。

花の匂いが、ふっと、薄くなった。

王女が、ほんのわずかに、肩の力を抜いた。

それから、ほんの一瞬だけ、アルトを見た。

銀灰色の目が、外套の高い襟の上から。

何かを、確かめるように。

アルトは、王女の目を見返した。

王女は、すぐに目を逸らした。

民衆の方を、向いた。

完璧な微笑みに、戻っていた。

 

(……気づいた、のか)

 

(俺が、匂いに、気づいたことに)

 

バルコニーの下の、広場の最前列。

衛兵の列のすぐ後ろに、五人が並んでいた。

セラフィナは、鎖を八本巻いた上に、神殿の白い外套を羽織っていた。

大神殿の白い旗を、縛られた手で、精一杯掲げていた。

空色の目が、バルコニーの二人を見上げていた。

クラウディアは、騎士団の正装だった。

直立不動で、バルコニーを見上げていた。

主君と。主君の婚約者を。

灰色の目が、少しだけ、潤んでいた。

リゼットは、記録板を抱えていた。

白衣の上に、毛織の外套。三つ編みを、マフラーの中に押し込んでいた。

ペンが、走っていた。

 

『十時三分。婚約の公式発表。民衆の推定人数、王都人口の九割超。王女殿下の着衣:外套の下に、さらに一枚。王女殿下の手袋:二重。指先の震え、目視で確認可能な水準』

 

マルグリットは、七都商盟の深緑の旗を、片手で振っていた。

もう片方の手で、帳簿を抱えていた。

 

「……旗の発注、四千本。完売です」

 

彼女は、小さく呟いた。

満足そうだった。

ロッサは、四人の後ろに立っていた。

頭一つ、抜けていた。

冒険者ギルドの旗を、大剣の鞘に括りつけて、肩に担いでいた。

金茶色の目が、バルコニーの王女を見ていた。

鼻が、ひくりと動いた。

 

「……やばいな」

 

ロッサは、小さく言った。

 

「前より、ずっと腹ぺこの匂いだ」

 

 

バルコニーの、反対の端。

フェンネル家の家族が、王家の客人として並んでいた。

母のマルタは、泣いていた。

声を立てずに。ハンカチを、顔に押し当てて。

肩が、震えていた。

 

「……アルト」

 

ハンカチの下から、声が漏れた。

 

「アルトが、王家に……王女様の、旦那様に……」

 

エルゼが、母の肩を支えていた。

笑顔だった。

拍手を、していた。

ただ、拍手の手が、ほんの少しだけ、ゆっくりだった。

ヘルガも、拍手をしていた。

揚げ菓子の袋は、今日は持っていなかった。

拍手をしながら、バルコニーの真ん中の弟を見ていた。

その目が、少しだけ赤かった。

 

「……よかったね、アルト」

 

小さく、言った。

それから、もっと小さく、付け加えた。

 

「弟じゃ…なかったら」

 

エルゼが、母を支えたまま、空いている方の手で、正確に妹の口を塞いだ。

今日は、少しだけ、その手が優しかった。

 

父のハインツは、黙ってバルコニーの真ん中を見ていた。

息子を。

その隣の、冬装束の王女を。

それから、王女の手袋の、震える指先を。

父の目が、その指先の上で、しばらく止まっていた。

穏やかで。優しくて。ほんの少しだけ、疲れている目で。

父は、懐に手を入れた。

包み紙にくるまれた小瓶を、取り出しかけた。

それから、手を止めた。

小瓶を、懐に戻した。

 

「……いいスキルで」

 

父は、言いかけた。

天賦の儀の日、玄関の前で、アルトの肩に手を置いて言った、あの言葉。

 

『……いいスキルで、よかったな』

 

父は、その続きを、言わなかった。

口を閉じた。

バルコニーの真ん中の、息子の背中を、もう一度見た。

それから、王女の指先を、もう一度見た。

父は、何も言わずに、小さく首を振った。

 

婚約の発表は、昼過ぎまで続いた。

バルコニーから退いても、歓声は止まなかった。

控えの間で、王女は侍女たちに囲まれていた。

外套を、脱がされようとしていた。

 

「そのままで」

 

王女は、言った。

静かな声だった。

侍女たちが、手を止めた。

王女は、控えの間の隅の椅子に、一人で座った。

外套を着たまま。二重の手袋のまま。

目を、閉じていた。

膝の上で、両手を重ねていた。

重ねた手が、震えていた。

アルトは、控えの間の反対の隅から、それを見ていた。

声を、かけられなかった。

 

同じ頃。

王国議会の、本会議の議場。

天井の高い、半円形の議場だった。階段状の議席に、議員たちが並んでいた。

窓の外から、遠く、王宮の方角の歓声が聞こえていた。

議場の中央の演壇で、議長が書類を読み上げていた。

 

「次の議案。滋養強壮魔導薬の、法定上限規定の改定について」

 

議員たちが、書類をめくる音がした。

傍聴席の、一番前の端に。

王立魔導院院長、ドロテア・クラムが座っていた。

膝の上で、両手を握りしめていた。

胃薬の小瓶を、その中に握り込んでいた。

議長が、言った。

 

「これより、採決に入ります」

 

 

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