男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~   作:朝凪小夜

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第58話 婚約の茶会

 

王宮の西の棟。侍女長の執務室。

大きな机の上に、図面が広げてあった。

王宮の小広間の、見取り図。冬の庭園に面した、ガラス窓の大きな部屋。

卓の位置。椅子の位置。窓の位置。扉の位置。

その上に、駒が並んでいた。

蒼い駒が、一個。焦げ茶色の駒が、一個。

白い駒は、四個だけだった。

壁際に。

図面の一番上に、侍女長グレタの几帳面な字で、表題が書いてあった。

二十一回目の、表題だった。

 

『最終茶会作戦』

 

「本日の作戦は、これまでと異なります」

 

グレタは、指示棒を手に、侍女たちの前に立っていた。

侍女たちは、四人だけだった。

いつもの十二人では、なかった。

 

「本日は、婚約者としての、正式なお茶会です。誘いの作法は、一切不要」

 

侍女たちが、顔を見合わせた。

 

「フェンネル卿の隣に座ってはなりません。身を寄せてもなりません。耳元で囁いても、手に触れても、香りを纏ってもなりません」

 

グレタは、白い駒を、図面の壁際に並べた。

 

「給仕のみ。それも、必要最小限に。お二人の会話の邪魔をせず、視界にも、なるべく入らないこと」

 

「……侍女長様」

 

一人の侍女が、おずおずと手を挙げた。

 

「では、私たちは、何を」

 

グレタは、指示棒を下ろした。

 

「何もしません」

 

侍女長は、静かに言った。

 

「本日の作戦は、何もしないこと、です」

 

グレタは、図面から目を上げた。

窓の外を、見た。

王宮の東の棟。一番奥の、厚い帳で閉ざされた窓。

 

「二十回、私たちは、場を温めてまいりました」

 

グレタは、言った。

 

「侍女の作法で。花で。席の配置で。大義名分で」

 

侍女たちが、黙って聞いていた。

 

「それでも、姫様は、毎回、一杯だけお茶を召し上がって、席を立たれました」

 

グレタは、窓の外から目を戻した。

 

「温める必要は、もうありません」

 

彼女は、机の引き出しを開けた。

小さな木箱を、取り出した。

今朝、七都商盟の護衛つきの至急便で、厨房に届いたもの。

蓋を開けると、藁に包まれた硝子の小瓶が、二本。

深い琥珀色。光にかざすと、底の方が、ほんのりと金色に光った。

 

「……あとは、お茶だけです」

 

王宮の西の棟、厨房。

湯気の立つ大鍋の前に、一人の侍女が立っていた。

いや、侍女の服を着た、別の誰かだった。

白い前掛け。黒い侍女服。頭に、白い布の帽子。

帽子の下から、三つ編みが一本、背中に垂れていた。

灰銀の、三つ編み。

眼鏡を、かけていた。

リゼットだった。

厨房の侍女たちが、ちらちらと彼女を見ていた。

 

「……新しい方?」

「魔導院の、研究員さんですって」

「侍女長様が、今日だけ、と」

 

リゼットは、その視線を気にしていなかった。

調理台の上に、茶器が二組、並んでいた。

王家の紋章の入った、白磁の茶碗。

同じ形。同じ大きさ。同じ模様。

その横に、木箱から出した、硝子の小瓶が二本。

リゼットは、懐から、小さな計量匙を取り出した。

魔導院の研究棟で使っている、真鍮の匙。

一本目の小瓶の栓を、抜いた。

匙で、量る。

茶碗の一つに、落とす。

二本目の小瓶の栓を、抜いた。

同じ匙で、同じだけ量る。

もう一つの茶碗に、落とす。

それから、二つの茶碗を、並べて見比べた。

琥珀色の液体の、水面の高さ。

同じだった。

リゼットは、記録板を取り出した。

 

『十四時二分。第七号・特級を、茶碗二つに投入。各、同量。公平に』

 

ペンを止めて、少しだけ考えた。

それから、もう一行。

 

『……研究上の、必要により』

 

 

冬の庭園に面した小広間は、明るかった。

大きなガラス窓の向こうに、雪の積もった庭。裸の木々。凍った池。白い石の小径。

部屋の中は、暖炉で暖められていた。

円卓が、一つ。

椅子が、二脚。

向かい合わせに。

アルトは、その一脚に座っていた。

向かいの一脚に、王女が座っていた。

侍女が、四人。

壁際に、控えていた。

声の届かない距離ではなかった。けれど、視界の端にしか入らない場所に。

 

王女は、冬装束だった。

婚約発表の日と、同じだった。

いや、違った。

アルトには、分かった。

外套の襟の下の、毛織の襟。その下に、さらに、もう一枚。

婚約発表から、一週間。

また、一枚、増えていた。

暖炉で暖められた部屋だった。

侍女たちは、袖をまくっていた。

アルトも、上着の前を開けていた。

王女だけが、外套の前を、喉元まで閉じていた。

二重の、白い手袋。

膝の上で、重ねていた。

 

侍女が、茶を運んできた。

白磁の、王家の紋章の入った茶碗。

二つ。

一つを、アルトの前に。一つを、王女の前に。

侍女は、一礼して、壁際へ下がった。

アルトは、茶碗を見下ろした。

琥珀色の茶。湯気が、ゆるやかに立ち上っていた。

いつもの茶より、少しだけ、色が深い気がした。

 

(……気のせいか)

 

王女が、茶碗を手に取った。

二重の手袋で。

アルトも、茶碗を手に取った。

二人は、ほとんど同時に、一口飲んだ。

甘かった。

蜂蜜と、何かの薬草を合わせたような、かすかな甘さ。

 

(……あれ、この味)

 

アルトは、茶碗を見つめた。

 

(第七号、に、似てる)

 

 

それから、しばらく、二人は黙っていた。

暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。

窓の外で、木の枝から、雪がひとかたまり落ちた。

王女は、茶碗を受け皿に戻した。

かちん、と小さな音がした。

膝の上で、手袋を重ね直した。

まっすぐに、座っていた。

迫ってこなかった。

身を寄せなかった。囁かなかった。手に触れなかった。

香りも、纏っていなかった。

婚約者として、初めての正式な茶会だった。

侍女たちは、何もしていなかった。場を温める者は、誰もいなかった。

それでも、王女は、何も変わらなかった。

礼儀正しく。穏やかで。一定の距離を保って。

 

(……分からない)

 

アルトは、王女を見ていた。

 

婚約して、一か月が経っていた。

その間に、三回、会った。

婚約者としての、挨拶の茶会。婚約発表の、バルコニー。そして、今日。

三回とも、王女は、同じだった。

 

「お越しくださり、ありがとうございます」「お気遣いなく」「わたくしは、平気ですので」

 

完璧な微笑み。

二重の手袋。

震える指先。

楓の東屋で、精神の数字を見て、長く何かを我慢してきた人のものだと言った人。

同じ数字を、毎日、鏡の中で見ていると言った人。

あのとき、この人と、何かが繋がった気がした。

婚約が決まって、もっと繋がれると思った。

それなのに。

 

(何も、分からない)

 

(この人が、何を我慢してるのか)

 

(この人が、俺のことを、どう思ってるのか)

 

(婚約したのに)

 

(この人の、本当のことが、何一つ)

 

アルトは、茶碗を握りしめていた。

 

体の奥が、熱かった。

茶を飲んでから、少しずつ。

胃のあたりが、じんわりと温かくなって。それが、腕に、脚に、指先に広がっていった。

第七号を飲んだときと、同じだった。

ただ、強かった。

ずっと、強かった。

疲れが、溶けていった。

朝から、王宮の礼服の着付けで疲れていた。昨夜は、セラフィナの鎖の本数の話で、ほとんど寝ていなかった。

その疲れが、全部、どこかへ消えていった。

体が、満ちていた。

底まで、満ちていた。

満ちた体の奥で、ずっと押さえつけてきたものが、目を覚ましかけていた。

 

(……これ)

 

(第七号、だ。たぶん、もっと濃いやつ)

 

(誰が)

 

アルトは、壁際の侍女たちを見た。

四人とも、まっすぐ前を見ていた。

一人も、こちらを見ていなかった。

 

アルトは、王女を見た。

王女は、茶碗を、もう一度手に取っていた。

二口目を、飲んでいた。

いつもは、一杯を、一口か二口で終える人だった。

今日は、茶碗の中が、半分以上、減っていた。

それから、王女は、茶碗を受け皿に戻した。

かちん、と音がした。

いつもより、少しだけ、大きな音だった。

王女の頬に、朱が差していた。

ほんのわずかに。

白い肌の奥から、熱が滲み出してくるような。

婚約発表のバルコニーで見た、あの赤さだった。

いや、あのときより、少しだけ濃かった。

王女は、膝の上で、手袋を重ね直した。

指先が、震えていた。

いつもより、ずっと大きく。

王女は、それを、もう片方の手で覆った。

覆った手も、震えていた。

 

アルトは、王女を見ていた。

体の奥が、熱かった。

満ちていた。

いつもなら、ここで崩れる。

セラフィナの鎖の前で。クラウディアの跪拝の前で。リゼットの脇の前で。マルグリットのスーツの前で。ロッサの肩の上で。

体が満ちて、目の前に誰かがいれば、内心はとっくに崩れている。

 

(……っ)

 

崩れなかった。

崩れることが、できなかった。

王女の頬の朱を見ていた。震える手袋を見ていた。外套の、喉元まで閉じた襟を見ていた。

その全部が、胸の奥で、何かを掴んでいた。

崩れる手前で、ぎゅっと、止めていた。

 

(なんで、この人だけ)

 

(なんで、この人の前でだけ、崩れられないんだ)

 

アルトは、茶碗を受け皿に戻した。

指先が、少しだけ震えていた。

 

暖炉の薪が、また爆ぜた。

王女が、立ち上がった。

アルトは、王女を見上げた。

王女は、いつものように、一礼しようとしていた。

 

「本日は、ありがとう」

 

声が、そこで、途切れた。

王女は、一度、息を吸った。

外套の襟の上で、喉が、小さく動いた。

それから、言い直した。

 

「……本日は、ありがとうございました」

 

穏やかな声だった。

ほんの少しだけ、掠れていた。

王女は、背を向けた。

扉の方へ、歩き出した。

 

一歩。

 

二歩。

 

外套の裾が、絨毯の上を、静かに払っていった。

二重の手袋の指先が、体の脇で、震えていた。

楓の東屋で、背を向けて歩きながら、震えていた、あの指先。

婚約発表の控えの間で、膝の上で、震えていた、あの指先。

いつも、そうだった。

王女は、いつも、一杯の茶を飲んで、背を向けて、一度も振り返らずに去っていった。

アルトは、いつも、その背中を見送っていた。

いつも、何も言えずに。

 

三歩。

 

四歩。

 

扉まで、あと、数歩だった。

 

(……また、だ)

 

(また、このまま)

 

(また、何も分からないまま)

 

アルトの体の奥で、何かが、満ちきっていた。

疲れは、どこにもなかった。

眠っていたものが、全部、目を覚ましていた。

それでも、崩れなかった。

崩れる代わりに、何か別のものが、喉元まで上がってきていた。

 

五歩。

 

王女の手袋が、扉の取っ手に、伸びた。

アルトは、立ち上がった。

椅子が、絨毯の上で、ずれた。

壁際の侍女たちが、一斉に顔を上げた。

王女の指先が、取っ手の手前で、止まった。

アルトは、口を開いた。

十八年間、一度も、自分から女性を呼び止めたことはなかった。

この国の男は、女性を呼び止めない。

呼び止められる側だった。

それでも。

 

「——待ってください」

 

 

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