引き続き、セイアたちの視点から本編の裏側を描いていきます。
上・中・下の全3話構成で、今回も普段より長めのお話となっています。
本編では描かれなかった、もう一つの出来事。
そして、何気なく交わされた言葉が、思いがけない場所へ届いていたとしたら――。
それでは、中編をお楽しみください!
――何も、感じたくなかった。
桐藤ナギサは、膝を抱えたまま俯いていた。
どれほど時間が経ったのだろう。
もう、よく分からない。
ここには朝も夜もない。
窓には厚いカーテンが掛けられ、外の景色も見えなかった。
ただ、薄暗い部屋の中で、何も考えずに座っている。
それだけの時間が続いていた。
何も考えたくない。
何も思い出したくない。
もう、何も望みたくなかった。
すべてが、どうでもよかった。
自分がどこにいるのか。
これからどうなるのか。
そんなことさえ、考える気になれなかった。
ただ、このまま。
何も感じずにいられれば、それでよかった。
「……ナギサ」
誰かが、名前を呼んだ。
聞き覚えのある声。
懐かしい、大切な友人の声だった。
百合園セイア。
死んだはずの、幼馴染。
彼女は、今も自分の隣にいる。
生きているのだと、何度も教えてくれた。
襲撃を受けた後、密かに保護されていたこと。
安全のために、身を隠していたこと。
そして、もう心配はいらないのだと。
そのすべてを、ナギサは聞いていた。
聞こえていなかったわけではない。
ただ。
何も感じられなかった。
(……そう、なのですね)
頭のどこかで、そんな言葉が浮かんだ。
それだけだった。
嬉しい。
よかった。
生きていてくれた。
本来なら、そう思うはずだった。
ずっと会いたかった友人。
もう二度と会えないと思っていた、大切な人。
その人が、今こうして隣にいる。
以前の自分なら、きっと泣いていただろう。
抱きついて、どうして教えてくれなかったのかと責めて。
それから、何度も無事を確かめたに違いない。
けれど。
今のナギサには、何もできなかった。
顔を上げることさえ、億劫だった。
喜びたいのかも、分からない。
セイアが生きている。
それは、確かに素晴らしいことなのだろう。
けれど、その事実を受け止めようとすると、忘れたかったものまで思い出してしま
う。
彼女の訃報を聞いた日のこと。
何度調べても犯人が分からなかったこと。
学園内部に裏切り者がいるかもしれないという疑惑。
そして。
自分が、ヒフミを疑うことになってしまったこと。
(……いや……)
ナギサは、膝を抱く腕に力を込めた。
思い出したくない。
もう、あの頃のことは考えたくなかった。
誰を信じればよいのか。
誰を疑わなければならないのか。
何が正しくて、何が間違っていたのか。
そんなことを、もう一度考える気力など残っていなかった。
それなのに。
「……ナギサ。無理に返事をしなくてもいいんだよ」
また、声が聞こえた。
セイアの声だった。
「私は、ここにいるからね」
優しい声。
自分を気遣う、懐かしい声。
けれど。
(……お願いです)
もう、何も言わないでください。
そんなことを言われたら、考えてしまう。
今まで、何をしていたのか。
これから、どうすればよいのか。
そして、自分はまだ生きていてもいいのだろうか、と。
もう、何も考えたくないのに。
◇
――また、声が聞こえる。
今度は、セイアの声ではなかった。
もっと不思議な声。
耳からではなく、心の奥に直接響いてくる声だった。
現実で、自分の身体を動かしている、見知らぬ誰か。
その人の声だ。
最初に聞こえたのは、あの人が自分の日記を読み終えた時だった。
勝手に読んでしまったことを謝り、今まで大変だったのだろうと気遣ってくれた。
そして、今は無理をしなくていいと伝えてきた。
仕事も、学園のことも、できる限り自分が何とかするから。
安心して休んでいてほしいと。
ナギサは、何も答えなかった。
そもそも、答える気にもならなかった。
けれど、それで終わりではなかった。
その後も、時折声が届いた。
自分の身体を心配する言葉。
これまでの苦労を労う言葉。
そして、いつか自分が戻ってくることを、当然のように信じている言葉。
すべてが聞こえるわけではなかった。
あの人が普段何を考えているのか、ナギサには分からない。
ただ、自分へ向けて語りかけられた言葉だけが、この場所まで届くことがあった。
最初は、何とも思わなかった。
自分の身体を誰が使っていようと、もう関係ない。
好きにすればいい。
そう考えていた。
しかし。
あの人は、何度も自分を気遣ってくれた。
戻ってくるまで待っている。
今は、ゆっくり休んでいていい。
そんな言葉を聞くたびに、心の奥で何かが揺れた。
(……どうして)
どうして、そんなことを言うのですか。
自分は、すべてを投げ出した。
ティーパーティーのホストとしての責任も。
学園を守るという役目も。
大切な人たちとの約束も。
何もかも放り出して、ここへ逃げ込んだ。
もう、戻るつもりなどなかった。
戻ったところで、また同じことを繰り返すだけだ。
友人を失うことに怯え。
誰かを疑い。
皆を守るためだと言い聞かせながら、誰かを傷つける。
そんな自分に、いったい何ができるというのだろう。
(……やめて)
ナギサは、膝に顔を埋めた。
(もう、やめてください……)
優しい言葉をかけないで。
期待しないで。
自分は、そんな人間ではない。
皆が思っているような、立派なホストなどではなかった。
ただ、失うことが怖くて。
間違えることが怖くて。
誰かに弱さを見せることすらできなかった。
それだけの人間なのだ。
なのに。
あの人は、責めようとしない。
むしろ、自分の代わりに何とかしようとしている。
そのことが、どうしようもなく苦しかった。
(……お願いです)
もう、聞きたくない。
これ以上、優しくしないで。
そんな言葉を聞いてしまったら。
もしかすると、自分もまた戻れるのではないかと。
もう一度、皆と笑い合えるのではないかと。
そんな、叶うはずのない期待を抱いてしまう。
そして、その期待が裏切られた時。
自分には、もう耐えられる自信がなかった。
(……嫌……)
ナギサは、両手で耳を塞いだ。
無意味だと分かっていた。
あの声は、耳から聞こえているわけではないのだから。
それでも、そうせずにはいられなかった。
もう、何も聞きたくない。
何も感じたくない。
ただ、放っておいてほしかった。
「……ナギサ?」
突然の動きに、セイアが驚いたように身を乗り出した。
「どうしたんだい? どこか苦しいのかい?」
ナギサは、答えなかった。
答えられなかった。
セイアの声まで、遠ざけたくなかった。
けれど、今は誰の言葉も受け止められない。
その矛盾を、どう伝えればいいのか分からなかった。
「……ナギサ」
セイアが、そっと肩に手を伸ばす。
その手が触れた瞬間、ナギサの身体が強張った。
「……っ」
セイアの手が止まった。
「……すまない」
少しの沈黙。
そして、セイアはゆっくりと手を引いた。
「……今は、そっとしておこう」
理由は、分からなかった。
セイアには、ナギサへ向けられたあの声が聞こえない。
何を恐れているのか。
何が彼女を苦しめているのか。
今のセイアには、知る方法がなかった。
けれど。
何かを伝えようとすることが、必ずしも相手のためになるとは限らない。
そのことだけは、理解できた。
セイアは、椅子へ座り直した。
もう、無理に話しかけることはしなかった。
ただ、ナギサが顔を上げた時、いつでもそこにいるように。
その場を離れずにいた。
◇
しばらくして、戸口の向こうに広がる水面が揺れた。
現実の光景が、映し出されたのだ。
そこには、外出の準備を進めるナギサの姿があった。
いや。
正確には、彼女の身体を借りている見知らぬ誰か。
鞄に書類をしまい、身支度を整えている。
「……おや」
セイアは、そちらへ目を向けた。
「どうやら、シャーレへ向かうようだね」
当然、返事はない。
けれど、セイアは気にしなかった。
それ以上、無理に話しかけるつもりはなかったからだ。
水面では、現実の彼が護衛と合流していた。
剣先ツルギ。
正義実現委員会の委員長。
トリニティでも屈指の実力者だった。
「……ツルギか。頼もしい護衛がついたものだね」
セイアは、穏やかに微笑んだ。
車へ乗り込む二人。
ツルギは、何やらナギサの体調を心配しているようだった。
最近、あまり調子が良くないと聞いていたらしい。
その言葉を聞いて、セイアは背後を振り返った。
ナギサは、まだ膝を抱えたままだった。
しかし、先ほどまで耳を塞いでいた手は、今は膝の上に戻っている。
「…………」
セイアは、何も言わなかった。
ただ、車内に映る二人の様子へ視線を戻した。
これ以上、友人を苦しめたくなかったから。
そして、現実では。
ツルギが、補習授業部に入れられたコハルについて尋ね始めていた。
――人質なのか。
その問いを聞いた瞬間、セイアは思わず眉を寄せた。
以前のナギサなら、正義実現委員会を牽制するためにコハルを利用するという考えを、完全には否定できなかっただろう。
だが、今その身体で応対する人物は、ためらわずに首を振った。
学力面で補習が必要だから参加してもらう。退学させたいわけではなく、合格してほしい。
さらに、脅して従わせても信頼は得られず、かえって危険を招くかもしれないと話す。
「……なるほど。嫌われたくない、か」
セイアは小さく笑った。
政治的な損得の話をしながら、最後にはそんな率直な気持ちも口にする。
どこか、ナギサらしくない。
けれど、その言葉を聞いたツルギの警戒が和らぐ様子を見て、セイアは考え直した。
強い立場にいるからこそ、怖がられることがある。
だからこそ、自分から信頼してもらえるように努める。
単純なようで、簡単にはできないことだ。
「……君も、こうして頼ってよかったんだよ」
セイアは隣を見た。
ナギサは膝に顔を伏せている。
その言葉を聞いた途端、彼女の肩が強張った。
先ほど耳を塞いでいた手が、また頭の横へ上がりかける。
「……ナギサ?」
セイアは、ようやく気づいた。
励ましたいと思って口にした言葉が、今の友人には重すぎるのかもしれない。
「……ごめん。今は、その話をやめよう」
ナギサは動かなかった。
セイアは握る手を緩め、ただ隣に座った。
何かを伝えることだけが、寄り添う方法ではないはずだった。
◇
午後二時。
現実の彼は、シャーレの先生と向かい合っていた。
セイアは水面に映る様子を眺めていたが、ほどなくして笑みを浮かべた。
「……噂どおり、不思議な人だね」
先生は、ティーパーティーのホストにも、護衛として同行したツルギにも、変わらぬ態度で接している。
補習授業部の四人についての説明を聞くと、指導を引き受けた。
だが、その先を尋ねた。
なぜ、その四人なのか。
補習だけが目的ではないのではないか。
セイアは目を伏せた。
その疑問は正しい。
水面の向こうで、ナギサの身体を借りた彼は、セイアの襲撃事件と、学園内部に裏切り者がいるかもしれないという疑惑を説明した。
ハナコ、アズサ、ヒフミ。コハルを除く三人に疑いが向けられていることも。
ヒフミの名前が出た瞬間、ナギサが身を竦めた。
――聞きたくない。
その思いが顔に出るほど、彼女の呼吸は浅くなっていた。
疑ったのは、自分だ。
ヒフミが笑顔で話しかけてくれた時も、疑いを取り消せなかった。
彼女の顔を思い浮かべるだけで、喉の奥が締めつけられる。
水面には、かつて自分がしようとしていたことが、淡々と語られていた。
聞かなければ、忘れたふりができたのに。
セイアは、ナギサの変化に気づいた。
だが、何を思い出しているのかまでは分からない。
以前、水面越しに見たヒフミとのぎこちないやり取りを思い出し、ただ黙って傍にいた。
先生は、さらに尋ねた。
――シャーレの権限を利用して、彼女たちを退学させるつもりなのか。
「…………」
セイアは息を止めた。
鋭い問いだった。
しかも、ナギサがかつて考えていた方法を、正面から突いている。
現実の彼は、それを否定した。
元のナギサには、そういう考えもあった。けれど、自分は四人を退学させるつもりはなく、支援してほしいのだと。
その返答を聞きながら、セイアは何を言うべきか迷った。
間違っていた、と責めるのは簡単だ。
だが、当時のナギサが抱えていた恐怖も、セイアは知っている。
誰が敵なのか分からない。自分は死んだことになっている。ミカとは条約を巡って意見が合わない。
そんな中で、学園を守る判断を迫られていたのだ。
それでも。
親しい友人を疑わなければならないような状況に、ナギサを一人で置いてしまったことは消えない。
「……すまないね、ナギサ」
セイアは低く呟いた。
「君だけに、あんな決断をさせるべきではなかった」
ナギサは、勢いよく両耳を塞いだ。
「……ナギサ!」
その反応に、セイアが息を呑む。
ナギサは背中を丸め、必死に顔を伏せた。
聞きたくない。もうやめて。
自分が考えていたことも、間違えたことも、何もかも聞きたくなかった。
セイアは水面から目を離した。
自分の謝罪が、かえって友人を追い詰めたのではないか。
そんな恐れが胸をよぎる。
「……分かった。もう、今は話さないよ」
伸ばした手を、無理には握らない。
ただ、ナギサの傍に置いておく。
しばらくして、耳を塞いでいた手が膝に戻った。
けれど、ナギサは顔を上げなかった。
セイアはその沈黙を、少しも前進できなかった証とは思わないことにした。
◇
やがて、先生たちの話題は一枚の紙へ移った。
二つに分かれる線路。
制御できなくなったトロッコ。
五人を救うためには、一人を犠牲にしなければならないという問い。
「……トロッコ問題か」
セイアの胸に、苦いものが広がった。
彼女が見てきた未来も、似たような選択ばかりを迫ってきた。
誰かを救えば、別の誰かが傷つく。
あらゆる道を探しても、結局は何かを失う。
ツルギは、止めると答えた。
無理なら壊す。それでも駄目なら、人を助けに行く。
「……君らしい答えだね」
セイアは笑ったが、すぐに唇を結んだ。
問題は、そんな方法がすべて使えない時、何を選ぶのかということなのだから。
だが、先生は一つの前提を受け入れなかった。
できる限り、第三の選択肢を探す。
それがどうしても見つからないのなら、誰かと一緒に考える。
一人きりで決断し、その責任を抱えなくてもいいのだと。
「……第三の、選択肢」
セイアは、その言葉を繰り返した。
未来を何度も見ているうちに、自分は可能性を探しているつもりで、二つの道しか見なくなっていたのかもしれない。
何かを失って進むか、何もできずに失うか。
そのどちらも嫌になって、夢へ逃げ込んだ。
横を見る。
ナギサは、俯いたまま、両手を膝に押しつけていた。
つい先ほどまで、耳を塞いでうずくまっていた彼女が、今は水面の方へ顔を向けている。
助けてほしいと思っているのか、それともまた苦しい記憶に触れてしまったのか。
セイアには判別できなかった。
現実の彼も、組織を率いる立場として、少数の犠牲を選ばなければならないことがあるのではないか、と問いかけていた。
それに対して先生は、重い決断をする時こそ、仲間と相談してほしいと答えた。
そして、自分も一緒に考え、責任を負うと。
セイアは胸の奥が詰まるような思いだった。
そんな言葉を、ナギサに聞かせたかった。
自分の口から伝えたかった。
「……ナギサ。聞こえているかい?」
その問いに応じる声はなかった。
しかし、その時。
ナギサの瞳が、何かに気づいたように揺れた。
◇
――また、あの声だ。
ナギサは、怯えるように肩を縮めた。
日記を読んだ後、何度も自分へ呼びかけてきた人。
もう休んでいいと、戻れるまで待つと、繰り返し伝えてきた人。
『……なあ、ナギサ』
(……嫌)
名前を呼ばれただけで、胸の奥が痛んだ。
(もう、聞きたくありません)
聞けばまた、考えてしまう。
自分が置いてきた人々の顔を思い浮かべる。
自分のしたことを、したかったことを、思い出す。
声は、先ほど先生が話したことに触れていた。
一人で全部決めなくてもいい。
誰かを切り捨てる前に、周りと相談していい。
それでも答えが出ない時には、一緒に考えようと。
(……違います)
誰かに相談したからといって、すべてが解決するわけではない。
自分の判断が間違っていたら、頼った相手まで巻き込んでしまう。
それなら、一人で背負った方がいい。
そうしてきた。
その結果が、今の自分だとしても。
(私には、もう……)
ナギサは耳を塞いだ。
あの人は、知らないのだろうか。
大切な人が失われたと思った瞬間、世界がどれほど暗くなるのか。
親しい友人へ疑いの目を向けた自分を、どれほど許せなくなるのか。
セイアさんが生きていた。
本当なら嬉しいはずだった。
それなのに、自分はまだその顔を見るのが怖い。
こんな自分が、誰かに救われたいなどと願っていいはずがない。
(……お願いです)
期待を持たせないで。
もう、優しいことを言わないで。
希望を持って、結局また失うくらいなら、最初から何も要らない。
けれど、声は彼女を責めるものではなかった。
戻ることを急かしもしなかった。
ミカがいる。ツルギもいる。先生もいる。
そして、自分でもいいから頼ってほしいと。
(……どうして)
誰かを頼っても、いい。
その意味が分からなかった。
そんなことをしたら、迷惑をかける。
期待を裏切る。
きっと最後には、見捨てられる。
――また、あの暗い部屋に一人取り残される。
それが怖かった。
『……責任だって、俺も一緒に背負うから』
「…………っ」
身体が震えた。
責任を分け合うという言葉は、甘い慰めに聞こえるはずだった。
誰も、本当には代わってくれない。
そう思っていた。
だが、あの人はすでに代わってくれていた。
仕事を仕分け、ミカへ手伝いを頼み、反対されると分かっていて頭を下げた。
自分が逃げ出したあとの現実で、実際に動いていた。
それを知っているから、ただの慰めだと切り捨てられない。
(……嫌、です)
ナギサは、顔を伏せた。
(そんなことをされたら……)
信じてしまう。
もう一度だけ、生きている誰かの手に触れたいと思ってしまう。
あの人も、先生も、セイアさんも、いつか自分に呆れるかもしれない。
それでも、今この瞬間、手を差し伸べてくれている。
――信じたい。
そう考えてしまった自分が、何より恐ろしかった。
息が浅くなる。
胸の奥に押し込めていたものが、一度に溢れそうだった。
逃げたい。ここからも、声からも、全部から。
セイアの手が、すぐ傍にあった。
先ほどから、無理に触れようとはしない手。
いつでも届く距離に置かれたままの手。
ナギサは、それを見つめた。
もし、この手を取ってしまったら。
もし、助けてほしいと口にしてしまったら。
また何かを望んでしまうのだろうか。
――怖い。
けれど、初めて、確かめたいと思った。
「……あ……」
音が漏れた。
自分の喉から出たものだと気づくまで、少し時間がかかった。
「……ナギサ?」
セイアが、驚いたように膝をついた。
ナギサは反射的に顔を背けた。
「ごめん、驚かせてしまったね」
セイアは近づきすぎず、目線だけを合わせようとする。
「何か、言いたかったのかい?」
ナギサは首を横に振ろうとした。
やっぱり、やめよう。
聞かなかったことにしてほしい。
けれど、口を閉ざせば、また何もない場所へ戻ってしまう気がした。
「……わた……し……」
声が途切れた。
喉が痛い。息の仕方が分からない。
「大丈夫。無理をしなくていいよ」
その言葉に、ナギサはまた胸を締めつけられた。
無理をしなくていい。
そんなことを言われるのも、今は苦しい。
けれど、今度は耳を塞がなかった。
代わりに、セイアの手の方へ指を伸ばした。
手が触れる。
セイアは何も言わず、その指先を受け止めた。
たったそれだけのことで、涙が出そうになった。
だが、泣くことさえ上手くできなかった。
「……たよ……って……」
ナギサは、顔を上げようとした。
怖くて、また俯いた。
それでも、続きを絞り出す。
「……いい……の……?」
言ってしまった。
ナギサは、息を呑んだ。
返事が怖い。駄目だと言われる気がした。
言葉を取り消そうとしても、もう声が出ない。
セイアはしばらく黙っていた。
驚いているのだろうか。
困らせてしまったのだろうか。
ナギサは、手を引こうとした。
「……もちろんだとも」
その声は、震えていた。
「君が私を頼ってくれたら、嬉しいよ」
ナギサは目を見開いた。
どうして、嬉しいのだろう。
自分はもう、何も返せないのに。
「でも、今すぐ何かを決めなくていい」
セイアは、握った手を少し緩めた。
「怖いなら、怖いままで構わない。話したくなければ話さなくていい。私も、君が許してくれる範囲で傍にいるよ」
その言葉に、ナギサの肩から少しだけ力が抜けた。
帰ると約束しなくていい。
明日を望むと宣言しなくていい。
ただ、助けを求めただけで、手を離されない。
「……セイア……さ……」
声が擦れた。
最後まで呼びきれない。
それでも、セイアは頷いた。
「うん。ここにいるよ、ナギサ」
その顔を見て、ナギサはようやく目を逸らさずにいられた。
握っていた手に、ごく僅かな力を返す。
それが精一杯だった。
◇
しばらく、ナギサは何も話せなかった。
再び目を伏せ、壁にもたれている。
先ほどまでのことが夢だったのではないかと、セイアは怖くなった。
しかし、手は離されなかった。
セイアがそっと指を緩めると、ナギサの指が僅かに追いかけてきた。
それだけで十分だった。
「……ありがとう、ナギサ」
セイアは、思わず呟いた。
「君の声を、また聞けるとは思わなかった」
ナギサは応えない。
けれど、もう返事を急かすつもりはなかった。
現実の水面には、先生にヘイローの形を確認してもらう彼の姿が映っていた。
元のナギサのヘイローが、今も同じ形をしていること。
それが完全な証拠にはならなくても、彼にとって希望であること。
セイアは、ただ静かに見つめていた。
そして、またナギサが顔を上げた。
何か聞こえたのだろうか。
セイアには分からない。
彼が現実で誰かと話す声は水面越しに聞こえても、心の中でナギサへ向ける言葉までは届かないのだ。
ただ、ナギサだけが聞いていた。
『……ちゃんと待ってるからな』
今は休んでいていい。
戻ってきたら文句を言ってくれていい、と。
ナギサは声を出そうとして、やめた。
まだ何も伝えられない。
ただ、もう一人の自分が映る水面を見つめていた。
(……待って……くれる……)
その言葉が、今度は怖いだけではなかった。
◇
午後四時。
空崎ヒナがシャーレを訪れた。
「……これはまた、珍しい顔ぶれだね」
ゲヘナの風紀委員長と、正義実現委員会の委員長。
その間に、先生とナギサの身体を借りた人物がいる。
以前なら、これほど自然に同じ卓を囲む光景は想像できなかった。
ヒナは、エデン条約を十五日間延期するという提案に、驚くほど早く理解を示した。
警備に不安があるなら、無理に調印式を進める必要はない。
ただし、正式決定には万魔殿との調整が必要だという。
その名が出た瞬間、現実の彼は何かを思い出したように顔を上げた。
「……おや?」
セイアは首を傾げた。
彼は、一体何を知っているのだろう。
やがて話は、さらに予想外の方向へ進んだ。
「……私は、本来の桐藤ナギサではありません」
水面の向こうから届いた言葉に、セイアは思わず身を乗り出した。
先生が目を見開く。
ヒナは表情を引き締める。
そしてツルギは、ナギサの居場所を問いただした。
セイアは隣を見た。
ナギサは、目を伏せている。
「……聞こえているかい」
返事はない。
セイアはそれ以上話しかけず、現実のやり取りを見守った。
彼は、自分が別の世界から来たこと、元は男性だったことを説明した。
そして、本物のナギサはこの身体のどこかで眠っているはずだと考えている、とも。
それを聞いたセイアは、胸が痛んだ。
「……君の考えは、間違っていないよ」
届かない声で、彼に答える。
「ここにいる。確かに、ナギサはここにいるんだ」
セイアが見つめる先で、ナギサの手が離れた。
――本物のナギサは、眠っている。
そう言われた途端、胸の奥が冷たくなったのだろうか。
彼女はまた膝を抱え、俯いてしまった。
自分の身体で、自分以外の誰かが皆と話している。
その誰かの方が、皆を守れている。
そうした現実を、否応なく思い知らされていた。
セイアには、その理由までは分からなかった。
ただ、さっきまで少し開いていた心が、再び固く閉ざされかけているように見えた。
「……ナギサ」
急いで励ますことはしなかった。
手を差し出し、待った。
しばらくして、ナギサの指がセイアの袖に触れた。
握るほどの力もない、ほんの一瞬の接触だった。
「……ああ。ここにいるよ」
それ以上、何も求めなかった。
◇
現実の彼は、自分を「ナギ」と名乗った。
ナギサと区別するための名前。
自分が本物のナギサではないと、何度も確かめるように。
「……ナギ、か」
セイアはその響きを口の中で繰り返した。
「君とよく似た名前だね」
ナギサは、ようやく顔を上げた。
水面に映る、同じ顔をした人物。
けれど、その人は、自分とは違う口調で先生たちと話していた。
皆は、彼の言葉を聞いている。
自分の代わりに生きる人を、少しずつ受け入れ始めている。
それが頼もしくもあり、恐ろしくもあった。
(……私がいなくても)
その先を考えそうになり、ナギサは唇を噛んだ。
「……あの……方……」
唇が、かすかに動いた。
「……うん?」
「……私……の……」
そこで途切れる。
セイアは黙って待った。
「……代わり……」
最後まで言えないまま、ナギサは俯いた。
代わりに、何を言いたかったのだろう。
自分の代わりに働いている。
自分の代わりに友人と会っている。
自分の代わりに、皆を守ろうとしている。
セイアには、どれも正しいように思えた。
けれど、今のナギサにそれを突きつけたくはなかった。
「……そうだね。今は、君の役目を引き受けてくれている」
それだけ答える。
「でも、君がいらなくなったわけではないよ」
ナギサの肩が震えた。
その先の言葉は出てこなかった。
◇
ナギの話は、さらに続いた。
元の世界では、このキヴォトスによく似た世界を描いた『ブルーアーカイブ』という物語があったこと。
その物語を知っているから、これから起こるかもしれない悲劇に備えられること。
だが、この世界の人々を作り物だとは思っていないこと。
彼の説明を聞きながら、セイアはようやく腑に落ちた。
あの十五日間の延期。
補習授業部への接し方。
そして、未来の襲撃についての知識。
自分の予知とはまったく違う方法で、未来を知る者がいたのだ。
それでも彼は、自分の知識を絶対とはしなかった。
これから何が変わるのか分からない以上、現実に確かめなければならない、と。
「……なるほど。だから、あれほど慎重だったのだね」
やがて話題は、アリウスへ移った。
調印式で起きるはずだった襲撃。先生やヒナが負うはずだった傷。そして、その背後で動いている存在。
セイアは目を伏せた。
自分が見たものと、重なる。
なのに、ナギはその悲劇を語りながら、加害者側にいるアリウスの生徒たちまで救う道を探そうとしていた。
支配されている生徒たちと、それを利用する者を、同じものとして扱わない。
「……欲張りな人だね」
呆れるように言いながら、セイアは口元を緩めた。
あの未来を見続けていた時、自分はそれほど多くを救えるとは思えなかった。
先生が、ヒナが、ツルギが、それぞれに自分の身を顧みず誰かを守ろうとする。
その姿を見たナギが、今度は彼らに無理をしないでほしいと訴える。
そして、逆に自分も診察を後回しにしていると指摘されてしまう。
「……ふふっ。お互いさま、か」
セイアは、思わず笑った。
誰かを守る者にも、守られる資格がある。
先ほどの先生の言葉は、この人たち全員に必要なのかもしれなかった。
その時、袖を握る力が強くなった。
ナギサだった。
水面を見つめている。
しかし、彼女の顔には戸惑いが浮かんでいた。
「……ナギサ?」
呼びかけると、唇が動いた。
「……わたし……には……」
声が途切れる。
それ以上、何も言わない。
セイアは、その続きを想像できた。
自分には、できなかった。
自分は、誰かを疑ってしまった。
自分は、逃げてしまった。
そんな言葉を、何度心の中で繰り返してきたのだろう。
「……ナギサ」
セイアは目線を合わせた。
「君が、トリニティを守ろうとしてきたことを、私は知っている」
ナギサの眉が苦しそうに寄った。
「間違えたこともあるだろう。私にもある。だからこそ、今度は一人で決めないようにしよう」
「…………」
「私も、君に頼るよ。君だって、私を頼ってほしい」
ナギサは何か言おうとして、喉を鳴らした。
けれど、すぐに顔を伏せてしまった。
セイアは、その沈黙を拒絶とは思わなかった。
先ほどまで何も感じていないようだった少女が、今は苦しそうに眉を寄せている。
希望が生まれたからといって、苦しみが消えるわけではない。
むしろ、何も感じないようにしていた頃より、ずっと辛そうに見える。
それでも、セイアは嬉しいとも悲しいとも言えなかった。
彼女が今何を感じているのか、それを本人の言葉で聞くまでは、決めつけたくなかった。
だから、少しだけ話題を変えることにした。
「……ところで、私は彼に礼を言いたいと思っているんだ」
ナギサが目を向けた。
「未来を変えてくれたことも、君の代わりに仕事を引き受けてくれていることもね」
そこでセイアは、苦笑した。
「もちろん、その前に君に謝るべきことが山ほどあるけれど」
その言葉に、ナギサの瞳が揺れた。
何かを伝えようとしたようだったが、結局、声にはならなかった。
◇
現実では、ナギが今後の手段について話していた。
まず、すでに考えている本命の計画を進める。
そして、万魔殿とアリウスの繋がりを辿れないかという案は、あくまで予備として残す。
それぞれ危険も不確実さもあり、成功を前提にはできない。
「……一つに賭けない、か」
セイアは頷いた。
先ほどの思考実験が、また胸に浮かぶ。
どちらかを選ぶ前に、別の道を探す。
しかも一人で抱え込まない。
彼は、目の前の三人へ協力を求めていた。
それぞれ違う学園、違う立場にいる三人へ。
セイアは、自分が予知の中で見てきた、崩れ落ちる条約会場を思い出した。
その場所に集まるはずだった者たちが、今は一つの部屋で未来を変えようとしている。
「……こんな可能性も、あったんだね」
初めて見る光景に、セイアはそっと息を吐いた。
隣では、ナギサが水面を見ていた。
以前なら目を向けようともしなかった、現実の世界。
今は、長く見つめている。
やがて彼女は視線を外し、セイアへ向き直った。
「……セイア……さん……」
言葉は途切れ途切れだった。
それでも、今度は最後まで名前を呼べた。
「うん。どうしたんだい?」
ナギサの唇が震える。
声を出そうとして、何度か失敗した。
「……まだ……こわい……です……」
セイアは、すぐに返事をしなかった。
その一言を口にするまでに、どれほど勇気が必要だったのか。
軽々しく大丈夫だとは言いたくなかった。
「……そうだろうね」
静かに頷く。
「でも、怖いと教えてくれて、ありがとう」
ナギサが顔を上げた。
「君が怖いのなら、私はここにいる。それだけは約束できるよ」
ナギサは目を伏せた。
それから、袖を握っていた手を離した。
セイアは一瞬、胸が冷たくなった。
しかし、ナギサは逃げたのではなかった。
今度は自分から、セイアの手を探したのだ。
指先が触れる。
ぎこちなく、弱い力。
セイアは何も言わず、その手を握った。
◇
小屋には、相変わらず時計がなかった。
戸口の向こうでは現実の午後が続いている。
あれほど多くのことが起きたのに、まだ同じ日だというのが不思議だった。
セイアは窓辺に立った。
厚いカーテンは閉じられたまま。
ナギサがここへ来てから、一度も開けていない。
「……ナギサ」
友人は、壁にもたれたままこちらを見た。
「少しだけ、明るくしてもいいかな?」
ナギサは答えなかった。
セイアは手を引っ込めた。
「嫌なら、このままでいいよ」
無理に光を見せる必要はない。
ただ、外に別の景色があると伝えられれば、それでよかった。
すると。
「……すこし……」
セイアは振り向いた。
「……少しだけ、なら……」
そこで声が切れた。
ナギサは恥ずかしそうに俯いたが、言葉を取り消さなかった。
「……分かった」
セイアは、カーテンの端を指一本分だけ開けた。
白い光が、細い線となって床へ落ちる。
ナギサは眩しそうに目を細めた。
だが、顔を背けなかった。
「……どうかな?」
「……まぶしい……です……」
「そうだね」
セイアは微笑んだ。
それ以上、カーテンを開けることはしなかった。
光は、ほんの細い一筋だけ。
それでも、部屋の隅まで届いていた。
ナギサは、その光を長い間見つめていた。
セイアが椅子へ戻ろうとすると、彼女が口を開いた。
「……セイアさん……」
「うん?」
「……もう……すこし……」
懸命に言葉を探している。
セイアは足を止めた。
「……ここに……いて……」
そこで止まった。
最後までお願いするのが、まだ怖かった。
セイアは頷き、急がず待った。
「……くれます……か……?」
声が消えたあと、ナギサは怯えたように視線を落とした。
こんなお願いをしてよかったのだろうか。
そんな迷いが、表情から伝わってくる。
セイアは、すぐ隣へ腰を下ろした。
「ああ。もちろんだとも」
ナギサが、ゆっくりと顔を上げる。
「君が話したくなったら、何でも聞かせておくれ。話したくない時は、こうして座っているだけでもいい」
ナギサは唇を震わせた。
何か言おうとしたが、今度は言葉を探すのをやめた。
代わりに、セイアの手を取った。
ずっと握られるばかりだった手が、自分から差し出された。
その変化に、セイアは胸が熱くなった。
「……ナギサ」
呼びかけると、友人は小さく頷いた。
まだ、笑えない。
皆のところへ帰りたいとも言えない。
これまでのことを思い出せば、また何も話せなくなってしまうかもしれない。
それでも。
彼女は、誰かに傍にいてほしいと願った。
その願いを、自分の声で伝えた。
セイアは、開いたカーテンの隙間を見た。
細い光の向こうには、果ての見えない水面が広がっている。
現実では、ナギが今も奔走している。
こちらでは、ナギサがようやく声を取り戻し始めた。
どちらも、同じ日の出来事だ。
まだ、終わりではない。
この日のうちに、もう一度心が揺れることだってあるだろう。
けれど、次にナギサが俯いてしまっても、セイアは傍にいるつもりだった。
もう、友人を一人にはしない。
隣のナギサが、手を握り直した。
その力は微かだったが、先ほどより少しだけ温かかった。
――長い沈黙の先で、彼女は初めて「一人にしないで」と願うことができた。
今回は本編第9~14話の裏側を、セイアとナギサの視点を中心に描きました。
特に第11話『第三の選択肢』は、今回のEX編にとっても大切な場面です。
ナギの何気ない励ましは、必ずしも最初から救いとして受け取られていたわけではありません。
それでも届き続けた言葉が、どんな変化を生んだのか。少しでも感じていただけたら嬉しいです。
次回はいよいよ下編。EX.1の完結となります!
引き続きよろしくお願いします!