今回でハナコ視点のお話も完結となります。
第27話のキャンバスのお話を、ハナコがどのように受け止めていたのか。
最後までお楽しみいただければ幸いです!
「人生を、一枚のキャンバスに例えてみましょうか」
……キャンバス。
少し意外でした。
正解のない問題についてお尋ねしたのに、まさか絵のお話になるなんて。
「……人生を、ですか?」
「ええ」
ナギサさんは、白紙の中央に大きな四角を描かれました。
そして、私たちが生きている間に経験することのすべてが、このキャンバスに描かれていくのだと説明してくださいました。
幸運な出来事。
嬉しかったこと。
大切な人と過ごした時間。
そうした幸せな思い出は、きっと明るい色になるのでしょう。
けれど、人生には明るい色だけがあるわけではありません。
「不運な出来事。失敗したこと。誰かに傷つけられたこと。そして、悲しみや後悔」
ナギサさんは、四角の中に一本の線を引かれました。
「そうした経験も、人生の一部として描かれていきます」
……そうですね。
楽しいことばかりが、人生ではありませんから。
コハルちゃんは、嫌な思い出まで残ってしまうのかと尋ねました。
そして、少し考え込んだ後。
「だったら、あんまり綺麗な絵にならないんじゃない?」
……確かに。
どれほど素晴らしい人生を歩んできた方でも、後悔や失敗の一つくらいはあるでしょう。
暗い色ばかりが重なってしまったら、綺麗な絵にはならないかもしれません。
ですが、ナギサさんは微笑まれました。
「ふふっ。そうとは限りませんよ」
そして、先ほど引いた線の上に、新しい線を重ねられたんです。
「絵は、一度色を塗ったら終わりというわけではありませんから」
……なるほど。
悲しい出来事があっても、その後に幸せな出来事が訪れるかもしれない。
新しい友人ができたり、夢中になれるものを見つけたり。
そうした経験によって、以前とは違う絵になっていく。
過去を消すことはできなくても、そこに新しい色を重ねることはできる。
そういうことなのでしょう。
「もちろん、無理に明るい色で塗りつぶす必要もありません。悲しかった思い出にも、その人にとって大切な意味があるかもしれませんから」
私は、机の上の紙を見つめました。
(……私の場合は、どうでしょうか)
以前の学園生活を、思い出しました。
優秀な生徒。
将来のティーパーティー候補。
シスターフッドにとっても、必要な人材。
周囲の方々は、私のことをそんなふうに見ていらっしゃいました。
……けれど。
そのどれも、私が望んだものではありませんでした。
(……私は、そんな人ではないのに)
私自身が何を考え、どんなことをしたいのか。
そんなことは、誰も気にしていないように思えたんです。
(……あまり、好きな色ではありませんね)
できれば、もう塗りたくない色です。
それでも、その経験がなければ、私は今、ここにいなかったかもしれません。
補習授業部に入ることも。
ヒフミちゃんたちと、一緒にお勉強することも。
そして、ナギサさんと、こうしてお話しすることもなかったのでしょう。
(……そう考えると、悪いことばかりではありませんね)
過去の色を無理に好きになる必要はない。
ただ、その色があったからこそ描けたものもある。
私は、そんなふうに受け取りました。
◇
「ですが、こちらをご覧ください」
ナギサさんが、紙の余白を指さされました。
そこには、まだ何も描かれていません。
ヒフミちゃんが、その意味に気づいたようです。
「これから先の人生、ですね!」
「ふふっ。正解です」
……未来。
まだ、何も描かれていない場所。
これから出会う人や、新しく経験する出来事によって、知らなかった色が加わるかもしれない。
ナギサさんは、そうおっしゃいました。
(……知らない色、ですか)
私は、隣に座る皆さんを見ました。
ヒフミちゃん。
コハルちゃん。
アズサちゃん。
皆さんと出会う前の私には、今のような時間を想像できなかったでしょう。
未来というものも、それほど悪くないのかもしれません。
ですが、一つ気になることがありました。
「……とても素敵なお考えですね」
「ありがとうございます」
「ですが、ナギサさん」
「はい?」
私は、机の上の紙を見つめました。
この質問は、私自身の事情に近づいてしまうかもしれません。
けれど、この方ならどのようにお答えになるのでしょう。
「もし、自分にはある色を扱う才能があって、周囲の方々からも、その色を使ってほしいと期待されていたら……」
私は、ゆっくりと顔を上げました。
「それでも、自分の好きな色を選んでよいのでしょうか?」
「もちろんですよ」
……あら。
随分と、あっさりしたお答えですね。
「……本当に?」
「ええ。あなたの人生は、あなたのものです」
…………。
私は、思わず言葉を失いました。
あなたの人生は、あなたのもの。
考えてみれば、当たり前のことです。
自分の人生をどう生きるか。
最後に決めるのは、自分自身。
そんなこと、私だって分かっていたはずなのに。
(……どうしてでしょう)
改めて言われると、胸の奥が軽くなったような気がしました。
ナギサさんは、続けておっしゃいました。
「得意なことと、やりたいことが同じとは限りませんからね」
……そうですね。
私は、ずっとその違いに悩んでいたのでしょう。
誰かの期待に応えることは、決して悪いことではありません。
自分の才能を使って誰かを助けられるなら、それは素晴らしいことです。
けれど、その道しか選べないわけではない。
他の色を使ってみたいと思うことまで、間違いにする必要はないんですね。
(……私は、私の好きな色を選んでもいい)
不思議なものです。
この方は、決して難しいことをおっしゃっているわけではありません。
それなのに、その言葉は私が考えないようにしていたことを、静かに思い出させてくれました。
ただ、自分の色を選んでいいとしても。
誰かに、その才能を必要とされた時はどうすればよいのでしょう。
私は、もう一つ尋ねてみることにしました。
◇
「もし、その才能を必要としている方々から、一緒に絵を描いてほしいと誘われたら……どうでしょう?」
ナギサさんは、少し考えてからお答えになりました。
「でしたら、まずは誘ってくださった方のキャンバスを見てみればいいんです」
……相手の、キャンバス。
その方がこれまでどんな人生を歩み、これからどんな未来を描こうとしているのか。
それを知ったうえで、自分はどう感じるのか考えてみる。
もし、相手の困難を何とかしてあげたいと思えたなら。
自分の力で明るい色を重ねたいと思えたなら。
誰かに求められるまでもなく、自分から関わりたいという気持ちが生まれるかもしれない。
……なるほど。
それは、確かにそうですね。
私だって、誰かが困っているのを見れば、手を貸したくなることがあります。
けれど、それでも一緒に描きたいと思えなかったら?
「それでいいんですよ」
ナギサさんは、迷わずお答えになりました。
「無理に一緒に描く必要はありません」
……あら。
また、随分とはっきりおっしゃるんですね。
ですが、相手はこちらの才能を必要としているんです。
それなのに断ってしまったら、失望されるかもしれません。
私は、そうお伝えしました。
すると。
「一緒に描きたいと思ってもらえなかったのなら、誘った側にも責任があります」
……。
(……誘った側にも、ですか?)
それは、意外なお答えでした。
私は、今まで何度も才能についてのお話を聞いてきました。
優れた才能には、それにふさわしい使い道がある。
その力を必要としている人々のために、役立てるべきだ。
……もっともらしい考え方です。
実際、間違っているわけでもないのでしょう。
けれど、そうしたお話では、才能を持つ本人の気持ちが、いつの間にか置き去りにされてしまうことがありました。
ナギサさんは、そこを見過ごされなかったんです。
誰かを誘うということは、その方の時間や人生の一部を、自分の目指すもののために使っていただくこと。
だからこそ、誘う側にも責任がある。
相手の事情を理解しようともせず、才能が必要だからという理由だけで誘っても、受け入れてもらえるとは限らない。
そして、誘いを受けてもらえたのなら、今度はその方を迎え入れた側として支える責任が生まれる。
私は、ナギサさんのお顔を見つめました。
この方は、ティーパーティーのホストです。
本来なら、多くの生徒に仕事をお願いする立場。
優秀な人材を必要とする側の方です。
……なのに。
才能を持つ人間にばかり責任を求めるのではなく、その才能を必要とする側にも責任があるとおっしゃる。
それは、私にとって新鮮な考え方でした。
しかも、私がその人にしかできないことがあったとしても同じなのかと尋ねると、ナギサさんは、才能があることと、その才能で何でも解決できることは別だとお答えになりました。
……そうですね。
どれほど優秀な人間でも、一人でできることには限りがあります。
そして、誰かにしかできない仕事があるとしても、それだけで、その人の人生すべてを自由に使ってよいことにはならない。
私は、何度か似たような誘いを受けたことを思い出しました。
期待しているから。
あなたならできるから。
……そうした言葉は、ありがたいものでした。
ですが、もし私が断った時。
どうして、その道を選ばないのかと尋ねられることはあっても。
どうすれば私に選んでもらえるのかを、考えてくださる方は少なかったように思います。
(……誘う側にも、責任がある)
その考え方が、私には少し新鮮でした。
だからこそ、確かめたくなったんです。
「……つまり」
私は、ナギサさんへ視線を向けました。
「相手の方が、どれほど自分を必要としてくださっていても……最後に選ぶのは、自分自身だと?」
「ええ」
ナギサさんは、迷わず頷かれました。
「そして、選んだ後も、お互いの人生を大切にできる関係であることが望ましいと思います」
……お互いの人生を、大切にできる関係。
必要とされることと、その人と一緒にいたいと思うことは、同じではありません。
一緒にいると決めた後も、どちらか一方だけが我慢し続けるような関係では、きっと長くは続かないのでしょう。
私は、自然と微笑んでいました。
「……ありがとうございます、ナギサさん」
「おや。どういたしまして」
胸の奥にあったわだかまりが、少し和らいだ気がしました。
けれど、ここで新たな疑問が浮かびます。
この方は、今おっしゃったことを、ご自身ではどのように実践していらっしゃるのでしょう。
理想を語ることと、それを実行することは別です。
特に、組織のトップという立場なら、自分の望みだけではどうにもならない場面もあるはずです。
私は、改めて尋ねました。
「……ですが、一つ気になったことがございます」
「何でしょう?」
「ナギサさんご自身は、どうされているんですか?」
◇
ナギサさんは、少し考えてからお答えになりました。
「私の場合は、まず自分が描こうとしている未来を、お伝えするようにしています」
……未来を、ですか。
何を実現したいのか。
なぜ、それを実現したいのか。
そして、その先にはどのような未来が待っているのか。
それを相手に伝える。
「そして、もし私の考えに共感してくださったのなら、一緒に描いていただければ嬉しいですね」
……なるほど。
素敵なお考えです。
ただ、それだけでは組織を運営できません。
「ですが、賛同していただけなかったら?」
「残念ですが、仕方ありませんね」
……あら?
「私の考えが、誰にとっても正しいとは限りませんから」
確かに、そのとおりでしょう。
けれど、現実にはそれだけで済ませられないこともあります。
全員が納得するまで待っていたら、何も決められないかもしれません。
ティーパーティーのホストなら、なおさらです。
そう考えていると、ナギサさんは静かに続けられました。
「私は、ただ命令すれば人がついてくるとは思いません」
私は、ナギサさんのお顔を見つめました。
「もちろん、私はティーパーティーのホストです。立場上、皆さんに指示を出すこともできますし、学園を守るために、時には本人の意思に反してでも協力していただかなければならないこともあるでしょう」
「……ええ」
そうですね。
どれほど優しい方がトップに立っていたとしても、すべての人の希望を叶えられるわけではありません。
学園を守るためなら、誰かに負担を求めなければならない場面もあるはずです。
そのことを、ナギサさんも理解していらっしゃる。
「ですが、相手が私の描こうとしている絵を気に入っていなかったら、どうなるでしょうか?」
「……気に入っていなかったら、ですか?」
「ええ。たとえ命令に従ってくださったとしても、その絵を大切にしたいと思っていただけるとは限りません」
……確かに。
命令に従うことと、目的に賛同することは別です。
本人に悪気がなくても、相手の意図を理解していなければ、望まない結果につながることもあるでしょう。
いえ、悪気がないとは限りませんね。
気に入らない相手から命令されたという理由で、わざと仕事を遅らせたり、邪魔をしたりする人だっているはずです。
組織というものは、ただ命令を出せば思いどおりに動くほど単純ではありません。
ナギサさんのお考えは、その先にありました。
「ですから、どうしても協力していただかなければならない時ほど、私は自分の描こうとしている絵を、きちんと説明する必要があると思っています」
……説明する必要がある。
私は、思わず聞き入ってしまいました。
何を実現したいのか。
なぜ、そのために協力が必要なのか。
そして、皆さんの協力によって、どのような未来を描けるのか。
それを伝え、少しでも共感してもらえるよう努力する。
この方は、必要なら相手の意思に反する命令を出すこともあると認めていらっしゃいます。
それでも、命令できる立場だからこそ、何も説明しなくてよいとは考えていない。
むしろ、断りにくい相手に協力を求める時ほど、理解してもらう努力が必要だと。
(……誠実なお考えですね)
もちろん、説明したからといって、全員が納得するとは限りません。
それでも、努力をやめない。
そこに、この方の理想があるのでしょう。
「……それが、トップとしての責任……いえ」
そして、小さく首を振られます。
「誰かを自分のキャンバスに誘う側としての責任だと、私は思っています」
…………。
(……誘う側としての、責任)
私は、その言葉を心の中で繰り返しました。
トップだから、責任がある。
もちろん、それも間違いではありません。
けれど、この方は。
誰かの人生に関わろうとする以上、その立場にかかわらず責任が生まれると考えていらっしゃる。
仕事をお願いする時も。
協力を求める時も。
その人が自分の時間を使ってくれることを、当たり前だとは思わない。
私は、これまでにも多くの優秀な方々とお会いしてきました。
素晴らしい理想を語る方も。
現実的な判断を下せる方も。
どちらも、珍しくありません。
ですが、現実の難しさを理解したうえで、相手の意思を尊重することを諦めない方は……。
(……なかなか、いらっしゃいませんね)
しかも、それを特別なこととしてではなく、当然の責任として語っていらっしゃる。
「……ナギサさんは、そこまでお考えなんですね」
「ふふっ。あくまでも、私の理想ですけどね」
……理想。
そうおっしゃるんですね。
ですが、私にはただの綺麗事には聞こえませんでした。
現実の難しさを理解したうえで、それでも目指したいものがあるのでしょう。
「もちろん、最初から自分の意思で協力したいと思っていただけるのが、一番嬉しいことです」
……ええ。
そうですよね。
命令されたからでもなく。
断れなかったからでもなく。
自分から、一緒に歩みたいと思うこと。
きっと、それが一番よいのでしょう。
そして、ナギサさんは微笑まれました。
「私は、そんなふうに、自分から一緒に描きたいと思ってもらえるリーダーを目指しています」
…………。
(……自分から、一緒に)
その言葉が、不思議と胸に残りました。
私は、これまでの出来事を思い返しました。
最初の面談。
私の事情を、無理に聞き出そうとなさらなかったこと。
あの日、頭を撫でてくださったこと。
今日の勉強会で、皆さんが自分の力で答えにたどり着くまで待ってくださったこと。
そして、私の悪戯を、面白い問題だったと褒めてくださったこと。
……そうですか。
すべて、つながっていたんですね。
この方は、ご自身の理想を言葉にするだけではありません。
できる限り、そのとおりに行動しようとなさっている。
もちろん、いつでも理想どおりにできるわけではないのでしょう。
それでも、目指すことをやめない。
(……素敵な方ですね)
私は、素直にそう思いました。
そして、不思議な考えが浮かんだんです。
(……私も、一緒に描いてみたいですね)
……あら?
それ自体は、おかしなことではありません。
この方のお考えに共感したのなら、協力したいと思うのは自然なことでしょう。
けれど、私が思い浮かべたのは、ティーパーティーのお仕事ではありませんでした。
この方が描こうとしている未来。
その中に、自分自身もいたら。
そんなことを、考えてしまったんです。
(……できることなら、隣で……)
…………。
(……隣?)
どうして、そんな言葉が浮かんだのでしょう。
お仕事をお手伝いするだけなら、隣にいる必要はありません。
少し離れたところから支えることだってできるはずです。
それなのに、なぜか私は、この方のすぐ隣にいる自分を想像してしまいました。
(……おかしいですね)
胸の奥が、何となく落ち着きません。
けれど、嫌な気分ではありませんでした。
むしろ、楽しいような、嬉しいような。
そんな、不思議な気持ちです。
私は、机の上の二つの四角を見つめました。
もし、この方のキャンバスに自分の色を加えるとしたら。
どんな絵になるのでしょう。
……少し、見てみたいですね。
◇
ナギサさんのお話は、まだ続いています。
自分を信じてついてきてくださった方には、その信頼に応えたい。
そんなお言葉でした。
私は、考えました。
もし、この方のキャンバスに、私自身の色を加えたいと思ったら。
その時は、受け入れてくださるのでしょうか。
「もし、誰かがナギサさんのキャンバスを見て、一緒に描きたいと思ったら……」
「……ええ」
「その方も、受け入れてくださるんですか?」
「もちろんですよ」
ナギサさんは、迷わずお答えになりました。
「お互いに、一緒に描きたいと思えるのでしたら、これほど嬉しいことはありませんから」
…………。
……そうですか。
私は、何かを言いかけました。
ですが、その言葉は口にしませんでした。
「……ふふっ。そうですか♡」
……嬉しいですね。
私が実際に何かをお願いしたわけではないのに。
ただ、誰かが一緒に描きたいと思ったら受け入れてくださるのかと尋ねただけなのに。
そのお答えを聞いて、安心してしまいました。
(……不思議ですね)
先ほどから、どうにも調子が狂ってしまいます。
もう少し、このままお話ししていたいと思いました。
◇
その後、ヒフミちゃんたちもキャンバスのお話に加わりました。
皆さんと一緒に勉強している時間も、それぞれのキャンバスに描かれる。
ヒフミちゃんは、今日の分は明るい色になると喜んでいます。
アズサちゃんも、皆さんと過ごす時間が増えていくといいとおっしゃいました。
……素敵ですね。
ですが、コハルちゃんは試験のことを思い出したようです。
「そんなことより、まずは試験に合格しないといけないんだからね!?」
……まあ。
確かに、それも大切ですね。
せっかくのお話ですから、少しくらい楽しんでもよいでしょう?
「ですが、コハルちゃん。もし試験に落ちてしまったら、合宿という素敵な思い出が増えるかもしれませんよ?♡」
「アンタは少し反省しなさいよ!!」
……ふふっ。
やっぱり、可愛らしいですね。
私は、思わず笑ってしまいました。
こうして皆さんと過ごす時間も、私のキャンバスに描かれていく。
そう思うと、いつもより大切な時間に感じられました。
◇
皆さんが再び問題集に目を向け始めた頃。
私は、机の上の紙を見つめました。
人生というキャンバス。
そこに、どんな色を加えるのか。
それは、自分自身が決めること。
……だとしたら。
今日という日は、私のキャンバスにどんな色を加えたのでしょう。
私は、ナギサさんのお顔を見つめました。
そして、悪戯を思いつきました。
「……ナギサさん」
「はい?」
「少しだけ、困ったことになってしまいました♡」
「……おや?」
ナギサさんが、不思議そうなお顔をなさいました。
せっかくですから、からかってみましょう。
「私のキャンバス、もうナギサさんの色に染められてしまったみたいなんです♡」
……さて。
どんな反応をなさるでしょうか。
ですが、ナギサさんは考えた後、こうおっしゃいました。
「もし、私の言葉があなたの望まない色になってしまっていたのなら、遠慮なく塗り直してくださいね」
…………。
どこまでも、この方らしいですね。
ご自身の言葉で私の考え方が変わったとしても、それを当然とは思わない。
あくまでも、私が自由に選んでよいとおっしゃる。
けれど、今回は違いますよ。
「女の子のキャンバスに、ご自分の色を塗ってしまっただなんて……」
私は、楽しそうに微笑みました。
「……ナギサさんったら、大胆ですね♡」
……ふふっ。
また、困ったお顔をなさいましたね。
ですが、私の言葉には、もう一つ意味がありました。
これは、誰かに押し付けられた色ではありません。
私の才能を必要とする方が、勝手に塗った色でもありません。
私が、この方のお話を聞いて。
その考え方を知って。
そして、生き様に触れて。
自分から、この色を加えてみたいと思ったんです。
「塗り直すつもりは、ありませんから」
「……そうですか?」
「ええ」
私は、まっすぐにナギサさんを見つめました。
「だって、この色は……」
そこで、言葉を切ります。
「私が、自分で選んだものですから」
……そう。
これは、私が選んだ色。
ですから、大切にしたいと思いました。
それにしても、どうしてこんなに嬉しいのでしょう。
ただ自分で選んだと伝えただけなのに。
ナギサさんが優しく微笑んでくださると、ますます胸が温かくなってしまいます。
(……あらあら)
……面白いですね。
私の知らないところで、私自身に変化が起きているようです。
いつもなら、相手をからかって、その反応を楽しむところなのに。
今日は、ナギサさんの何気ない言葉や表情が気になって仕方ありません。
どちらがからかわれているのか、分からなくなってしまいましたね。
◇
「……ナギサさん」
「はい?」
「また、こうしてお話をしていただいてもよろしいでしょうか?」
気づけば、そんなことを尋ねていました。
もっと、この方のことを知りたい。
どんなことを考えて、どんな未来を望んでいるのか。
そのお話を、聞いてみたい。
そんな気持ちが、自然と言葉になったんです。
「……もちろんですよ」
ナギサさんは、いつものように微笑まれました。
そして、ご自身も楽しかったと。
……それだけでも十分、嬉しかったのですが。
「ハナコさんは、とても興味深い考え方をなさいますから」
……あら。
そう、おっしゃるんですね。
私とは違う角度から物事を考えているから、お話しするのが楽しい。
そんなことを、当たり前のように。
そして。
「あなたが、どのようなことを考えていらっしゃるのか。私も、もっと知りたいと思いました」
…………。
(…………!)
……あら?
私は、思わず動きを止めてしまいました。
私のことを。
もっと、知りたい。
…………。
(……えっ?)
……いえ。
その。
ちょっと、待ってください。
もちろん、意味は理解しています。
私の考え方に興味があるということなのでしょう。
それくらい、分かっています。
……分かっているんですが。
なぜか、胸が急に騒がしくなってしまいました。
私は、ナギサさんのお顔を見つめました。
いつもどおりの、穏やかな微笑み。
おそらく、ご本人は何も特別なことをおっしゃったつもりはないのでしょう。
それなのに、私はそのお顔から目を離せなくなってしまいました。
先ほどまで、あれほど自然にお話しできていたのに。
今は、何を言えばよいのか分かりません。
冗談なら、いくらでも思いつくはずなのに。
……女の子のことをもっと知りたいだなんて、大胆ですね♡
そんなふうに返せば、いつもの私です。
ですが、今その言葉を口にしてしまったら、自分の本心まで伝わってしまいそうな気がしました。
(……ああ)
私は、ようやく気づきました。
ナギサさんとお話しするのが楽しいこと。
頭を撫でていただいて嬉しかったこと。
この方が笑っている姿を見ると、私まで嬉しくなること。
そして、先ほどから何度も考えてしまうこと。
……この方の、隣にいたい。
それらが、ようやく一つにつながったんです。
(……もしかして)
私は、心の中で息を呑みました。
(……これが、恋なのでしょうか)
…………。
(……え?)
……いえ。
待ってください。
恋?
……私が?
…………。
(……あらあら……?)
これは、予想外ですね。
まさか、自分のことになると、こうも考えがまとまらなくなるなんて。
私は、無意識に指先を握りしめていました。
……落ち着きましょう。
ただ、恋をしただけです。
別に、何か大変なことが起きたわけではありません。
……いえ。
私にとっては、十分に大変なことかもしれませんけど。
(……初恋、ですか)
初めて、誰かを特別に思う気持ち。
その人の隣にいたいと思うこと。
何気ない言葉一つで、こんなにも心が揺れてしまうこと。
……なるほど。
これが、初恋というものなんですね。
恋愛についての知識なら、それなりに持っているつもりでした。
人をからかうことだって、得意です。
恋愛に関する冗談なら、いくらでも思いつきます。
けれど、自分がこんなふうになるなんて。
知識があることと、実際に経験することは違うんですね。
(……ふふっ)
私は、思わず笑いそうになりました。
これでは、コハルちゃんのことをあまりからかえませんね。
あの子が顔を赤くして慌てる気持ちも、分かってしまったような気がします。
……いえ。
もちろん、これからもからかいますけど♡
困っているはずなのに、なぜか楽しくなってきました。
自分の知らなかった感情に出会う。
それも、ナギサさんのおっしゃる新しい色なのでしょうか。
(……それなら、悪くありませんね)
むしろ、これからが楽しみです。
ナギサさんとお話しするたびに、こんなふうに慌ててしまうのでしょうか。
それとも、いつもどおりにからかえるようになるのでしょうか。
……どちらにしても、退屈はしなさそうです。
ただ。
今だけは、少々困っています。
ナギサさんが、私のお返事を待っていらっしゃるんですから。
「……ハナコさん?」
「……えっ?」
私は、はっと顔を上げました。
……いけません。
考え込んでしまいましたね。
「……あ、いえ」
何とか、いつもの笑顔を作ります。
ですが、頬が熱いままなのは、どうしようもありませんでした。
「……少し、驚いてしまいました」
「おや。どうしてですか?」
……それは。
その、ですね。
…………。
(……困りました)
ここで、どうお答えすればよいのでしょう。
いつもなら、相手を慌てさせるための言葉を選ぶのに。
今日は、自分が慌てないための言葉を探しているんです。
……まったく、立場が逆ですね。
私は、考えました。
もし、今の私が、自分の気持ちをうまく言葉にできなかったら。
この方は、どうなさるのでしょう。
「もし、私がお話をしている途中で、何を言えばいいのか分からなくなってしまったら……」
「……ええ」
「……その時は、どうなさいますか?」
すると。
「でしたら、思いつくまで待っていますよ」
「……え?」
「無理にお話しいただく必要はありませんから」
ナギサさんは、穏やかに微笑まれました。
「話したくなった時に、ゆっくり聞かせてください」
…………。
(……もう)
この方は、ずるいですね。
最初の面談でも、私の事情を無理に聞き出そうとはなさいませんでした。
頭を撫でてくださった時も、ただ私の行動を認めてくださった。
そして今日。
私の人生は、私自身のものだと。
誰かの期待に応えるためだけに、生きる必要はないのだと。
そうおっしゃったんです。
そのうえ、今度は私が自分の気持ちを言葉にできるまで、待ってくださると。
(……これは、反則ではありませんか?)
せっかく落ち着いてきたところだったのに。
そんなふうに優しくされたら、また胸が騒がしくなってしまいます。
……それにしても。
もし今、私がこの気持ちをお伝えしたら。
ナギサさんは、どんなお顔をなさるのでしょう。
驚かれるでしょうか。
困ってしまわれるでしょうか。
それとも、いつものように穏やかに微笑んでくださるのでしょうか。
(……ふふっ)
……いけませんね。
そんなことまで、気になってしまいました。
初恋というものは、なかなか厄介です。
けれど、こんなにも楽しいものだったんですね。
「……本当に、ナギサさんはずるい方ですね」
「……おや?」
ナギサさんが、不思議そうに首を傾げられました。
……ふふっ。
そういうところですよ。
「……いえ。何でもありません♡」
私は、いつものように微笑みました。
これは、まだ私だけの秘密です。
◇
「……ちょっと!」
突然、コハルちゃんの声が響きました。
「さっきから、二人で何の話をしてるのよ!?」
……あら。
どうやら、夢中になってしまっていたようですね。
皆さんでお勉強していたのに、これでは私たちだけでお話ししていたみたいです。
……まあ。
少々名残惜しい気もしますけど。
皆さんを仲間外れにするつもりはありませんよ?
「……ふふっ。もしかして、コハルちゃんも混ざりたかったんですか?」
「そ、そういう話じゃないでしょ!?」
私は、思わず微笑みました。
やっぱり、可愛らしいですね。
「コハルちゃんも、私たちのキャンバスに色を加えてみますか?♡」
「な、何よそれ!?」
きっと、賑やかな色になるでしょうね。
すると、アズサちゃんも一緒に加わりたいとおっしゃいました。
ヒフミちゃんも、それに賛成しています。
コハルちゃんは、少し照れたようにしながらも、結局ご自分も混ざるとおっしゃいました。
私は、教室を見渡しました。
ヒフミちゃんが笑っています。
コハルちゃんが、また何かに怒っていらっしゃいます。
アズサちゃんは、そんな二人を見ながら小さく微笑んでいました。
そして、ナギサさんも、その様子を嬉しそうに見守っていらっしゃいます。
(……私のキャンバスも、随分と賑やかになりましたね)
少し前まで、私は自分の未来について考えることが嫌でした。
将来。
進路。
才能。
そんな言葉を聞くたびに、息苦しくなっていたんです。
ですが、今は違います。
補習授業部の皆さんと、これからも一緒に過ごしたい。
そして、ナギサさんが描こうとしている未来を、もっと見てみたい。
……できることなら、その隣で。
(……ふふっ)
また、隣なんて考えてしまいました。
ですが、今度はその理由が分かります。
たった一人の存在が、未来の見え方まで変えてしまう。
恋というものは、不思議ですね。
◇
――ふと。
私は、先ほどのナギサさんのお話を思い出しました。
誰かに協力してもらう時には、自分が何を描こうとしているのか説明する。
その理由や目的を伝え、理解してもらえるよう努力する。
とても素敵な考え方です。
ですが、説明することと、すべてを話すことは同じではありません。
都合の悪い部分を省いたり、実際よりも良く見せたりすることで、相手を誤解させることもできるでしょう。
もちろん、その危険性をナギサさんが理解していないとは思えません。
(……もしかすると、あの方ご自身も、あえて伝えていないことがあるのでしょうか)
エデン条約の延期。
そのほかにも、私の知らない事情があるのかもしれません。
けれど、私はナギサさんが誰かを騙して利用するために、そうしたことをなさる方だとは思いませんでした。
もし何かを隠していらっしゃるのなら、誰かを守るためなのかもしれません。
…………。
(……あら?)
私は、自分の考えに引っかかりました。
何を隠しているのかも分からないのに、その理由まで良い方に考えてしまうなんて。
(……恋をしてしまったから、そう思いたいだけなのでしょうか?)
……ふふっ。
その可能性は、否定できませんね。
ですが、私が見てきたナギサさんの優しさまで、思い込みだったとは思いません。
補習授業部の皆さんを気にかけてくださったことも。
私の事情を無理に聞き出そうとなさらなかったことも。
今日、ご自身の理想を真剣に語ってくださったことも。
すべて、私がこの目で見てきたことですから。
(……私は、あの方を信じたいんですね)
信じることと、何でも正しいと思うことは違います。
もし、いつか間違っていると思うことがあれば、その時はきちんとお伝えすればよいのですから。
◇
それに。
以前、調べた記録についても、まだ答えは出ていません。
ある時期を境に変わった、ナギサさんの性格。
何か大きな出来事を経験されたのかもしれません。
以前から持っていた性格を、何らかの事情で隠していたのかもしれません。
あるいは、まったく別の理由があるのでしょうか。
別の人格がいらっしゃるという可能性も、まだ捨ててはいません。
ですが、それは数ある仮説の一つにすぎません。
今の情報だけで、答えを決めつけるつもりはありませんでした。
それに、どんな理由で変わったのだとしても、今、私が心を惹かれているのは、目の前にいらっしゃるこの方なんです。
(……それだけは、確かですね)
私は、そっと微笑みました。
だからといって、今すぐ秘密を聞き出そうとは思いません。
最初の面談で、ナギサさんは私の事情に気づいていらっしゃったのでしょう。
少なくとも、単なる学力の問題ではないことくらい、理解していらっしゃったはずです。
ですが、それ以上は聞いてこられませんでした。
私が自分から話すまで、待ってくださったんです。
……だったら。
私も、同じようにしましょう。
いつか、あの方がご自身のことを話してもよいと思ってくださった時。
その時は、きちんと聞かせていただきたいと思います。
もちろん、何か危険なことが起きていると分かったのなら、話は別ですけどね。
今は、こうして一緒に過ごせる時間を、大切にしたいと思いました。
私は、もう一度ナギサさんのお顔を見つめました。
ナギサさんは、私の考えていることなど知らないまま、楽しそうに微笑んでいらっしゃいます。
(……まったく、罪作りな方ですね)
少しは、こちらの気持ちにも気づいてくださってよいと思うんですけど。
……いえ。
今は、気づかれなくても構いません。
まだ、私自身も、この気持ちをどう扱えばよいのか分からないんですから。
それに、今すぐお伝えしてしまうのは、少しもったいない気がします。
初めての恋。
初めて誰かの隣にいたいと思った気持ち。
せっかくですから、もう少し、この感情を楽しんでみたいんです。
(……ふふっ)
それにしても。
まさか、この私が。
誰かの何気ない一言に慌てて、頬を赤くしてしまうなんて。
……自分でも、驚いてしまいます。
これから、どんなことが起きるのでしょうね。
また、頭を撫でてくださるのでしょうか。
一緒にお勉強する機会があるのでしょうか。
それとも、今日のように、思いがけない言葉で私を驚かせてくださるのでしょうか。
……あらあら。
考えるだけで、楽しみになってしまいました。
もっとも、いつまでもからかわれる側でいるつもりはありませんよ?
今日のお返しだって、まだ十分ではありませんから。
(……さて)
次は、どんなお話をしましょうか。
まだ、聞いてみたいことはたくさんあります。
もちろん、聞かないでおくと決めたこともありますけどね。
私は、そっと微笑みました。
――人生という、一枚のキャンバス。
そこには、これまで経験してきたことが描かれている。
そして、これから何を描くのかは、自分自身が決めること。
私のキャンバスには、まだ何も描かれていない場所がたくさんあります。
そこに、どんな色を重ねていくのか。
それは、これからの私が決めればよいことです。
ですが、一つだけ決まったことがあります。
今日、私のキャンバスに加わった新しい色。
これまで知らなかった、少し不思議で、温かい色。
私は、その色を気に入ってしまったようです。
そして、もしこれから先、少々大変なことが待っていたとしても。
簡単に諦めるつもりはありませんよ。
だって。
(……恋する乙女は、強いんですよ?♡)
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
これにてEX2『言葉にしなかったこと』は完結です!
今回は、ハナコの心境の変化を中心に描いてみました。
普段は人をからかう側のハナコですが、いざ自分のこととなると……。
今後のハナコとナギサの関係も、温かく見守っていただければ嬉しいです。
また、感想にてハナコからナギサへの呼称についてご指摘いただき、ありがとうございます!
こちらの確認不足でした。現在、該当箇所を少しずつ修正しております。
キャラ呼称表についても教えていただき、ありがとうございます! 今後の執筆でも参考にさせていただきます。
こうしたご指摘は本当に助かります。改めてありがとうございました!
次回からは本編に戻ります!
引き続きよろしくお願いします!