お労しいナギサ様へ   作:ムテケル

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第20話です!

今回はナギの過去にも触れるため、いつもより少し長めのお話となっています。

そして、その過去はかなり重めです。前回との温度差がすごいことになっていますが……。

最後までお楽しみいただければ幸いです!


夢の続きと、始まりの日

 ――寒い。

 

 窓の隙間から、冷たい風が入り込んでくる。

 

 壁には染みが広がり、使い古された家具が並ぶ、小さな部屋。

 

(……ああ、懐かしいな)

 

 ここは、日本。

 

 俺が生まれ育った家だ。

 

 俺が生まれた家は裕福とは、お世辞にも言えなかった。

 

 欲しいものは簡単に買えず、冬には暖房代すら気にするような生活。

 

 それでも、両親は俺を大切に育ててくれた。

 

 そんな家庭に生まれた俺には、一つだけ、周囲と大きく違うところがあった。

 

 ――頭が良すぎたのだ。

 

 幼い頃に受けた知能検査では、大人たちが何度も結果を確認するほどの数値が出た。

 

 当時の俺には、その意味がよく分からなかった。

 

 ただ、一つ教えてもらえば、その先の十まで自然と理解できた。

 

 そして、他の人もそうなのだと思っていた。

 

 ……それが、間違いの始まりだった。

 

     ◇

 

『……だから、こうすればいいんだよ』

 

『え? 何で?』

 

『ここをこうして、こっちに持っていけば終わりじゃん』

 

『……だから、何でそうなるの?』

 

『え? だって、見れば分かるでしょ?』

 

 その瞬間。

 

 目の前の同級生の顔が歪んだ。

 

『……は?』

 

『……え?』

 

『お前、それわざと言ってんの?』

 

『何が?』

 

『俺が馬鹿だから分かんないって言いたいんだろ!』

 

『ち、違うよ!』

 

『じゃあ何で、分かんないって言ってんのに同じことしか言わないんだよ!』

 

 同級生は、プリントを乱暴に掴んだ。

 

『もういい! お前になんか聞かなきゃよかった!』

 

『……待って』

 

『うるさい!』

 

 そのまま、走り去ってしまった。

 

(……何で怒ったんだろう?)

 

 当時の俺には、分からなかった。

 

 俺の頭の中では、一から十までが自然と繋がっていた。

 

 だから、最初の一つさえ伝えれば、相手も理解できると思っていた。

 

 ……けれど。

 

 当然、そんなわけはない。

 

 俺が一しか説明していないことに、俺自身が気づいていなかったのだ。

 

 そして、そのすれ違いは、少しずつ大きくなっていった。

 

『あ、天才様が来た』

 

『今日も百点なんでしょ?』

 

『いいよねー、勉強しなくてもできるやつは』

 

『……そんなことないよ』

 

『はいはい。どうせ俺らとは頭の出来が違うんだもんな』

 

 最初は、そんな言葉だった。

 

 少し嫌な感じはしたけれど、冗談なのだと思っていた。

 

 だから、俺も笑おうとした。

 

 ……でも、だんだん笑えなくなっていった。

 

『お前さ、何でいつも先生に褒められてんの?』

 

『……分かんない』

 

『そういうのがムカつくんだよ』

 

『……ごめん』

 

『何で謝るの? 俺らが馬鹿だって思ってるから?』

 

『ち、違う!』

 

『じゃあ黙ってろよ』

 

 そう言われて、黙るようになった。

 

 すると今度は。

 

『見て、また一人で本読んでる』

 

『俺らと話すのが嫌なんだろ』

 

『天才様は普通の人間と話したくないんだってさ』

 

 ……どうすればいいのか、分からなくなった。

 

 話しても駄目。

 

 黙っていても駄目。

 

 勉強で良い点を取れば嫌がられ、わざと間違えれば馬鹿にしていると言われた。

 

 やがて、嫌がらせも始まった。

 

 机に書かれた『天才様』の文字。

 

 隠された筆箱。

 

 床に落とされたノート。

 

『あ、ごめーん。気づかなかった』

 

 笑いながら、ノートを踏まれた。

 

『……返して』

 

『え? 何?』

 

『……ノート』

 

『天才なんだから、そんなのなくても平気でしょ?』

 

 ……ああ。

 

 あの時は、本当に嫌だったな。

 

 新しいノートを買うのだって、家では簡単なことじゃなかったから。

 

 だから、汚れたページを一枚ずつ拭いて、破れたところをテープで直した。

 

 父さんと母さんには、何も言えなかった。

 

 二人とも、仕事で疲れている。

 

 これ以上、心配をかけたくなかった。

 

 それに。

 

(……俺が、ちゃんとできないから)

 

 当時は、そう思っていた。

 

     ◇

 

 ……もちろん。

 

 俺だって、何も考えなかったわけじゃない。

 

 何度も同じことが起これば、原因くらい考える。

 

 自分が話した言葉を思い出し、相手が理解できなかった部分をノートに書き出してみた。

 

 すると、気づいたことがあった。

 

(……あれ?)

 

 俺が説明していたのは、最初の一と、最後の十だけだった。

 

 途中の考え方を、ほとんど話していなかったのだ。

 

(……そっか)

 

 ようやく分かった。

 

 俺には当たり前でも、相手にはそうじゃない。

 

 途中の九つも、ちゃんと言葉にしなければ伝わらない。

 

(……何だ。そんなことだったのか)

 

 その時は、本当に嬉しかった。

 

 原因が分かったのだから。

 

 だったら、直せばいい。

 

 これで、またみんなと話せる。

 

 そう思った。

 

 ……思ってしまった。

 

『……あのさ』

 

 翌日。

 

 俺は、以前一緒に勉強していた同級生へ話しかけた。

 

『……何?』

 

『この前の問題なんだけど、俺、ちゃんと説明できてなかったみたいで……』

 

『……は?』

 

『今度は、分かるように順番に書いてきたんだ』

 

 ノートを差し出す。

 

 前の晩、何度も書き直したものだった。

 

 どこから説明すれば伝わるのか。

 

 相手が分からなかったところは、どこだったのか。

 

 自分なりに、一生懸命考えた。

 

『だから、よかったら――』

 

『……もういいって』

 

『……え?』

 

『何? まだ俺のこと馬鹿にしたいわけ?』

 

『ち、違う! そうじゃなくて……』

 

『もうお前に教えてもらいたくないんだよ!』

 

『…………』

 

『お前と話してると、俺が馬鹿みたいになるんだもん』

 

 その言葉に、何も返せなかった。

 

『……ごめん』

 

『だから、そういうのがウザいんだって』

 

 同級生は、差し出したノートを押し返した。

 

『もう話しかけてこないで』

 

 ……あ。

 

 そっか。

 

 そう、なんだ。

 

 それからも、何度か話しかけようとした。

 

 けれど、俺が近づくだけで、みんな離れていった。

 

『お前、何でまだこっち来るの?』

 

『……え?』

 

『もう一緒に遊ばないって言ったじゃん』

 

『……でも』

 

『しつこいんだよ』

 

 かつて一緒に遊んでいた子が、こちらを睨んだ。

 

『お前と一緒にいると、俺まで変なやつって言われるんだよ』

 

『…………』

 

『だから、もう友達じゃないから』

 

 ……その時。

 

 何かが、音を立てて壊れた気がした。

 

 俺が何を間違えていたのか。

 

 どうすれば伝わるのか。

 

 全部、分かったのに。

 

 今度こそ、ちゃんと話せると思ったのに。

 

 ……遅かった。

 

 もう、誰も俺の話を聞こうとはしてくれなかった。

 

(……もう、駄目なの?)

 

 答えは、何も返ってこなかった。

 

 それから、俺は学校でほとんど話さなくなった。

 

 休み時間には、一人で本を読んだ。

 

 昼休みも、一人だった。

 

 班を作る授業では、最後まで残ることが増えた。

 

『……あいつ、一人でいいじゃん』

 

『頭いいんだし、全部できるだろ』

 

 ……そうだね。

 

 俺、一人でもできるよ。

 

 問題を解くことなら。

 

 勉強することなら。

 

 きっと、みんなより早く終わらせられる。

 

 ……でもさ。

 

(……誰かと、一緒にやりたかったな)

 

 そんなことを思っていた。

 

     ◇

 

 ――場面が変わる。

 

 夕暮れの、小さな食卓。

 

 そこには、父さんと母さんがいた。

 

『……じゃあ、ここまでは分かる?』

 

『うん。そこまでは大丈夫だよ』

 

『じゃあ、次は?』

 

『……ごめんな。もう少し詳しく頼む』

 

『……うん』

 

 俺がノートを指さしながら説明すると、父さんが頷く。

 

 隣では、母さんがじっと話を聞いていた。

 

 ……ああ。

 

 そうだったな。

 

 二人は、俺の考えていることを全部理解できたわけじゃなかった。

 

 でも、理解しようとしてくれた。

 

 俺が一つしか説明していなくても。

 

 途中で話が飛んでしまっても。

 

 何度でも、聞き返してくれた。

 

『……もう一回、最初からいい?』

 

『うん』

 

『ありがとう。じゃあ、お願い』

 

 どこまでなら一度に伝わるのか。

 

 どこから説明すれば分かってもらえるのか。

 

 一つずつ、二人と確かめていった。

 

 ……本当に、根気のいる作業だったと思う。

 

 仕事で疲れている日だってあったはずなのに。

 

 それでも、俺の話を聞いてくれた。

 

 ある日。

 

『……父さん』

 

『ん?』

 

『……俺の話、面倒くさくない?』

 

 そう聞いたことがあった。

 

 父さんは、少し驚いた顔をした。

 

『……どうして?』

 

『だって、何回も説明しないと分かんないでしょ』

 

『……まあ、そうだな』

 

『…………』

 

『でも、お前が話してくれるの、父さんは嬉しいぞ』

 

『……え?』

 

『お前が何をそんなに楽しんでるのか、父さんも知りたいからな』

 

 母さんも笑った。

 

『そうよ。分からないことがあったら、何度だって聞くわ』

 

『……本当に?』

 

『もちろん』

 

 母さんは、俺の頭に手を置いた。

 

『だって、あなたの話だもの』

 

 ……ああ。

 

 そうだった。

 

 俺の話を理解できなくても。

 

 俺自身を理解しようとしてくれる人は、いたんだ。

 

     ◇

 

 そして、もう一人。

 

 学校でのことを知り、俺を気にかけてくれた大人がいた。

 

『……どうした?』

 

 夕暮れの静かな部屋。

 

 俺は、その人の前で俯いていた。

 

『今日は、元気がないな』

 

『……別に』

 

『そうか』

 

 その人は、無理に聞き出そうとはしなかった。

 

 ただ、机の上に置かれたノートを手に取った。

 

『……これ、全部自分で考えたのか?』

 

『……うん』

 

『そうか。すごいな』

 

『…………』

 

『ここの説明、もう少し詳しく聞いてもいいか?』

 

『……いいけど』

 

 俺は、ノートを開いた。

 

 いつものように、途中を飛ばさないように気をつけながら説明する。

 

 その人は、分からないところがあれば質問してくれた。

 

 そして。

 

『……ああ、なるほど!』

 

 その人が、嬉しそうに笑った。

 

『今の説明なら、俺にも分かったよ』

 

『……本当?』

 

『ああ。すごく分かりやすかった』

 

 ……嬉しかった。

 

 でも。

 

『……ねえ』

 

『ん?』

 

『……俺、ちゃんと説明できるようになったんだよ』

 

『うん。そうだな』

 

『前は、全然駄目だったけど……』

 

『うん』

 

『今は、ちゃんと考えて話せるようになったんだ』

 

『……そうだな』

 

『……なのに』

 

 声が、震えた。

 

『……誰も、聞いてくれないんだ』

 

『…………』

 

『もう間違えないようにしたのに』

 

 言葉が、うまく出てこなくなる。

 

『ちゃんと分かるように書いて、何回も練習したのに……』

 

『……うん』

 

『……みんな、もう俺と話したくないって』

 

 ぽたり。

 

 ノートに、水滴が落ちた。

 

『……何で』

 

 自分の声が、ひどく小さく聞こえた。

 

『俺、どうしたらよかったの……?』

 

 ……ああ。

 

 そうだったな。

 

 あの日の俺は。

 

 初めて、誰かにそう聞いたんだった。

 

『……もっと早く気づいてたら、よかったのかな』

 

『…………』

 

『もっと普通だったら、みんなと仲良くできたのかな』

 

 その人は、すぐには答えなかった。

 

 しばらくして、静かに口を開いた。

 

『……分からないな』

 

『…………』

 

『どうすればよかったのか、俺にも全部は分からない』

 

『……そっか』

 

『でも、一つだけ分かることがある』

 

 顔を上げる。

 

『君の説明が足りなかったことと、君がいじめられていいかどうかは、まったく別の話だよ』

 

『…………』

 

『伝え方は、これからも練習できる。君はもう、随分上手になった』

 

 その人は、優しく笑った。

 

『でも、相手が聞こうとしてくれなければ、君一人ではどうにもできないことだってある』

 

『……じゃあ』

 

 声が、震える。

 

『……もう、友達には戻れないの?』

 

 その人は、少しだけ目を伏せた。

 

『……今すぐは、難しいかもしれないな』

 

『…………』

 

 ……そうだよな。

 

 分かってた。

 

 そんなこと。

 

 俺が一番、よく分かってた。

 

 だって、何度も話しかけたんだから。

 

 何度も、何度も。

 

 ……それでも。

 

『……俺、友達が欲しかっただけなのに』

 

 その言葉を口にした瞬間。

 

 もう、我慢できなかった。

 

 涙が、次々と零れ落ちた。

 

『……一緒に遊びたかっただけなのに……』

 

 その人は、何も言わなかった。

 

 ただ、俺の話を聞いてくれた。

 

 そして。

 

 ぽん。

 

 頭に、温かい手が置かれた。

 

『……よく頑張ったな』

 

 優しく、頭を撫でられる。

 

『もう、一人で全部何とかしようとしなくていいんだよ』

 

 ……ああ。

 

 温かい。

 

『君には、ちゃんと味方がいるんだから』

 

 その言葉が、どうしようもなく嬉しくて。

 

 俺は――。

 

     ◇

 

「……っ」

 

 目が覚めた。

 

 見慣れた天井。

 

 柔らかなベッド。

 

 上品な家具の並ぶ、広い寝室。

 

(……夢、か)

 

 ゆっくりと身体を起こし、頬に触れる。

 

 ……濡れていた。

 

(……はは)

 

 まさか、今になってあんな夢を見るとはな。

 

 もう何年も、思い出すことなんてなかったのに。

 

(……懐かしいなぁ)

 

 あの頃は、本当に辛かった。

 

 でも。

 

 俺は、恵まれていたと思う。

 

 父さんも母さんも、あの人も。

 

 俺のことを理解しようとしてくれた。

 

 あの人たちがいなければ、今の俺はいなかっただろう。

 

 成長するにつれて、相手に合わせて説明することも自然にできるようになった。

 

 大人になる頃には、昔の癖はすっかりなくなっていた。

 

 ……まあ、社会人になってからは別の失敗もしたけど。

 

(……報連相、か)

 

 先生たちにも話した、あの失敗談を思い出す。

 

 自分で解決できると思って報告を後回しにし、周囲に迷惑をかけたこと。

 

 誰かに分かるように説明することと、必要な時に情報を共有すること。

 

 その両方が大切なのだと、社会に出てから改めて学んだ。

 

(……本当に、色々な人に助けられてきたな)

 

 ありがとう。

 

 もう会えるか分からない、かつての家族や恩人たちへ、心の中で呟く。

 

 ……ちゃんと、伝えられていたかな。

 

 そんなことを考えていると、ふと先日の出来事が頭をよぎった。

 

(……ハナコ、か)

 

 あの子との会話は、本当に楽しかった。

 

 一つ言えば、その先まで理解して返してくる。

 

 こちらも負けじと考えて、また言葉を返す。

 

 昔の俺が、ずっと求めていたような時間だった。

 

 ……ただ。

 

(……考えてみれば、俺とは正反対なんだよな)

 

 俺は、頭が良いことを疎まれた。

 

 ハナコは、頭が良いからこそ期待を押し付けられた。

 

 俺は、才能を見せるなと遠ざけられた。

 

 ハナコは、才能を見せろと求められた。

 

(……皮肉なもんだな)

 

 正反対の経験をしてきたのに、どちらも本来の自分を隠すようになった。

 

 ……もっとも。

 

 俺は、周りの人たちのおかげで、もう乗り越えられたけど。

 

 ハナコには、ハナコの事情がある。

 

 俺が勝手に何かを決めるつもりはない。

 

 ただ。

 

(……あの子も、褒められたっていいよな)

 

 先日、ハナコの頭を撫でたことを思い出す。

 

 昔、あの人が俺にしてくれたように。

 

 あの子の優しさを、ただ認めてあげたかった。

 

(……なんてな)

 

 少し照れくさくなり、思わず笑った。

 

 それにしても、あの時のハナコの顔。

 

 いつもの余裕がなくなって、随分と驚いていたな。

 

(……また話したいな)

 

 今度は、どんなやり取りになるだろう。

 

 そんなことを考えていると、自然と気分が明るくなってきた。

 

「……さて!」

 

 両手で軽く頬を叩く。

 

 いつまでも昔のことを考えている場合じゃない。

 

 今日は、重要な日なのだから。

 

(……補習授業部、いよいよ開始だ!)

 

     ◇

 

 身支度を済ませ、朝食を取る。

 

 今日の予定を確認すると、先生がトリニティを訪れるのは昼過ぎだった。

 

 補習授業部の顧問を正式にお願いするためだ。

 

 もっとも、先生にはすでに相談を済ませ、了承もいただいている。

 

 俺の正体を含めて、事情もある程度は知っている。

 

 今回は正式な手続きと、今後の予定を確認するだけで済むだろう。

 

(……問題は、ミカなんだよな)

 

 先生とは今日が初対面。

 

 原作では、ここでちょっとした騒動が起きるのだが……。

 

(……いや、今回は短い会談だし、大丈夫だろ)

 

 そう自分に言い聞かせ、端末を手に取る。

 

 画面には、先日のミレニアム訪問に関する連絡が残っていた。

 

(……あっちも色々あったなぁ)

 

 ミレニアムでの出来事を思い返す。

 

 まさか、アリスに会えるとは思わなかった。

 

 ゲームの中で見ていたあの子と、実際に話せたのは素直に嬉しかったな。

 

 ……それに、リオにも会った。

 

(……まったく、予想外のことばかりだったな)

 

 色々と思い出すことはあるが、今は今日の予定に集中しよう。

 

 端末を閉じ、椅子から立ち上がる。

 

(……よし。行くか)

 

     ◇

 

 ティーパーティーの会場へ向かうと、すでにミカが来ていた。

 

「あっ、ナギちゃん!」

 

「ごきげんよう、ミカさん」

 

「ごきげんよう!」

 

 ミカが嬉しそうに手を振ってくる。

 

 ……うん。

 

 今日も元気そうだ。

 

「ねえねえ、今日ってシャーレの先生が来る日だよね?」

 

「ええ。もうすぐいらっしゃる予定ですよ」

 

「そっかぁ!」

 

 ミカは楽しそうに笑った。

 

「どんな人なんだろうね、先生って!」

 

「ミカさんは、まだお会いしたことがないんでしたね」

 

「うん! ナギちゃんはもう会ったんでしょ?」

 

「ええ。以前、シャーレを訪問した際に」

 

「いいなー!」

 

 ミカが身を乗り出した。

 

「ねえ、どんな人だった? 怖い人? それとも優しい人?」

 

「……そうですね」

 

 少し考える。

 

「とても優しい方でしたよ。生徒のことを第一に考えてくださる、信頼できる大人だと思います」

 

「へえー!」

 

 ミカの顔が明るくなった。

 

「じゃあ、私も仲良くなれるかな?」

 

「ええ。きっと仲良くなれますよ」

 

「やった!」

 

 ミカが嬉しそうに笑う。

 

(……本当に楽しみなんだな)

 

 まだ会ったこともない先生に、随分と期待しているようだ。

 

 まあ、気持ちは分かる。

 

 俺だって、初めて先生と会った時は結構感動したしな。

 

「……でもさ、ナギちゃん」

 

「はい?」

 

「先生って、どんな生徒の話でも聞いてくれるのかな?」

 

「……どんな、と言いますと?」

 

「うーん……」

 

 ミカは、少し考えるように首を傾げた。

 

「例えばさ、すっごく悪いことをした子とか?」

 

 その言葉に、俺はミカを見た。

 

 彼女は、いつもどおり笑っていた。

 

 けれど、その声には先ほどまでの明るさがなかった。

 

(……なるほど)

 

 ……心当たりはある。

 

 というか、心当たりしかない。

 

 実はこの数日、俺はミカの動きをそれとなく探っていた。

 

 確認できる範囲の公務記録や、警備報告。

 

 その中には、彼女の行動と噛み合わない箇所がいくつかあった。

 

 そして、セイアが襲撃された前後にも。

 

 原作知識と照らし合わせれば、答えはほとんど出ている。

 

(……やっぱり、ミカは関わっているんだろうな)

 

 今では、ほぼ確信している。

 

 ただ、彼女が実際にどこまで関わり、何を知っているのか。

 

 そこまでは、まだ確かめられていない。

 

(……さて)

 

 目の前のミカは、こちらの返事を待っている。

 

 なら、俺が伝えたいことを伝えよう。

 

「……先生でしたら、きっと救ってくださいますよ」

 

「……え?」

 

 ミカが瞬きをした。

 

「救って、くれるの?」

 

「ええ」

 

 俺は頷いた。

 

「過去にどれほど大きな間違いをしていたとしても、今、そのことを悔やんで助けを求めているのなら、先生はきっと手を差し伸べてくださると思います」

 

「…………」

 

 ミカは、しばらく俺を見つめていた。

 

 やがて、ぽつりと呟く。

 

「……でもさ、先生にだって、できないことはあるんじゃない?」

 

「もちろん、あると思います」

 

「……そうなんだ」

 

「ええ。先生も、お一人ですから」

 

 俺は微笑んだ。

 

「ですから、もし先生お一人では手が足りないのなら、私たちも一緒に救えばいいんですよ」

 

「……私たち?」

 

「ええ」

 

 ミカの目を見つめる。

 

「先生だけに、何もかも背負っていただく必要はありませんから」

 

「…………」

 

「助けを求めてくれる子がいるのなら、私はその手を取りたいと思っています」

 

 ミカの目が、わずかに見開かれた。

 

「……ナギちゃん」

 

「はい?」

 

「……本当に、そう思ってる?」

 

「もちろんです」

 

 迷わず答える。

 

 それは、決して綺麗事だけではない。

 

 アリウスの生徒たちを救うために、今まで準備を進めてきたのだから。

 

 ……もちろん、ミカだって例外じゃない。

 

「……そっか」

 

 ミカが、小さく笑った。

 

「……ナギちゃんって、優しいね」

 

「そうでしょうか?」

 

「うん……」

 

 その笑顔が、ほんの一瞬だけ曇る。

 

 けれど、すぐにいつもの表情へ戻った。

 

「……ねえ、ナギちゃん」

 

「はい?」

 

「最近さ、ナギちゃんって、なんか変わったよね」

 

「……そうでしょうか?」

 

「うん。前はもっと慎重だったのに、今は何ていうか……」

 

 ミカが、こちらの顔をじっと見つめる。

 

「思い切りが良くなったっていうか」

 

「…………」

 

「エデン条約を延期した時も驚いたけど、今だってそうだよ。悪いことをした子でも救うって、そんなに迷わず言っちゃうんだもん」

 

(……あ)

 

 まずい。

 

 少し、前のめりになりすぎたかもしれない。

 

 俺の中では当然の選択でも、本物のナギサなら、もう少し慎重に言葉を選んでいたかもしれない。

 

「……ねえ、ナギちゃん」

 

「……何でしょう?」

 

 ミカが、いたずらっぽく笑った。

 

「もしかして、影武者だったりして?」

 

(……っ!?)

 

 心臓が跳ねた。

 

 ……いや、落ち着け。

 

 冗談だ。

 

 ミカの表情を見る限り、本気で疑っているわけじゃない。

 

 ……多分!

 

「……ふふっ。私が影武者なわけないじゃないですか、ミカさん」

 

 できる限り、いつもどおりの声で答える。

 

「えへへっ、だよねー!」

 

 ミカが笑った。

 

「ナギちゃんが別人なんて、そんなわけないもんね!」

 

「……もちろんです」

 

(……あっぶねぇぇぇ!!)

 

 危なかった!

 

 本当に危なかった!

 

 いや、考えてみれば当然だ。

 

 ミカは、本物のナギサと長い付き合いがある。

 

 最近の俺の変化に、違和感を覚えていても不思議じゃない。

 

(……ちょっと、調子に乗りすぎたな)

 

 それにしても、あっさり引き下がってくれて助かった。

 

 今のミカは、セイアとアリウスの件で頭がいっぱいなのだろう。

 

 だから、俺の変化に気づいても、深く考える余裕まではない。

 

(……もし、あの件がなかったら)

 

 もっと詳しく追及されていたかもしれない。

 

 そう考えると、背筋が冷たくなる。

 

 ……もちろん、こんな理由で助かったことを喜べるわけじゃないけど。

 

「……でもさ」

 

「……はい?」

 

 ミカが、ぽつりと呟いた。

 

「……人って、変わるものだよね」

 

「…………」

 

 先ほどまでの笑顔が、少しだけ曇っていた。

 

「……ミカさん?」

 

「……ううん。何でもない」

 

 そう言って、ミカは視線を落とした。

 

 その先には、誰も座っていない席があった。

 

「……セイアちゃんがいたら、今日のこと、どう思ったかな」

 

「…………」

 

「ふふっ。きっと、先生のことを色々聞きたがったよね」

 

「……そうですね」

 

 俺は静かに答えた。

 

 ミカは、空席を見つめたまま黙り込んでいる。

 

 その横顔は、ひどく寂しそうだった。

 

(……ミカ)

 

 セイアの話題になると、ミカは決まって表情を変える。

 

 この数日、意識して様子を見ていたからだろうか。

 

 今では、その小さな変化にも気づけるようになっていた。

 

(……後悔している、のかな)

 

 そうであってほしい。

 

 だが、本人から聞いたわけじゃない。

 

 俺が望む答えを、勝手に当てはめるつもりはなかった。

 

「……ミカさん」

 

「……あっ」

 

 声をかけると、ミカは慌てたように顔を上げた。

 

「ごめんごめん! ちょっと考え事しちゃった!」

 

「……いえ。お気になさらないでください」

 

「……うん」

 

 ミカが笑う。

 

 ……今なら、何か聞けるかもしれない。

 

 けれど。

 

(……いや、今はやめておこう)

 

 無理に聞き出したところで、何も解決しない。

 

 こちらも準備を進めながら、その時を待てばいい。

 

「それにしても、ミカさん」

 

「ん?」

 

「先生とお話ししたいお気持ちは分かりますが、まずは正式な会談がありますからね?」

 

「えー?」

 

「えー、ではありません」

 

「分かってるってば!」

 

 ミカが笑いながら頷いた。

 

「私だって、ちゃんとできるもん!」

 

(……本当かぁ?)

 

 その言葉には、少々不安が残る。

 

 ……まあ、今は信じるしかないか。

 

 その時だった。

 

 ――ぶるっ。

 

 小さな振動音が聞こえた。

 

「……あっ」

 

 ミカが、テーブルに置いていた端末を手に取る。

 

 画面を確認した瞬間。

 

 その表情が、わずかに曇った。

 

 ……ほんの一瞬だった。

 

 すぐに、いつもの笑顔へ戻る。

 

「……ミカさん?」

 

「ん? 何?」

 

「何かご連絡でも?」

 

「ああ、うん! ちょっとした用事だよ!」

 

 そう言って、端末を伏せた。

 

「今は大丈夫!」

 

「……そうですか」

 

 俺は、それ以上聞かなかった。

 

(……また、あの顔か)

 

 差出人までは見えなかった。

 

 だが、ミカが連絡を確認した直後、同じような表情を見せたことは以前にもあった。

 

(……おそらく、アリウスか)

 

 断定はできない。

 

 けれど、今まで調べたこととも辻褄が合う。

 

 エデン条約は延期された。

 

 だが、それで相手の計画まで止まったわけじゃない。

 

(……問題は、いつ動くかだな)

 

 こちらも準備は進めている。

 

 ただ、ミカにはできれば自分の意思で話してほしいと思っていた。

 

(……頼むぞ、ミカ)

 

 全部、一人で抱え込まなくてもいいんだからな。

 

「……ナギちゃん?」

 

「はい?」

 

「何だか、難しい顔してるよ?」

 

「……そうですか?」

 

「うん!」

 

 ミカは、くすくすと笑った。

 

「もう! 先生が来る前からそんな顔してたら、怖がられちゃうよ?」

 

「……先生は、そんなことで怖がる方ではありませんよ」

 

「そうなの?」

 

「ええ」

 

「へえー!」

 

 ミカが嬉しそうに笑った。

 

「ますます楽しみになってきた!」

 

(……まったく)

 

 さっきまでの暗い表情が嘘みたいだ。

 

 ……いや。

 

 きっと、どちらも本当のミカなんだろう。

 

 明るくて、騒がしくて。

 

 その一方で、人には言えないものを抱えている。

 

(……いつか、ちゃんと話してくれよ)

 

 そう思った時だった。

 

 ――コンコン。

 

 会場の扉が、静かにノックされた。

 

     ◇

 

「シャーレの先生がお見えになりました」

 

 係の生徒から報告が入った。

 

「ありがとうございます。こちらへご案内してください」

 

「承知しました」

 

 生徒が一礼し、会場を出ていく。

 

 俺は、姿勢を正した。

 

(……さて、仕事の時間だ)

 

 ほどなくして、先生が姿を現した。

 

「先生、ごきげんよう」

 

「ごきげんよう、ナギサ」

 

「本日はお越しいただき、ありがとうございます」

 

「こちらこそ。招待してくれてありがとう」

 

 そこで、ミカが立ち上がった。

 

「先生、初めまして!」

 

 元気な声が響く。

 

「私は聖園ミカ! ティーパーティーの一員だよ!」

 

「初めまして、ミカ。シャーレの先生です」

 

 先生が笑顔で答える。

 

「よろしくね」

 

「うん! よろしくね、先生!」

 

(……おお)

 

 原作で知っていた二人が、今こうして目の前で初めて挨拶を交わしている。

 

 何だか感慨深いな。

 

 ……いや、今は感動している場合じゃない。

 

「それでは先生、どうぞお掛けください」

 

「ありがとう」

 

 先生が席に着く。

 

 ミカも、自分の席へ戻った。

 

「ねえ、先生!」

 

「うん?」

 

「シャーレって、いつもどんなお仕事をしてるの?」

 

(……早い!)

 

 もう始まった!?

 

「そうだね。いろんな学園から相談を受けたり、生徒たちの手伝いをしたりかな」

 

「へえー! じゃあ、いろんな学園に行くんだ!」

 

「うん」

 

「いいなぁ! 私、他の学園のことってあんまり知らないんだよね!」

 

 先生も楽しそうに応じている。

 

(……まあ、挨拶くらいはいいか)

 

 初対面なのだから、多少は話してもらおう。

 

 ……ただし。

 

「ミカさん」

 

「ん?」

 

「そろそろ、本題に入らせていただいてもよろしいでしょうか?」

 

「あっ、そうだね!」

 

 ミカが笑って頷いた。

 

「ごめんね、ナギちゃん!」

 

「……いえ」

 

(……よし)

 

 これなら大丈夫そうだな。

 

 俺は先生へ向き直った。

 

「それでは先生。以前ご相談した補習授業部について、改めて正式なお願いをさせていただきます」

 

「うん」

 

 用意していた資料を差し出す。

 

「本日より活動を開始するにあたり、先生には顧問として、部員四名の指導と支援をお願いしたいと考えております」

 

「分かったよ。前に話したとおり、喜んで協力するよ」

 

「ありがとうございます」

 

「それに、四人と会うのも楽しみだな」

 

 先生が微笑んだ。

 

 ……うん。

 

 やっぱり、お願いして良かった。

 

「では、活動日程について確認させていただきますね」

 

 資料を一枚めくる。

 

 ……あと少しだ。

 

 その時だった。

 

「……ねえ、先生」

 

(……ん?)

 

 ミカが、ぽつりと呟いた。

 

「先生って、勉強を教えるのも得意なの?」

 

「どうだろう。でも、一緒に考えるのは好きだよ」

 

「へえー!」

 

 ミカが身を乗り出した。

 

「じゃあ、私にも教えてくれる?」

 

「もちろん。何か困ってることがあるの?」

 

「うーん、今は特にないかな!」

 

(……ないのかよ!)

 

 思わず突っ込みそうになった。

 

 ……まあ、まだ大丈夫だ。

 

「……こほん。それでは、今後の予定についてですが」

 

「あっ、先生!」

 

(……おい)

 

「先生って、普段はシャーレにいるの?」

 

「うん。そこにいることが多いかな」

 

「へえー! じゃあ、今度遊びに行ってもいい?」

 

 ……なるほど。

 

 初めて会った先生に、色々聞きたいのは分かる。

 

 だが。

 

「……ミカさん」

 

「ん?」

 

「少々、静かにしていただけますか?」

 

「あっ、ごめんごめん!」

 

 ミカが笑った。

 

「つい気になっちゃって!」

 

「……そうですか」

 

(……落ち着け、俺)

 

 あと少し確認すればいいだけだ。

 

 それが終わったら、好きなだけ話してもらおう。

 

「……先生。失礼しました」

 

「ううん、大丈夫だよ」

 

 先生は、どこか楽しそうに笑っていた。

 

「では、試験の日程について――」

 

「あっ、ナギちゃん!」

 

「…………」

 

「このロールケーキ、先生にも食べてもらおうよ!」

 

 ミカが、皿を持ち上げた。

 

「ねえ先生! ここのロールケーキっておいしいんだよ!」

 

「そうなんだ。ありがとう、ミカ」

 

「うん! ナギちゃんもよく食べてるんだよ!」

 

(……ああ、もう)

 

 まったく、ミカは。

 

 初めて会った先生と話したい気持ちは分かるけど、今は正式な会談の途中だぞ。

 

 ……まあ、あと少しで終わるんだし。

 

 軽く注意すればいいか。

 

 そう考え、口を開こうとした時だった。

 

(……ん?)

 

 胸の奥が、かっと熱くなった。

 

 先ほどまでの呆れとは違う。

 

 何度も注意しているのに聞いてもらえない苛立ち。

 

 大切な会談を邪魔されていることへの怒り。

 

 そんな感情が、突然込み上げてきた。

 

(……え?)

 

 いや、確かに少しは腹が立っているけど。

 

 ここまで怒るほどのことか?

 

 ……そう思ったのに。

 

「……ミカさん」

 

「ん?」

 

 気づけば、口が動いていた。

 

「先ほどから、少々おしゃべりが過ぎるようですね」

 

「えー? そうかな?」

 

「……ええ」

 

「でも、私も先生とお話ししたいし……」

 

「……ミカさん」

 

「それに、ナギちゃんは先生ともういっぱい話したんでしょ?」

 

「…………」

 

「私だけ、まだ全然お話しできてないんだもん!」

 

 その瞬間。

 

 胸の奥で、何かが弾けた。

 

「…ええ、ですが今は私がしゃべっている途中ですよね?」

 

ミカの笑顔が、ぴたりと止まった。

 

 

「それなのにさっきからずっと!横でぶつぶつぶつぶつと……!どうしても黙れないのでしたら、その小さな口に……ロールケーキをぶち込みますよっ!?」

 

「……えっ?」

 

 ――沈黙。

 

 ミカが目を丸くしている。

 

 先生も、驚いたようにこちらを見ていた。

 

 そして、当の俺は。

 

(…………は?)

 

 ……いや、待て。

 

(……俺、今、何て言った?)

 

 ロールケーキをぶち込む?

 

 ……あ。

 

(……やっちまったぁぁぁ!?)

 

 あの台詞だ!

 

 原作で見た、あの有名な台詞!

 

 まさか、自分で言うことになるなんて!

 

 ……いや、それよりも。

 

(……何だ、今の?)

 

 確かにミカのおしゃべりには困っていた。

 

 でも、別に本気で怒っていたわけじゃない。

 

 それなのに、どうしてあんな言葉が出たんだ?

 

(……俺、こんなことであそこまで怒るか?)

 

 いや、普通に注意すれば済む話だろ。

 

 それに、さっき感じた怒りも。

 

 今はもう、嘘みたいに収まっている。

 

(……疲れてるのかな)

 

 そう考えていると。

 

「……ぷっ」

 

 ミカの口元が緩んだ。

 

「……ミカさん?」

 

「……あはははっ!」

 

 盛大な笑い声が響く。

 

「ナギちゃん! 何それ!?」

 

「……っ!」

 

「ロールケーキって! あははっ!」

 

「……そ、そんなに笑わなくても!」

 

「だ、だって! ナギちゃんがそんなこと言うなんて!」

 

 ミカがお腹を抱えて笑っている。

 

 ……くっ。

 

 確かに、笑いたくなる気持ちは分かる。

 

 俺だって、原作で見た時は笑ったし。

 

 ……でも。

 

(……ちょっと待てよ)

 

 これ、結局原作と同じことになってないか?

 

 あれだけ色々変えてきたのに、こんなところだけ原作どおりなのかよ!

 

「……ふふっ」

 

 今度は、隣から笑い声が聞こえた。

 

「……先生?」

 

「あ、ごめんね」

 

 先生が口元を押さえている。

 

「いや、二人とも本当に仲がいいんだなと思って」

 

「……そう、でしょうか」

 

「うん。ナギサも、こんなふうに怒ることがあるんだね」

 

「…………」

 

(……先生ぇぇぇ!?)

 

 そっちまで笑わないでくれ!

 

 ……まったく。

 

 俺は、軽く咳払いをした。

 

「……失礼しました。少々、取り乱してしまいましたね」

 

 ミカへ向き直る。

 

「ミカさんも、申し訳ありません」

 

「ううん! 全然いいよ!」

 

 ミカは笑いながら首を振った。

 

「でも、ナギちゃんって昔からそういうところあるよね!」

 

「……そういうところ、ですか?」

 

「うん! 普段はすっごく真面目なのに、たまに急に怒っちゃうところ!」

 

「…………」

 

(……へえ)

 

 ……そうなのか。

 

 ナギサにも、そんな一面があったんだな。

 

 それなら、さっきの怒り方も、そんなに不自然じゃなかったのかもしれない。

 

 ……いや。

 

 それはそれとして。

 

(……やっぱり、ちょっと変だったよな)

 

 自分でも説明できない、あの一瞬の苛立ち。

 

 今となっては、もう跡形もない。

 

 ……まあ、今気にしても仕方ないか。

 

 ミカは楽しそうに笑っているし、先生も嫌な顔はしていない。

 

 俺は、紅茶を一口飲んだ。

 

(……うん。落ち着くなぁ)

 

 ……本当に、今日は色々ある日だ。

 

     ◇

 

 その後は、ようやく順調に話が進んだ。

 

 ……ミカが何度か口を開きかけていたけど、さすがに控えてくれたらしい。

 

 活動日程と試験の準備を確認し、会談を終える。

 

「先生、本日はありがとうございました」

 

「ううん。こちらこそ」

 

 先生は資料をまとめながら頷いた。

 

「それじゃあ、まずは四人に会ってくるよ」

 

「はい。皆さんには、先生がいらっしゃることをお伝えしてあります」

 

「ありがとう」

 

 先生が席を立つ。

 

 俺も立ち上がり、軽く頭を下げた。

 

「先生」

 

「ん?」

 

「……四人のこと、よろしくお願いします」

 

 先生は俺を見た。

 

 ほんの一瞬だけ、表情が変わる。

 

 俺が何を心配しているのか、分かっているような顔だった。

 

「うん。任せて」

 

 短い返事だった。

 

 けれど、それで十分だった。

 

「……ありがとうございます」

 

 微笑んで答える。

 

 すると、先生は声を落とした。

 

「……ナギサも、無理しすぎないようにね」

 

「…………」

 

 ああ。

 

 そっちの心配もしてくれるのか。

 

(……本当に、いい人だな)

 

「……ええ。ありがとうございます」

 

 そう答えると、先生は安心したように微笑んだ。

 

「それじゃあ、また」

 

「はい。お気をつけて」

 

「先生、またねー!」

 

 ミカが大きく手を振った。

 

「今日はあんまりお話しできなかったけど、また色々聞かせてね!」

 

「うん。もちろん」

 

「やった!」

 

 先生も手を振り返した。

 

 そして、最後にもう一度こちらへ軽く会釈すると、会場を後にした。

 

 扉が閉まる。

 

 足音が、遠ざかっていった。

 

     ◇

 

「……ふぅ」

 

 ようやく静かになった会場で、俺は息を吐いた。

 

(……とりあえず、第一段階は終わりか)

 

 先生への正式な依頼は済んだ。

 

 補習授業部も、いよいよ本格的に動き始める。

 

 ……もっとも、今後のことを考えると気を抜くわけにはいかない。

 

 特別学力試験。

 

 アズサのこと。

 

 そして、エデン条約。

 

 まだ、やるべきことは山ほどある。

 

 そう考えて、残った紅茶に手を伸ばした。

 

「……ねえ、ナギちゃん」

 

「はい?」

 

 ミカの声が聞こえた。

 

 振り向くと、彼女は頬杖をつき、こちらを見つめていた。

 

「先生、行っちゃったね」

 

「……そうですね」

 

「うん」

 

 ミカは、先生が出ていった扉を眺めていた。

 

「……いい人だったね」

 

「ええ。私も、そう思います」

 

「ふふっ。ナギちゃんが信頼してるのも、何となく分かったかも」

 

「……そうですか?」

 

「うん!」

 

 ミカが笑った。

 

「今度会ったら、もっといっぱいお話ししたいな!」

 

「……その時は、ぜひ」

 

「えへへっ」

 

 嬉しそうに笑うミカ。

 

 その姿を見ながら、俺も微笑んだ。

 

 ……しかし。

 

(……さて)

 

 先生が帰ったということは。

 

 今、この会場に残っているのは。

 

 俺と、ミカ。

 

 ただ二人だけだった。

 

 さっきまで賑やかだった会場が、嘘のように静かになっている。

 

 テーブルの上には、飲みかけの紅茶と、手をつけられなかったロールケーキ。

 

 ミカは、その一つを手に取った。

 

「……ナギちゃん」

 

「はい?」

 

「ロールケーキ、食べる?」

 

「…………」

 

(……お前なぁ)

 

 思わず笑ってしまいそうになった。

 

 ……まあ、いいか。

 

「……いただきます」

 

「えへへっ。どうぞ!」

 

 ミカが嬉しそうに皿を差し出す。

 

 俺はそれを受け取り、改めて向かいの席を見た。

 

 今は、二人きりだ。

 

 ミカは、何事もなかったかのようにロールケーキを食べ始めている。

 

 ……けれど。

 

(……そろそろ、話しておきたいこともあるんだよな)

 

 先生が来る前の会話。

 

 セイアの席を見つめていた、あの表情。

 

 そして、俺が調べたこと。

 

 ……もう、知らないふりを続けるだけでは済まないだろう。

 

 ただ、焦るつもりはない。

 

 ミカが何を思い、何を抱えているのか。

 

 それを、ちゃんと聞きたい。

 

 俺は、ティーカップを置いた。

 

 目の前の少女は、まだこちらを見ていない。

 

 先生との初対面を楽しみ、嬉しそうに笑っている。

 

 ……聖園ミカ。

 

 俺が知っている原作では、多くのことを抱え込んでいた少女。

 

 そして今も。

 

 きっと、誰にも話していないことがある。

 

(……さて)

 

 どう切り出したものかな。

 

 そんなことを考えながら、俺は静かに紅茶を飲んだ。

 

 ミカと二人きりの、午後のティーパーティー。

 

 そこから、次の話が始まろうとしていた。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!

今回は、ナギの過去を描いてみました。

幼い頃の経験や、支えてくれた人たちとの思い出が、今のナギにも影響しているようです。

そして、裏では補習授業部がいよいよ始動します。

ミレニアムでの出来事については、また別の機会に。

次回は、ミカとのお話です。

引き続き、よろしくお願いします!
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