男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
「フェンネルの坊や、女を怖がらないらしいよ」
王都の下町、夕暮れの酒場。
奥の卓で、仕事帰りの女たちが額を寄せ合っていた。大工の親方、荷運びの頭、洗濯屋の女将。この国の力仕事は、たいてい女の仕事だった。
「フェンネルって、あの準男爵の」
「そう。天賦の儀で、とんでもないスキルが出たっていう」
「測定不能、ってやつでしょ。聞いた聞いた」
洗濯屋の女将が、声をさらに落とした。
「うちの姪っ子が、神殿で下働きしてるんだけどね。その坊や、週に三回も神殿に来るんだって。鎖の神官の部屋に、自分から」
「自分から?」
「まさか」
「しかも、廊下ですれ違う女の顔を、ちゃんと見るんだってさ。目を逸らさないで」
卓が静まった。
この国の男は、女の顔を見ない。見たら何かされると思っているから、いつも床か、付き添いの家族の背中を見ている。
「……それは、作り話でしょ」
荷運びの頭が、麦酒を呷った。
「男が女を怖がらないなんて、聞いたことない」
「でもさあ」
大工の親方が、杯を置いた。
「もし本当だったら」
誰も、何も言わなかった。
ただ、卓の全員が、同じことを考えている顔をしていた。
噂は、少しずつ形を持ち始めていた。
一つ一つは、取るに足らない話だった。
神殿への通いが多すぎる。臨時鑑定の申請理由が、毎回少しずつ違う。すれ違う女を、目で追う。大階段の途中で息を切らして座り込んでいたのに、その顔がやけに満ち足りていた。
それから、もう一つ。
雨の夜の翌朝、鎖の神官の祝福が、礼拝堂を埋め尽くすほどに輝いた。
蒼薔薇騎士団、本部詰所。
団長室の窓から、訓練場で剣を振る女騎士たちの声が聞こえていた。
ベアトリクス・ローエンは、机の上の報告書を指で叩いていた。
四十一歳。傷のある精悍な顔に、鍛え上げた体躯。無骨で口数が少ないが、部下の誰よりも早く朝の訓練場に立つ女だった。
「神殿の祝福が、倍になった」
報告書を読み上げたのは、副官の若い騎士だった。
「リース神官の魔力が、一晩で百六十五に。神殿は『祈りが通じた』と発表しています」
「祈り、ね」
「同じ日に、フェンネル家のご子息が神殿に泊まっています。雨で帰れなかったと」
ベアトリクスは、報告書から目を上げなかった。
「……発動条件は、確か」
「交合、および精の授受、と」
団長室が静かになった。
「まさか、とは思いますが」
副官が、言いにくそうに続けた。
「そのご子息が、自分から……ということは」
「ない」
ベアトリクスは短く言った。
「男が、自分から女に手を伸ばすことはない。この国で四十一年生きてきて、一度も見たことがない」
彼女の脳裏に、自宅の夫の顔が浮かんでいた。目の下の、取れない隈。
「……ないはずだ」
王立魔導院、院長室。
ドロテア・クラムは、統計課から回ってきた報告書の写しを読んでいた。
四十三歳。理知的な美貌に、近頃は胃薬の瓶が手放せない。
「貸出、の表示」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「フェンネル家の子息の鑑定値に、貸出。リース神官の鑑定値に、加算。同じ日付」
統計課の課長が、机の前で畏まっていた。
「偶然の一致かと存じますが」
「統計課が『偶然』という言葉を使うのは、調べるのが面倒なときよ」
課長が黙った。
ドロテアは報告書をめくった。数字が並んでいる。きっちりと、几帳面な字で。
「この記録を書いた神官は、真面目な人ね。一画も崩れていない」
「は」
「真面目な人の記録は、嘘をつかないのよ。書いた本人が、意味を分かっていなくても」
ドロテアは報告書を閉じた。
「引き続き、回ってくる鑑定記録は全部取っておいて。フェンネル家の子息のものと、神殿の神官のものと」
「承知いたしました。……分析は、どなたに」
ドロテアは少しだけ考えた。
「手の空いている者に」
魔導院で、手の空いている者とは、予算のない者のことだった。予算のない者とは、末席の者のことだった。
七都商盟、議長室。
赤褐色の髪をきっちりとまとめた女が、帳簿を開いていた。
インクの染みのついた指先が、数字の列をなぞる。
「神殿への寄進、先月比で三割増」
秘書が報告する。
「主に、参拝者が増えたことによるものです。リース神官の祝福を一目見ようと」
「祈りが通じた神官、ね」
マルグリット・オーベールは、帳簿から目を上げずに言った。
「通じさせたのは、誰かしら」
「は」
「フェンネル家の子息の、神殿への出入り記録。手に入る?」
秘書が目を瞬いた。
「議長、まさか本気で」
「本気かどうかは、数字が決めるわ」
マルグリットはペンを取って、帳簿の余白に小さく書き込んだ。
『フェンネル、要観察』
それから、何事もなかったように次の頁をめくった。
冒険者ギルド王都本部。
昼間から賑わう一階の酒場で、受付係の女が、ギルド長に報告していた。
「……で、ロッサさんが言うには」
ギルド長のハンナ・クロイツは、書類から顔を上げた。
「ロッサが、何だって」
「『その坊や、たぶんヤりたいだけだぞ』と」
ハンナは、もう一度書類に目を落とした。
「ロッサの言うことは、話半分で聞いておけ」
「はい」
「いや。話の一割で聞いておけ」
「はい」
酒場の奥で、大剣を背負った赤毛の女が、骨付き肉に齧りつきながら笑っていた。
王宮。奥の一室。
蒼い絹張りの壁に、午後の光が落ちていた。
「陛下。ご報告がございます」
侍女長のグレタが、恭しく頭を下げた。
五十歳。白いものの混じった髪を一分の隙もなく結い上げ、背筋は定規を当てたようにまっすぐだった。
長椅子に、一人の女性が座っていた。
蒼の髪。この国の空と同じ色。肩も鎖骨も惜しげなく見せるドレスを、まるでそれが当然のように着こなしている。
女王イゾルデ・アズールは、優雅に茶碗を置いた。
「聞きましょう」
「先日、天賦の儀で稀少度測定不能の判定を受けた、フェンネル準男爵家の子息の件でございます」
「ああ。貸与の子ね」
「はい。王家の情報網を通じて、各所の話を集めました」
グレタは手元の紙片を確かめた。
「神殿への異常な頻度での来訪。女性を恐れる素振りがないこと。すれ違う女性を目で追うこと。それから、神官の魔力の急上昇」
「まあ」
「これらを総合いたしますと」
グレタは、紙片から顔を上げた。その表情は、厳粛そのものだった。
「世界的に見ても異常な、女好きの疑惑がございます」
女王が、目を丸くした。
それから、くすくすと笑い出した。
笑いは止まらなかった。肩を震わせて、口元を扇で隠して、それでも笑い続けた。
「世界的に、異常な」
「はい」
「女好き」
「疑惑、でございます」
女王は、ようやく笑いを収めた。扇の陰で、蒼の瞳がきらりと光った。
「面白いわ」
「は」
「グレタ。あの子にも、伝えておきなさい」
侍女長が、わずかに目を見開いた。
「……姫様に、でございますか」
「ええ。一言一句、そのまま」
女王は窓の外を見た。
王宮の東の棟。その一番奥の窓だけが、いつも厚い帳で閉ざされていた。
「あの子が、どんな顔をするか。少し見てみたいの」
その頃、フェンネル家の居間では。
母のマルタが、縁談の申込書の写しを広げていた。
審議会から回ってきたものだった。選り好みのご意向を、と添え状がついている。
「この方は駄目ね。お手紙の字が乱暴だわ」
一枚、脇へ。
「この方も。肖像画の目が、怖いもの」
もう一枚、脇へ。
「アルト、あなたはどう思う?」
「母上にお任せします」
アルトは窓際の椅子で、本を開いていた。
開いていただけだった。文字は一つも頭に入っていなかった。
(月曜に定期鑑定。あと三日)
(いや、木曜の臨時を入れたら、あと……)
(木曜は、もう過ぎた)
(あと三日)
「そういえばね」
母が、申込書から顔を上げた。
「今日、お買い物に出たときに、妙な話を聞いたのよ」
「妙な話」
「フェンネルの坊やは、女を怖がらないんですって。下町の方で、噂になってるらしいの」
アルトの手から、本が滑り落ちた。
「失礼」
拾い上げる。頁を開き直す。上下が逆だった。
「本当に、失礼な話よねえ」
母は申込書に目を戻した。
「あなたほど慎み深い子は、王都中探してもいないのに。誰がそんな、根も葉もないことを」
「……本当に」
(根も葉もある)
(根も葉も、花も実もある)
(バレてる!?)
「アルト、本が逆さまよ」
「……読み方を、少し変えてみようかと」
蒼薔薇騎士団、団長室。
日が傾いて、訓練場の声が止んでいた。
ベアトリクスは、もう一度報告書を読み返していた。
神殿の記録。酒場の噂。魔導院が鑑定記録を集め始めた、という話も耳に入っていた。商盟も動いている。王家の侍女長が、何やら情報を集めているらしい。
どこもかしこも、同じ一人の青年のことを調べていた。
男が、自分から女に。
ないはずだ、と彼女はさっき言った。四十一年、一度も見たことがない、と。
けれど、見たことがないのは、「ない」ということとは違う。
ベアトリクスは報告書を閉じた。
立ち上がり、窓辺に立つ。夕陽の訓練場に、片付けを終えた騎士たちの影が長く伸びていた。
「……確かめてみるか」
誰に言うともなく、彼女はそう呟いた。