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――午後五時。
(……そういえば、エデン条約もどうするべきかな)
ミカが紅茶を飲んでいる間、俺は少しだけ考えていた。
エデン条約。
トリニティとゲヘナの和平に向けた、学園を挙げての一大計画。
表向きは、長年の対立を解消するための重要な取り組みだ。
しかし。
(……正直、俺はあまり賛成できないんだよな)
もちろん、和平そのものには意味がある。
長年の対立が終われば、それだけで助かる生徒もいるだろう。
だが、両学園の戦力を結びつけるような組織まで必要なのか。
そこには疑問が残る。
(……特に、これからのゲヘナを考えるとな)
俺が知っている、さらに先の物語。
ゲヘナを中心に起こる、キヴォトス征服を目指す騒動。
もし、その時にエデン条約が存在していたら。
(……絶対、面倒なことになるよな)
正式な協力体制ができれば、情報の伝達は早くなる。
ゲヘナが他の学園に対して攻撃的な行動を取り始めれば、その情報もトリニティに伝わってくるだろう。
そして、共同の軍事組織まで存在していた場合。
トリニティは、ゲヘナの行動について対応を求められる可能性がある。
(……下手したら、戦争に巻き込まれるじゃん)
もちろん、未来が必ず原作通りになるとは限らない。
だが、少なくとも俺には、そこまでして条約を結ぶ利点が見えてこなかった。
(……できれば、結ばずに済ませたいな)
ただし、今すぐ中止するのは論外だった。
元のナギサは、長い時間をかけてこの計画を進めてきた。
トリニティの各派閥。
ゲヘナ側との交渉。
数え切れないほどの関係者。
突然中止を宣言すれば、トリニティの威厳は傷つく。
そして何より、ナギサ自身の信用にも関わる。
(……ナギサにそんな後始末を押しつけるわけにはいかない)
それに、元のナギサがエデン条約を進めていた理由だって理解できる。
長年対立してきたトリニティとゲヘナの争いを終わらせたい。
これ以上、生徒たちを危険にさらしたくない。
そして、トリニティの平和と安全を守りたい。
そのために、エデン条約が必要だと考えたのだろう。
(……別に、ナギサの考えが間違ってたわけじゃないんだよな)
むしろ、未来を知らない状態なら、俺だって同じ判断をしていたかもしれない。
問題は、俺がこの先に起こる出来事を知っていることだ。
エデン条約が利用され、大きな悲劇が起こること。
そして、さらに先の未来では、条約そのものがトリニティの負担になりかねないこと。
(……だったら、やっぱり見直した方がいいよな)
ただ、元のナギサが目指したものまで否定する必要はない。
彼女が望んだのは、エデン条約を結ぶこと自体ではなく、その先にある平和な未来のはずだ。
(……なら、別の方法で平和を実現できれば、それでもいいよな)
俺は小さく頷いた。
それに、もう一つ重要な問題があった。
(……アリウスの襲撃だ)
原作では、エデン条約の締結式が襲撃の舞台となった。
アリウスは、条約締結に向けた動きを利用して攻撃を仕掛けてくる。
だからこそ、俺にはその場所と時期をある程度予測できる。
あらかじめ分かっていれば、対策を準備できる。
先生に協力を求め、警備を強化し、避難計画を立てることもできるだろう。
だが、締結式そのものを中止すれば。
(……次は、どこで襲われるか分からない)
アリウスが攻撃を諦めてくれる保証はない。
別の場所を狙われれば、原作知識も役に立たなくなる可能性がある。
下手をすれば、何の準備もできていないところを襲撃されてしまう。
(……だから、建前上は締結式に向けて進める必要がある)
しかし、それはあくまで保険だ。
俺が本当に目指したいのは、その前にアリウスの問題を解決することだった。
(……できれば、締結式が来る前に全部終わらせたいな)
アリウスの少女たちを救う。
彼女たちを利用しているベアトリーチェを止める。
ミカとの関係も整理し、セイアを含めた三人がもう一度笑い合えるようにする。
そこまでできれば、危険な締結式を開催する必要もなくなるはずだ。
(……その後は、アリウス分校の再編入とかを理由にできないかな)
アリウスをトリニティに再編入するとなれば、学園内の勢力関係も変わる。
新たな派閥との調整。
生徒たちの受け入れ。
警備体制の見直し。
予算や施設の問題。
それだけでも、エデン条約の内容を再検討する理由としては十分だろう。
もちろん、実際にアリウスをどう扱うかは、当事者たちの意見も聞かなければならない。
それでも、交渉をやり直す正当な理由は作れる。
(……あとは、調整が必要ってことで無期限延期に持ち込めれば)
突然中止するより、はるかに自然だ。
トリニティの威厳も、ナギサの信頼も守りやすい。
少なくとも、今の俺にはそれが一番良い未来に思えた。
(……あれ?)
そこで、ふと気になった。
(……でも、これって矛盾してないか?)
エデン条約は結びたくない。
けれど、締結式に向けた準備は進めたい。
そのうえで、最終的には締結式を開催せずに済ませたい。
(……うん。普通に聞いたら意味分からないな)
思わず苦笑する。
しかし、改めて整理してみると、別に矛盾しているわけではなかった。
(……そもそも、目的と手段が違うんだよな)
元のナギサがエデン条約を進めていたのは、トリニティを守り、平和を実現するため。
そして、俺が締結を回避したいのも、トリニティを守り、悲劇を防ぐためだ。
目指しているものは同じ。
ただ、そのために必要だと考えている手段が違うだけだ。
(……それに、締結式の準備を進めることと、実際に締結することも別だ)
今すぐ計画を中止すれば、アリウスの襲撃場所が分からなくなる。
だから、しばらくは予定通り準備を進める。
その間にアリウスの問題を解決できれば、締結式そのものが必要なくなる。
解決できなければ、原作知識を利用して襲撃に備える。
(……つまり、どっちに転んでも対応できるようにしておくわけか)
もちろん、完全な計画ではない。
こちらが動いたことで未来が変わり、原作知識が当てにならなくなる可能性もある。
それでも、何も考えずに締結式を迎えるよりは、ずっといい。
(……よし。少なくとも、方針としては矛盾してないな)
俺は小さく息を吐いた。
あとは、実際にそれを実行できるかどうかだ。
(……問題は、そこまでたどり着けるかなんだけど)
俺は、ちらりと机の書類を見た。
エデン条約の交渉資料。
各派閥からの要望書。
補習授業部の設立に関する書類。
さらに、通常のティーパーティーの仕事まである。
(……いや、どう考えても無理じゃない?)
今日一日だけでも、既に身体は限界に近かった。
頭痛は続いているし、まともに眠れてもいない。
それなのに、今後はアリウスへの対応まで考えなければならない。
(……このままじゃ、エデン条約の準備だけで手一杯だ)
原作通りの速度で計画が進めば、締結式はどんどん近づいてくる。
アリウスの問題を解決するための時間も、人手も足りない。
このままでは、結局、襲撃を迎え撃つしかなくなってしまう。
(……少しだけ、時間が欲しいな)
そこで、一つの考えが浮かんだ。
(……締結式の準備は続けながら、少しだけ延期できないかな)
全面的な中止ではない。
あくまで準備期間の延長だ。
交渉内容の確認。
警備体制の見直し。
各派閥との最終調整。
そうした理由なら、不自然ではないだろう。
もちろん、日程を変えればアリウスの行動にも影響するかもしれない。
だから、安易に大幅な延期をするつもりはない。
開催場所や基本的な計画は維持したまま、必要最小限の期間だけ延ばす。
その間に、アリウスの情報を集め、先生との協力体制を整える。
(……これなら、まだ何とかなるかもしれない)
最終的に、アリウス問題を先に解決できれば理想的だ。
その時は、再編入や条約内容の再調整を理由に、締結自体を無期限に延期する。
逆に、解決できなかった場合は。
(……予定されている締結式を利用して、襲撃に備える)
もちろん、それが最終手段だ。
できれば、誰にも危険な思いをさせたくない。
(……よし。とりあえず、その方向で考えよう)
ただし、まだ何も決まっていない。
実際にどれほど延期できるのか。
アリウスに関する情報をどこまで集められるのか。
考えることは山ほどある。
そして、何より。
(……今の俺一人じゃ、絶対に無理だ)
そんなことを考えていると、目の前のミカがケーキを口に運んだ。
(……そうだ。せっかくだし、ミカの意見も聞いておこう)
彼女はティーパーティーのホストの一人だ。
原作でもエデン条約に強く反対していた。
その理由を、改めて確認しておきたかった。
「……ミカさん」
「んー?」
「少し、お仕事のお話をしてもよろしいでしょうか?」
「……えー?」
ミカが露骨に嫌そうな顔をした。
「せっかくのお茶会なのに?」
「ふふっ。少しだけです」
「……むぅ」
少し考えたあと、ミカは頷いた。
「……まあ、少しだけならいいけど」
「ありがとうございます」
俺はカップを置いた。
「……ミカさんは、エデン条約について、どうお考えですか?」
「…………」
ミカの動きが止まった。
「……エデン条約?」
「はい」
「……そんなの、決まってるじゃん」
ミカは少しだけ眉を寄せた。
「私、反対だよ!」
「……そうですか」
「だって、ゲヘナだよ?」
ミカは頬杖をついた。
「今まで散々いがみ合ってきた相手と、急に仲良くしましょうって言われてもさぁ……」
「……ええ」
「正直、無理だと思うんだよね」
(……やっぱり、原作通りか)
ただ、反対する理由がそれだけなのかは分からない。
原作のミカは、ゲヘナへの嫌悪感だけでなく、アリウスとの和解も望んでいた。
そして、その願いを利用されてしまったのだ。
(……今ここでアリウスの名前を出すのは、さすがに危険だよな)
俺は慎重に言葉を選んだ。
「……ミカさんは、ゲヘナとの争いを続けたいのですか?」
「……え?」
「条約に反対されているのは分かりました。ですが、今後もゲヘナと争いたいということでしょうか?」
「……うーん」
ミカは腕を組んだ。
「……別に、戦争したいわけじゃないよ?」
「……そうですか」
「うん。ただ、無理に仲良くする必要もないと思うんだよね」
「……なるほど」
「お互い、必要以上に関わらなければいいじゃん?」
(……その点については、俺も同意かな)
もちろん、実際の学園運営はそんなに簡単ではない。
隣り合う大きな学園同士、何の取り決めもなく平和を維持することは難しいだろう。
しかし、共同武力組織まで設立することが唯一の解決策とも思えなかった。
「……ミカさんのお考えは分かりました」
「……え?」
ミカが少し驚いたように顔を上げた。
「……それだけ?」
「はい?」
「いや、いつもなら、もっとエデン条約の必要性を説明してくるじゃん」
「……そうですね」
「今日は反論しないの?」
俺は少し考えてから答えた。
「……ミカさんのご意見にも、検討すべき部分はあると思います」
「…………」
「ただ、私は今の段階でエデン条約を中止するつもりはありません」
「……そっか」
ミカは少し残念そうに肩を落とした。
その反応を見ながら、俺は続ける。
「ですが、現在の条約案が最善なのかについては、改めて確認したいと考えています」
「……確認?」
「ええ。特に、エデン条約機構の権限や、両学園が負う責任についてです」
「……ふーん」
「条約を結ぶことと、その内容が適切であることは、別の問題ですから」
ミカは、しばらく考え込んでいた。
「……じゃあ、ナギちゃんも反対になったの?」
「いいえ。そこまでは申し上げていませんよ」
「……だよねー」
ミカは苦笑した。
「そんな簡単に考えを変えるナギちゃんじゃないもんね」
「ふふっ。そうでしょうか?」
「そうだよ!」
ミカは頬を膨らませた。
しかし、すぐに少し真面目な表情になる。
「……でも、条約の内容を見直すっていうのは、本当?」
「ええ」
「……延期したりすることも?」
「……そうですね」
俺は少し考えてから頷いた。
「実は、締結までの準備期間を、少しだけ延ばせないかと考えています」
「……えっ!?」
ミカが勢いよく顔を上げた。
「……延期するの!?」
「まだ決定ではありませんよ」
「……そ、そっか」
「ですが、現在の準備状況を考えると、もう少し時間が必要かもしれません」
俺は静かに続けた。
「交渉内容の確認や、警備体制の見直しなど、まだ検討すべきことが残っていますから」
「……なるほど」
「それに、私自身も少し仕事を抱え込みすぎていたようです」
「……ナギちゃんが?」
「ええ」
俺は苦笑した。
「現在の速度で準備を進めるのは、少々厳しいかもしれません」
「…………」
ミカは少しだけ考え込んだ。
そして。
「……だったら、延期すればいいじゃん!」
「ふふっ。簡単に決められることではありませんよ」
「えー! でも、ナギちゃんが倒れちゃったら意味ないじゃん!」
「……そうですね」
俺は小さく頷いた。
「ですから、関係者の方々と相談してみるつもりです」
「……うん!」
ミカは嬉しそうに笑った。
「私は賛成だよ!」
「ありがとうございます」
「というか、もっと延期してもいいんじゃない?」
「……それは、今後の状況次第ですね」
俺は曖昧に微笑んだ。
実際、できることなら無期限延期に持ち込みたい。
だが、それはアリウス問題を解決してからの話だ。
今はまだ、締結式を完全になくすわけにはいかない。
「……ただし、ミカさん」
「ん?」
「延期を検討するとしても、締結に向けた準備自体は続けますよ」
「……えーっ!」
ミカが不満そうな声を上げる。
「そこは変わらないんだ!」
「はい。既に多くの方が準備を進めてくださっていますので」
「……むぅ」
「ですが、反対意見を無視するつもりもありません」
俺は静かに微笑んだ。
「ですから、今後も気になることがあれば教えてくださいね」
「…………」
ミカは少しだけ目を丸くした。
そして、小さく笑った。
「……うん。分かった」
その声は、思っていたより穏やかだった。
(……とりあえず、悪くない反応かな)
もちろん、これだけで彼女の考えが変わるとは思っていない。
アリウスとの関係についても、何も分かっていないままだ。
ただ、ミカが条約について話せる相手として、ナギサを見てくれるなら。
それだけでも、今後の選択肢は増えるはずだ。
「……ねえ、ナギちゃん」
「はい?」
「……今日は、なんかいつもと違うね」
「……そうでしょうか?」
「うん。前より、ちょっとだけ話しやすいかも」
「……それは良かったです」
「えへへ」
ミカは嬉しそうに笑った。
その姿を見て、俺も自然と頬が緩む。
けれど、その直後。
「……でもさ」
「はい?」
ミカが、じっとこちらを見つめてきた。
「……ほんとに大丈夫?」
「……?」
「さっきから、ちょっと顔色悪いよ?」
(……またか)
今日だけで、何度目だろう。
ヒフミ。
ハナコ。
アズサ。
そして、ミカ。
四人に心配されるほど、今の身体は弱っているらしい。
(……まあ、実際かなりきついんだけど)
頭痛はまだ続いている。
身体も重い。
できることなら、今すぐ横になりたい。
「……少し、仕事を抱え込みすぎていたようです」
「……仕事?」
「はい。最近、あまり眠れていなかったものですから」
「…………」
ミカの表情が変わった。
「……ナギちゃん」
「はい?」
「……ちゃんと休んでる?」
「…………」
その質問に、すぐには答えられなかった。
日記を読む限り、元のナギサは何日もまともに眠れていなかった。
そして、今の俺も昨夜からほとんど休めていない。
「……あまり、十分とは言えませんね」
「……もう!」
ミカが頬を膨らませた。
「だから顔色悪いんじゃん!」
「……そうかもしれません」
「かもしれません、じゃないよ!」
ミカは少し怒ったように言った。
「ちゃんと休まなきゃ駄目だよ!」
「……はい」
俺は静かに頷いた。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に温かいものが広がる。
(……ナギサ)
こんなにも心配してくれる友人がいる。
それなのに、どうして彼女は一人で抱え込んでしまったのだろう。
いや。
抱え込むしかないと思ってしまったのだろう。
(……だからこそ、変えないとな)
エデン条約だけではない。
ナギサの仕事も。
周囲との関係も。
そして、彼女が自分一人ですべてを背負わなければならないと思っていることも。
少しずつ、変えていかなければならない。
「……ミカさん」
「ん?」
「今日は、お話しできて良かったです」
「……え?」
「色々と、考えるきっかけになりましたから」
「…………」
ミカは、少し照れくさそうに笑った。
「……えへへ。私も楽しかったよ!」
「……そうですか」
「うん!」
ミカは大きく頷いた。
「……でも、ナギちゃん」
「はい?」
「そんなに仕事が大変ならさ……」
ミカは、ちらりと机の上に積まれた書類を見た。
「……私が手伝ってあげよっか?」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず机へ視線を向けた。
大量の書類。
未処理の決裁。
明日になれば、さらに増えるであろう仕事。
(……手伝ってもらう、か)
正直、考えていなかった。
いや、考えないようにしていたのかもしれない。
けれど。
(……同じティーパーティーのホストなんだよな)
それなら、少しくらい頼ってもいいのではないだろうか。
俺は静かにミカへ向き直った。
「……ミカさん」
「んー?」
「……本当ですか?」
「……え?」
ミカの笑顔が、ぴたりと固まった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
エデン条約をどうするか、色々と考え始めたナギサ様でした。
そして最後に、ミカの何気ない一言が……
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