男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
「賛成の方は、起立を」
議長の声が、議場に響いた。
議員たちが、立ち上がった。
一人。
二人。
三人。
立ち上がる者と、座ったままの者。
ドロテア・クラムは、傍聴席の一番前の端で、それを数えていた。
数える必要は、なかった。
この三か月、毎日数えてきた。
誰が賛成で、誰が反対か。誰が迷っていて、誰が迷っているふりをしているか。
名前も、顔も、地元も、地元の薬局の数も。
全部、頭に入っていた。
立ち上がった議員は、十二人だった。
座ったままの議員も、十二人だった。
議場の、一番後ろの列。
一人だけ、まだ、どちらとも決めていない議員がいた。
南部の、小さな農業都市の選出。
六十を過ぎた、白髪の女性議員だった。
薬事委員会の審議で、三か月間、一度も態度を明らかにしなかった人。
ドロテアは、この議員の屋敷に、三度足を運んだ。
三度とも、丁寧にもてなされて、丁寧に帰された。
『男の体を守るための上限でしょう。わたくしの夫も、上限のおかげで、長生きしておりますのよ』
三度目の訪問で、議員はそう言って、穏やかに笑った。
ドロテアは、何も言い返せなかった。
議場が、静まり返っていた。
二十四人の議員が、一番後ろの列を見ていた。
白髪の議員は、座ったまま、手元の書類を見下ろしていた。
ペンを、指先でくるくると回していた。
議長が、咳払いをした。
「……ヴァインベルク議員。ご起立か、ご着席か」
ヴァインベルク議員は、顔を上げた。
窓の外を、見た。
遠く、王宮の方角から、歓声が聞こえていた。
まだ、止んでいなかった。
王都じゅうが、祝っていた。
議員は、しばらく、その歓声を聞いていた。
それから、ペンを置いた。
ゆっくりと、立ち上がった。
「……めでたい日ですから」
白髪の議員は、穏やかに言った。
「今日くらいは、殿方にも、もう少し頑張っていただいても、よろしいでしょう」
議場が、どよめいた。
議長が、木槌を手に取った。
「賛成、十三。反対、十二」
木槌が、鳴った。
「本議案、可決」
ドロテアは、傍聴席から動かなかった。
動けなかった。
握りしめた両手の中で、胃薬の小瓶が、体温で温まっていた。
可決した。
三か月。
議員の屋敷を回った。陳情書を書いた。委員会で証言した。七都商盟の流通で、第七号を王国中に広げた。議員たちの地元の薬局に、置いてもらった。
それでも、最後は。
めでたい日だから。
ドロテアは、ゆっくりと立ち上がった。
膝が、少しだけ震えていた。
傍聴席の出口へ、歩いていった。
背筋を、伸ばして。院長として。議員たちの前で、表情を崩さずに。
扉を、出た。
議場の外の、長い廊下。
誰も、いなかった。
扉が、背後で閉まった。
ドロテアは、そのまま、膝から崩れ落ちた。
石の床に、膝をついていた。
両手を、床についていた。
握っていた胃薬の小瓶が、手から転がって、廊下の壁際まで転がっていった。
拾わなかった。
ドロテアは、床を見つめていた。
息が、浅かった。
肩が、震えていた。
泣いているのか、笑っているのか、自分でも分からなかった。
四十三歳。王立魔導院院長。
部下の手柄を正当に評価する程度には、有能だった。部下の前で表情を崩さない程度には、矜持もあった。
誰もいない廊下でだけ、それを、全部手放していた。
しばらくして、ドロテアは立ち上がった。
膝の埃を払った。
壁際まで転がっていった胃薬の小瓶を、拾い上げた。
栓を、見た。
抜かなかった。
懐に、しまった。
それから、眼鏡を押し上げて、廊下を歩き出した。
一定の歩幅で。
院長として。
王立魔導院、研究棟。
リゼットの研究室の扉を、ドロテアは叩かずに開けた。
リゼットは、机に向かっていた。
婚約発表から、戻ったばかりらしかった。毛織の外套を、まだ椅子の背にかけたままだった。
三つ編みが、マフラーから半分だけ引き出されていた。
リゼットは、顔を上げた。
「院長」
「可決したわ」
ドロテアは、言った。
リゼットのペンが、止まった。
「……票数は」
「十三対十二」
「一票差」
「ええ。最後の一票が、めでたい日だから、と」
リゼットは、しばらく黙っていた。
それから、記録板に何かを書き込んだ。
『議会、上限規定改定を可決。十三対十二。決定票の理由:慶事』
ペンを、置いた。
「……統計的には、説明のつかない一票です」
「そうね」
ドロテアは、研究室の中に入って、扉を閉めた。
それから、言った。
「第七号・特級の、製造を」
第七号・特級。
改定された上限規定の、最大の濃度。
疲労の回復量、現行の三割増から、最大で六割増まで。魔導院の研究棟で、何年も前から理論だけは組み上がっていた。法律が許さないから、作れなかった。
それが、今日から、作れる。
「製造の手順は、法務担当と詰めて、明日から」
ドロテアは、研究室の机の前に立った。
「最初の一ロットは、少量で。品質の検証を」
「院長」
リゼットが、言った。
淡々とした声だった。
「既に、試作品があります」
ドロテアの言葉が、止まった。
リゼットは、机の引き出しを開けた。
小さな木箱を、取り出した。
蓋を、開けた。
藁に包まれた、硝子の小瓶が、二本。
琥珀色だった。
ただ、第七号より、色が深かった。光にかざすと、底の方が、ほんのりと金色に光った。
ラベルに、几帳面な字で書いてあった。
『第七号・特級試作研究用法定上限改定後の最大濃度(理論値)』
ドロテアは、小瓶を見つめていた。
「……いつ、作ったの」
「三週間前です」
「上限規定は、今日まで、改定されていなかったわ」
「研究用の試作は、上限規定の適用外です。販売も、服用もしない限り」
リゼットは、淡々と答えた。
「当院の内規、第四十二条。院長の承認印も、いただいております」
ドロテアは、思い出した。
三週間前。
研究棟から上がってきた、試作の承認願い。書類の山の中に、紛れていた一枚。
『研究用試作の件』
中身を、よく読まずに、判を押した。
ドロテアは、木箱の中の二本の小瓶を、しばらく見つめていた。
二本。
一本ではなく、二本。
それから、ゆっくりと、顔を上げた。
リゼットを、見た。
「……どこに使う気だったの」
リゼットは、眼鏡を押し上げた。
「侍女長様からの、発注です」
「侍女長」
「はい。王宮の侍女長、グレタ様から。三週間前に、正式な書面で」
リゼットは、机の引き出しから、もう一枚の羊皮紙を取り出した。
王家の、蒼い封蝋。
ドロテアは、それを受け取って、開いた。
侍女長の、几帳面な字だった。
『王立魔導院御中上限規定の改定が成った暁には、第七号・特級を、二本、謹んで発注いたします。用途:婚約の茶会』
その下に、もう一つ、署名があった。
侍女長の署名の、さらに下。
蒼いインクで。
流麗な、女王陛下の署名だった。
『裁可する。イゾルデ』
ドロテアは、羊皮紙を見つめていた。
長いこと。
それから、羊皮紙を机の上に置いた。
「……婚約の茶会に」
「はい」
「王家の茶会に、王女殿下とフェンネル卿の茶に」
「はい。二人分、公平に」
リゼットの声は、淡々としていた。
「侍女長様の作戦名は、最終茶会作戦だそうです」
ドロテアは、胃のあたりに手を当てかけた。
それから、手を止めた。
懐の、胃薬の小瓶に、指先が触れた。
取り出さなかった。
「……ハーシェル」
「はい」
「特級の効果を、念のため確認するわ」
「はい」
リゼットは、記録板を開いた。
「第七号・特級は、疲労の回復と、体力の持続のみに作用します。欲を、作り出すことはありません。第七号と同じく」
彼女は、小瓶を一本、光にかざした。
「疲れていなければ、続けられる。それだけです。続けるかどうかは、本人の意思です」
ドロテアは、黙っていた。
「欲が、最初からあれば」
リゼットは、小瓶を木箱に戻した。
「……疲れで止まることが、なくなります」
研究室が、静かになった。
窓の外で、まだ、王宮の方角から歓声が聞こえていた。
ドロテアは、窓の方を見た。
王宮。
その東の棟の、一番奥の窓。
ここからは、見えなかった。
けれど、ドロテアは、その方角を見ていた。
「……ハーシェル」
「はい」
「あなた、王女殿下の着衣の表を、作っていたわね」
リゼットの手が、木箱の蓋の上で、止まった。
「秋の初めに。研究室の壁に貼ってあったのを、見たわ」
「……閉じました。王家の秘密の領域ですので」
「ええ。閉じたのは、正しい判断よ」
ドロテアは、窓の外を見たまま言った。
「ただ」
院長は、少しだけ間を置いた。
「侍女長が、女王陛下の裁可を得て、特級を二本、発注した。……王家は、知っているのね。あの子に、何が要るのか」
リゼットは、何も言わなかった。
木箱の蓋を、そっと閉めた。
ドロテアは、研究室の扉に手をかけた。
それから、振り返った。
「ハーシェル」
「はい」
「フェンネル卿の、契約の枠は、今いくつ」
「七つです。うち、五つが埋まっています」
「……残り、二つ」
「はい。うち一つは、婚約に伴い、王女殿下の分と推定されます」
「では、残り一つ」
ドロテアは、扉の取っ手を握ったまま、しばらく黙っていた。
それから、首を振った。
「……いえ。何でもないわ」
扉を、開けた。
廊下に出る前に、もう一度だけ、振り返った。
「特級の納品は、あなたに任せます。王宮の厨房まで、確実に」
「拝命いたします」
扉が、閉まった。
リゼットは、閉じた扉を見ていた。
それから、記録板を開いた。
一行、書き足した。
『院長、七枠目について言及しかけて、撤回』
ペンを止めて、少しだけ考えた。
それから、その一行に、細い線を引いた。
その日の夕方。
七都商盟本部の、議長私室。
マルグリットが、机の上に帳簿を広げていた。
窓の外は、もう暗くなり始めていた。
扉が叩かれて、使いの者が入ってきた。
「議長。魔導院の研究棟から、荷物の手配の依頼です」
「ハーシェル殿から?」
「はい。小さな木箱を一つ。中身は、研究用の試作品とのことです。至急、確実に、と」
マルグリットは、帳簿から顔を上げた。
「宛先は」
使いの者は、手元の伝票を読み上げた。
「王宮、西の棟。……厨房」
マルグリットのペンが、止まった。
一呼吸。
それから、彼女は帳簿の新しい頁を開いた。
『製造:王立魔導院。流通:七都商盟。品目:第七号・特級二本宛先:王宮厨房至急便。護衛つき』
マルグリットは、その最後の行に、署名をした。
いつもの、几帳面な字だった。
ただ、最後の一画が、ほんの少しだけ、揺れていた。
「……当盟の流通網に、特級を載せる最初の荷が」
彼女は、帳簿を閉じた。
「王宮の厨房、ですか」
窓の外で、王宮の方角の空が、まだ祝いの篝火で、ほんのりと明るかった。
マルグリットは、それをしばらく見つめていた。
それから、小さく笑った。
商談用の笑いでは、なかった。
「……手数料は、いただかないでおきましょう」