男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
王宮の西の棟。侍女長の執務室。
大きな机の上に、図面が広げてあった。
王宮の小広間の、見取り図。冬の庭園に面した、ガラス窓の大きな部屋。
卓の位置。椅子の位置。窓の位置。扉の位置。
その上に、駒が並んでいた。
蒼い駒が、一個。焦げ茶色の駒が、一個。
白い駒は、四個だけだった。
壁際に。
図面の一番上に、侍女長グレタの几帳面な字で、表題が書いてあった。
二十一回目の、表題だった。
『最終茶会作戦』
「本日の作戦は、これまでと異なります」
グレタは、指示棒を手に、侍女たちの前に立っていた。
侍女たちは、四人だけだった。
いつもの十二人では、なかった。
「本日は、婚約者としての、正式なお茶会です。誘いの作法は、一切不要」
侍女たちが、顔を見合わせた。
「フェンネル卿の隣に座ってはなりません。身を寄せてもなりません。耳元で囁いても、手に触れても、香りを纏ってもなりません」
グレタは、白い駒を、図面の壁際に並べた。
「給仕のみ。それも、必要最小限に。お二人の会話の邪魔をせず、視界にも、なるべく入らないこと」
「……侍女長様」
一人の侍女が、おずおずと手を挙げた。
「では、私たちは、何を」
グレタは、指示棒を下ろした。
「何もしません」
侍女長は、静かに言った。
「本日の作戦は、何もしないこと、です」
グレタは、図面から目を上げた。
窓の外を、見た。
王宮の東の棟。一番奥の、厚い帳で閉ざされた窓。
「二十回、私たちは、場を温めてまいりました」
グレタは、言った。
「侍女の作法で。花で。席の配置で。大義名分で」
侍女たちが、黙って聞いていた。
「それでも、姫様は、毎回、一杯だけお茶を召し上がって、席を立たれました」
グレタは、窓の外から目を戻した。
「温める必要は、もうありません」
彼女は、机の引き出しを開けた。
小さな木箱を、取り出した。
今朝、七都商盟の護衛つきの至急便で、厨房に届いたもの。
蓋を開けると、藁に包まれた硝子の小瓶が、二本。
深い琥珀色。光にかざすと、底の方が、ほんのりと金色に光った。
「……あとは、お茶だけです」
王宮の西の棟、厨房。
湯気の立つ大鍋の前に、一人の侍女が立っていた。
いや、侍女の服を着た、別の誰かだった。
白い前掛け。黒い侍女服。頭に、白い布の帽子。
帽子の下から、三つ編みが一本、背中に垂れていた。
灰銀の、三つ編み。
眼鏡を、かけていた。
リゼットだった。
厨房の侍女たちが、ちらちらと彼女を見ていた。
「……新しい方?」
「魔導院の、研究員さんですって」
「侍女長様が、今日だけ、と」
リゼットは、その視線を気にしていなかった。
調理台の上に、茶器が二組、並んでいた。
王家の紋章の入った、白磁の茶碗。
同じ形。同じ大きさ。同じ模様。
その横に、木箱から出した、硝子の小瓶が二本。
リゼットは、懐から、小さな計量匙を取り出した。
魔導院の研究棟で使っている、真鍮の匙。
一本目の小瓶の栓を、抜いた。
匙で、量る。
茶碗の一つに、落とす。
二本目の小瓶の栓を、抜いた。
同じ匙で、同じだけ量る。
もう一つの茶碗に、落とす。
それから、二つの茶碗を、並べて見比べた。
琥珀色の液体の、水面の高さ。
同じだった。
リゼットは、記録板を取り出した。
『十四時二分。第七号・特級を、茶碗二つに投入。各、同量。公平に』
ペンを止めて、少しだけ考えた。
それから、もう一行。
『……研究上の、必要により』
冬の庭園に面した小広間は、明るかった。
大きなガラス窓の向こうに、雪の積もった庭。裸の木々。凍った池。白い石の小径。
部屋の中は、暖炉で暖められていた。
円卓が、一つ。
椅子が、二脚。
向かい合わせに。
アルトは、その一脚に座っていた。
向かいの一脚に、王女が座っていた。
侍女が、四人。
壁際に、控えていた。
声の届かない距離ではなかった。けれど、視界の端にしか入らない場所に。
王女は、冬装束だった。
婚約発表の日と、同じだった。
いや、違った。
アルトには、分かった。
外套の襟の下の、毛織の襟。その下に、さらに、もう一枚。
婚約発表から、一週間。
また、一枚、増えていた。
暖炉で暖められた部屋だった。
侍女たちは、袖をまくっていた。
アルトも、上着の前を開けていた。
王女だけが、外套の前を、喉元まで閉じていた。
二重の、白い手袋。
膝の上で、重ねていた。
侍女が、茶を運んできた。
白磁の、王家の紋章の入った茶碗。
二つ。
一つを、アルトの前に。一つを、王女の前に。
侍女は、一礼して、壁際へ下がった。
アルトは、茶碗を見下ろした。
琥珀色の茶。湯気が、ゆるやかに立ち上っていた。
いつもの茶より、少しだけ、色が深い気がした。
(……気のせいか)
王女が、茶碗を手に取った。
二重の手袋で。
アルトも、茶碗を手に取った。
二人は、ほとんど同時に、一口飲んだ。
甘かった。
蜂蜜と、何かの薬草を合わせたような、かすかな甘さ。
(……あれ、この味)
アルトは、茶碗を見つめた。
(第七号、に、似てる)
それから、しばらく、二人は黙っていた。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
窓の外で、木の枝から、雪がひとかたまり落ちた。
王女は、茶碗を受け皿に戻した。
かちん、と小さな音がした。
膝の上で、手袋を重ね直した。
まっすぐに、座っていた。
迫ってこなかった。
身を寄せなかった。囁かなかった。手に触れなかった。
香りも、纏っていなかった。
婚約者として、初めての正式な茶会だった。
侍女たちは、何もしていなかった。場を温める者は、誰もいなかった。
それでも、王女は、何も変わらなかった。
礼儀正しく。穏やかで。一定の距離を保って。
(……分からない)
アルトは、王女を見ていた。
婚約して、一か月が経っていた。
その間に、三回、会った。
婚約者としての、挨拶の茶会。婚約発表の、バルコニー。そして、今日。
三回とも、王女は、同じだった。
「お越しくださり、ありがとうございます」「お気遣いなく」「わたくしは、平気ですので」
完璧な微笑み。
二重の手袋。
震える指先。
楓の東屋で、精神の数字を見て、長く何かを我慢してきた人のものだと言った人。
同じ数字を、毎日、鏡の中で見ていると言った人。
あのとき、この人と、何かが繋がった気がした。
婚約が決まって、もっと繋がれると思った。
それなのに。
(何も、分からない)
(この人が、何を我慢してるのか)
(この人が、俺のことを、どう思ってるのか)
(婚約したのに)
(この人の、本当のことが、何一つ)
アルトは、茶碗を握りしめていた。
体の奥が、熱かった。
茶を飲んでから、少しずつ。
胃のあたりが、じんわりと温かくなって。それが、腕に、脚に、指先に広がっていった。
第七号を飲んだときと、同じだった。
ただ、強かった。
ずっと、強かった。
疲れが、溶けていった。
朝から、王宮の礼服の着付けで疲れていた。昨夜は、セラフィナの鎖の本数の話で、ほとんど寝ていなかった。
その疲れが、全部、どこかへ消えていった。
体が、満ちていた。
底まで、満ちていた。
満ちた体の奥で、ずっと押さえつけてきたものが、目を覚ましかけていた。
(……これ)
(第七号、だ。たぶん、もっと濃いやつ)
(誰が)
アルトは、壁際の侍女たちを見た。
四人とも、まっすぐ前を見ていた。
一人も、こちらを見ていなかった。
アルトは、王女を見た。
王女は、茶碗を、もう一度手に取っていた。
二口目を、飲んでいた。
いつもは、一杯を、一口か二口で終える人だった。
今日は、茶碗の中が、半分以上、減っていた。
それから、王女は、茶碗を受け皿に戻した。
かちん、と音がした。
いつもより、少しだけ、大きな音だった。
王女の頬に、朱が差していた。
ほんのわずかに。
白い肌の奥から、熱が滲み出してくるような。
婚約発表のバルコニーで見た、あの赤さだった。
いや、あのときより、少しだけ濃かった。
王女は、膝の上で、手袋を重ね直した。
指先が、震えていた。
いつもより、ずっと大きく。
王女は、それを、もう片方の手で覆った。
覆った手も、震えていた。
アルトは、王女を見ていた。
体の奥が、熱かった。
満ちていた。
いつもなら、ここで崩れる。
セラフィナの鎖の前で。クラウディアの跪拝の前で。リゼットの脇の前で。マルグリットのスーツの前で。ロッサの肩の上で。
体が満ちて、目の前に誰かがいれば、内心はとっくに崩れている。
(……っ)
崩れなかった。
崩れることが、できなかった。
王女の頬の朱を見ていた。震える手袋を見ていた。外套の、喉元まで閉じた襟を見ていた。
その全部が、胸の奥で、何かを掴んでいた。
崩れる手前で、ぎゅっと、止めていた。
(なんで、この人だけ)
(なんで、この人の前でだけ、崩れられないんだ)
アルトは、茶碗を受け皿に戻した。
指先が、少しだけ震えていた。
暖炉の薪が、また爆ぜた。
王女が、立ち上がった。
アルトは、王女を見上げた。
王女は、いつものように、一礼しようとしていた。
「本日は、ありがとう」
声が、そこで、途切れた。
王女は、一度、息を吸った。
外套の襟の上で、喉が、小さく動いた。
それから、言い直した。
「……本日は、ありがとうございました」
穏やかな声だった。
ほんの少しだけ、掠れていた。
王女は、背を向けた。
扉の方へ、歩き出した。
一歩。
二歩。
外套の裾が、絨毯の上を、静かに払っていった。
二重の手袋の指先が、体の脇で、震えていた。
楓の東屋で、背を向けて歩きながら、震えていた、あの指先。
婚約発表の控えの間で、膝の上で、震えていた、あの指先。
いつも、そうだった。
王女は、いつも、一杯の茶を飲んで、背を向けて、一度も振り返らずに去っていった。
アルトは、いつも、その背中を見送っていた。
いつも、何も言えずに。
三歩。
四歩。
扉まで、あと、数歩だった。
(……また、だ)
(また、このまま)
(また、何も分からないまま)
アルトの体の奥で、何かが、満ちきっていた。
疲れは、どこにもなかった。
眠っていたものが、全部、目を覚ましていた。
それでも、崩れなかった。
崩れる代わりに、何か別のものが、喉元まで上がってきていた。
五歩。
王女の手袋が、扉の取っ手に、伸びた。
アルトは、立ち上がった。
椅子が、絨毯の上で、ずれた。
壁際の侍女たちが、一斉に顔を上げた。
王女の指先が、取っ手の手前で、止まった。
アルトは、口を開いた。
十八年間、一度も、自分から女性を呼び止めたことはなかった。
この国の男は、女性を呼び止めない。
呼び止められる側だった。
それでも。
「——待ってください」