今回は、ナギの少し変わった準備のお話です。
準備は順調に進んでいる……はずなのですが。
お楽しみいただければ幸いです!
鍵を差し込み、収納棚の扉を開ける。
中には、いくつかの箱が保管してあった。
そのうちの一つを取り出し、机の上へ置く。
(……よし)
箱を開けると、丁寧に畳まれた衣服が姿を現した。
灰色を基調とした、少々くたびれた印象の制服。
所々に補強が施され、袖口や裾にも独特の加工がある。
そして、胸元には見覚えのある意匠。
(……アリウスの制服、か)
もちろん、本物ではない。
原作知識と、これまでに調べた資料を参考に製作してもらったものだ。
……さて。
そもそも、どうしてこんなものを用意したのか。
理由は単純だ。
(……自治区に入れたとしても、それで終わりじゃないからな)
アリウス自治区へ到達する方法は、既に考えてある。
だが、問題はその先だ。
自治区の内部で情報を集める以上、現地の生徒たちと顔を合わせることもあるだろう。
そこで、ティーパーティーのホストである桐藤ナギサが堂々と歩いていたらどうなるか。
(……まあ、即座に大騒ぎだよな)
だからこその変装だ。
……そして。
俺自身が潜入する必要があるのにも、ちゃんと理由がある。
(……暗号と古文書の問題なんだよな)
原作でも、アリウスの生徒たちは暗号化された地図を使用していた。
仮に経路を管理する情報を手に入れたとしても、それが簡単に読めるとは限らない。
古い文字や、現在とは異なる言葉で記されている可能性だってある。
……だが。
(……そのあたりは、俺の得意分野なんだよなぁ)
これまで、ティーパーティーに保管されていた古い資料を随分と読み込んできた。
古文書の読解も、歴史的な言葉の違いも、かなり理解しているつもりだ。
それに、暗号の解読にも自信がある。
もちろん、どんな暗号でも解けるなんて思っていない。
だが、手掛かりさえあれば、答えを導き出すだけの頭はある。
(……何より、原作知識もあるからな)
現地で得た情報を、これまで調べてきた資料や原作の知識と照らし合わせる。
そうした作業なら、俺はかなり適任だろう。
……自分で言うのも何だけど。
(……まあ、俺は頭がいいからな)
そこを変に謙遜するつもりはない。
自分の能力を正しく評価するのも、必要なことだと思っている。
……それに。
(……身体の方も、結構鍛えられたしな)
きっかけは、以前ミレニアムを訪れた時のことだった。
……あの時は、まさかスミレに捕まるとは思わなかったなぁ。
気がつけば、トレーニングに付き合わされることになっていたんだ。
……いや。
最初は、正直なところ少し面倒だった。
だが、筋トレには気分を前向きにしてくれる脳内物質の分泌を促す効果があるという。
それを聞いて、ふと思った。
(……これ、ナギサにもいいんじゃないか?)
俺とナギサは、同じ身体を共有している。
だったら、身体を動かすことで、ナギサ本人の気持ちも少しは明るくなるかもしれない。
もちろん、実際に効果があるかどうかは分からない。
それでも、試してみる価値はあると思ったんだ。
……そして。
スミレの指導を受けながら、トレーニングを続けていた時だった。
(……ん? 待てよ)
汗を拭いながら、ふと思いついた。
(……これ、潜入する時にもちょうどいいんじゃないか?)
アリウス自治区へ向かう以上、それなりの体力が必要になる。
長距離の移動。
狭い通路での行動。
場合によっては、走って撤退しなければならないこともあるだろう。
そう考えれば、今のうちに身体を鍛えておくのは合理的だ。
(……よし。これは続ける価値があるな)
……そう思って続けたんだけど。
(……まさか、俺までハマるとはなぁ)
これが、意外と楽しかったんだ。
最初はきつかった運動も、続けているうちに少しずつこなせるようになってくる。
昨日より重いものを持ち上げられる。
前より長く走れる。
そうした成長が、目に見えて分かるのが面白かった。
……それにしても。
(……ミレニアム式の筋トレ、すごいよなぁ)
スミレに教えてもらったトレーニングは、なかなかに本格的だった。
その後も空いた時間に続けているおかげで、今では以前より随分と身体が鍛えられている。
階段を上っても息が切れにくくなったし、長時間動き続けても疲れにくくなった。
……まあ。
だからといって、専門的な戦闘訓練を受けている生徒たちと互角に戦えるとは思っていない。
そこは、ちゃんと自分の能力を把握しているつもりだ。
俺の役割は、あくまでも情報収集と判断。
戦闘や護衛については、専門家に任せるのが一番だろう。
……そして。
(……その専門家を確保するのが、一番大変だったんだけどな)
俺は、数日前のことを思い出した。
◇
――数日前。
「……ナギサ」
「はい?」
「君が自分で潜入するなんて、危険すぎるよ」
先生は、珍しく厳しい表情を浮かべていた。
……うん。
まあ、そうなるよな。
当然、反対されることは想定している。
「お気持ちは分かります。ですが、先生」
「……何かな?」
「仮に私以外の方が経路に関する情報を発見したとして、その内容を理解できなければどうなるでしょうか?」
「……それは」
「情報を手に入れたところで、暗号が解けなければ意味がありません。場合によっては、帰還するための経路すら分からなくなる可能性があります」
俺は、用意していた資料を先生へ差し出した。
「私は古い資料を読み解くことができますし、暗号の解読にも自信があります。何より、カタコンベに関する情報を、現時点で最も多く把握している人間の一人です」
「……だから、自分が適任だと?」
「ええ」
俺は、はっきりと頷いた。
「今回必要なのは、単純な戦闘能力だけではありません。現地で情報を集め、その意味を理解し、状況に応じて判断する能力です」
もちろん、俺より暗号解読が得意な人間はいるだろう。
古文書の専門家だって、他にいる。
だが、それらの知識に加えて、原作の情報まで持っているのは俺だけだ。
それなら、自分が向かう方が合理的だと思っている。
「……それでも、危険なことに変わりはないよ」
「ええ。ですので、先生にはSRTの生徒たちへの協力依頼をお願いしたいんです」
「……SRT?」
「はい。特殊任務に慣れた生徒たちに、潜入時の護衛をお願いできればと考えています」
先生は、少し難しい表情を浮かべた。
「……ナギサ。今のSRTがどういう状況なのか、知っているよね?」
「ええ。もちろんです」
SRT特殊学園。
連邦生徒会長の失踪以降、閉鎖を巡って問題を抱えている学園だ。
原作知識から、その事情もある程度把握している。
(……まあ、俺も何もしていなかったわけじゃないんだけどな)
実は、既にトリニティの名で連邦生徒会に働きかけ、SRTの閉鎖方針を再考するよう求めている。
もちろん、それだけで閉鎖が撤回されるわけじゃない。
だが、少なくとも結論を先延ばしにすることはできた。
(……おかげで、少しは時間を稼げたな)
そして、もう一つ。
原作では、FOX小隊が連邦生徒会を襲撃する事件が起きる。
だが、今のところ、その事件はまだ発生していない。
(……本当に、ギリギリだな)
もっとも、この状況がいつまで続くかは分からない。
だからこそ、動けるうちに動いておきたい。
(……正直、こんな時期に頼むのは心苦しいんだけどな)
ただでさえ、学園の存続が危ぶまれているんだ。
そんな状況で、他学園の危険な任務に協力してほしいなんて、普通なら無理なお願いだろう。
……だけど。
「先生。無理なお願いをしていることは、重々承知しています」
「……うん」
「ですが、今回の潜入作戦には、どうしてもSRTの力が必要なんです」
俺は、先生を真っ直ぐに見つめた。
「トリニティにも優秀な生徒は大勢います。ですが、通常の警備や戦闘と、敵地への潜入はまったく別のものです」
もちろん、トリニティの生徒たちを信用していないわけじゃない。
ツルギをはじめ、頼りになる生徒は何人もいる。
だが、今回必要なのは、戦闘能力に加えて、敵に見つからず行動するための専門的な技術だ。
「今回の作戦では、小さな失敗が部隊全体の危険につながる可能性があります。ですから、潜入任務に必要な練度を保証できない部隊を、安易に同行させるわけにはいきません」
「……なるほど」
「その点、SRTで専門的な訓練を受けた生徒たちであれば、安心してお任せできると考えています」
先生は、考え込むように資料へ視線を落とした。
「……でも、彼女たちが協力してくれるとは限らないよ?」
「ええ。それも承知しています」
そもそも、今のSRTの状況を考えれば、協力を断られてもおかしくない。
だからこそ。
「……先生」
「うん?」
「このようなお願いができるのは、先生しかいないんです」
俺は、深く頭を下げた。
「どうか、SRTの生徒たちに協力をお願いできないでしょうか」
「…………」
しばらく、沈黙が続いた。
……正直、断られても仕方ないと思っている。
先生だって、何でも自由にできるわけじゃない。
ましてや、SRTの問題は連邦生徒会にも関わることだ。
……だけど。
今の俺には、これが最善の方法だと思えた。
「……分かった」
「……!」
顔を上げる。
先生は、真剣な表情で頷いていた。
「そこまで考えているなら、僕もできる限りのことをするよ」
「……先生」
「連邦生徒会にも、SRTの関係者にも話してみる。必ず協力してもらえるとは約束できないけど……」
先生は、力強く頷いた。
「頭を下げてでも、必要なら足を舐めてでも、協力をお願いしてくるよ」
「…………」
……え?
(……いや、ちょっと待て!?)
「せ、先生!?」
「うん?」
「足を舐める必要はありませんからね!?」
「……えっ?」
「頭を下げるだけで十分です! そこまでしていただくつもりはありません!」
「……あはは。もちろん、例え話だよ」
先生は、少し照れくさそうに笑った。
…………。
(……本当か?)
この先生なら、必要とあらば本当にやりかねない気がするんだけど。
……いや。
そこまでしてもらったら、俺の方が困る。
「……ですが、本当にありがとうございます」
「気にしないで。僕も、みんなを守りたいからね」
先生は、穏やかに微笑んだ。
……ああ。
本当に、この人には頭が上がらないな。
「ただし、ナギサ」
「はい?」
「SRTの子たちに協力してもらえたとしても、君自身が潜入することについては、まだ納得していないからね」
……おっと。
そこは、やっぱり譲ってくれないか。
「……それと、協力をお願いする以上、僕も現地まで同行することになるね」
「ええ。もちろんです」
俺は、頷いた。
……というか。
(……先生が来てくれないと、むしろ困るんだよな)
SRTの生徒たちに協力をお願いするのは先生だ。
今回の任務で彼女たちを指揮するのも、先生にお願いすることになる。
俺が直接SRTの指揮権を持てるわけじゃない。
……まあ、仮に任せてもらえたとしても、専門的な部隊の指揮なんて経験がないしな。
「先生には、SRTの皆さんの指揮をお願いするつもりです。ですので、最初から現地までご同行いただく前提で計画を立てています」
「うん。そこは僕もそのつもりだよ」
先生は、頷いた。
「僕が協力をお願いする以上、現地での責任もちゃんと持たないとね」
「ありがとうございます」
……それに。
先生には、単にSRTの生徒たちを指揮してもらうだけじゃない。
もし、アリウスの生徒たちを保護することになった場合にも、力を貸してもらいたい。
俺よりも、先生の方が適任な場面は多いだろう。
「……だけど、ナギサ」
「はい?」
「僕が同行するとしても、君が潜入することについては別だよ」
……うん。
そうだよな。
「実際に自治区へ到着して、危険だと判断したらどうするつもりなの?」
「その時は、潜入を中止します」
「……本当に?」
「ええ。もちろんです」
俺は、迷わず答えた。
「むしろ、先生にもその判断をお願いしたいと思っています」
「……僕に?」
「はい。先生も現地へ同行されるのですから、潜入前に状況を確認していただけますよね?」
「……うん」
「でしたら、先生が危険すぎると判断された場合、その時点で潜入を中止することにしましょう」
「…………」
「もちろん、私自身も不利だと判断すれば、撤退を指示します」
俺は、資料を閉じた。
「そもそも、私の最終的な目的は、アリウス自治区へ潜入し、ベアトリーチェと交渉することです」
「……交渉、だね」
「ええ。ですが、何の準備もなく交渉の場に臨むつもりはありません」
俺は、資料の一部を指さした。
「相手の内部事情を知らず、帰還するための経路すら把握できていない状態では、交渉の主導権を握ることは難しいでしょう」
……そう。
そもそも、あのベアトリーチェが、まともな交渉に応じるとは思っていない。
こちらが話し合いを求めたところで、素直に席についてくれるような相手じゃないからな。
……だったら。
(……交渉せざるを得ない状況を作ればいい)
相手の目的を把握し、こちらが取れる手段を増やす。
そして、あの女が選べる道を、一つずつ狭めていく。
拒否することも、無視することも、自分の思いどおりに事を進めることもできない。
そんな状況まで追い込めば、どうなるか。
(……普通なら絶対に選ばない『交渉』という選択肢を、あの女自身に選ばせる)
もちろん、あの女は自分で判断したつもりになるだろう。
……だが。
その選択肢を残したのが、俺だったとしたら?
(……ふふっ)
相手に交渉をお願いする必要なんてない。
交渉するしかない状況を、こちらで用意すればいいんだ。
そして、その状況を作り上げるために必要なのが、今回の潜入だ。
交渉を有利に進めるための情報。
万が一、計画が崩れた場合に備えた撤退経路。
その両方を、確保しておく必要がある。
(……あの女には、俺の用意した舞台に上がってもらう)
……まあ。
そのためにも、まずは準備を整えないとな。
「だからこそ、潜入後は必要な情報を集め、交渉に向けた準備を進めたいんです」
「……交渉を有利に進めるために?」
「ええ。それに、もう一つ重要な理由があります」
俺は、先生へ視線を向けた。
「仮に交渉が決裂した場合、私たちは速やかに撤退しなければなりません。その時になって帰り道が分からないのでは、あまりにも危険です」
「……なるほど」
「ですので、カタコンベの経路を把握し、安全な撤退手段を確保しておく必要があるんです」
……もちろん。
交渉が上手くいくに越したことはない。
だが、相手はあのベアトリーチェだ。
(……素直に話を聞いてくれるとは思えないんだよなぁ)
だからこそ、失敗した場合も想定しておく。
「つまり、今回の潜入は交渉を成立させるための準備でもあります。交渉を有利に進めるための情報収集と、万が一に備えた撤退経路の確保。その二つが重要なんです」
「……うん。分かったよ」
「ですから、準備の段階で無理をして、肝心の交渉に支障をきたすようなことは避けたいんです」
俺は、微笑んだ。
「成功の見込みがない状況なら、迷わず撤退します。そのために、先生にもご協力をお願いしているのですから」
……それに。
俺自身が、冷静な判断を下せなくなる可能性だってある。
万が一、俺が目の前の目的に固執してしまったら。
その時は、先生に止めてもらう必要があるだろう。
「さらに、潜入後の現場判断については、護衛を担当するSRTの皆さんの意見も尊重するつもりです」
「……そうなの?」
「ええ。現地での危険を見抜く能力については、専門的な訓練を受けた方々の方が優れているでしょうから」
俺が得意なのは、情報の分析と判断。
だが、それだけですべての危険に対応できるわけじゃない。
だからこそ、専門家を頼る必要がある。
「先生が危険だと判断されれば中止。SRTの皆さんが撤退すべきだと判断された場合も、それに従います。そして、私自身も不利だと判断すれば撤退を指示する」
俺は、微笑んだ。
「そのうえで、潜入するかどうかは現地で最終判断する。それなら、いかがでしょうか?」
……さて。
これなら、どうだ?
専門の護衛を用意する。
現地での判断には先生も加わる。
危険だと判断すれば、作戦は中止。
……これ以上、安全性を高める方法があるなら、俺だって知りたいくらいだ。
「…………はぁ」
先生が、深いため息をついた。
「……君って、本当に」
「……はい?」
「そこまで考えているなら、簡単には反対できないね」
……よし。
「では……」
「ただし!」
「……はい?」
先生が、人差し指を立てた。
「今言ったことは、絶対に守ってもらうからね」
「ええ。もちろんです」
「危険だと判断したら、ちゃんと中止すること。それから、絶対に一人で無茶をしないこと」
「はい」
「……それと」
先生は、真剣な表情でこちらを見つめた。
「自分の命を、軽く扱わないこと」
「…………」
……ああ。
最後は、そこか。
俺は、少しだけ表情を和らげた。
「……分かりました。お約束します」
先生は、ようやく安心したように息を吐いた。
「……まったく。最初から全部考えていたんだね」
「ふふっ。先生にご協力いただく以上、できる限りの準備はしておきたいですから」
「……本当に、敵わないなぁ」
先生が、苦笑した。
……うん。
何とか、納得してもらえたらしい。
「ありがとうございます、先生」
「……どういたしまして。でも、まだ心配はしてるからね?」
「ええ。承知しています」
……こうして。
少々長い話し合いの末、先生にも協力を認めてもらうことができたのだった。
◇
――現在。
(……いやぁ、あの時は本当に怒られたな)
……まあ。
先生が心配するのも当然だ。
それでも、最終的には納得してもらえた。
しかも、SRTの生徒たちとの調整まで引き受けてくれたんだ。
実は、今日の補習授業部の合宿に先生がいなかったのも、そのためだったりする。
今頃は、協力してくれる生徒たちを探してくれているはずだ。
(……本当に、先生には頭が上がらないな)
もちろん、まだ協力が得られると決まったわけじゃない。
断られる可能性もあるし、人数が揃わないかもしれない。
その場合は、計画を見直す必要があるだろう。
……まあ。
それは、先生からの連絡を待つとして。
(……今は、自分の準備を進めよう)
俺は、箱の中の制服を持ち上げた。
製作をお願いしたのは、トリニティの裁縫部だ。
依頼した時は、随分と驚かれたものだった。
◇
――少し前。
「……こちらの衣装を、ですか?」
「ええ。お願いできますでしょうか?」
俺は、用意してきた資料を机の上へ広げた。
原作で見たアリウス生の服装を、覚えている範囲で描き起こしたものだ。
ただし、記憶だけでは限界があるため、古い歴史資料も参考にしている。
「……珍しい意匠ですね」
「そうですね。古い時代の制服を参考にしたものです」
……一応、嘘ではない。
「……ですが、ナギサ様」
「はい?」
「こちら、随分と傷んだような仕上がりをご希望されていますね」
「ええ」
「……新品なのに、ですか?」
「はい」
…………。
裁縫部の生徒が、何とも言えない表情を浮かべた。
……まあ。
そうなるよなぁ。
「舞台衣装のようなものだと思っていただければ」
「……なるほど!」
生徒は、納得したように頷いた。
「それでしたら、布地の色や縫い目の処理で、古びた印象にすることはできます」
「本当ですか?」
「はい! ただ、実際に破れやすくする必要はありませんよね?」
「ええ。見た目だけで構いません」
……いや。
むしろ、丈夫にしてほしい。
変装した状態で走ったり、狭い場所を通ったりする可能性もあるからな。
「でしたら、お任せください!」
生徒は、自信に満ちた表情で頷いた。
……おお。
頼もしい。
「それにしても、ナギサ様」
「はい?」
「こういった衣装にも、ご興味がおありだったのですね!」
「……そうですね」
…………。
(……まさか、潜入用だなんて思わないよな)
……うん。
できれば、そのままでいてほしい。
「ふふっ。少し、気分を変えてみたくなりまして」
「そうだったんですね!」
……よし。
何とか誤魔化せた。
◇
――現在。
……そして。
今になって思えば、あの時のやり取りも、今日ハナコたちに話したことと同じだったのかもしれない。
(……これが、自分の描きたいキャンバスを見せるってことなんだろうな)
自分が何を目指しているのか。
そのために、どんなことをしようとしているのか。
そして、その先にどんな未来を描きたいのか。
それを伝えたうえで、一緒に描いてくれるかどうかは、相手に選んでもらう。
……先生は、最初こそ反対していた。
だが、俺の話を最後まで聞いてくれた。
危険性も、必要な準備も理解したうえで、自分の意思で協力すると決めてくれたんだ。
(……本当に、ありがたいな)
もちろん、まだ伝えられていないこともある。
だからこそ、俺にはその分の責任がある。
先生が協力してくれるからといって、何もかも任せていいわけじゃない。
SRTの生徒たちだって、それぞれ自分の人生があるんだから。
(……誘った側として、その責任はちゃんと果たさないとな)
……それに。
俺が描こうとしている未来は、俺一人では完成させられない。
先生にも、ミカにも、協力してくれる皆にも、それぞれの色がある。
その色を、俺の都合だけで塗り潰したくはない。
(……いつか、みんなで描いてよかったと思える絵にしたいな)
……うん。
そのためにも、まずは目の前の準備を進めよう。
俺は、机の上に置かれた制服へ視線を戻した。
先生との約束を守るためにも、できる限りの準備は整えておきたい。
……それにしても。
(……いやぁ、いい仕事してくれたよな)
俺は、制服を広げた。
布地の傷み具合も、細かな装飾も、かなりそれらしく仕上がっている。
もちろん、本物と完全に同じというわけではないだろう。
だが、遠目からなら十分に通用しそうだ。
……問題は。
(……俺自身なんだよなぁ)
俺は、姿見へ視線を向けた。
そこには、桐藤ナギサが映っている。
綺麗に整えられた髪。
上品な顔立ち。
手入れの行き届いた肌。
そして、どう見ても育ちの良さそうな雰囲気。
…………。
(……うん)
……これは。
(……アリウスの一般生徒には、見えないよな)
いや、顔立ちが問題というわけじゃない。
問題は、生活環境だ。
原作で描かれていたアリウス自治区は、決して恵まれた場所ではなかった。
十分な食事も、清潔な衣服も、満足に与えられていない生徒がいた。
……それなのに。
俺が、こんな綺麗な髪と肌のまま現れたら。
(……絶対、浮くよなぁ)
というわけで。
今日は、変装の練習をすることにした。
◇
――しばらくして。
「……よし」
俺は、鏡の前に立った。
そこには、先ほどとは随分と雰囲気の違う少女が映っていた。
灰色を基調とした制服。
使い込まれたように見える布地。
少し乱れた髪。
疲れを感じさせる目元。
髪の艶を抑え、化粧で肌の血色も調整してある。
(……おお)
……悪くない。
いや、見た目が悪いという意味じゃなく。
変装として、だ。
……まあ。
ちょっと紛らわしいけど。
俺は、鏡の前で何度か姿勢を変えた。
背筋を伸ばす。
顎を引く。
肩の力を抜く。
…………。
(……違うな)
普段のナギサとしての所作が、どうしても出てしまう。
ティーパーティーのホストとして生活しているうちに、すっかり身についてしまったらしい。
……いや。
それ自体は、悪いことじゃないんだけど。
今は困る。
(……もう少し、警戒心の強い感じで……)
俺は、肩を少し落とした。
重心を変え、周囲を窺うように視線を動かす。
足音も、いつもより小さくする。
……うん。
さっきよりは、それらしくなった気がする。
続いて、軽く身を屈めてみた。
膝を曲げ、そのまま素早く姿勢を戻す。
何度か繰り返してみたが、動きに大きな問題はない。
(……おっ)
以前なら、何度も続けると足が重くなっていたんだけどな。
今は、随分と楽に動ける。
(……やっぱり、筋トレの成果が出てるな)
……ふふっ。
こうして実感できると、ちょっと嬉しい。
今度、スミレに会ったら報告してみようかな。
……いや。
調子に乗って、さらに厳しいメニューを組まれそうだな。
(……やめておこう)
俺は、小さく首を振った。
……さて。
身体の動きは、悪くない。
だが、これだけで本物のアリウス生を騙せるかと言われると、自信はない。
服装を似せたところで、すべてが解決するわけじゃないからだ。
言葉遣い。
生活習慣。
所属する部隊。
誰と顔見知りなのか。
そうしたことを尋ねられれば、正体が露見する可能性もある。
(……だからこそ、変装だけに頼るわけにはいかないな)
できるだけ目立たず、余計な接触を避ける。
必要な時だけ行動し、情報を手に入れたら速やかに移動する。
そのあたりは、SRTの生徒たちとも相談して決める必要があるだろう。
……もちろん。
協力してもらえることが決まれば、の話だけど。
(……それにしても)
俺は、鏡の中の少女を見つめた。
普段のナギサとは、まるで別人だ。
少し乱れた髪に、疲れたような顔。
それでも、元の顔立ちが整っているせいか、どこか上品さが残っている。
(……これ、ナギサ本人が見たらどう思うんだろ)
…………。
……考えるのは、やめよう。
少なくとも、本人の趣味ではないだろうな。
(……ごめんな、ナギサ)
もちろん、髪や肌を傷めるようなことはしていない。
変装が終わったら、ちゃんと元に戻すつもりだ。
……ただ。
この姿で鏡を見るのは、少し不思議な気分だった。
ナギサの身体なのに、ナギサには見えない。
当然、元の俺の姿でもない。
まったく別の誰かに見える。
(……変装って、すごいなぁ)
……いや。
感心している場合じゃないか。
俺は、もう一度鏡を見た。
……うーん。
何というか。
まだ、何かが足りない気がする。
服装。
髪型。
化粧。
それぞれは、かなり上手くできている。
だが、全体を見た時に、どうにも違和感が残るんだ。
(……あっ)
……そうか。
表情だ。
普段のナギサとしての微笑みが、無意識に出てしまっている。
……いや。
さすがに、アリウスの一般生徒が、いつも穏やかに微笑んでいるとは思えない。
もちろん、あの子たちだって笑うことはあるだろう。
だが、少なくとも警戒している場面で、こんな顔はしないはずだ。
(……よし)
俺は、表情を引き締めた。
眉を少し寄せる。
視線を鋭くする。
口元から力を抜く。
…………。
(……おお)
……それっぽい。
……いや、どうだろう。
少なくとも、最初よりはいい気がする。
俺は、何度か表情を変えた。
警戒する顔。
不審な相手を見つけた顔。
何かを命令された時の顔。
……うん。
(……何やってるんだろうな、俺)
冷静になって考えると、少々滑稽な光景だ。
ティーパーティーのホストの部屋で。
桐藤ナギサの身体を借りた男が。
アリウス生の制服を着て、鏡に向かって怖い顔を練習している。
…………。
(……誰かに見られたら、言い訳できないな)
……まあ。
扉には鍵をかけてある。
護衛の二人も、もう戻っているはずだ。
今、この部屋に入ってくる人間なんていないだろう。
……それにしても。
さっきから、少し暑いな。
変装用の衣服は、普段の服より重ね着が多い。
それに、化粧や整髪用品の匂いも、少し気になっていた。
(……窓、開けるか)
俺は窓へ近づき、鍵を外した。
窓を開けると、涼しい夜風が部屋へ流れ込んできた。
「……ふぅ」
……気持ちいい。
少し、頭がすっきりした。
窓の外は、すっかり暗くなっている。
遠くには、トリニティの建物の明かりが見えた。
(……こうして見ると、平和なんだよな)
何も知らなければ。
これから、大きな事件が起きるなんて思わないだろう。
……いや。
(……何が起きても、あの子たちを守れるように準備しているんだけどさ)
補習授業部の子たち。
ミカ。
セイア。
そして、アリウスの生徒たち。
……全員を救うなんて、簡単なことじゃない。
それでも。
(……できる限りのことは、やっておきたいからな)
俺は、窓をそのままにし、鏡の前へ戻った。
もう一度、制服の襟を整える。
髪を軽く乱す。
そして、表情を引き締める。
(……よし)
これなら、かなりそれらしく見える。
……さて。
もう一度、歩き方を確認して――。
その時だった。
……ガタッ。
(……ん?)
背後で、何かが動く音がした。
俺は、鏡越しに窓の方を見た。
……え?
そこには。
人影が、窓枠に手をかけていた。
(……は?)
……いや。
ちょっと待て。
ここ、俺の部屋だぞ?
しかも、窓の外だ。
どうやって、こんなところまで――。
次の瞬間。
その人影が、勢いよく室内へ飛び込んできた。
「――救護です!!」
「……えっ!?」
…………。
(……この声、まさか!?)
俺は、反射的に振り返った。
白を基調とした衣装。
堂々とした立ち姿。
そして、こちらを真っ直ぐに見据える、鋭い瞳。
…………。
(……ミネ!?)
蒼森ミネ。
救護騎士団の団長。
以前から連絡を取ろうとしていた、その本人だった。
(……いや、何で窓から!?)
疑問が頭を埋め尽くす。
……だが。
それよりも、先に気づくべきことがあった。
今の俺は。
アリウス生の格好をしている。
しかも、よりにもよって。
鏡に向かって、警戒心の強そうな表情を練習していたところだ。
…………。
(……あっ)
……まずい。
ものすごく、まずい。
ミネの視線が、俺の制服へ向けられる。
その胸元にある、アリウスの意匠。
そして、いつもとは違う髪型と化粧。
……ミネの表情が険しくなった。
「……なるほど」
…………。
(……いや、違うぞ?)
「まさか、ここまで侵入されていたとは……!」
(……違う違う違う!!)
俺は、慌てて口を開いた。
「ま、待ってくださ――」
ミネの足が、床を踏みしめた。
「このような場所にまで侵入するとは……!」
……いや。
違う。
違うんです。
俺は、侵入者じゃ――。
「――まずは救護を!!」
ドゴッ!!
「――っ!?」
腹部に、強烈な衝撃が走った。
(……え?)
……ちょっと待て。
今、俺……殴られた?
「……か、はっ……!」
足から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
(……い、痛い……)
……いや、待って。
これ、本当に痛いんだけど……。
じわりと、視界が滲んだ。
(……あ、まずい)
……俺、痛いの苦手なんだよなぁ。
「安心してください!」
頭上から、ミネの力強い声が聞こえた。
「必ずナギサ様を救い出します!!」
…………。
(……ミネ……)
……その。
大変申し上げにくいんだけど。
ぽろっ。
頬を、涙が伝った。
(……救い出すも何も……)
(……そのナギサ、今あなたに殴られてるんですけどぉ……)
ついに救護騎士団の団長、ミネが登場しました!
ナギも以前から会いたがっていた相手なのですが……。
まさか、こんな再会になるとは。
果たして、この誤解は解けるのでしょうか?
それと、少しだけ今後のお話を。
実は今回の潜入作戦、当初は個人的に好きなRABBIT小隊に協力してもらう予定でした。
ですが、『ロア追跡』編第3章を見て、考えが変わりまして……。
正直、FOX小隊があそこまで潜入工作に長けているとは思っていませんでした。
今回の作戦内容を考えると、FOX小隊の方が適任なのでは? と思い、現在はそちらを採用する方向で考えています。
もちろん、RABBIT小隊も大好きなので、どこかでナギとのやり取りを書いてみたいですね!
引き続きよろしくお願いします!