男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
「合同訓練です」
蒼薔薇騎士団の訓練場で、女騎士が爽やかに言った。
初夏の陽射しが、砂の上に照りつけていた。その中に、アルトは立っていた。
周りを、女騎士たちが囲んでいた。
八人。いや、十人はいる。全員が、訓練用の薄い肌着姿だった。袖はなく、裾は膝の上まで。鍛えた腕と脚が、陽に焼けて光っている。
「騎士団では、夏場はこの格好で訓練するのが決まりでして」
「……そう、なのですね」
(そんな決まり、聞いたことない)
付き添いのヘルガが、訓練場の端の日陰から手を振っていた。片手に、来る途中で買った揚げ菓子の袋を持っていた。
「本日は、男性の護身術の基礎を。組み手を少々」
「組み手」
「ご安心ください。寝技が中心ですので、怪我はいたしません」
(寝技)
この国の法では、女が男に無断で触れることは罪になる。
だから、女騎士は組み手の前に、作法通りに尋ねた。
「お体に、触れてもよろしいでしょうか」
アルトは、少し考えるふりをした。
断れば、それで済む話だった。この国の男なら、誰でもそうする。
「……訓練、ですので」
「感謝いたします」
女騎士が、にっこりと笑った。
次の瞬間、アルトの視界が回転した。
背中が砂についた。上から、温かい重みがのしかかってきた。
「これが、基本の抑え込みです」
耳元で声がした。
「ここから抜け出す方法を、お教えします。まず、腰をこう」
彼女の腰が、アルトの腰の上で動いた。
(……っ)
「膝をこう」
彼女の膝が、アルトの脇腹を締めた。
(……っ、っ)
「そして、腕をこう取られた場合は」
彼女が身を乗り出した。汗と、日向の砂の匂い。
鍛えた太腿が、アルトの首の横を通過した。
(今)
(今、太腿が、首の、横を、通過しました)
(現在、太腿は、首の、真横に、待機中)
(あっ、移動、移動します、反対側へ、ゆっくりと)
「——分かりましたか?」
上から、女騎士が覗き込んでいた。
アルトは砂の上に仰向けのまま、穏やかに答えた。
「……大変、勉強になります」
(素数が、足りない)
二人目も、三人目も、同じだった。
寝技。抑え込み。腕の取り方。足の絡め方。女騎士たちは入れ替わり立ち替わり、アルトを砂の上に転がした。
全員が、近かった。全員が、汗をかいていた。
アルトは三人目のあたりで、素数を数えるのを諦めた。代わりに、王国の歴代国王の名前を暗唱し始めた。それも十代目で尽きた。
訓練場の端で、一人の女騎士が腕を組んで立っていた。
長い黒髪を、きっちりと束ねている。灰色の目が、アルトの一挙手一投足を見ていた。何かを帳面に書きつけながら。
(あの人だけ、組み手に入ってこないな)
その黒髪の騎士は、アルトと一度だけ目が合うと、何事もなかったように帳面へ視線を戻した。
翌日は、王立魔導院だった。
「健康診断です」
白衣の研究員が、無表情に言った。
診察室の椅子に座らされたアルトの胸と手首に、細い管のついた金属片が貼りつけられた。管の先は、壁際の大きな機械に繋がっている。
「心拍計測器です。魔力で拍動を読み取り、こちらの紙に記録します」
機械の上で、ペンがかすかに揺れながら、細長い紙に線を引いていた。規則正しい、小さな波だった。
「三十分ほど、そのまま座っていてください。こちらで、いくつか確認いたしますので」
「確認」
「はい。順番に」
研究員が扉の方へ合図をした。
扉が開いた。
一人目の研究員が入ってきた。
白衣の前を、なぜか大きく開けていた。中は、薄手の夏服だった。
彼女はアルトの前を、ゆっくりと横切った。棚から書類を一枚取って、また、ゆっくりと出ていった。
機械のペンが、ぴくりと跳ねた。
二人目が入ってきた。
髪を下ろしていた。窓際まで歩いて、窓を開けた。風が吹き込んで、彼女の髪が揺れた。甘い香油の匂いが、部屋に広がった。
ペンが、さっきより大きく跳ねた。
三人目。四人目。
全員が、美人だった。全員が、何かしら用事を作っては、アルトの目の前を通っていった。
五人目は、アルトのすぐ前で屈んで、床に落ちた(落とした)ペンを拾った。
機械のペンが、紙の端まで跳ね上がった。
(Oh……)
(Oh, my……)
(This is……so……beautiful……)
(Science……Science is……beautiful……)
「異常はございませんか」
記録係の研究員が、無表情に聞いた。
アルトは椅子の上で、背筋を伸ばした。
「……特に、ありません」
研究員は、機械の紙を見た。
紙の上で、ペンが描いた線は、山脈のようになっていた。
「…………」
研究員は、紙を見て、アルトを見て、もう一度紙を見た。
「機器の故障、でしょうか」
「故障、でしょうね」
診察室を出ると、廊下の向こうから書類の山が歩いてきた。
いや、書類の山を抱えた人だった。
腕いっぱいに紙の束を抱えて、顔がほとんど見えない。その上から、とんでもなく長い灰銀の髪がはみ出していた。手入れをしていないのか、あちこちが跳ねて、書類の端に絡まっている。
「ハーシェル」
さっきの研究員が、書類の山に呼びかけた。
「これも、統計課の分析に回しておいて」
研究員は、心拍計の記録紙を丸めて、書類の山の一番上に乗せた。
「……はい」
書類の山の向こうから、淡々とした声がした。
「機器の故障だと思うから、適当でいいわよ。どうせ手が空いてるでしょう」
「はい」
書類の山は、それ以上何も言わずに、ゆっくりと廊下の奥へ歩いていった。
すれ違いざまに、紙と、インクと、少し焦げたような匂いがした。それから、その奥に、日向で丸くなった猫のような、ほのかに温かい匂い。
アルトは振り返った。
書類の山の後ろ姿から、灰銀の髪が床に届きそうなほど垂れていた。
三日目は、七都商盟だった。
「新商品の、試用会にございます」
商盟の展示室には、長い卓がいくつも並んでいた。その上に、色とりどりの品物が所狭しと置かれている。
香水。装身具。織物。見たこともない形の道具。
「どれも、まだ市場に出ていない品です。殿方のご意見を、ぜひ伺いたく」
案内係の女性が、にこやかに言った。
アルトは卓の間を歩いた。付き添いのヘルガが、後ろから物珍しそうについてくる。
「ねえアルト、これ何?」
ヘルガが、細長い革の道具を手に取った。
「……分かりません」
「こっちは?」
「分かりません」
(分かるけど、分からないことにしておく)
品物の多くは、どうやら女性向けのものらしかった。男の目を惹くための香水。男の警戒を解くための装身具。そういう説明書きが、小さな札に添えられている。
(この世界の女性も、大変なんだな)
アルトは卓の一番端で、足を止めた。
小さな銀の首飾りがあった。
細い鎖の先に、親指の先ほどの小瓶がついている。札には、こう書いてあった。
『香封じの首飾り。身につけた方の香りを、ごく近くでだけ、強く立たせます。離れれば、ほとんど香りません』
その下に、もう一行。
『※殿方には、ご好評をいただけておりません』
(近くでだけ)
アルトは、その首飾りを見つめていた。
遠くでは分からない。近づいたときだけ、その人の匂いが強くなる。
あの小鑑定室で、セラフィナが身を屈めたときの、陽だまりのミルクの匂いを思い出していた。
(……これ、すごくいいのでは)
気がつくと、首飾りを手に取っていた。
小瓶を、灯りにかざしていた。指先で、その細い鎖を、そっとなぞっていた。
(考えた人、天才では)
(ありがとうございます。名前も知らない職人さん、ありがとうございます)
「……あの」
案内係の声で、我に返った。
「お気に召しましたか」
アルトは首飾りを卓に戻した。
「いえ。造りが、珍しかったので」
穏やかに微笑む。いつもの顔だった。
「拝見しただけです」
「左様でございますか」
案内係は、にこやかに頷いた。
アルトは気づかなかった。
展示室の奥、帳の陰に、もう一人の女がいたことに。
赤褐色の髪をきっちりとまとめ、仕立てのいい服を着て、帳簿を手にした女。彼女は、アルトが首飾りを手に取ってから戻すまでを、最初から最後まで見ていた。
数えていた、と言った方が正しかった。
手に取ってから、灯りにかざすまで。かざしてから、鎖をなぞるまで。なぞってから、戻すまで。
インクの染みのついた指先が、帳簿の余白に、小さく書き込んだ。
『香封じ手に取る、十二呼吸』
その夜。
蒼薔薇騎士団の会議室。
「抑え込みの最中、対象は一度も悲鳴を上げなかった」
組み手を担当した女騎士が報告していた。
「男性は、通常なら三秒で泣き出します。十人がかりで、一人も泣かせられませんでした」
「それどころか」
別の騎士が付け加えた。
「三人目あたりから、何か、歴代国王の名前を呟いていました」
長い黒髪の騎士が、帳面を閉じた。
「……やはり」
王立魔導院の会議室。
「心拍計は故障でした」
研究員が報告していた。
「念のため、同じ機器で同じ条件の別の男性を計測しましたが、そちらは正常でした」
「つまり」
「対象の測定時のみ、故障しました」
会議室の全員が、黙った。
院長のドロテアが、眼鏡を押し上げた。
「……故障では、ないわね」
七都商盟の議長室。
マルグリットは、帳簿の余白を指でなぞっていた。
『香封じ手に取る、十二呼吸』
普通の男なら、手に取りもしない。手に取ったとしても、二呼吸で戻す。
十二呼吸。
「……なるほど」
彼女は帳簿を閉じた。
三つの部屋で、三つの勢力が、同じ結論に辿り着いていた。
そしてそれぞれが、こう確信していた。
これに気づいたのは、我々だけだ、と。