上・中・下の全3話構成でのお話になります。
本編第1~16話の裏側で、いったい何が起きていたのか。
今回は予告していたセイアに加え、もう一人、特別ゲストが登場します!
それでは、本編の裏側で進んでいた、もう一つの物語をお楽しみください!
――また、同じ夢だった。
砕け散る窓。
崩れ落ちる建物。
銃声と悲鳴が入り混じり、逃げ惑う生徒たちの姿が見える。
エデン条約の締結式。
本来であれば、トリニティとゲヘナの長い対立に終止符を打つはずだった日。
その日が、惨劇に変わる。
何度見ても、結末は変わらなかった。
「……また、駄目だったか」
百合園セイアは、静かに目を閉じた。
次の瞬間、景色が崩れる。
そこに残ったのは、果ての見えない白い空と、鏡のように静かな水面だけだった。
風は吹かず、波も立たない。
時間さえ止まってしまったかのような世界。
ここは、セイアが自ら閉じこもった夢の世界だった。
「……いったい、何度目になるのだろうね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
最初は、希望を持っていた。
未来を知ることができるのなら、悲劇を防ぐ方法だって見つけられるはずだと。
だが、現実はそう甘くなかった。
何かを変えようとしても、別の場所で問題が起きる。
誰かを救おうとすれば、別の誰かが傷つく。
どれほど可能性を探っても、最後には同じ絶望が待っていた。
未来が見えることと、未来を変えられることは違う。
その事実を、セイアは嫌というほど思い知らされていた。
「……皮肉なものだね」
彼女は、自嘲するように笑った。
「見えなければ、もう少し楽に生きられたのかもしれない」
もちろん、本気でそう思っているわけではない。
未来を知らなければ、それだけ多くの悲劇を見過ごしてしまう。
けれど、知っていても何もできないというのは、あまりにも苦しかった。
やがてセイアは、現実へ戻ることさえ恐れるようになった。
もう、あの光景の続きを見たくなかった。
自分が目を覚ませば、止まっていた時間が動き出してしまう。
そんな錯覚に囚われていた。
「……ナギサたちは、どうしているだろうね」
ふと、二人の友人を思い浮かべる。
桐藤ナギサ。
聖園ミカ。
幼い頃から共に過ごしてきた、かけがえのない友人たち。
今頃、何をしているのだろう。
ナギサは相変わらず仕事に追われているのかもしれない。
ミカは、そんな彼女をからかっていることだろう。
そう考えると、自然と口元が緩んだ。
だが、笑みは長く続かなかった。
セイアは、自分が死んだことになっていると知っていた。
襲撃を受けた後、蒼森ミネに助けられ、密かに保護された。
その事実は、ごく限られた者しか知らない。
ナギサもミカも、自分が死んだと信じているはずだった。
「……すまないね、二人とも」
セイアは、水面へ視線を落とした。
ここから、現実の様子を窺うことはできる。
しかし、いつでも好きな場所を見られるわけではない。
まして、他人の心まで理解できるわけでもなかった。
それでも、時折映し出される景色から、二人が今もトリニティのために働いていることは知っていた。
そして。
ナギサの様子が、以前とは明らかに違っていることにも気づいていた。
◇
ある日、夢の水面に映ったのは、ティーパーティーの執務室だった。
時刻は、夜遅くだったのだろう。
窓の外は暗く、室内には一つだけ明かりが灯っていた。
そこには、ナギサがいた。
机には、山のように積み上げられた書類。
冷めきった紅茶。
そして、疲労の滲む顔。
「……また仕事かい?」
セイアは、呆れたように呟いた。
ナギサは昔から、責任感の強い少女だった。
与えられた仕事を途中で投げ出すことを嫌い、どれほど忙しくても最後までやり遂げようとする。
それ自体は、彼女の美点だ。
しかし、今の姿は明らかに度を越していた。
ナギサは一枚の書類を読み、何かを書き込む。
そして、同じ箇所をもう一度読み直す。
しばらくして、また最初から読み返した。
「……ナギサ?」
セイアは眉をひそめた。
集中できていない。
それでも、ナギサは手を止めようとしなかった。
やがて、扉が叩かれる。
入ってきたのは、ティーパーティーの職員だった。
何やら書類について説明している。
担当部署で確認できる内容らしく、職員は自分たちで処理することを提案しているようだった。
しかし、ナギサは首を横に振った。
自分が確認すると伝え、書類を受け取る。
職員が退出すると、彼女は再び机へ向かった。
「……君という人は」
セイアは、ため息をついた。
そんなことを続けていれば、いずれ身体を壊してしまう。
だが、不思議なことに、ナギサは書類が増えたことを嫌がる様子もなかった。
むしろ、何かに追い立てられるように、次の仕事へ手を伸ばしていた。
「……まさか」
セイアは、嫌な予感を覚えた。
仕事が多いから、休めないのではない。
休みたくないから、仕事を増やしているのではないか。
そんな考えが浮かんだ。
だが、その理由までは分からなかった。
セイアが死んだと思い込んでいることも、関係しているのだろう。
それでも、ナギサはミカという友人がいる。
困った時には、彼女を頼ればいい。
そう思いかけて、セイアは口を閉じた。
自分もまた、友人たちに頼ることなく、ここへ閉じこもっているのだから。
「……人のことは言えないか」
セイアは、水面から目を逸らした。
◇
また別の日。
水面には、トリニティの校舎が映っていた。
そこには、ナギサと一人の少女がいた。
柔らかな金髪。
穏やかな表情。
阿慈谷ヒフミだった。
「……ヒフミか」
セイアは、懐かしそうに微笑んだ。
ナギサが、親しくしている後輩。
ティーパーティーのホストとしてではなく、一人の友人として接することのできる、数少ない相手だった。
ヒフミは、何かを楽しそうに話していた。
大好きなキャラクターの話だろうか。
身振りを交えながら説明する彼女に、ナギサが微笑みを返している。
その光景は、以前と何も変わらないように見えた。
だが。
「……おや?」
ヒフミが去った後、ナギサの表情が曇った。
しばらく、その場に立ち尽くしている。
やがて、何かを振り払うように首を横に振り、足早に立ち去っていった。
「……どうしたんだい、ナギサ」
セイアには、理由が分からなかった。
ただ。
その後も、ヒフミと接するナギサの様子が、どこかぎこちなくなっていることには気づいていた。
親しげに話しかけられれば、笑顔で応じる。
けれど、会話が終わると、決まって表情を曇らせる。
まるで、何かに罪悪感を覚えているかのように。
「……何かあったのかな」
セイアは考え込んだ。
学園内部に裏切り者がいる可能性。
ナギサが、以前よりも周囲を警戒するようになっていること。
そして、ヒフミがその疑惑を調べるために設立する補習授業部の候補に含まれていること。
それらを考えれば、一つの可能性に行き着く。
「……信じたいのに、疑いを捨てられないのかい」
セイアは、静かに呟いた。
ナギサがヒフミを積極的に疑っているとは思えなかった。
むしろ、彼女だけは信じたいのだろう。
しかし、候補者として名前を挙げてしまった以上、完全に疑惑から外すこともできない。
万が一、自分の判断が甘かったせいで、また誰かが傷ついてしまったら。
そう考えると、簡単には割り切れないのかもしれない。
まして、相手は親しい友人だった。
疑いたくない。
けれど、何も確かめずに信じていいのか。
その矛盾が、ナギサを追い詰めているように見えた。
「……本当に、難儀な性格だね」
セイアは、苦く笑った。
だからこそ、誰かに相談してほしかった。
しかし。
自分は死んだことになっている。
そして、ミカはエデン条約に反対していた。
学園内の疑惑を巡っても、ナギサと意見が食い違っている。
信頼していないわけではない。
むしろ、ナギサがミカを大切に思っていることは、セイアもよく知っていた。
それでも、すべてを打ち明けられる状況ではなかったのだろう。
「……ナギサ」
セイアは、届かないと知りながら呼びかけた。
「一人で抱え込まないでおくれ」
答える者は、誰もいなかった。
◇
そんな日々が続いていた。
ナギサは、以前よりも多くの仕事を引き受けるようになった。
時折、ミカが心配している様子も見えた。
だが、ナギサはいつも笑って誤魔化していた。
大丈夫です。
まだ仕事が残っていますから。
そんな返答を繰り返していた。
最初のうちは、セイアも呆れていた。
しかし、次第に笑えなくなっていった。
ナギサの顔色は悪くなり、目の下には疲労の色が濃くなっていく。
それでも、仕事を減らそうとはしない。
眠れない夜には、執務室の明かりがいつまでも消えなかった。
「……ナギサ、もう休んでくれ」
セイアは、何度も呟いた。
けれど、その声は現実へ届かない。
そして、自分が現実へ戻ることもできなかった。
いや。
戻る勇気が、なかったのだ。
未来が怖い。
自分が戻ったところで、何も変わらないかもしれない。
また、悲劇を目の当たりにするだけかもしれない。
そんな恐怖が、彼女を縛りつけていた。
「……私は、何をしているんだろうね」
水面に映るナギサは、相変わらず書類を読んでいる。
しかし、そこにいるのは、以前のような誇り高いホストではなかった。
ただ、何かから逃れるために、必死で仕事へしがみついている少女だった。
その姿を見ながら、セイアは目を伏せた。
そして。
ある時から、現実のナギサの様子が見えなくなった。
何度水面を覗いても、景色が定まらない。
まるで、誰かが現実と夢の境界を曖昧にしてしまったかのようだった。
「……おかしいな」
セイアは眉をひそめた。
不安が胸をよぎる。
だが、その理由を確かめる方法はなかった。
そんな時だった。
夢の世界に、見覚えのないものが現れたのは。
◇
「……家?」
セイアは、足を止めた。
白い空。
果ての見えない水面。
何もないはずの場所に、一軒の小さな家が建っていた。
質素な木造の家。
窓には厚いカーテンが掛けられ、中の様子は見えない。
「……こんなもの、以前はなかったはずだけれど」
セイアは、警戒しながら近づいた。
扉の前に立つ。
ノックをしてみた。
返事はない。
「……誰か、いるのかい?」
沈黙。
仕方なく、扉へ手を伸ばした。
鍵は掛かっていなかった。
ゆっくりと扉を開く。
中は薄暗かった。
家具らしい家具もなく、生活の気配がほとんどない。
そして。
部屋の隅に、一人の少女がいた。
「…………?」
セイアは目を凝らした。
白銀の髪。
見慣れた衣装。
忘れるはずのない横顔。
「……ナギサ?」
最初は、信じられなかった。
なぜ、彼女がここにいるのだろう。
現実にいるはずの友人が。
こんな、何もない場所に。
「ナギサ!」
セイアは駆け寄った。
「私だ! セイアだよ!」
少女は動かなかった。
壁にもたれ、膝を抱えている。
目は開いていた。
しかし、何も見ていなかった。
「……聞こえているかい?」
返事はない。
セイアは、その手を取った。
「私は生きている。君が聞かされている話とは違うんだ」
自分が襲撃を受けたこと。
ミネに救われたこと。
安全のために身を隠していること。
そして、死んでなどいないこと。
セイアは、一つずつ説明した。
きっと、喜んでくれる。
そう思っていた。
もしかすると、怒られるかもしれない。
どうして今まで知らせてくれなかったのかと、責められるかもしれない。
それでもよかった。
もう一度、友人の声が聞けるのなら。
だが。
「……ナギサ?」
何も起きなかった。
ナギサは驚かなかった。
喜びもしない。
怒りもしない。
涙さえ流さなかった。
「…………」
セイアは、言葉を失った。
頬に触れる。
肩を揺らす。
ナギサの身体は、かすかに揺れた。
けれど、それだけだった。
「……そんな」
セイアは、息を呑んだ。
ようやく理解する。
これは、ただ現実から逃げているだけではない。
彼女は、拒絶しているのではなかった。
もう、返事をする力さえ残っていないのだ。
「……君は、いったい……」
どれほど、追い詰められていたのだろう。
セイアは、ナギサの手を握った。
冷たい手だった。
握り返されることはない。
それでも、離すことはできなかった。
「……すまない」
セイアは、静かに頭を下げた。
「……本当に、すまない……」
何度謝っても、返事はなかった。
やがてセイアは、夢の中に椅子を一つ作り出し、彼女の隣に腰を下ろした。
「……今日は、ここにいよう」
ナギサは、動かなかった。
◇
それから、どれほど時間が経ったのだろう。
夢の世界には、朝も夜もない。
セイアは、時折現実の様子を確かめながら、それ以外の時間をナギサの隣で過ごしていた。
そんなある時。
水面に、再び景色が映った。
「……おや?」
見慣れた寝室。
そこで、一人の少女が目を覚ましていた。
桐藤ナギサ。
いや。
「……これは?」
セイアは眉をひそめた。
少女は、激しい体調不良に苦しんでいた。
ふらつきながら歩き、鏡を見た瞬間、明らかに驚いた表情を浮かべる。
まるで、自分の姿を初めて見たかのように。
「……君は、誰だい?」
セイアは、思わず呟いた。
その振る舞いは、ナギサのものではなかった。
表情。
仕草。
何より、自分の身体を理解できていないような反応。
すべてが、見知らぬ誰かのものだった。
そして。
少女は、二つの空になった薬瓶を発見した。
「…………!」
セイアの表情が凍りつく。
薬瓶。
体調不良。
そして、夢の中に現れたナギサ。
すべてが、一つに繋がってしまった。
「……まさか」
セイアは、振り返った。
部屋の隅には、今もナギサが座っている。
何も感じられないような表情で。
何も望まないように。
「……ナギサ」
セイアは、もう一度その手を握った。
「……君は、そこまで……」
言葉にならなかった。
友人を失った悲しみ。
学園内部への疑念。
ヒフミへの罪悪感。
終わらない仕事。
そして、誰にも助けを求められない孤独。
それらすべてを抱えた末に。
彼女は、現実からいなくなろうとしたのかもしれない。
「……すまない……」
セイアは唇を噛んだ。
自分が現実へ戻っていれば。
もっと早く、ナギサの苦しみに気づいていれば。
何か、できたのではないだろうか。
そんな後悔が、胸を締めつけた。
しかし。
ナギサは動かなかった。
その沈黙は、何よりも痛ましかった。
◇
現実の彼は、一冊の日記を発見した。
黒革の手帳。
セイアにも見覚えがあった。
ナギサが、大切そうに扱っていたものだ。
「……それは、君の日記か」
水面の向こうで、彼は慎重にページを開いた。
最初は、穏やかな記録だった。
ミカとのお茶会。
セイアとの会話。
エデン条約の準備。
何気ない日常。
「……懐かしいね」
セイアは、思わず微笑んだ。
ミカの自由奔放さに呆れるナギサ。
自分の回りくどい話を、真面目に聞こうとする彼女。
そんな日々が、確かにあった。
しかし。
ある日を境に、日記の雰囲気は変わっていく。
セイアの襲撃。
学園内部への疑念。
エデン条約を巡る不安。
そして、増え続ける仕事。
「…………」
セイアは、目を伏せた。
日記を読む彼の表情も、次第に険しくなっていく。
そこには、ナギサの苦しみが記されていた。
眠れない夜。
何度も同じ文章を読み返してしまうこと。
仕事をしている間だけは、余計なことを考えずに済むという思い。
セイアは、以前水面で見た光景を思い出した。
夜遅くまで続く執務。
職員から仕事を引き受ける姿。
疲労を隠しながら、次の書類へ手を伸ばす様子。
「……やはり、そうだったのか」
セイアは呟いた。
仕事が多いから、休めなかったのではない。
休んでしまうと、考えてしまうから。
セイアのことを。
裏切り者のことを。
自分が守れなかったものを。
だから、仕事を増やしていた。
忙しくしていれば、何も考えずに済む。
そう信じて。
「……そんなものは、解決ではないじゃないか……」
セイアの声が震えた。
もちろん、ナギサ自身も分かっていたのかもしれない。
仕事をいくら片づけても、自分は戻らない。
学園の不安が消えるわけでもない。
それでも、他にどうすればよいのか分からなかったのだろう。
やがて、日記には補習授業部の候補者たちの名前が現れた。
白洲アズサ。
浦和ハナコ。
下江コハル。
そして、阿慈谷ヒフミ。
「……ヒフミ」
セイアは、その名前を見つめた。
日記に、ヒフミだけを強く疑うような記述があるわけではない。
しかし、候補者に含めたことは確かだった。
セイアは、以前目にした二人の姿を思い出す。
楽しそうに話すヒフミ。
その後、一人になった途端に表情を曇らせるナギサ。
「……君は、本当に疑いたくなかったんだろうね」
セイアは、静かに呟いた。
それでも、万が一という可能性を捨てられなかった。
そう考えなければ、あの時のナギサの表情に説明がつかなかった。
そして、日記はさらに続いた。
短くなっていく文章。
乱れていく文字。
誰かに助けてほしいという願い。
それなのに、誰にも頼れない。
皆を心配させたくない。
自分が弱音を吐けば、学園を支える者たちが不安になる。
そんな思いが、日記の最後まで滲んでいた。
「……ナギサ……」
セイアは、隣の友人を見つめた。
現実の彼も、日記を読み終えると長い間動かなかった。
やがて、涙を拭い、何かを決めたように顔を上げる。
そして。
夢の中へ、不思議な声が届いた。
それは、ナギサ本人へ向けられた言葉だった。
もう無理をしなくていい。
今度は自分が何とかする。
いつか、彼女が安心して笑える未来を作りたい。
そんな思いが、静かに心へ流れ込んでくる。
「…………」
ナギサは、動かなかった。
その声は、確かに届いている。
しかし、今の彼女には受け止める力がなかった。
何も考えたくない。
何も望みたくない。
誰かに期待して、また失うのが怖い。
だから。
心の奥へ落ちた言葉は、反応を生まないまま沈んでいった。
セイアには、その声が聞こえなかった。
ただ、現実の彼が日記を閉じ、立ち上がった姿を見つめていた。
「……君は」
セイアは、静かに呟いた。
「彼女のために、何かしてくれるのかい?」
当然、返事はない。
けれど。
その姿には、確かな決意が感じられた。
「……頼むよ」
セイアは、水面へ向けて頭を下げた。
「……どうか、ナギサを……」
◇
翌朝。
現実の彼は、補習授業部の候補者たちとの面談を始めた。
最初に訪れたのは、阿慈谷ヒフミだった。
「……ヒフミ」
セイアは、思わず身を乗り出した。
以前、ナギサと楽しそうに話していた少女。
その彼女が、今は何も知らずに微笑んでいる。
現実の彼は、穏やかな口調で面談を進めていた。
学業について尋ね、補習授業部の説明をする。
しかし、責めるような言葉はほとんどない。
むしろ、これからどうすればよいかを一緒に考えようとしている。
「……おや」
セイアは、目を瞬かせた。
裏切り者を探すための面談。
それが、まるで生徒の将来を考える面談へ変わっていた。
ヒフミも、次第に緊張を解いていく。
最後には、部員たちをまとめる役割まで提案されていた。
「……なるほど」
セイアは、微笑んだ。
彼は、ヒフミを疑っていない。
少なくとも、そう見えた。
そして、ヒフミが退出する前。
彼女は、ナギサの体調を心配していた。
その言葉を聞いた時、セイアは胸が締めつけられた。
ああ。
この少女は、本当にナギサを大切に思っているのだ。
ティーパーティーのホストとしてではなく。
一人の、親しい友人として。
「……ナギサ」
セイアは、隣の友人へ語りかけた。
「ヒフミは、君のことを心配していたよ」
返事はない。
「……あの子は、君を嫌ってなどいない」
ナギサは動かなかった。
それでも、セイアは続けた。
「……いつか、また話せるといいね」
その願いが、届いたのかは分からなかった。
◇
次に訪れたのは、下江コハルだった。
少々空回りしながらも、懸命に努力する少女。
現実の彼は、その努力を否定しなかった。
自分に合った方法で学ぶこと。
無理に背伸びをする必要はないこと。
そして、困った時には誰かを頼ってもいいこと。
そんな話をしていた。
「……なるほどね」
セイアは、感心したように頷いた。
彼は、相手の弱さを責めるのではなく、それを受け入れたうえで前へ進む方法を探している。
それは、かつてのナギサにも必要だったことなのかもしれない。
もっとも、ナギサが冷たい人物だったわけではない。
むしろ、自分自身に厳しすぎたのだ。
その厳しさを、知らず知らずのうちに他人へも向けてしまっていたのだろう。
そして、午後。
浦和ハナコと白洲アズサの面談が始まった。
ハナコは、独特な言い回しで相手をからかう。
しかし、現実の彼は意外なほど落ち着いて対応していた。
時には、逆にハナコの方が調子を崩してしまう。
「……ふふっ」
セイアは、思わず笑った。
「これは、なかなか愉快な人物のようだね」
もしナギサ本人が対応していたら、どうなっていただろう。
きっと、困ったように注意していたに違いない。
そんな光景を想像し、セイアは笑みを深めた。
続くアズサとの面談では、さらに興味深いことが起きた。
彼は、アズサの事情をある程度知っているようだった。
それでも、必要以上に問い詰めない。
彼女が普通の学園生活を送れるように、慎重に言葉を選んでいた。
「……不思議な人だ」
セイアは呟く。
何かを知っている。
けれど、それを利用して他人を傷つけようとはしない。
むしろ、知っているからこそ、慎重に接しているように見えた。
四人の面談が終わる頃には、セイアの警戒心も随分と薄れていた。
「……ナギサ」
友人へ、静かに語りかける。
「君が恐れていたものは、もしかすると、君が思っているほど恐ろしいものではなかったのかもしれないね」
もちろん、裏切り者の存在が消えたわけではない。
アリウスの危険も残っている。
しかし。
少なくとも、あの四人を最初から敵として扱う必要はなかったのだ。
「……彼は、それを知っているのかな」
水面の向こうでは、彼が四人の資料を整理していた。
セイアは、何も言わずに見守った。
◇
その後、聖園ミカが執務室を訪ねてきた。
「……ミカ」
セイアは、水面を見つめた。
明るい笑顔。
親しげな呼びかけ。
遠慮なく距離を詰める仕草。
どれも、見慣れた友人のものだった。
しかし、セイアの胸には複雑な感情が渦巻いていた。
自分を襲撃した事件。
その背後にあるアリウスとの繋がり。
ミカが、そこに関わっていることを知っていたからだ。
「……ミカ」
セイアは、静かに呟いた。
「君は、どこで道を間違えてしまったのだろうね」
もし、ナギサが真実を知ったら。
自分を失い、ヒフミを疑うことに苦しみ、あれほど追い詰められた末に。
最後まで信頼していたミカこそが、事件に関わっていたと知ったら。
その時、ナギサはどうなってしまうのだろう。
セイアは、考えるのをやめた。
今は、その未来を想像したくなかった。
水面の向こうでは、二人が紅茶を飲んでいる。
ミカは、相変わらず自由奔放だった。
時折、ナギサの体調を心配し、仕事のしすぎを注意する。
彼もまた、丁寧に受け答えを続けていた。
「……変わらないね」
セイアは微笑んだ。
ミカの明るさ。
ナギサとの距離感。
そこには、確かに自分が知っている二人の姿があった。
ただ一つ違うのは。
現実のナギサが、彼女の助けを受け入れようとしていることだった。
◇
ミカが、仕事を手伝うと言い出した。
「……おや?」
セイアは目を瞬かせた。
「あのミカが、書類仕事を?」
最初は、冗談のような申し出だった。
しかし、現実の彼は、それを真剣に受け止めた。
仕事を手伝ってもらえれば助かる。
そう伝えたのだ。
ミカは戸惑った。
けれど、彼の疲れた様子と、机に積み上がった書類を見て、本気で協力することにしたらしい。
「……これは驚いた」
セイアは、感心したように笑った。
ミカが、自分から書類仕事を手伝っている。
しかも、途中で投げ出す様子もない。
時折不満そうな声を上げながらも、きちんと作業を続けようとしていた。
そして。
現実の彼も、ミカを頼っていた。
「……ああ」
セイアは、静かに息を吐いた。
これこそ、ナギサに必要だったことなのかもしれない。
仕事を一人で抱え込むのではなく。
誰かに頼ること。
助けを求めること。
それが、弱さではないと知ること。
「……ナギサ」
セイアは、友人へ語りかけた。
「ミカは、君のことを本当に大切に思っているよ」
返事はない。
「……だから、いつか」
そこで、言葉が止まった。
今のナギサに、何を伝えるべきなのだろう。
ミカを信じていいと言うことか。
それとも、彼女の過ちを知っていると伝えることか。
どちらも、今のセイアには選べなかった。
だから、代わりにこう告げた。
「……君も、誰かに頼っていいんだよ」
ナギサは、動かなかった。
それでも。
セイアは、もう一度その手を握った。
◇
現実の彼は、書類の仕分けを始めていた。
その様子を見たセイアは、思わず目を細めた。
「……おや?」
彼が手に取ったのは、施設管理に関する資料だった。
内容は、特に重要な案件ではない。
本来なら、担当部署で処理できるものだ。
しかし、それがナギサの確認待ちになっている。
次の書類も、同じだった。
さらに、その次も。
「……気づいたのかい?」
セイアは、思わず身を乗り出した。
彼は、次々と書類を確認していく。
そして、あるところで手を止めた。
何かを理解したように、長い間考え込んでいる。
「……そうだよ」
セイアは、静かに呟いた。
「それは、本来ナギサが引き受ける必要のない仕事なんだ」
以前から、セイアは気づいていた。
ナギサが自ら仕事を増やしていること。
そして、その行動が心の苦しみから逃れるためのものではないかということ。
だが、現実の彼は、今ようやくその事実に気づいたようだった。
彼は、書類を仕分け始めた。
重要な決裁。
担当部署へ戻せるもの。
明日以降でも問題のないもの。
それらを一つずつ整理していく。
やがて、机に積み上がっていた書類の山が、随分と小さくなった。
「……ああ」
セイアは、思わず息を吐いた。
「……ようやく、誰かが気づいてくれたんだね」
胸の奥が、温かくなった。
自分にはできなかったこと。
いや、しようとしなかったこと。
それを、見知らぬ誰かが代わりに進めている。
その事実が、何より嬉しかった。
水面の向こうでは、ミカが書類を受け取っていた。
彼女は、やる気に満ちた様子で仕事を始める。
「……ふふっ」
セイアは笑った。
「これは、なかなかいい光景だね」
もし、自分もそこにいたら。
きっと、ミカの仕事ぶりをからかっていたに違いない。
そして、ナギサに注意されていたことだろう。
「……また、三人で……」
そこで、言葉が止まった。
セイアは、隣の友人を見つめた。
ナギサは、相変わらず動かない。
水面から差し込む光にも、反応しない。
「…………」
セイアは、静かに目を伏せた。
まだ、早い。
今の彼女に、そんな未来を望ませることはできない。
それでも。
いつか、また三人で笑い合いたい。
その願いだけは、捨てたくなかった。
◇
翌朝。
現実の彼は、前日よりも随分と元気になっていた。
睡眠を取ったことで、体調が改善したらしい。
そして、彼は一つの行動に出た。
ナギサが抱え込んでいた仕事を、元の担当者へ戻し始めたのだ。
「……なるほど」
セイアは、目を細めた。
本来、ティーパーティーのホストが処理する必要のない仕事。
各部署で対応できる書類。
そうしたものを整理し、仕事の流れを元へ戻している。
しかも、ナギサが仕事を抱え込んだ理由については、必要以上に説明しようとしない。
「……君は、随分と気が利くんだね」
セイアは微笑んだ。
彼は、ナギサがなぜ仕事を増やしていたのか、理解しているのだろう。
そして、それを周囲に言いふらすつもりもない。
必要なことだけを、静かに進めている。
「……ナギサ」
セイアは、友人の手に触れた。
「君が一人で抱え込んでいたものを、彼が少しずつ減らしてくれているよ」
返事はない。
けれど、その言葉を伝えること自体に意味があるような気がした。
◇
そして、現実の彼は新しい行動へ移った。
エデン条約。
その締結式を、十五日間延期する。
「……十五日?」
セイアは、水面を見つめた。
延期そのものは、彼女も考えたことがあった。
だが、現実的な障害があまりにも多い。
学園間の調整。
政治的な反発。
条約成立を急ぐ者たち。
そして、延期したからといって、問題の根本が解決するわけではないという事実。
だからこそ、簡単には動かせないと思っていた。
しかし、彼は違った。
日程を調整し、必要な資料を準備し、関係者を説得するために動き始めた。
その姿を見ながら、セイアは考える。
彼は、ナギサが目指していた平和を否定していない。
トリニティとゲヘナ。
長く対立してきた二つの学園。
その間に和平を築きたいという願い。
それ自体は、決して間違っていない。
しかし、エデン条約の締結式が悲劇へ繋がるのなら。
別の方法を探すべきなのだろう。
「……そうか」
セイアは、静かに呟いた。
「守るべきものは、条約そのものではないんだね」
水面の向こうでは、会議が始まっていた。
現実の彼は、延期の必要性を説明している。
当然、反対意見が出た。
関係者が多すぎる。
準備は進んでいる。
日程を変更すれば、各方面に影響が出る。
どれも正しい指摘だった。
しかし、彼は退かなかった。
そして。
ミカが、延期に賛成した。
「……ミカ」
セイアは、思わず息を呑んだ。
条約に反対しているミカが延期を望むこと自体は、不思議ではない。
けれど、それだけではなかった。
彼女は、ナギサの体調を心配していた。
無理をしてまで進める必要があるのか。
もっと時間をかけてもいいのではないか。
そんな思いが、彼女の言葉から伝わってきた。
「……君は、本当に……」
セイアは、複雑な表情を浮かべた。
自分を襲撃した事件に関わっていながら。
それでも、ナギサを心配する気持ちは本物なのだろう。
その矛盾が、何より苦しかった。
だが、今はそのことを考えている場合ではなかった。
会議は、延期反対へ傾き始めていた。
そこで。
現実のナギサが、立ち上がった。
そして、深く頭を下げた。
「…………!」
セイアは、目を見開いた。
ティーパーティーのホストが。
桐藤ナギサが。
皆の前で、頭を下げている。
責任を自分が負うこと。
安全上の懸念を無視できないこと。
そして、何より生徒たちを危険に晒したくないこと。
その思いを伝えるために。
彼は、頭を下げ続けていた。
「……君は……」
セイアは、言葉を失った。
当然、政治的な意味もあるのだろう。
その行為が会議に与える影響を、彼も理解しているはずだ。
だが。
それでも、簡単にできることではない。
学園の代表としての誇り。
周囲からの評価。
そして、自分自身の立場。
それらを承知したうえで、彼は頭を下げた。
やがて、会議の空気が変わり始めた。
出席者たちが、互いに意見を交わす。
そして。
十五日間の延期を、トリニティ側の正式な方針とすることが認められた。
あとは、ゲヘナ側との再調整を進めるだけだった。
その瞬間だった。
「……っ!」
セイアの視界が大きく揺れた。
水面に映っていた未来が、砕ける。
何度も見続けてきた、調印式の光景。
崩壊する会場。
倒れていく生徒たち。
避けられないはずだった結末。
その映像が、突然途切れた。
代わりに現れたのは、無数の可能性だった。
見知らぬ場所。
これまで存在しなかった人物の組み合わせ。
異なる日付。
違う選択。
まだ何も定まっていない、空白の未来。
「……変わった?」
セイアは呆然と呟いた。
「……未来が……」
絶望的な予知が、初めて崩れた。
もちろん、新しい未来が必ず幸せなものになるとは限らない。
延期したことで、別の悲劇が起きる可能性だってある。
だが、それでも。
以前のように、何をしても同じ結末へ辿り着くわけではなくなった。
選択肢が、生まれたのだ。
「……ああ」
セイアは膝をついた。
目元が熱くなる。
「……こんなことが……」
何度も未来を見た。
何度も絶望した。
自分には何も変えられないと思っていた。
それなのに。
突然現れた見知らぬ誰かが、彼女の見てきた未来を変えてしまった。
「……君は、一体何者なんだい?」
セイアは、現実の彼を見つめた。
あの人物は、明らかに何かを知っている。
自分とは違う方法で、これから起こる出来事を知っているのかもしれない。
だが、それが何なのかは分からなかった。
ただ一つ。
彼は、セイアが諦めかけていた未来に、別の可能性を生み出した。
その事実だけは、確かだった。
「……とんでもない人が来てしまったものだね」
セイアは笑った。
そして、ふと気づいた。
今なら、現実へ戻れる。
あれほど重く閉ざされていた目覚めへの道が、開いていた。
もう、未来を見ることが恐ろしいだけではない。
自分も動けば、何かを変えられるかもしれない。
そう思えるようになっていた。
だが。
背後を振り返る。
そこには、まだナギサがいた。
部屋の隅で、膝を抱えたまま。
誰の声にも応えられず、何も望めずにいる友人。
「…………」
セイアはしばらく考えた。
そして、椅子へ戻った。
「……どうやら、私の出番はまだ先のようだ」
現実へ戻る方法は、もう分かっている。
だからこそ、急ぐ必要はない。
今の自分には、ここでできることがあった。
「ナギサ」
セイアは友人へ語りかけた。
「私は、もう目覚められるよ」
返事はない。
「けれど、君をここに置いていくつもりはない」
静かな部屋。
動かない少女。
「……だから、もうしばらく付き合ってもらおうかな」
セイアは穏やかに微笑んだ。
「君がまた、私の話を面倒そうに聞いてくれる日までね」
その時だった。
「…………?」
セイアは目を凝らした。
ナギサの顔。
ずっと何も映していなかった瞳が、わずかに動いた気がした。
水面から差し込む光の方へ。
「……ナギサ?」
呼びかける。
しかし、反応は続かなかった。
視線は再び床へ落ちる。
表情も変わらない。
見間違いだったのかもしれない。
そう思いかけて、セイアは首を横に振った。
今まで、一度も起きなかったことだ。
たとえ偶然だったとしても。
彼女は、もう一度あの光を見たのだ。
「……そうか」
セイアは微笑んだ。
「なら、気長に待つとしよう」
外の世界では、十五日間の猶予が生まれた。
そして、この夢の中でも。
止まっていた何かが、ようやく動き始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回はセイアの視点から、本編では描かれなかった出来事を振り返ってみました。
本編でナギが行動していたその裏で、セイアは何を見て、何を感じていたのか。
そして、ようやく動き始めた夢の中の時間。
次回の中編では、第11話『第三の選択肢』が大きな転換点となります。
引き続きお楽しみいただければ嬉しいです!