また思った以上に長くなってしまったため、今回は上・中・下の3部構成にしました。
今回はハナコ視点で、最初の面談からこれまでの出来事を振り返ります。
ナギ視点では見えなかった部分も、少しずつ描いていければと思います。
今回もお楽しみいただければ幸いです!
――最初にお会いした時のことは、今でもよく覚えています。
桐藤ナギサ様。
トリニティ総合学園において、ティーパーティーのホストを務めるお方。
そして、私のような生徒とは、本来あまり接点のないお方。
……まあ。
まったく接点がなかった、というわけでもありませんけどね。
私の成績や、これまでの経歴。
そういったものをご存じの方は、それなりにいらっしゃいましたから。
シスターフッド。
ティーパーティー。
どちらに所属しても、きっと素晴らしい活躍ができる。
私には、それだけの才能があるのだと。
……皆さん、本当に親切な方々です。
私の将来を案じてくださっている。
私の能力を高く評価してくださっている。
それ自体は、ありがたいことなのでしょう。
……ですが。
(……それを、私が望んでいるかどうかは、別のお話ですよね)
いつからでしょうか。
自分が何をしたいのかよりも、周囲の方々が私に何をしてほしいのか。
そんなお話ばかり聞くようになったのは。
期待に応えれば、さらに期待される。
できると分かれば、もっと難しいことを求められる。
そして、断ろうとすれば。
なぜ、そんなにもったいないことをするのか。
……そう尋ねられる。
悪意がないことくらい、分かっています。
皆さん、本当に私のことを考えてくださっているのでしょう。
だからこそ。
(……少し、疲れてしまいました)
何を言っても、結局は私の才能の話になる。
それなら。
いっそのこと、その才能がないように振る舞えばいい。
……そんなふうに考えたのは、いつだったでしょうか。
お勉強ができない生徒。
少し変わった趣味を持つ、困った生徒。
周囲の期待に応えられそうにない生徒。
そう思われてしまえば、きっと誰も私を必要とはしなくなる。
……ええ。
それで、よかったんです。
少なくとも、あの頃の私はそう思っていました。
◇
――最初の面談。
「……ふふっ。ナギサ様に直接お呼びいただけるなんて、光栄です」
私は、いつもの笑顔で挨拶をしました。
正直なところ、少し面倒だと思っていたんです。
成績が落ちた理由を尋ねられる。
以前の実績を持ち出される。
そして、きっと最後には、もっと頑張るように言われるのでしょう。
(……さて、どうしましょうか)
素直に答えるつもりはありません。
それに、せっかくの機会です。
少しくらい、からかってみてもよいでしょう?
そう考えて、私は特別授業のお話を持ち出しました。
二人きりで。
普通とは少し違う、特別なお勉強を。
……ふふっ。
いつもなら、ここで困った顔をしてくださる方が多いんです。
真面目な方であればあるほど、反応が面白くなりますから。
ですが。
「……え?」
ナギサ様は、私の質問を、どこまでも真面目に受け止めてしまわれました。
一対一の指導。
苦手科目の確認。
必要なら、もっと高度な教材まで。
(……あら?)
もちろん、最初は本当に意味を理解していらっしゃらないのかと思いました。
ですが、会話を続けていくうちに、少しずつ分かってきたんです。
……この方。
(……分かっていて、そうお答えになっていますね?)
こちらが曖昧な言葉を使えば、あえて真面目な解釈を返してくる。
もう一度仕掛けても、やはり同じ。
それでいて、こちらの反応はきちんと観察している。
……なるほど。
なかなか、面白い方です。
「……ふふっ」
思わず笑ってしまいました。
正直、少しだけ驚きました。
これまで私の冗談に付き合ってくださる方は、それほど多くありませんでしたから。
大抵は困惑するか、注意するか。
あるいは、最初から相手にしないか。
……ですが、この方は違いました。
私の意図を理解したうえで、別の答えを返してくださる。
(……一本取られてしまいましたね)
もっとも。
その時の私は、まだそれほど深く考えていませんでした。
少し変わった方。
思っていたよりも、ずっと話しやすい方。
……その程度の印象だったんです。
少なくとも、面談が本題に入るまでは。
◇
成績について尋ねられた時。
私は、やはり来たかと思いました。
以前の成績は、とても優秀だった。
それなのに、現在は大きく低下している。
何か理由があるのではないか。
(……やっぱり)
……同じなんですね。
結局、この方も私の成績を見ていらっしゃる。
少し面白い方だと思ったのですが。
……まあ、仕方ありません。
ティーパーティーのホストなのですから。
優秀な生徒に興味を持つのも、当然でしょう。
私は、笑顔を崩さないようにしながら尋ねました。
私のことを、何か疑っていらっしゃるのかと。
すると。
「……いいえ」
返ってきたのは、予想していなかったお答えでした。
ナギサ様は、私が何か困っているのではないかと、そうおっしゃったんです。
(……困っている?)
私は、一瞬だけ返す言葉を失いました。
成績が下がったのは、私自身が望んだこと。
誰かに強制されたわけではありません。
自分で選んだ、私なりの逃げ道です。
……それなのに。
この方は、私が困っているのではないかと考えた。
(……どうして、そちらを気になさるんでしょう?)
優秀な人材を失うこと。
成績の良い生徒が、突然落ちこぼれてしまったこと。
そんなことではなく。
その生徒が、何か事情を抱えているかもしれないと。
……不思議な方。
そう思いました。
ですから、少しだけ意地悪なことを尋ねてみたんです。
その言葉は、ティーパーティーのホストとしてのお考えなのかと。
……確認したかったんです。
私を必要としているから、心配してくださっているのか。
それとも。
本当に、私自身のことを気にかけてくださっているのか。
そして、ナギサ様は。
組織の代表者としてではなく、一人の生徒を心配する桐藤ナギサとして話しているのだと、そうお答えになりました。
「…………」
……ああ。
なるほど。
そういうことですか。
(……本当に、変わった方ですね)
私の成績が元に戻れば、ティーパーティーにとって利益になる。
きっと、そういう考え方だってできるはずです。
けれど、この方はそれを口にしませんでした。
私の事情を、無理に聞き出そうともしなかった。
ただ、相談したくなった時には頼ってほしいと。
それだけを伝えてくださったんです。
(……優しい方、なんですね)
……でも。
優しさだけでは解決できないこともあります。
私の置かれた状況も、そんなに簡単なものではありません。
だから。
その時は、少しだけ心が温かくなったものの。
結局、何もお話しすることはありませんでした。
……ただ。
面談を終えて部屋を出る時。
私が最後に気にしていたのは、成績のことでも、将来のことでもなかったんです。
(……随分と、お疲れのようでしたね)
ナギサ様の顔色。
時折見せる、わずかな疲労。
そして、何事もないように振る舞おうとなさる、そのお姿。
……あまり、無理をなさらなければよいのですが。
そんなことを考えている自分に、少し驚きました。
……本当に。
不思議な面談でした。
◇
それから、しばらくして。
私は、補習授業部の皆さんと出会いました。
最初に声をかけてくださったのは、ヒフミちゃんです。
皆さんで一緒に勉強してみませんか、と。
少し緊張した様子で、けれど一生懸命に誘ってくださいました。
(……ふふっ)
正直、最初は意外でした。
私は、わざと成績を落として補習授業部に入ろうとしていた生徒です。
誰かと仲良くなるために、ここへ来たわけではありません。
……ですが。
せっかくのお誘いです。
断る理由もありませんでした。
それに。
少しだけ、興味もあったんです。
補習授業部という場所が、どのようなものになるのか。
……結果から言えば。
(……想像していたより、ずっと賑やかでしたね)
ヒフミちゃんは、とても真面目で優しい方です。
皆さんのことを気にかけ、何とか一緒に頑張ろうとしてくださる。
コハルちゃんは、少々意地っ張りなところがありますが。
……ふふっ。
からかうと、本当に可愛らしい反応をしてくださるんです。
それに、何だかんだ言いながら、困っている方を放っておけない。
アズサちゃんは、少し独特な考え方をなさいます。
時折、とても真剣なお顔で、私の冗談に答えてくださるものですから。
こちらが驚かされることも、珍しくありません。
……そんな三人と、机を囲んで過ごす時間。
最初は、ただのお勉強会でした。
それなのに。
気がつけば、私は皆さんとお話しすることを楽しみにしていました。
「ハナコ!」
「はい、コハルちゃん♡」
「アンタ、また変なこと考えてるでしょ!」
「まあ。どうして分かったんですか?♡」
「やっぱり考えてたのね!?」
……ふふっ。
本当に、可愛らしいですね。
ヒフミちゃんが慌てて仲裁に入り、アズサちゃんが何のことかと首を傾げる。
そんな光景が、少しずつ当たり前になっていきました。
(……不思議ですね)
ここでは、誰も私に難しい問題の解決を求めてきません。
過去の成績を持ち出して、特別な役割を与えようともしません。
もちろん、お勉強について尋ねられることはあります。
ですが、それはただ、同じ部活動の仲間として。
分からない問題があれば、互いに教え合う。
困っている人がいれば、できる範囲で手を貸す。
……それだけなんです。
私が答えを知っていても。
知らなくても。
皆さんは、いつもどおりに接してくださる。
そして、私が少し変な冗談を言えば。
コハルちゃんが、いつものように怒ってくださる。
(……ああ)
……こういう時間も、あるんですね。
何かを成し遂げなくてもいい。
誰かの期待に応えなくてもいい。
ただ、一緒にお勉強をして。
時々、くだらないことで笑って。
……そんな時間。
いつの間にか。
補習授業部は、私にとって少しだけ特別な場所になっていました。
だからでしょうか。
ナギサ様と再びお話しする機会が訪れた時。
私は、最初の面談ほど身構えていませんでした。
むしろ。
(……ふふっ。今日は、どんなお話ができるでしょうか?)
そんなことを、考えていたんです。
◇
――シスターフッドの礼拝堂近く。
ナギサ様と、再びお会いしました。
……もっとも。
その時の私は、少々目立つ格好をしていたのですが。
「……今日は、随分と涼しげな格好ですね」
「ふふっ。ありがとうございます♡」
ナギサ様が、何とも言えない表情をなさいました。
……あらあら。
褒めたつもりではなかった、ということでしょうか。
分かっていますよ。
もちろん。
(……ふふっ)
でも。
こうしてからかうと、やはり面白い反応をしてくださいますね。
最初の面談でも思いましたが、この方は本当に頭の回転が速い。
こちらの言葉に含ませた意味を理解し、そのうえで別の解釈を返してくださる。
しかも、最近は以前よりも余裕があるように見えました。
私が一つ仕掛ければ、その先を読んで答えを返してくる。
こちらがもう一歩踏み込めば、今度は別の方向へ話を進めてしまう。
……本当に。
(……楽しいですね)
……あら?
今、私。
楽しいと、思いましたね。
もちろん、からかうこと自体は以前から好きでした。
相手が困ったり、予想外の反応を返してくださったりするのを見るのは面白いものです。
……ですが。
今の楽しさは、それとは少し違う気がしました。
ナギサ様がどのように答えてくださるのか。
次は、どんな言葉を返してくださるのか。
そして、私が予想していなかった答えをいただけるのか。
……それを、楽しみにしている。
(……あらあら)
いつの間に、そんなことになっていたのでしょう。
私自身、少し不思議でした。
でも。
別に、悪いことではありませんよね。
それに、今日は何だか気分も軽いんです。
補習授業部で皆さんと過ごす時間が増えたからでしょうか。
以前なら、誰かと話す時にも、どこかで自分の立場を考えていました。
相手は何を求めているのか。
私の何を知っているのか。
そして、どこまで話してもよいのか。
……ですが、今は。
少なくとも、この方との会話を楽しむことくらいは、許される気がしたんです。
◇
やがて、お話はプールのことになりました。
私が少し意味深なお誘いをしたところ、ナギサ様は本当に泳ぎに行こうとおっしゃったんです。
……ふふっ。
予想外でした。
しかも。
護衛のお二人まで誘ってしまわれるとは。
(……本当に、面白い方ですね)
普通なら、立場を考えて遠慮するところでしょう。
ティーパーティーのホストと、その護衛。
そして、補習授業部の一生徒。
それぞれ、役割も立場も違います。
……ですが。
ナギサ様は、それほど気にしていらっしゃらないようでした。
せっかくだから、皆で楽しもう。
まるで、それが当たり前であるかのように。
……ああ。
そういえば。
この方は、以前からそうでしたね。
最初の面談でも、私が何を隠しているのかではなく、困っていないかを気にしてくださった。
そして今日も。
護衛の方々に、いつもお世話になっているからと。
仕事ではなく、一緒に遊ぶ時間を持とうと提案なさる。
(……ふふっ)
……優しい方です。
ですが、ただ優しいだけではありません。
相手の反応を見ながら、言葉を選んでいらっしゃる。
私がわざと答えにくい質問をしても、きちんと意味を理解して返してくださる。
だから、会話が途切れない。
むしろ、こちらが次の言葉を考えることになるんです。
……こんな経験。
あまり、ありませんでした。
その後、遊びの内容についてもお話ししました。
私がとんでもない提案をしたらどうするのかと尋ねると、皆で相談すればよいと。
しかも、面白ければ採用するかもしれないとまでおっしゃったんです。
(……あら)
それは、なかなか大胆なお考えですね。
……ですが。
少し、気になったことがありました。
ナギサ様は、私の発想に期待しているとおっしゃったんです。
……期待。
久しぶりに聞いたような気がしました。
いえ。
正確には、今まで何度も聞いてきた言葉です。
優秀だから。
才能があるから。
きっと素晴らしい成果を出せるから。
……そう言われてきました。
ですから、最初は少しだけ身構えました。
ですが。
(……ああ、そういうことですか)
ナギサ様が期待してくださったのは、私が何か立派な仕事を成し遂げることではありませんでした。
誰かの代わりに問題を解決することでも。
自分たちの組織に役立つことでもない。
……ただ。
皆で遊ぶ時に、私がどんな面白い案を考えてくるのか。
それを楽しみにしてくださっているんです。
(……ふふっ)
……何でしょう。
それだけのことなのに。
何だか、とても嬉しくなってしまいました。
私の知性を、知らないわけではない。
むしろ、よく理解してくださっている。
それなのに、何かを強制しようとはなさらない。
ただ、私が何を思いつくのか。
それを面白がってくださる。
(……この方は、私の才能を必要としているわけではないんですね)
少なくとも、今この瞬間は。
それを思うと、不思議と安心できました。
そして。
(……本当に、楽しそう)
ふと、そんなことに気づいたんです。
ナギサ様は、護衛のお二人の反応を見て笑っていらっしゃいました。
私の冗談に困った顔をして。
それでも、すぐに次の言葉を考え始める。
時折、私が予想外の反応をすると、本当に嬉しそうに微笑まれる。
……以前とは、違います。
最初の面談の時。
この方は、どこか無理をしていらっしゃるように見えました。
丁寧な口調。
整った姿勢。
優しい笑顔。
けれど、その奥に、何とも言えない疲労が滲んでいたんです。
だから、最後にお身体のことを尋ねました。
……ですが、今は。
もちろん、お忙しいことに変わりはないのでしょう。
護衛のお二人が同行しているのも、何か事情があるからなのだと思います。
それでも。
こうして私とお話ししている時の表情は、随分と自然でした。
(……演技、ではありませんね)
少なくとも、楽しそうに見せようとしているわけではない。
こちらを喜ばせるために、無理に笑っているのでもない。
本当に、この会話を楽しんでいらっしゃる。
私の冗談を理解し、答えを考え、そのやり取りを面白いと感じている。
……それが、分かってしまったんです。
だからこそ。
私は、少しだけ気になりました。
(……何か、変わるきっかけがあったのでしょうか?)
最初にお会いした時と比べて、今のナギサ様は随分と楽しそうです。
もしかすると、何か良いことでもあったのかもしれません。
……あるいは。
もっと別の理由があるのかもしれませんね。
私には、まだ分かりません。
……ですが。
その理由を、少しだけ知りたいと思いました。
◇
「……それにしても、ナギサ様」
私は、何気ない調子で声をかけました。
「最近は、随分とお話がお上手になられましたね」
ナギサ様は、少し不思議そうに首を傾げました。
……ふふっ。
こういうところは、以前と変わりませんね。
私は、最初の面談の時よりも、ずっと余裕を持って会話を返してくださるようになったと伝えました。
すると。
ナギサ様は、私のおかげかもしれないとおっしゃったんです。
「……私の?」
……どうしてでしょう。
思わず、聞き返してしまいました。
ナギサ様は、いつもの穏やかな笑顔で答えてくださいました。
私が色々なお話をしてくれるからだと。
「…………」
……あら。
そういうお返事ですか。
(……私と、お話しするから)
私が、特別な知識を提供したからではない。
難しい問題を解決したからでもない。
ただ、色々なお話をした。
それが、ナギサ様にとって楽しい時間になっていた。
……そういう意味なのでしょうか。
私は、ナギサ様のお顔を見つめました。
きっと、深い意味はないのでしょう。
この方は、時折こうして素直なお言葉をくださいますから。
……ですが。
(……私は、どうなんでしょう?)
ナギサ様とお話しするようになってから。
私は、少し変わったのでしょうか。
少なくとも、最初の面談では、ここまで会話を楽しんでいませんでした。
あの時は、相手を観察して、少し困らせて。
自分の本心を知られないようにすることばかり考えていたんです。
……今は。
もちろん、からかうのは楽しいですよ。
それに、この方の反応は本当に面白いですし。
ですが。
それだけではないような気がしました。
もっとお話ししてみたい。
次は、どんな答えが返ってくるのだろう。
そんなことを、自然と考えるようになっている。
(……あらあら)
……これは。
少し、困りましたね。
私は、自分の心の中に生まれた小さな変化を、いったん脇へ置きました。
そして、以前から気になっていたことを尋ねてみたんです。
最近、何か良いことでもあったのかと。
ナギサ様は、少し意外そうなお顔をなさいました。
……ですから。
私は、以前よりもずっと楽しそうに見えるのだと伝えました。
すると、ナギサ様は。
自分では、あまり自覚がないようでした。
「……そうですか?」
「ええ。それに……」
……その先の言葉が。
不意に、止まりました。
(……あ)
……どうしましょう。
私、何を言おうとしたのでしょうか。
いえ。
言いたかったことなら、分かっています。
以前よりも、ずっと自然に笑っていらっしゃること。
私との会話を、心から楽しんでくださっているように見えること。
そして。
(……私も、楽しいんです)
……。
……あら?
私は、心の中でその言葉を繰り返しました。
私も、楽しい。
……ええ。
間違っていません。
ナギサ様とお話しする時間は、とても楽しいんです。
ですが。
どうして、それを今、伝えようとしたのでしょう。
普段なら、もっと簡単に言えるはずです。
楽しいですね。
面白いですね。
もっとお話ししたいですね。
そんな言葉なら、何度も口にしてきました。
……それなのに。
(……何だか、少し違うような)
私が言いたかったのは、ただ会話が面白いということだけではありませんでした。
最初にお会いした時、疲れていらっしゃるように見えたこと。
今は、以前よりもずっと楽しそうに笑っていらっしゃること。
そして、その笑顔を見ていると、私まで嬉しくなってしまうこと。
……そう。
私は、そのことを伝えたかったんです。
(……どうしてでしょうね)
ナギサ様が楽しそうにしている。
ただ、それだけのことなのに。
胸の奥が、少し温かくなるんです。
……不思議です。
この方が何か良いことを経験されたのなら、それは喜ばしいことでしょう。
ですが、私とは直接関係のないことかもしれません。
それなのに。
(……嬉しい、んですね)
自分でも、少し意外でした。
……それから。
もう一つ。
口にしようとして、止めた言葉がありました。
(……ナギサ様は、本当に変わられましたね)
……いえ。
それは、少し違うでしょうか。
私が以前のナギサ様を、どれほど知っているというのでしょう。
最初の面談。
そして、今日のお話。
私が直接知っているのは、その程度です。
それだけで、誰かが変わったと決めつけるのは、少々早計ですね。
……でも。
何かが違うことだけは、感じていました。
最初にお会いした時は、どこか張り詰めていらっしゃった。
今は、少なくともこうしてお話ししている間は、自然に笑ってくださる。
まるで、何か重たいものを一つ下ろしたかのように。
……もちろん。
ただの思い違いかもしれません。
ですが、もし本当に何かがあったのだとしたら。
それは、私が軽々しく尋ねてよいことなのでしょうか。
(……ああ、なるほど)
少しだけ、分かった気がしました。
私は、この方に興味を持っているんです。
これまでどんなことを考えてこられたのか。
何が好きで、何を楽しいと思われるのか。
なぜ、最初の面談ではあれほど疲れていらっしゃったのか。
……そうしたことを。
もっと、知りたいと思っている。
ですが。
だからといって、何でも聞いてよいわけではありません。
この方にも、話したくないことはあるでしょう。
私がそうであるように。
誰にだって、簡単には言葉にできない事情があるはずです。
……それに。
ふと、背後の護衛のお二人が目に入りました。
お二人とも、少し離れた場所で待機していらっしゃいます。
当然、私たちの会話が聞こえる距離です。
(……今、お聞きすることではありませんね)
ナギサ様が、何を抱えていらっしゃるのか。
それを知らないまま、無理に踏み込んでしまったら。
せっかく楽しそうにしていらっしゃるのに、困らせてしまうかもしれません。
……それは。
少し、嫌でした。
なぜ嫌なのか。
その理由までは、まだ上手く説明できません。
けれど。
今、目の前で笑っていらっしゃるこの方に、無理をさせたくない。
その気持ちだけは、確かでした。
(……ふふっ)
……まったく。
人のことを気にしている場合ではないのかもしれませんね。
私だって、自分の事情を何一つお話ししていないのですから。
それなのに、相手のことばかり知ろうとするなんて。
……少し、欲張りでしょうか。
私は、口元に笑みを戻しました。
「……いえ。何でもありません♡」
ナギサ様は、ほんの一瞬だけ、こちらを警戒するようなお顔をなさいました。
……あら。
やはり、何か聞かれると思っていらっしゃったんですね。
……ふふっ。
安心してください。
今は、聞きませんよ。
私だって、相手の嫌がることを何でも尋ねたいわけではありませんから。
……ただ。
もし、いつか。
ナギサ様ご自身が、何かをお話ししたいと思われた時には。
その時は、聞いてみたいですね。
私は、話題を変えることにしました。
「それより、プールのお約束。楽しみにしていますね」
「……ええ。私もです」
……ああ。
また、です。
ナギサ様は、何でもないことのように答えてくださいました。
ご自身も、楽しみにしているのだと。
(……ふふっ)
……困りましたね。
また、嬉しくなってしまいました。
以前の私なら、きっとこの言葉にも、すぐに意味深な冗談を返していたでしょう。
ですが。
今は、もう少しだけ。
このままの気持ちでいたいと思いました。
何かを求められるわけでもない。
才能を試されるわけでもない。
ただ、お話しすることを楽しんでくださる方がいる。
そして、私もその時間を楽しみにしている。
……そんな関係があるなんて。
少し前までは、考えてもいませんでした。
(……本当に、不思議な方ですね)
桐藤ナギサ様。
最初は、少し面倒な面談相手だと思っていたお方。
今では、次に何をお話しできるのか、楽しみにしているお方。
……いつの間に。
こんなにも印象が変わってしまったのでしょう。
私は、ナギサ様の横顔をそっと見つめました。
その表情は、やはり楽しそうでした。
……ああ。
(……よかった)
なぜか、そんな言葉が浮かびました。
そして、思ったんです。
……できることなら。
これからも。
この方が、こんなふうに笑っていられるといいですね。
……ふふっ。
それは、私が考えることではないのかもしれません。
ですが。
少しくらい、そう願ってもよいでしょう?
私は、まだ気づいていませんでした。
この時、心の中に生まれていた小さな気持ちが。
後になって、私自身を困らせることになるなんて。
……もちろん。
この時の私は、そんなことなど知る由もありません。
ただ。
もう少しだけ、ナギサ様とお話ししていたい。
そう思っていたんです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回はハナコ視点で、最初の面談から第19話までの出来事を振り返ってみました。
ナギ視点では何気なく進んでいた会話も、ハナコから見ると少し違ったものに見えていたのかもしれません。
次回はEX2中。補習授業部での勉強会から、キャンバスの前までのお話へと続きます。
次回もよろしくお願いします!