男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
朝の祈りの鐘が鳴った。
王都大神殿の礼拝堂には、早朝から参拝の人々が集まっていた。高い天窓から、雨上がりの光が斜めに差し込んでいる。
祭壇の前に、神官たちが並んだ。その端に、セラフィナがいた。
鎖は、三本。いつもと同じように巻かれていた。ただ、肩口の留め具だけが、真新しいものに替わっていた。
アルトは礼拝堂の一番後ろの長椅子に座っていた。
座っていた、というより、沈んでいた。
「アルト。本当に大丈夫?顔、真っ白よ」
隣で、エルゼが小声で言った。
「雨で、少し冷えたようです」
「客間に毛布、余ってたのに。言えばよかったのに」
「……毛布は、ありました」
(ありました。半分だけ)
神官長の祈りが始まった。続いて、神官たちが一人ずつ前に出て、祝福の光を灯していく。
両手を胸の前で合わせ、授与神アウレアの名を唱える。手のひらの間に、小さな光が生まれる。それを参拝者たちの方へ、そっと掲げる。
一人目。蝋燭ほどの光。二人目。同じくらい。三人目は、少しだけ大きい。
セラフィナの番が来た。
彼女は祭壇の前に進み出て、両手を合わせた。目を閉じる。唇が、祈りの言葉を紡ぐ。
手のひらの間に、光が生まれた。
生まれて、膨らんだ。
膨らんで、膨らんで、止まらなかった。
「……え」
前の方の参拝者が、声を漏らした。
セラフィナの手のひらから溢れた光は、蝋燭どころではなかった。天窓からの朝日に負けないほどの、金色の輝きだった。
礼拝堂の空気が、ざわりと揺れた。
「なんと」
「あれは、リース神官では」
「あんな祝福、見たことがない」
当のセラフィナが、一番驚いた顔をしていた。
自分の手のひらを見つめて、固まっている。光は、まだ収まらない。
彼女の目が、礼拝堂の一番後ろを探した。
アルトと、目が合った。
(あ、それ、俺のです)
祈りが終わると、アルトはエルゼに先に馬車へ戻ってもらった。
「忘れ物を、少し」
「また?まあいいわ。下で待ってるから」
姉が回廊の角を曲がるのを見送って、アルトは神殿の大階段を上り始めた。
小鑑定室は、三階の奥にある。
一段目。二段目。十段目あたりで、膝が笑い始めた。
二十段目で、息が切れた。
三十段目で、アルトは階段の途中に座り込んだ。
(……嘘だろ)
壁に手をついて、肩で息をする。心臓が、耳の奥でばくばくと鳴っていた。
昨日までは、この階段を一息で上れた。体力十六。この世界の男としては、ごく普通の数字だったはずだ。
(体が、空っぽだ)
指先に力が入らない。膝が、自分のものではないみたいだった。
それなのに。
アルトは石段に座ったまま、天井の高い吹き抜けを見上げた。
天窓から、朝の光が降ってきていた。
(満ち足りてる)
(体は死んでるけど、満ち足りてる)
「フェンネル殿?」
階段の上から、声がした。
年配の記録係だった。奥の間でペンを落とした、あの人。両腕に分厚い帳面を抱えている。
「どうなさいました。お加減が」
「少し、休んでいただけです」
「顔色が優れませんね。……実は今、私も上へ」
記録係は階段を下りてきて、アルトの隣に立った。それから、帳面を抱え直して、少し声を潜めた。
「今朝の、リース神官の祝福をご覧になりましたか」
「……ええ」
「神官長のご指示で、先ほど臨時の鑑定をいたしました」
記録係は帳面の一頁を開いて見せた。
セラフィナ・リース二十歳女
筋力22/体力28/敏捷25/器用40
魔力95(+70)/知力45/精神70
「魔力が、百六十五です」
記録係の声が、わずかに震えていた。
「先月の鑑定では、九十五でした。一晩で、七十も」
「……それは」
「しかも括弧書きで、何かが『加わっている』という表示です。こんなものは、見たことがない」
記録係は帳面を閉じた。
「本人に伺ったのですが」
その時、階段の上から足音がした。
セラフィナだった。
神官長オルテンシアと並んで、ゆっくりと階段を下りてくる。
アルトを見て、セラフィナの足が一瞬止まった。頬に、さっと朱が走った。
「リース神官」
記録係が呼びかけた。
「先ほどの数値の件ですが、何か心当たりは」
セラフィナは、背筋を伸ばした。
両手を胸の前で組む。鎖が、しゃら、と鳴った。
「……祈りが」
彼女は、まっすぐ前を見て言った。
「祈りが、通じました」
記録係が目を瞬いた。
「祈り、ですか」
「はい。昨夜、深く、祈りましたので」
(深く)
(はい、深く)
アルトは階段に座ったまま、表情を動かさないことに全力を注いでいた。
神官長が、セラフィナの肩にそっと手を置いた。
皺の深い目元に、涙が光っていた。
「見なさい」
神官長は記録係に向かって、静かに言った。
「あの子の、信仰の輝きを」
「は、はあ」
「真面目な子です。誰よりも経典を読み、誰よりも誓いを守ってきた。神は、ちゃんと見ていてくださったのです」
神官長はハンカチで目元を押さえた。
セラフィナは、まっすぐ前を見たまま動かなかった。
耳まで、真っ赤だった。
小鑑定室の扉を閉めると、セラフィナはその場にしゃがみ込んだ。
「……言ってしまいました」
「言いましたね」
「神官長様の前で。祈りが通じたと」
彼女は両手で顔を覆った。縛られた腕で顔を覆うのは窮屈そうだったが、それでも覆っていた。
「嘘は、ついておりません。昨夜は、本当に、祈っておりましたから。その、途中までは」
「途中まで」
「……途中までは」
アルトは何も言わなかった。言えなかった。
しばらくして、セラフィナは立ち上がった。深呼吸を一つ。神官の顔に戻る。
「フェンネル様の鑑定を、させてください。何が起きているのか、確かめなければ」
アルトは水晶板に両手を置いた。
セラフィナが、横に立つ。昨日までと同じ距離。けれど、何かが違った。
鎖が、彼の腕に触れていた。
彼女は、それを避けなかった。
水晶板が光った。
アルト・フェンネル十八歳男
筋力14(貸出−9)/体力16(貸出−11)
敏捷15(貸出−6)/器用22(貸出−9)
魔力18/知力41/精神85
スキル:【ステータス貸与】Lv2契約1/3
「……貸出」
セラフィナが、その文字を読んだ。
「筋力も、体力も。貸し出して、いらっしゃる」
「どうりで、階段が」
「体力が、五しか」
彼女は数字を指でなぞって、それから自分の手のひらを見た。
「合わせて、三十五。それが、私の魔力に」
「七十になって、届いた」
二人は顔を見合わせた。
「増幅、と書いてありましたね。儀式の日に」
「ちょうど、倍に」
水晶板の表示が、ふっと揺らいだ。
下の方に、新しい文字が浮かび上がる。儀式の日にはなかった一行だった。
契りは、最後の授受より七日のあいだ満ちて保たれる。
七日を過ぎれば、七日ごとにその半ばとなる。
セラフィナが、その文字を声に出して読んだ。
読み終えて、黙った。
アルトも、黙った。
「……七日」
「七日、ですね」
「七日を過ぎると、半分に」
「せっかくの、祝福が」
セラフィナは、自分の両手を見つめた。今朝、礼拝堂で溢れた金色の光を思い出しているようだった。
それから、彼女はアルトを見た。
「フェンネル様は」
小さな声で、彼女は聞いた。
「……怖く、ありませんでしたか」
「怖く」
「殿方は、一度でも契りを結ぶと、女を恐れるようになると習いました。心を閉ざして、二度と目を合わせなくなると」
彼女の指先が、鎖を握っていた。
「今朝、礼拝堂で、目が合いました。今も、こうして」
アルトは少し考えて、正直に答えた。
「怖くは、ありません」
「…………」
「体は空っぽですが。それ以外は、何も」
セラフィナは長いこと、アルトの顔を見ていた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。肩の力が抜けるのが、鎖の音で分かった。
「……よかった」
二人で、机を挟んで座った。
隠蔽会議、とアルトは心の中で名付けていた。
「記録は、どうなさいます」
アルトが聞くと、セラフィナは記録簿を開いた。
「数値は、正直に書きます」
彼女はペンを取って、水晶板の表示を一つずつ書き写していった。筋力十四。貸出、九。体力十六。貸出、十一。
一画も、ずらさずに。
「神の前の記録ですから。偽ることは、できません」
「では、契約のことも」
セラフィナのペンが止まった。
彼女は記録簿の頁を、指でとんとんと叩いた。
「この帳面には、契約の欄がございません」
「…………」
「欄がないものは、書けません」
彼女は真顔だった。真顔のまま、耳だけが赤かった。
(経典の抜け穴を見つける人だった)
(帳面の抜け穴も見つける人だった)
記録簿が閉じられた。
「では」
セラフィナは、膝の上で縛られた手を組んだ。
「来週も……鑑定を」
アルトは、彼女の目を見た。
「……鑑定を」
それだけで、通じた。
部屋を出る前に、セラフィナが鎖を巻き直していた。
昨夜外れた三本を、朝のうちに大急ぎで巻いたらしい。胸の上の一本が、少しずれていた。
縛られた腕で、彼女はそれを直そうとしていた。直しながら、ぽつりと言った。
「この鎖」
「はい」
「昨夜から……少し、見え方が変わりました」
彼女は胸の上の鎖に、指先をそっと添えた。
「今まで、ただの作法だと思っておりました。重くて、冷たくて、少し邪魔な」
鎖を、指でなぞる。
胸の上から、肩へ。肩から、背中へ回る一本へ。
「でも今は、これを巻くたびに、昨夜のことを」
そこで、彼女は口をつぐんだ。
鎖の上で、指が止まっていた。
(——ありがとうございます)
(神様、鎖を発明した神殿の方々、ありがとうございます)
(この世界に純潔の鎖という制度があって、本当に、本当に、ありがとうございます)
「……では、また来週」
アルトは穏やかに一礼して、扉を開けた。
その日の午後。
神殿の書庫で、記録係は今朝の鑑定報告書を清書していた。
リース神官の魔力、九十五から百六十五。括弧書きの加算表示。フェンネル殿の定期鑑定。四項目に、貸出の表示。
二つの数字を、記録係は同じ日付の欄に並べて書いた。
偶然だろうか、と一瞬だけ考えた。
考えて、首を振った。自分の仕事は、記録することだ。意味を考えるのは、自分の仕事ではない。
清書を終えると、記録係は報告書を封筒に収めた。
宛名を書く。いつもの慣例通りに。
『王立魔導院統計課御中』
封筒は、その日の夕方の便で、神殿を出ていった。