中編の直後、同じ日の続きになります。
今回は本編第15・16話の裏側で、セイアとナギサが交わした言葉を描きました。
まだ大きな一歩は踏み出せなくても、小さな楽しみなら思い描けるかもしれない。
そんなお話です。
ナギサの手は、まだセイアの手の中にあった。
小屋の窓に掛かったカーテンは、指一本分だけ開いている。白い光が床を細く照らし、その先には、相変わらず出口の見えない夢の世界が広がっていた。
「……もう少し、ここにいてくれますか」
ナギサは先ほど、そう言った。
返事をするだけでも苦しそうだった少女が、自分から口にした願いだった。
「もちろんだとも。君に追い出されない限り、ここにいさせてもらうよ」
少し冗談めかして答えると、ナギサの指がわずかに動いた。
それが返事なのか、ただ身体が震えただけなのか、セイアには分からない。
けれど、確かめようとは思わなかった。
言葉を取り戻したからといって、心まで元に戻ったわけではない。ナギサは今も背中を丸め、何かに怯えるように膝を抱えている。
少し前まで、誰の声も聞きたくないと耳を塞いでいたのだ。
セイアは握った手を緩めた。離れたいと思ったら、いつでも離せるように。
ナギサは手を引かなかった。
◇
戸口の向こうで水面が揺れた。
シャーレでの会談が終わり、先生とツルギ、ヒナがナギと顔を合わせている。端末を差し出し合い、これからの連絡について話しているらしい。
ナギは笑っていた。
その顔を見た途端、ナギサの手に力がこもった。
「……あんな……ふうに……」
「ナギサ?」
少女は水面から目を離せないでいた。
同じ身体。同じ声。同じ顔。
けれど、あの人は、恐れずに人へ助けを求める。自分の弱さを隠そうともせず、初めて顔を合わせた相手にさえ自然に笑いかける。
(……私が、あそこにいたら)
ナギサの胸に、答えの分かりきった問いが浮かんだ。
きっと警戒していただろう。
自分の顔をしているのに、自分よりずっと皆に必要とされている。
「……あの人の……方が……」
そこで言葉は途切れた。
「ナギサ」
セイアは、すぐには励まさなかった。
「彼が頼もしい人なのは、私もそう思うよ」
ナギサの肩がびくりと動く。
「けれど、彼がどれほど上手に君の仕事をこなしても、私にとっては別の話なんだ」
「……べつ……?」
「私が会いたいのは、仕事のよくできるティーパーティーのホストじゃない。君だよ。困ると眉間に皺を寄せる、あのナギサと話がしたいんだ」
ナギサは顔を上げなかった。
「……セイアさん……」
「うん?」
「……どうして……生きて……いたのに……」
それだけ言って、ナギサは唇を噛んだ。
セイアの表情が変わった。
彼女がミネに保護され、再襲撃を避けるため身を隠した事情は、もう聞いている。けれど、説明を聞くことと受け入れることは別だった。
「……なぜ、知らせなかったのか。そう聞きたいんだね」
ナギサは頷かなかった。
頷けば責めてしまう。
死んだと信じた友人に、そんなことを言っていいはずがない。
――でも。
(……生きていたのなら)
あの日から、自分は何をしていたのだろう。
セイアさんを殺した者を見つけなくては。
それなのに、探していた友人は生きていて、自分の知らないところで守られていた。
(……どうして、ひとことだけでも……)
そう考えた瞬間、ナギサは自分の口元を手で覆った。
嫌だった。
大好きな友人に対して、こんな感情を抱いてしまう自分が。
生きていてくれた。それだけで喜べない自分が。
「……ごめ……なさい……」
セイアが顔を上げる。
「……こんな……こと……思う……なんて……」
ナギサは喉を詰まらせた。
「……怒っているのかい、私に」
ナギサの身体が固まった。
「……ちが……」
「違わなくてもいいよ」
セイアは急いで言葉を足さなかった。
「私は生きていた。その事実を君に伝えず、君が苦しんでいることも知っていた。……腹を立てられて当然だと思う」
「……でも……セイアさんは……危なかった……から……」
「ああ。それも本当だよ。だけど、君が傷つかなかったことにはならない」
ナギサの視線が揺れた。
責めてはいけない、と自分を縛っていた言葉が、行き場を失う。
「……わたし……セイアさんが……生きていて……」
嬉しい。
そう言いたかった。
けれど、口を開けば別の言葉が出そうだった。
それを言ってしまえば、もう友人でいられなくなるかもしれない。
「……わからない……です……」
ようやく出たのは、それだけだった。
セイアは静かに頷いた。
「……うん。今、答えを出さなくていい」
「……セイアさん……」
「君が怒るなら、私は話を聞くよ。泣きたくなったら、ここにいる。許してくれなくても、すぐに離れたりしない」
ナギサは俯いた。
セイアの手を握る力が、強くなった。
しばらくすると、消え入りそうな声が聞こえた。
「……嫌いに……なりたく……ない……です……」
「……ああ」
セイアは一度目を閉じた。
「私も、君を失いたくないよ」
それ以上の言葉は、どちらからも出なかった。
◇
次に景色が定まった時、ナギは救護騎士団の施設にいた。
セリナが案内役を務め、ハナエがいつもの元気な声で出迎える。
「……ようやく診察を受けてくれるんだね」
セイアは安堵した。
現実のナギサの身体は、あの日から無理を重ねてきた。借りている身体だからこそ、ナギには大切にしてほしかった。
その直後、隣で衣擦れの音がした。
ナギサが身を縮め、両腕を強く抱き寄せている。
水面には白い診察室が映っていた。
薬について尋ねるセリナの姿。
けれど、ナギサの呼吸は急に浅くなった。
(……いや……)
思い出したくない。
あの日の部屋。空になった薬瓶。何もかも終わらせたかった自分。
それを今、別の誰かが診察の場で説明しているのだろうか。
怖い。
「……見たく……ない……」
ナギサが掠れた声を漏らした。
セイアはすぐ、水面と彼女の間に身を置いた。
「分かった。もう見なくていいよ」
夢の景色が薄れていく。
それでも、ナギサは顔を上げなかった。
セイアは抱き寄せようとして、手を止めた。
触れられたいのか、それとも今は一人でいたいのか。以前のように、友人なのだから分かるはずだと決めつけることはしたくなかった。
「……ここに座っているよ。何かしてほしいことがあったら、教えておくれ」
返事はなかった。
やがて、ナギサが胸の前に抱えていた手を緩めた。
「……セイアさん……」
「うん?」
「……あの方……だいじょうぶ……ですか……」
セイアは少しだけ驚いた。
「ナギの身体のことかい?」
ナギサは頷く。
「……わたし……のせいで……」
その先は聞かなくても分かった。
責任という言葉が、彼女の中で何度も同じ傷をなぞっている。
「君は見なくていい。私が確かめてくるよ」
セイアはひとりで戸口へ目を向けた。
検査では、差し迫った処置を要する異常は見つからなかったらしい。ただし、セリナは経過を見ながら無理をしないよう、真剣な表情で伝えていた。
「……ひとまず、すぐに大きな問題が起きるような状態ではなさそうだ。今後も診てもらうそうだよ」
「……よかった……」
ナギサは、その一言を口にしてから自分でも驚いたようだった。
「……ハナエが何か言っているよ」
セイアが水面を見つめながら言った。
「……なんて……?」
「どうやらナギをもっと元気にする方法を思いついたらしい。セリナが慌てて止めているけれど」
「……ハナエさん……」
ナギサは弱々しく眉を寄せた。
「……ほどほどに……して……ほしい……です……」
「まったくだね。今の彼を眠らせるつもりが、寝込ませてしまっては困る」
セイアが肩をすくめると、ナギサの指先が膝の上で緩んだ。
◇
帰り際、ナギはセリナへ封筒を預けた。
宛名は、蒼森ミネ。
「……ミネへの手紙か」
セイアは目を細めた。
自分を守ってくれた救護騎士団の団長。ナギは、彼女に接触するための手掛かりを求めているようだった。
「……あの人は、思った以上に辛抱強いね」
ナギサも、封筒が手渡されるところを見ていた。
「……セイアさん……」
「なんだい?」
「……あの方は……どうして……」
そこで口を閉じる。
どうして、ここまでしてくれるのだろう。
自分にとって得になることなど、何一つないはずなのに。
ナギサが口にできずにいる問いを、セイアも何度か考えていた。
「……本人に聞いてみたいね、いつか」
「……いつか……」
ナギサはその言葉を繰り返した。
「……みなさんに……会うのは……」
ナギサはそこで首を振った。
「……まだ……」
「……ああ。今は無理をしなくていい」
それ以上、セイアは言わなかった。
ナギサは少し迷ってから、そっと彼女の肩に寄りかかった。
セイアは姿勢を変えず、その重みを受け止めた。
◇
現実の空が暗くなり、窓の外には街灯がともった。
夢の小屋には夜が来ない。
それでも、ナギが帰宅して食事を取り、ようやく一日の仕事を終えようとしていることは、水面の景色から分かった。
「……やれやれ。明日くらいは、きちんと休んでほしいものだね」
セイアが呟くと、思いがけない返事があった。
「……セイアさんも……」
「……ん?」
「……休んで……ください……」
セイアは瞬きをした。
「……おや。私まで心配されてしまったか」
ナギサは、視線を膝に落としたまま続けた。
「……いつも……無理を……」
「……参ったな」
思わず、笑みが漏れた。
これでは、昔の茶会に戻ったようだ。
けれど、彼女は少しだけ顔を上げていた。
「……あの……」
「うん?」
「……セイアさん……困って……ます……?」
「……ああ。君に注意される日が来るとは思っていなかったからね」
ナギサは答えず、再び俯いた。
セイアはそれ以上、冗談を重ねなかった。
◇
水面にナギサの寝室が映る。
ナギはベッドに腰を下ろし、しばらく考え込むように俯いていた。
やがて、胸元に手を当てる。
その姿を見た途端、ナギサの呼吸が止まった。
『……ナギサ』
声が届く。
耳ではなく、心の奥に。
セイアには聞こえない声。
ナギが自分へ向けて語りかける時だけ、この暗い小屋へ届いてくる言葉だった。
『今日は、いろんな人と話したよ』
ナギサは膝を抱き直した。
『君のことも、ちゃんと話した』
(……やめて……)
条件反射のように、そう思った。
皆に知られたくない。
自分がどれほど弱かったか。どんなことをしたか。あの人が、今どんな苦労をしているのか。
皆があの人を必要として、自分の帰る場所だけがなくなってしまう。
そうなれば、ここへ逃げ込んだことさえ無意味になる。
(……なら、最初から……)
考えかけて、ナギサは唇を噛んだ。
あの人に感謝したいのか、いなくなってほしいのか。
どちらも本心のようで、どちらも認めたくなかった。
『……俺には、君がどんな気持ちだったのか、全部分かるわけじゃない』
ナギサは顔を上げた。
それでも、何かを伝えようとしている。
『……君には、幸せになってほしいんだ』
「……っ」
幸せ。
自分にはもう関係のない言葉だと思っていた。
思い出すのは、失ったと思っていた、何でもない日々ばかりだった。
(……そんなことを……)
望んでしまったら。
また、失った時に耐えられない。
自分の判断を間違えたことも、ヒフミを疑ったことも、皆に背を向けたことも消えはしない。
幸せになりたいなどと口にする資格が、今の自分にあるのだろうか。
ナギサの手が、耳へ伸びた。
けれど、その手は途中で止まった。
もう聞きたくない。
でも、今度は最後まで聞いてみたい。
その二つの気持ちが、胸の中でぶつかった。
『……だから、もう少し待っててくれよ』
その言葉に、ナギサは目を見開いた。
今すぐ戻ってこい、ではない。
頑張れば何とかなる、でもない。
自分が帰ってこられる場所を整えるから、もう少し待っていてほしい、と。
(……待つ……?)
そんな約束をして、何になるのだろう。
(……それでも……)
その先を考えた途端、視界がぼやけた。
ぽたり、と膝に涙が落ちた。
一粒落ちれば、次の一粒が止まらない。
悲しいのか、嬉しいのか。
分からなかった。
ただ、怖かった。
待っていると言われたことが。幸せになってほしいと願われたことが。
そして何より、その言葉を嬉しいと思ってしまった自分が。
「……ナギサ?」
セイアの声がした。
友人がこちらを見ている。
「……見ない……で……ください……」
「……分かった」
セイアは視線を伏せた。
「私は隣にいる。けれど、君が嫌なら顔は見ないよ」
それだけ言って、動かなかった。
ナギサは声を殺そうとした。
けれど、呼吸が乱れ、胸の奥から何度も苦しい音が漏れる。
「……ごめ……なさい……」
「……聞いているよ」
セイアは謝らなくていいとは言わなかった。
その言葉を何度繰り返しても、今のナギサには届かないと知っていたから。
代わりに、手を差し出す。
ナギサが掴むまで、待つ。
やがて細い指が、セイアの手のひらに触れた。
「……触れてもいいかい?」
ほんのわずかに、頷く気配がした。
セイアは、彼女の肩を抱いた。
ナギサはその腕の中で泣いた。
「……セイア……さん……」
「うん」
「……わたし……どう……したら……」
セイアは答えを探しかけ、やめた。
未来を見てきた自分にも、今ここで友人を笑顔にする正解は分からない。
「……今は、こうしていてくれればいいよ」
肩に伝わる震えが収まるまで、ただ寄り添った。
◇
涙が落ち着いた後、ナギサは疲れ切った顔をしていた。
それでも、セイアの手を自分から離そうとはしない。
長い沈黙の後、ナギサが小さな声を漏らした。
「……あの人の……声……」
「……ナギのことかい?」
頷く。
「……わたしに……向けて……くれた時だけ……聞こえる……んです……」
セイアは息を呑んだ。
だから、これまで幾度もナギサが突然苦しみ出したのか。
だから、自分には分からない瞬間に、誰かへ耳を塞いだのか。
「……そうだったんだね。気づけなくて、すまなかった」
ナギサは首を横に振った。
「……最初は……嫌……でした……」
「……うん」
「……優しい……言葉を……聞くと……期待……して……しまう……から……」
セイアは胸が締めつけられた。
「……それが、怖かったんだね」
ナギサは、小さく頷いた。
「……いまも……こわい……です……」
「……ああ」
「……でも……」
彼女は、水面へ目を向けた。
ナギはもう眠る支度を終えている。
こちらから声をかけても、きっと届かない。
それでも。
「……いつか……あの人に……」
「……うん?」
「……ありがとう……って……言いたい……です……」
「……きっと、驚くだろうね」
セイアが微笑んだ。
「彼は君から叱られるくらいの覚悟をしているみたいだから。ありがとうと言われたら、どういう顔をするのかな」
「……そんな……」
ナギサの眉がわずかに動いた。
「……叱る……なんて……」
「……本当に?」
セイアが首を傾げる。
「君の身体で無茶をしたら、ひとことくらい注意したくならないかい?」
「…………」
ナギサは考え込んだ。
そして、消え入りそうな声で答えた。
「……少し……だけ……」
「ふふっ。では、感謝の後に一つだけ小言を添えるといい」
◇
カーテンの隙間から、細い光が差し込んでいる。
セイアは窓辺へ目を向けた。
「……少し閉めようか?」
ナギサは、長い間その光を見つめた。
「……そのまま……で……」
「……分かった」
「……セイアさん……」
「うん?」
「……もし……いつか……戻れたら……」
ナギサは一度言葉を詰まらせ、それでも続けた。
「……みなさんと……お茶を……飲みたい……です……」
セイアは、瞬きを忘れた。
「……ミカさんも……ヒフミさんも……それに……セイアさんも……」
言い終えると、ナギサは不安げに視線を落とした。
「……でも……いまは……会えなくて……」
「……うん」
「……会っても……何を……話せば……」
セイアは言葉が終わるのを待った。ミカのことを思えば、簡単に「すべて元どおり」とは約束できなかった。
「……分からない……です……」
「……そうだね。話したいことも、話さなければならないことも、きっとたくさんある」
「でもね、ナギサ」
セイアは、ナギサの手をそっと包んだ。
「その時になってから、何を話そうか考えてもいいんじゃないかな。お茶会って、そんなに立派な理由がないと開けないものだったかい?」
「…………」
ナギサは顔を上げた。
セイアは肩をすくめた。
「私たち、いつも仕事の話ばかりしていたわけじゃないだろう? ミカのお菓子の食べ過ぎを止めたり、何でもない話をしたり……」
そこで、セイアは一度言葉を切った。
「そんな時間も、私は好きだったよ」
ナギサの瞳が揺れた。
自分はいつも、何かと注意してばかりだった。
でも、あの時間が嫌いだったわけではない。
(……ああ……)
「……その……時は……」
「うん?」
「……私が……紅茶を……淹れても……いい……ですか……?」
セイアの喉が、熱くなった。
「……もちろんだとも。むしろ、ぜひお願いしたいな」
「……おいしく……淹れられるか……」
「そこは心配していないよ。君は昔から、紅茶には厳しかったからね」
ナギサは弱々しく首を振った。
「……それは……セイアさんが……」
「……私が?」
「……冷めるまで……お話を……するから……です……」
セイアは口を開けたまま固まった。
そして、吹き出した。
「……ははっ。なるほど。では今度は、冷める前に飲み終えるようにしようか」
ナギサは、少し困ったように眉を寄せた。
「……ミカさん……」
「うん?」
「……また……お砂糖を……入れすぎる……かも……」
「その時は砂糖壺を隠してしまおうか」
「……それは……怒られ……ます……」
「では、君が説得しておくれ。私は知らないふりをするから」
「……もう……」
かすかな息が漏れた。
笑った。
ほんの一瞬、確かに。
ナギサ自身も驚いているらしく、戸惑った顔でセイアを見ていた。
「……今のは、聞かなかったことにしておこうか?」
ナギサは、しばらく迷ってから首を横に振った。
「……いい……です……」
それ以上の会話は続かなかった。
疲れが一度に押し寄せたのか、ナギサは肩を落とし、セイアの方へ身体を預けてくる。
セイアは、その重みを受け止めた。
ナギサの目元には、まだ涙の跡が残っていた。
それでも、今の彼女が一度笑ったことを、セイアは忘れたくなかった。
◇
やがて、ナギサの呼吸が落ち着いた。
眠ったのか、それとも目を閉じているだけなのか。セイアには分からなかった。
小屋の中には、外から差す細い光だけが残っている。
まだ、救えたわけではない。
ナギサは今も、現実へ戻ると言えずにいる。誰かを信じることも、自分自身を許すことも、きっと長い時間が必要だ。
それでも。
あの子は今日、怒ってもいいと知り、泣くことができた。
誰かに感謝したいと願い、いつか紅茶を淹れたいと口にした。
そして、ほんの一瞬だけ笑った。
(……ああ)
セイアは目を閉じた。
自分は、未来を見ることができた。
その力を持ちながら、恐ろしい結末ばかりを見つめ、やがて身動きが取れなくなった。
間違えない選択を探すあまり、何も選べずにいた。
ナギサが追い詰められていくのを見ていたのに、声をかける勇気すら持てなかった。
けれど。
水面に映るナギは、違った。
彼もまた、これから起こり得る悲劇を知っている。
それでも、誰か一人を切り捨てるのではなく、先生やツルギ、ヒナたちと共に道を探そうとしている。
先ほど先生が口にした、第三の選択肢。
正解を一人で見つけることではない。
正解が分からない時、誰かの手を取って一緒に考えること。
それが、今の自分にもできることなのかもしれない。
(……私は、もう逃げない)
ナギサがまた口を閉ざしても。
今日の約束を怖がる日が来ても。
そのたびに、隣へ座ればいい。
手を伸ばして、拒まれたら待つ。必要とされたら、今度こそ握り返す。
(……必ず、君を救ってみせる。ナギサ)
その決意は、未来を言い当てる予言ではなかった。
自分で選んだ、約束だった。
セイアは、戸口の向こうへ目を向けた。
水面には、眠りについたナギの姿が映っている。
彼は、こちらのことを知らない。
ナギサが初めて怒りを見せたことも、泣いたことも、紅茶を淹れたいと願ったことも。
そして、セイア自身がここで何を決めたのかも。
それでも、彼は現実でナギサの帰る場所を守ろうとしている。
ならば、自分は。
「……君が現実で、彼女の居場所を守ってくれるのなら」
セイアは、眠る友人の手をそっと握り直した。
「私は、ここで彼女の心を支えよう」
もちろん、相手の承諾など得ていない。
ナギはセイアの声を聞くこともできないのだから、今ここで何を宣言しても、完全な独り言だ。
少々、一方的すぎるだろうか。
そう思うと、なんだか可笑しくなった。
「……勝手ながら、君と同盟を結ばせてもらうよ。ナギ」
その言葉に返事はない。
けれど、隣ではナギサが穏やかな呼吸を続けていた。
窓のカーテンは、まだ指一本分しか開いていない。
扉も、閉じられたままだ。
それでいい。
いつか、あの子自身が扉を開けたくなる日まで。
セイアは、ここで待つつもりだった。
――こうして、当人の片方には知らされないまま。
夢の中の救済同盟は、ひっそりと結ばれたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
EX.1『夢の中の救済同盟』、上・中・下の全3話で完結です。
ナギサは、まだ現実へ戻れる状態ではありません。それでも、もう一度お茶を飲みたいと願えるところまで来ました。
そしてセイアは、本人に断りもなく、ナギと同盟を結んでしまったようです。
次回からは本編に戻ります。引き続きよろしくお願いします!