お労しいナギサ様へ   作:ムテケル

19 / 19
EX.1『夢の中の救済同盟』、いよいよ下編です!

中編の直後、同じ日の続きになります。
今回は本編第15・16話の裏側で、セイアとナギサが交わした言葉を描きました。

まだ大きな一歩は踏み出せなくても、小さな楽しみなら思い描けるかもしれない。
そんなお話です。



夢の中の救済同盟(下)

  ナギサの手は、まだセイアの手の中にあった。

 

 小屋の窓に掛かったカーテンは、指一本分だけ開いている。白い光が床を細く照らし、その先には、相変わらず出口の見えない夢の世界が広がっていた。

 

「……もう少し、ここにいてくれますか」

 

 ナギサは先ほど、そう言った。

 

 返事をするだけでも苦しそうだった少女が、自分から口にした願いだった。

 

「もちろんだとも。君に追い出されない限り、ここにいさせてもらうよ」

 

 少し冗談めかして答えると、ナギサの指がわずかに動いた。

 

 それが返事なのか、ただ身体が震えただけなのか、セイアには分からない。

 

 けれど、確かめようとは思わなかった。

 

 言葉を取り戻したからといって、心まで元に戻ったわけではない。ナギサは今も背中を丸め、何かに怯えるように膝を抱えている。

 

 少し前まで、誰の声も聞きたくないと耳を塞いでいたのだ。

 

 セイアは握った手を緩めた。離れたいと思ったら、いつでも離せるように。

 

 ナギサは手を引かなかった。

 

     ◇

 

 戸口の向こうで水面が揺れた。

 

 シャーレでの会談が終わり、先生とツルギ、ヒナがナギと顔を合わせている。端末を差し出し合い、これからの連絡について話しているらしい。

 

 ナギは笑っていた。

 

 その顔を見た途端、ナギサの手に力がこもった。

 

「……あんな……ふうに……」

 

「ナギサ?」

 

 少女は水面から目を離せないでいた。

 

 同じ身体。同じ声。同じ顔。

 

 けれど、あの人は、恐れずに人へ助けを求める。自分の弱さを隠そうともせず、初めて顔を合わせた相手にさえ自然に笑いかける。

 

(……私が、あそこにいたら)

 

 ナギサの胸に、答えの分かりきった問いが浮かんだ。

 

 きっと警戒していただろう。

 

 自分の顔をしているのに、自分よりずっと皆に必要とされている。

 

「……あの人の……方が……」

 

 そこで言葉は途切れた。

 

「ナギサ」

 

 セイアは、すぐには励まさなかった。

 

「彼が頼もしい人なのは、私もそう思うよ」

 

 ナギサの肩がびくりと動く。

 

「けれど、彼がどれほど上手に君の仕事をこなしても、私にとっては別の話なんだ」

 

「……べつ……?」

 

「私が会いたいのは、仕事のよくできるティーパーティーのホストじゃない。君だよ。困ると眉間に皺を寄せる、あのナギサと話がしたいんだ」

 

 ナギサは顔を上げなかった。

 

「……セイアさん……」

 

「うん?」

 

「……どうして……生きて……いたのに……」

 

 それだけ言って、ナギサは唇を噛んだ。

 

 セイアの表情が変わった。

 

 彼女がミネに保護され、再襲撃を避けるため身を隠した事情は、もう聞いている。けれど、説明を聞くことと受け入れることは別だった。

 

「……なぜ、知らせなかったのか。そう聞きたいんだね」

 

 ナギサは頷かなかった。

 

 頷けば責めてしまう。

 

 死んだと信じた友人に、そんなことを言っていいはずがない。

 

 ――でも。

 

(……生きていたのなら)

 

 あの日から、自分は何をしていたのだろう。

 

 セイアさんを殺した者を見つけなくては。

 

 それなのに、探していた友人は生きていて、自分の知らないところで守られていた。

 

(……どうして、ひとことだけでも……)

 

 そう考えた瞬間、ナギサは自分の口元を手で覆った。

 

 嫌だった。

 

 大好きな友人に対して、こんな感情を抱いてしまう自分が。

 

 生きていてくれた。それだけで喜べない自分が。

 

「……ごめ……なさい……」

 

 セイアが顔を上げる。

 

「……こんな……こと……思う……なんて……」

 

 ナギサは喉を詰まらせた。

 

「……怒っているのかい、私に」

 

 ナギサの身体が固まった。

 

「……ちが……」

 

「違わなくてもいいよ」

 

 セイアは急いで言葉を足さなかった。

 

「私は生きていた。その事実を君に伝えず、君が苦しんでいることも知っていた。……腹を立てられて当然だと思う」

 

「……でも……セイアさんは……危なかった……から……」

 

「ああ。それも本当だよ。だけど、君が傷つかなかったことにはならない」

 

 ナギサの視線が揺れた。

 

 責めてはいけない、と自分を縛っていた言葉が、行き場を失う。

 

「……わたし……セイアさんが……生きていて……」

 

 嬉しい。

 

 そう言いたかった。

 

 けれど、口を開けば別の言葉が出そうだった。

 

 それを言ってしまえば、もう友人でいられなくなるかもしれない。

 

「……わからない……です……」

 

 ようやく出たのは、それだけだった。

 

 セイアは静かに頷いた。

 

「……うん。今、答えを出さなくていい」

 

「……セイアさん……」

 

「君が怒るなら、私は話を聞くよ。泣きたくなったら、ここにいる。許してくれなくても、すぐに離れたりしない」

 

 ナギサは俯いた。

 

 セイアの手を握る力が、強くなった。

 

 しばらくすると、消え入りそうな声が聞こえた。

 

「……嫌いに……なりたく……ない……です……」

 

「……ああ」

 

 セイアは一度目を閉じた。

 

「私も、君を失いたくないよ」

 

 それ以上の言葉は、どちらからも出なかった。

 

     ◇

 

 次に景色が定まった時、ナギは救護騎士団の施設にいた。

 

 セリナが案内役を務め、ハナエがいつもの元気な声で出迎える。

 

「……ようやく診察を受けてくれるんだね」

 

 セイアは安堵した。

 

 現実のナギサの身体は、あの日から無理を重ねてきた。借りている身体だからこそ、ナギには大切にしてほしかった。

 

 その直後、隣で衣擦れの音がした。

 

 ナギサが身を縮め、両腕を強く抱き寄せている。

 

 水面には白い診察室が映っていた。

 

 薬について尋ねるセリナの姿。

 

 けれど、ナギサの呼吸は急に浅くなった。

 

(……いや……)

 

 思い出したくない。

 

 あの日の部屋。空になった薬瓶。何もかも終わらせたかった自分。

 

 それを今、別の誰かが診察の場で説明しているのだろうか。

 

 怖い。

 

「……見たく……ない……」

 

 ナギサが掠れた声を漏らした。

 

 セイアはすぐ、水面と彼女の間に身を置いた。

 

「分かった。もう見なくていいよ」

 

 夢の景色が薄れていく。

 

 それでも、ナギサは顔を上げなかった。

 

 セイアは抱き寄せようとして、手を止めた。

 

 触れられたいのか、それとも今は一人でいたいのか。以前のように、友人なのだから分かるはずだと決めつけることはしたくなかった。

 

「……ここに座っているよ。何かしてほしいことがあったら、教えておくれ」

 

 返事はなかった。

 

 やがて、ナギサが胸の前に抱えていた手を緩めた。

 

「……セイアさん……」

 

「うん?」

 

「……あの方……だいじょうぶ……ですか……」

 

 セイアは少しだけ驚いた。

 

「ナギの身体のことかい?」

 

 ナギサは頷く。

 

「……わたし……のせいで……」

 

 その先は聞かなくても分かった。

 

 責任という言葉が、彼女の中で何度も同じ傷をなぞっている。

 

「君は見なくていい。私が確かめてくるよ」

 

 セイアはひとりで戸口へ目を向けた。

 

 検査では、差し迫った処置を要する異常は見つからなかったらしい。ただし、セリナは経過を見ながら無理をしないよう、真剣な表情で伝えていた。

 

「……ひとまず、すぐに大きな問題が起きるような状態ではなさそうだ。今後も診てもらうそうだよ」

 

「……よかった……」

 

 ナギサは、その一言を口にしてから自分でも驚いたようだった。

 

「……ハナエが何か言っているよ」

 

 セイアが水面を見つめながら言った。

 

「……なんて……?」

 

「どうやらナギをもっと元気にする方法を思いついたらしい。セリナが慌てて止めているけれど」

 

「……ハナエさん……」

 

 ナギサは弱々しく眉を寄せた。

 

「……ほどほどに……して……ほしい……です……」

 

「まったくだね。今の彼を眠らせるつもりが、寝込ませてしまっては困る」

 

 セイアが肩をすくめると、ナギサの指先が膝の上で緩んだ。

 

     ◇

 

 帰り際、ナギはセリナへ封筒を預けた。

 

 宛名は、蒼森ミネ。

 

「……ミネへの手紙か」

 

 セイアは目を細めた。

 

 自分を守ってくれた救護騎士団の団長。ナギは、彼女に接触するための手掛かりを求めているようだった。

 

「……あの人は、思った以上に辛抱強いね」

 

 ナギサも、封筒が手渡されるところを見ていた。

 

「……セイアさん……」

 

「なんだい?」

 

「……あの方は……どうして……」

 

 そこで口を閉じる。

 

 どうして、ここまでしてくれるのだろう。

 

 自分にとって得になることなど、何一つないはずなのに。

 

 ナギサが口にできずにいる問いを、セイアも何度か考えていた。

 

「……本人に聞いてみたいね、いつか」

 

「……いつか……」

 

 ナギサはその言葉を繰り返した。

 

「……みなさんに……会うのは……」

 

 ナギサはそこで首を振った。

 

「……まだ……」

 

「……ああ。今は無理をしなくていい」

 

 それ以上、セイアは言わなかった。

 

 ナギサは少し迷ってから、そっと彼女の肩に寄りかかった。

 

 セイアは姿勢を変えず、その重みを受け止めた。

 

     ◇

 

 現実の空が暗くなり、窓の外には街灯がともった。

 

 夢の小屋には夜が来ない。

 

 それでも、ナギが帰宅して食事を取り、ようやく一日の仕事を終えようとしていることは、水面の景色から分かった。

 

「……やれやれ。明日くらいは、きちんと休んでほしいものだね」

 

 セイアが呟くと、思いがけない返事があった。

 

「……セイアさんも……」

 

「……ん?」

 

「……休んで……ください……」

 

 セイアは瞬きをした。

 

「……おや。私まで心配されてしまったか」

 

 ナギサは、視線を膝に落としたまま続けた。

 

「……いつも……無理を……」

 

「……参ったな」

 

 思わず、笑みが漏れた。

 

 これでは、昔の茶会に戻ったようだ。

 

 けれど、彼女は少しだけ顔を上げていた。

 

「……あの……」

 

「うん?」

 

「……セイアさん……困って……ます……?」

 

「……ああ。君に注意される日が来るとは思っていなかったからね」

 

 ナギサは答えず、再び俯いた。

 

 セイアはそれ以上、冗談を重ねなかった。

 

     ◇

 

 水面にナギサの寝室が映る。

 

 ナギはベッドに腰を下ろし、しばらく考え込むように俯いていた。

 

 やがて、胸元に手を当てる。

 

 その姿を見た途端、ナギサの呼吸が止まった。

 

『……ナギサ』

 

 声が届く。

 

 耳ではなく、心の奥に。

 

 セイアには聞こえない声。

 

 ナギが自分へ向けて語りかける時だけ、この暗い小屋へ届いてくる言葉だった。

 

『今日は、いろんな人と話したよ』

 

 ナギサは膝を抱き直した。

 

『君のことも、ちゃんと話した』

 

(……やめて……)

 

 条件反射のように、そう思った。

 

 皆に知られたくない。

 

 自分がどれほど弱かったか。どんなことをしたか。あの人が、今どんな苦労をしているのか。

 

 皆があの人を必要として、自分の帰る場所だけがなくなってしまう。

 

 そうなれば、ここへ逃げ込んだことさえ無意味になる。

 

(……なら、最初から……)

 

 考えかけて、ナギサは唇を噛んだ。

 

 あの人に感謝したいのか、いなくなってほしいのか。

 

 どちらも本心のようで、どちらも認めたくなかった。

 

『……俺には、君がどんな気持ちだったのか、全部分かるわけじゃない』

 

 ナギサは顔を上げた。

 

 それでも、何かを伝えようとしている。

 

『……君には、幸せになってほしいんだ』

 

「……っ」

 

 幸せ。

 

 自分にはもう関係のない言葉だと思っていた。

 

 思い出すのは、失ったと思っていた、何でもない日々ばかりだった。

 

(……そんなことを……)

 

 望んでしまったら。

 

 また、失った時に耐えられない。

 

 自分の判断を間違えたことも、ヒフミを疑ったことも、皆に背を向けたことも消えはしない。

 

 幸せになりたいなどと口にする資格が、今の自分にあるのだろうか。

 

 ナギサの手が、耳へ伸びた。

 

 けれど、その手は途中で止まった。

 

 もう聞きたくない。

 

 でも、今度は最後まで聞いてみたい。

 

 その二つの気持ちが、胸の中でぶつかった。

 

『……だから、もう少し待っててくれよ』

 

 その言葉に、ナギサは目を見開いた。

 

 今すぐ戻ってこい、ではない。

 

 頑張れば何とかなる、でもない。

 

 自分が帰ってこられる場所を整えるから、もう少し待っていてほしい、と。

 

(……待つ……?)

 

 そんな約束をして、何になるのだろう。

 

(……それでも……)

 

 その先を考えた途端、視界がぼやけた。

 

 ぽたり、と膝に涙が落ちた。

 

 一粒落ちれば、次の一粒が止まらない。

 

 悲しいのか、嬉しいのか。

 

 分からなかった。

 

 ただ、怖かった。

 

 待っていると言われたことが。幸せになってほしいと願われたことが。

 

 そして何より、その言葉を嬉しいと思ってしまった自分が。

 

「……ナギサ?」

 

 セイアの声がした。

 

 友人がこちらを見ている。

 

「……見ない……で……ください……」

 

「……分かった」

 

 セイアは視線を伏せた。

 

「私は隣にいる。けれど、君が嫌なら顔は見ないよ」

 

 それだけ言って、動かなかった。

 

 ナギサは声を殺そうとした。

 

 けれど、呼吸が乱れ、胸の奥から何度も苦しい音が漏れる。

 

「……ごめ……なさい……」

 

「……聞いているよ」

 

 セイアは謝らなくていいとは言わなかった。

 

 その言葉を何度繰り返しても、今のナギサには届かないと知っていたから。

 

 代わりに、手を差し出す。

 

 ナギサが掴むまで、待つ。

 

 やがて細い指が、セイアの手のひらに触れた。

 

「……触れてもいいかい?」

 

 ほんのわずかに、頷く気配がした。

 

 セイアは、彼女の肩を抱いた。

 

 ナギサはその腕の中で泣いた。

 

「……セイア……さん……」

 

「うん」

 

「……わたし……どう……したら……」

 

 セイアは答えを探しかけ、やめた。

 

 未来を見てきた自分にも、今ここで友人を笑顔にする正解は分からない。

 

「……今は、こうしていてくれればいいよ」

 

 肩に伝わる震えが収まるまで、ただ寄り添った。

 

     ◇

 

 涙が落ち着いた後、ナギサは疲れ切った顔をしていた。

 

 それでも、セイアの手を自分から離そうとはしない。

 

 長い沈黙の後、ナギサが小さな声を漏らした。

 

「……あの人の……声……」

 

「……ナギのことかい?」

 

 頷く。

 

「……わたしに……向けて……くれた時だけ……聞こえる……んです……」

 

 セイアは息を呑んだ。

 

 だから、これまで幾度もナギサが突然苦しみ出したのか。

 

 だから、自分には分からない瞬間に、誰かへ耳を塞いだのか。

 

「……そうだったんだね。気づけなくて、すまなかった」

 

 ナギサは首を横に振った。

 

「……最初は……嫌……でした……」

 

「……うん」

 

「……優しい……言葉を……聞くと……期待……して……しまう……から……」

 

 セイアは胸が締めつけられた。

 

「……それが、怖かったんだね」

 

 ナギサは、小さく頷いた。

 

「……いまも……こわい……です……」

 

「……ああ」

 

「……でも……」

 

 彼女は、水面へ目を向けた。

 

 ナギはもう眠る支度を終えている。

 

 こちらから声をかけても、きっと届かない。

 

 それでも。

 

「……いつか……あの人に……」

 

「……うん?」

 

「……ありがとう……って……言いたい……です……」

 

「……きっと、驚くだろうね」

 

 セイアが微笑んだ。

 

「彼は君から叱られるくらいの覚悟をしているみたいだから。ありがとうと言われたら、どういう顔をするのかな」

 

「……そんな……」

 

 ナギサの眉がわずかに動いた。

 

「……叱る……なんて……」

 

「……本当に?」

 

 セイアが首を傾げる。

 

「君の身体で無茶をしたら、ひとことくらい注意したくならないかい?」

 

「…………」

 

 ナギサは考え込んだ。

 

 そして、消え入りそうな声で答えた。

 

「……少し……だけ……」

 

「ふふっ。では、感謝の後に一つだけ小言を添えるといい」

 

     ◇

 

 カーテンの隙間から、細い光が差し込んでいる。

 

 セイアは窓辺へ目を向けた。

 

「……少し閉めようか?」

 

 ナギサは、長い間その光を見つめた。

 

「……そのまま……で……」

 

「……分かった」

 

「……セイアさん……」

 

「うん?」

 

「……もし……いつか……戻れたら……」

 

 ナギサは一度言葉を詰まらせ、それでも続けた。

 

「……みなさんと……お茶を……飲みたい……です……」

 

 セイアは、瞬きを忘れた。

 

「……ミカさんも……ヒフミさんも……それに……セイアさんも……」

 

 言い終えると、ナギサは不安げに視線を落とした。

 

「……でも……いまは……会えなくて……」

 

「……うん」

 

「……会っても……何を……話せば……」

 

 セイアは言葉が終わるのを待った。ミカのことを思えば、簡単に「すべて元どおり」とは約束できなかった。

 

「……分からない……です……」

 

「……そうだね。話したいことも、話さなければならないことも、きっとたくさんある」

 

「でもね、ナギサ」

 

 セイアは、ナギサの手をそっと包んだ。

 

「その時になってから、何を話そうか考えてもいいんじゃないかな。お茶会って、そんなに立派な理由がないと開けないものだったかい?」

 

「…………」

 

 ナギサは顔を上げた。

 

 セイアは肩をすくめた。

 

「私たち、いつも仕事の話ばかりしていたわけじゃないだろう? ミカのお菓子の食べ過ぎを止めたり、何でもない話をしたり……」

 

 そこで、セイアは一度言葉を切った。

 

「そんな時間も、私は好きだったよ」

 

 ナギサの瞳が揺れた。

 

 自分はいつも、何かと注意してばかりだった。

 

 でも、あの時間が嫌いだったわけではない。

 

(……ああ……)

 

「……その……時は……」

 

「うん?」

 

「……私が……紅茶を……淹れても……いい……ですか……?」

 

 セイアの喉が、熱くなった。

 

「……もちろんだとも。むしろ、ぜひお願いしたいな」

 

「……おいしく……淹れられるか……」

 

「そこは心配していないよ。君は昔から、紅茶には厳しかったからね」

 

 ナギサは弱々しく首を振った。

 

「……それは……セイアさんが……」

 

「……私が?」

 

「……冷めるまで……お話を……するから……です……」

 

 セイアは口を開けたまま固まった。

 

 そして、吹き出した。

 

「……ははっ。なるほど。では今度は、冷める前に飲み終えるようにしようか」

 

 ナギサは、少し困ったように眉を寄せた。

 

「……ミカさん……」

 

「うん?」

 

「……また……お砂糖を……入れすぎる……かも……」

 

「その時は砂糖壺を隠してしまおうか」

 

「……それは……怒られ……ます……」

 

「では、君が説得しておくれ。私は知らないふりをするから」

 

「……もう……」

 

 かすかな息が漏れた。

 

 笑った。

 

 ほんの一瞬、確かに。

 

 ナギサ自身も驚いているらしく、戸惑った顔でセイアを見ていた。

 

「……今のは、聞かなかったことにしておこうか?」

 

 ナギサは、しばらく迷ってから首を横に振った。

 

「……いい……です……」

 

 それ以上の会話は続かなかった。

 

 疲れが一度に押し寄せたのか、ナギサは肩を落とし、セイアの方へ身体を預けてくる。

 

 セイアは、その重みを受け止めた。

 

 ナギサの目元には、まだ涙の跡が残っていた。

 

 それでも、今の彼女が一度笑ったことを、セイアは忘れたくなかった。

 

     ◇

 

 やがて、ナギサの呼吸が落ち着いた。

 

 眠ったのか、それとも目を閉じているだけなのか。セイアには分からなかった。

 

 小屋の中には、外から差す細い光だけが残っている。

 

 まだ、救えたわけではない。

 

 ナギサは今も、現実へ戻ると言えずにいる。誰かを信じることも、自分自身を許すことも、きっと長い時間が必要だ。

 

 それでも。

 

 あの子は今日、怒ってもいいと知り、泣くことができた。

 

 誰かに感謝したいと願い、いつか紅茶を淹れたいと口にした。

 

 そして、ほんの一瞬だけ笑った。

 

(……ああ)

 

 セイアは目を閉じた。

 

 自分は、未来を見ることができた。

 

 その力を持ちながら、恐ろしい結末ばかりを見つめ、やがて身動きが取れなくなった。

 

 間違えない選択を探すあまり、何も選べずにいた。

 

 ナギサが追い詰められていくのを見ていたのに、声をかける勇気すら持てなかった。

 

 けれど。

 

 水面に映るナギは、違った。

 

 彼もまた、これから起こり得る悲劇を知っている。

 

 それでも、誰か一人を切り捨てるのではなく、先生やツルギ、ヒナたちと共に道を探そうとしている。

 

 先ほど先生が口にした、第三の選択肢。

 

 正解を一人で見つけることではない。

 

 正解が分からない時、誰かの手を取って一緒に考えること。

 

 それが、今の自分にもできることなのかもしれない。

 

(……私は、もう逃げない)

 

 ナギサがまた口を閉ざしても。

 

 今日の約束を怖がる日が来ても。

 

 そのたびに、隣へ座ればいい。

 

 手を伸ばして、拒まれたら待つ。必要とされたら、今度こそ握り返す。

 

(……必ず、君を救ってみせる。ナギサ)

 

 その決意は、未来を言い当てる予言ではなかった。

 

 自分で選んだ、約束だった。

 

 セイアは、戸口の向こうへ目を向けた。

 

 水面には、眠りについたナギの姿が映っている。

 

 彼は、こちらのことを知らない。

 

 ナギサが初めて怒りを見せたことも、泣いたことも、紅茶を淹れたいと願ったことも。

 

 そして、セイア自身がここで何を決めたのかも。

 

 それでも、彼は現実でナギサの帰る場所を守ろうとしている。

 

 ならば、自分は。

 

「……君が現実で、彼女の居場所を守ってくれるのなら」

 

 セイアは、眠る友人の手をそっと握り直した。

 

「私は、ここで彼女の心を支えよう」

 

 もちろん、相手の承諾など得ていない。

 

 ナギはセイアの声を聞くこともできないのだから、今ここで何を宣言しても、完全な独り言だ。

 

 少々、一方的すぎるだろうか。

 

 そう思うと、なんだか可笑しくなった。

 

「……勝手ながら、君と同盟を結ばせてもらうよ。ナギ」

 

 その言葉に返事はない。

 

 けれど、隣ではナギサが穏やかな呼吸を続けていた。

 

 窓のカーテンは、まだ指一本分しか開いていない。

 

 扉も、閉じられたままだ。

 

 それでいい。

 

 いつか、あの子自身が扉を開けたくなる日まで。

 

 セイアは、ここで待つつもりだった。

 

 ――こうして、当人の片方には知らされないまま。

 

 夢の中の救済同盟は、ひっそりと結ばれたのだった。

 




ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

EX.1『夢の中の救済同盟』、上・中・下の全3話で完結です。

ナギサは、まだ現実へ戻れる状態ではありません。それでも、もう一度お茶を飲みたいと願えるところまで来ました。
そしてセイアは、本人に断りもなく、ナギと同盟を結んでしまったようです。

次回からは本編に戻ります。引き続きよろしくお願いします!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

【急募】元宮チアキって何すればいいんですか?(作者:元宮愛好人間)(原作:ブルーアーカイブ)

元宮チアキって子に転生したらしいけどブルアカをふわっとした知識でしか知らないぜ!▼そんな転生者がスレに助けを求めながら頑張る話▼スレ民曰く、そこまで大変な役回りじゃないらしいから大丈夫だと思う……何かマコトとサツキの様子がおかしいけど、たぶん大丈夫!


総合評価:968/評価:7.78/連載:9話/更新日時:2026年09月23日(水) 08:03 小説情報

転生した美少女は、ティーパーティの懐刀(作者:河童も筆から落ちる)(原作:ブルーアーカイブ)

目が覚めたら赤ちゃんになっちゃった!?▼しかもここキヴォトス!?▼しかもトリニティ!?▼あっティーパーティ可愛いやったー▼そんな彼女が原作知識を使用し、キヴォトスを満喫する物語▼


総合評価:423/評価:8.8/連載:1話/更新日時:2026年08月20日(木) 11:36 小説情報

月白玲は、今日も意味深である。(作者:モレ(一般人?))(原作:ブルーアーカイブ)

 気がつけば、憧れのキヴォトスで銀髪の美少女・月白玲に転生していた。せっかく美少女になったのだから、少しくらい謎めいた存在を演じてみたい。そんな軽い気持ちで意味深な言葉を口にしていたら、なぜか周囲が勝手に深読みを始めてしまい……。▼ これは、謎の美少女を気取りたいだけの能天気な少女が、知らぬ間にキヴォトス中から注目されていく、勘違いの物語。


総合評価:636/評価:7.86/連載:11話/更新日時:2026年10月13日(火) 21:22 小説情報

僕は無邪気な夜の希望なんだから(作者:プレイアデス)(原作:ブルーアーカイブ)

転生したはいいけど聖園ミカになっていた一般ピープルの話。▼ただし、転生前にミカに脳を焼かれ、病死している点を留意されたし。▼※ブルアカ初心者の作品です。当たって砕けろで書いているので間違いがあるかもしれません。どしどし報告してね。▼ タグの『AI本文利用』は、全体的な表現の推敲のためです。物語や設定等は関わらせていませんので、ご理解のほどお願いします。


総合評価:628/評価:8.71/連載:8話/更新日時:2026年09月23日(水) 00:00 小説情報

転生羊少女は今日も眠い(作者:恋する夜空)(原作:ブルーアーカイブ)

羊みたいな特徴を持つ子ってブルーアーカイブにはいないよねってことで書きましたがなにぶん初投稿ですのでご容赦ください▼10月10日 曇らせ 残酷な描写 タグ追加


総合評価:2953/評価:8.06/連載:10話/更新日時:2026年10月12日(月) 22:17 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>