大人ならではの、ちょっとずるい政治的なやり方も使っていきます
楽しんでもらえたら嬉しいです!
――翌朝、午前六時三十分。
「……ん……」
カーテンの隙間から差し込む朝日に、ゆっくりと目を開く。
(……朝か)
ぼんやりと天井を見つめる。
見慣れない寝室。
広々としたベッド。
そして、掛け布団から伸びる細く白い腕。
(……ああ、そうだったな)
俺は桐藤ナギサになってしまったのだった。
昨日の出来事を思い出す。
補習授業部の四人との面談。
ミカとの久しぶりのお茶会。
そして、彼女に仕事を手伝ってもらったこと。
(……本当に色々あったなぁ)
思わず苦笑する。
しかし、そこで一つ気づいた。
(……あれ?)
身体を起こしてみる。
頭痛は、ほとんど感じない。
昨日まで続いていた吐き気もない。
身体のだるさも、随分と軽くなっている。
(……おお!)
思わず、自分の手を見つめた。
(……めちゃくちゃ調子いいじゃん)
昨日の朝とは大違いだ。
あの時は、まともに立っていることさえつらかった。
それが今では、普通に動けそうだった。
(……やっぱり、睡眠って大事なんだな)
もちろん、キヴォトスの生徒特有の回復力も関係しているのかもしれない。
とはいえ、薬の影響が完全になくなった保証はない。
(……一度、ちゃんと診てもらわないとな)
そう考えながら、ベッドから降りる。
軽く身体を伸ばすと、久しぶりに気持ちよく動けた。
「……よし」
今日は、昨日より頑張れそうだ。
もっとも、頑張りすぎては意味がないのだが。
◇
――午前七時三十分。
「……さて」
朝食を済ませた俺は、執務室で書類を確認していた。
昨日、ミカに手伝ってもらったおかげで、仕事はかなり減っている。
それでも、ナギサ自身が判断しなければならない案件は残っていた。
(……これは今日中に返答が必要か)
書類に目を通し、必要な指示を書き込む。
次に、各派閥から寄せられた要望書。
こちらは既に担当者の意見がまとめられていたため、比較的簡単に処理できた。
(……こうして見ると、普通に仕事できるな)
昨日までは、ただ書類の量に圧倒されていた。
しかし、本来ナギサが処理する必要のあるものだけなら、それほど無茶な量ではない。
(……まあ、これでも十分多いんだけど)
俺は机の端に置かれた書類の束へ目を向けた。
昨日、仕分けておいたものだ。
本来は各部署で処理するはずだった仕事。
ナギサが、不安を紛らわせるために引き受けていた仕事。
(……これは今日中に戻しておこう)
とはいえ、わざわざ会議で取り上げる必要はないだろう。
そもそも、元の担当者に仕事を返すだけなのだ。
大勢の前で発表するような話でもない。
(……それに、あまり騒ぎにしたくないしな)
ナギサが仕事を引き受けていた理由について、他人に説明するつもりはなかった。
彼女の苦しみを、勝手に言いふらすようなことはしたくない。
「……すみません、少しよろしいでしょうか?」
近くにいた職員へ声をかける。
「はい。何でしょうか、ナギサ様」
「こちらの書類について、お願いがあります」
俺は書類を差し出した。
「確認したところ、本来は各部署で処理できる案件がいくつか含まれていました」
「……はい」
「今後は、元の担当部署へ戻していただけますか?」
「……よろしいのですか?」
「ええ。必要な確認は各部署で行っていただき、重要なものだけ私のところへお願いします」
「……承知いたしました」
職員は、少し驚いたように書類を受け取った。
「ただ、これまでナギサ様がご自身で確認されていたものもございますが……」
「……そうですね」
俺は小さく頷いた。
「少し、私が引き受けすぎていたようです」
「…………」
「今までお手数をおかけしました。担当の方々にも、そのようにお伝えください」
「……かしこまりました」
職員が頭を下げる。
そして、書類を抱えて部屋を出ていった。
(……よし)
これで、ひとまず一つ目の問題は片付いた。
もちろん、引き継ぎには多少時間がかかるだろう。
それでも、仕事の流れを元に戻すだけなら、難しいことではないはずだ。
(……ナギサも、これで少しは楽になるかな)
俺は、空いた机の上を見つめた。
昨日まで積み上がっていた書類の山が、随分と小さくなっている。
(……さて、次はこっちだな)
俺は、新しい資料を取り出した。
『エデン条約締結日程 再調整案』
今日、最も重要な案件だ。
(……やっぱり、延期できても半月だな)
十五日。
昨日から、何度も考えていた期間だった。
本当なら、一か月くらい延期したい。
それだけ時間があれば、アリウスについて調べることもできる。
先生に協力してもらう準備も進められるだろう。
しかし。
(……延ばしすぎると、逆に危険なんだよな)
原作では、エデン条約の締結式が襲撃の舞台となった。
つまり、今なら襲撃される場所と、おおよその時期が分かっている。
これは非常に大きな利点だ。
あらかじめ分かっていれば、対策を準備できる。
避難経路を確保することも、警備を強化することもできるだろう。
しかし、突然一か月も延期したらどうなるだろう。
(……アリウスに怪しまれるかもしれない)
何かに気づかれた。
計画が漏れている。
そんな疑いを持たれれば、向こうも行動を変える可能性がある。
最悪の場合、締結式を待たずに襲撃してくるかもしれない。
(……そうなったら、どこで襲われるか分からなくなる)
さらに厄介なのは、スパイの問題だった。
(……アズサ以外の人間を送り込んでくる可能性もあるよな)
今なら、アズサの正体を知っている。
ミカについても、原作の情報がある。
しかし、新しい人物が送り込まれてきた場合はどうだろう。
その相手が誰なのか。
何を目的としているのか。
いつ行動するのか。
何も分からなくなってしまう。
(……さすがに、それは避けたい)
原作の知識に頼りきるつもりはない。
けれど、使える情報を自分から捨てる必要もないだろう。
(……半月なら、どうだ?)
十五日程度であれば、準備上の都合による日程変更として説明できる。
アリウス側も、締結式という標的をすぐに諦めることはないかもしれない。
もちろん、確実ではない。
半月でも計画が変わる可能性はある。
しかし。
(……多少の変化なら、まだ対処できる範囲だと思う)
大きく変えすぎず、それでも時間を確保する。
今のところは、その折衷案が最も現実的に思えた。
(……うん。十五日だな)
俺は、資料に小さく数字を書き込んだ。
『十五日』
その数字を見つめながら、息を吐く。
(……問題は、どうやって認めてもらうかだけど)
元のナギサは、エデン条約の締結を積極的に進めていた。
その本人が突然延期を提案するのだから、当然反対もあるだろう。
(……まあ、やるしかないな)
俺は資料をまとめ、会議室へ向かった。
◇
――午前九時。
「それでは、定例会議を始めます」
会議室に、落ち着いた声が響いた。
長いテーブルを囲むように、ティーパーティーの関係者たちが座っている。
各派閥の代表者。
事務担当者。
エデン条約に関わる調整担当者。
そして、ミカ。
「ナギちゃん、おはよー☆」
「おはようございます、ミカさん」
「今日は顔色いいね!」
「ふふっ。おかげさまで」
「えへへ。よかった!」
ミカは嬉しそうに笑った。
(……昨日は本当に助かったな)
その姿を見て、俺も自然と微笑む。
しかし、今日はのんびりお茶を楽しむわけにはいかない。
「それでは、まず通常の議題から進めましょう」
会議が始まった。
最初は、各部署からの報告。
予算に関する確認。
施設管理の進捗。
各派閥から寄せられた要望。
そして、今後の行事予定について。
(……本当に、議題が多いな)
一つずつ確認しながら、必要な判断を下していく。
幸い、ナギサの記憶があるおかげで、仕事そのものには大きな問題はなかった。
難しいのは、むしろ人間関係の方だ。
同じ内容でも、どの派閥から出された提案なのかによって、受け取られ方が違う。
不用意な発言が、政治的な対立に繋がることもある。
(……ほんと、政治って面倒くさいなぁ)
もちろん、表情には出さない。
俺はナギサらしい微笑みを浮かべながら、会議を進めた。
◇
――午前十時二十分。
「……それでは、次の議題に移ります」
俺は、用意していた資料を手に取った。
(……さて、ここからが本番だな)
一度、静かに息を整える。
「エデン条約の締結日程について、ご相談があります」
その瞬間、会議室の空気が変わった。
「……日程、ですか?」
「はい」
俺は頷いた。
「締結式の日程を、十五日ほど延期できないかと考えています」
「…………」
一瞬、会議室が静まり返った。
そして。
「……延期、ですか?」
「……十五日も?」
出席者たちが顔を見合わせた。
当然の反応だ。
元のナギサは、エデン条約の締結を積極的に進めていた。
その本人が、突然延期を提案したのだから。
「……差し支えなければ、理由をお聞かせいただけますか?」
「もちろんです」
俺は用意していた資料を広げた。
「現在、エデン条約の準備は着実に進んでいます。しかし、まだ確認すべき事項が残されていることも事実です」
警備体制。
各派閥との調整。
ゲヘナ側との条件確認。
そして、セイアの襲撃事件。
「特に、安全面については、もう少し慎重に確認する必要があると考えています」
「……セイア様の件でしょうか?」
「はい」
俺は静かに頷いた。
「セイアさんが襲撃され、ティーパーティーから離脱せざるを得なくなった事件について、いまだ十分な解明ができていません」
会議室が静まり返った。
「そのような状況で、多くの重要人物が一堂に会する締結式を開催することには、相応の危険が伴います」
「……なるほど」
「また、現在の準備状況を考えても、もう少し期間に余裕を持たせた方が良いと判断しました」
俺は、そこで一度言葉を切った。
「ですので、十五日ほど日程を延期し、その間に必要な確認を行いたいと考えています」
「…………」
出席者たちが考え込む。
しかし。
「……ナギサ様」
一人の代表者が口を開いた。
「お考えは理解できます。しかし、今から十五日も延期するとなれば、ゲヘナ側との再調整が必要になります」
「……ええ」
「既に多くの関係者が動いております。日程変更による影響は、決して小さくありません」
「……そうですね」
「それに、トリニティ側から延期を申し出れば、こちらに何か問題があるのではないかと疑われる可能性もあります」
(……まあ、そうだよな)
予想通りの反論だった。
しかし、それはもっともな意見でもある。
「……私も同意見です」
別の出席者が口を開いた。
「現在の準備状況であれば、予定通り進めることは可能と考えています」
「……それに、延期したからといって安全が保証されるわけではありません」
「むしろ、日程変更によって警備計画を見直す必要が生じるのではないでしょうか?」
次々と意見が出る。
(……うん。厳しいな)
延期する理由がないわけではない。
しかし、今すぐ十五日間の延期を決めるだけの理由があるのか。
そう問われると、確かに説明は難しかった。
「……ちょっと待って!」
その時だった。
ミカが手を上げた。
「私は延期に賛成だよ!」
「……ミカ様?」
出席者たちが、驚いたように顔を向けた。
「だって、セイアちゃんの事件だってまだ解決してないんでしょ?」
「……それは、そうですが」
「だったら、ちゃんと安全を確認してから進めた方がいいじゃん!」
ミカは、真剣な表情で続けた。
「それに、ナギちゃんだって最近ずっと忙しかったんだよ?」
「…………」
「このまま無理して進めても、いいことないと思う!」
(……ミカ)
思わず、胸が温かくなった。
もちろん、彼女がエデン条約そのものに反対していることは知っている。
だから、延期に賛成するのは当然かもしれない。
それでも、こうして味方になってくれたことは嬉しかった。
「……ミカ様のおっしゃることも理解できます」
しかし、反対していた代表者は首を振った。
「ですが、現在の段階で十五日もの延期を行う必要性については、まだ十分な説明がなされていないと考えます」
「……うっ」
ミカが言葉に詰まった。
「……そ、それは……」
「ゲヘナ側との信頼関係にも関わる問題です。慎重に判断する必要があります」
「…………」
ミカは、少し不満そうに頬を膨らませた。
しかし、それ以上は反論できなかった。
(……まあ、当然だよな)
ミカは賛成してくれた。
だが、それだけで延期が決まるわけではない。
出席者たちの意見は、明らかに予定維持へ傾いていた。
(……仕方ないな)
俺は、静かに息を吸った。
「……皆さん」
会議室の視線が、こちらへ集まった。
「おっしゃることは、よく分かります」
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
「既に多くの方々が、エデン条約の締結に向けて尽力してくださっています。そのことについては、心から感謝しています」
出席者たちが、静かに耳を傾ける。
「ですが、今回の延期については、どうしてもお願いしたいのです」
「……ナギサ様?」
俺は、少しだけ視線を落とした。
「セイアさんが襲撃された事件について、私には責任があります」
「…………」
「ティーパーティーのホストでありながら、大切な仲間を守ることができませんでした」
会議室が静まり返った。
「そして、その後も、学園の安全に関わる問題を十分に解決できていません」
「……しかし、それはナギサ様だけの責任では……」
「ええ。そうかもしれません」
俺は頷いた。
「ですが、少なくとも私には、もっとできることがあったはずです」
すべてをナギサ一人の責任にするつもりはない。
けれど、今は責任を引き受ける必要があった。
(……悪いけど、ナギサ)
心の中で、静かに謝る。
(……今だけ、ちょっと名前を借りるよ)
俺は、出席者たちを見渡した。
「今回の延期によって生じる問題については、私が責任を持って対応いたします」
「…………」
「ゲヘナ側への説明も、私自身が行うつもりです」
そして。
「ですから……」
俺は、ゆっくりと頭を下げた。
「どうか、十五日だけ、時間をいただけないでしょうか」
会議室が、完全に静まり返った。
「…………」
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
それも当然だろう。
これまでエデン条約を推し進めてきたナギサが、延期をお願いしている。
それも、頭を下げて。
「……ナギちゃん?」
ミカの驚いた声が聞こえた。
しかし、俺は頭を上げなかった。
(……頼む)
どうしても、十五日という時間が欲しかった。
それだけあれば、アリウスへの対策も進められる。
少なくとも、今よりは多くの選択肢を用意できるはずだ。
「……ナギサ様」
しばらくして、一人の代表者が口を開いた。
「……どうか、お顔をお上げください」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
出席者たちは、困惑した表情を浮かべていた。
「……正直、驚いております」
「……そうでしょうね」
「これまでのナギサ様でしたら、このような形でお願いされることはなかったと思いますので」
(……まあ、そうだろうな)
俺は、小さく苦笑した。
「……私も、少し考えを改める必要があると感じたのです」
「…………」
「学園を守るために、必要だと思いましたので」
代表者は、しばらく考え込んでいた。
そして、隣の出席者と小声で相談を始める。
他の参加者たちも、次々と意見を交わし始めた。
(……さて、どうなるかな)
俺は、静かに待った。
やがて。
「……ナギサ様」
「はい」
「……一点、確認させてください」
「何でしょうか?」
「延期後の準備について、具体的な再調整案は提出していただけますか?」
「もちろんです」
「また、十五日という期間を超える再延期については、改めて協議するということでよろしいでしょうか?」
「はい。現時点では、そのように考えています」
「……承知いたしました」
代表者は、ゆっくりと頷いた。
「それでしたら、私としては延期の方針に賛成いたします」
(……よし!)
思わず、心の中で拳を握った。
「……私も、条件付きで賛成します」
「安全面の再確認が必要という点については、理解できます」
「ゲヘナ側との調整を速やかに進めるのであれば、異論はありません」
次々と賛成意見が出始めた。
もちろん、最後まで慎重な姿勢を崩さない人もいた。
しかし、最初のような強い反対はなくなっていた。
「……それでは」
進行役が、出席者たちを見渡した。
「エデン条約の締結日程について、十五日間の延期をトリニティ側の正式方針とし、ゲヘナ側との再調整を進めることでよろしいでしょうか?」
会議室に、異議は上がらなかった。
「……承知いたしました。そのように決定いたします」
「…………」
(……やった!)
心の中で、小さく叫んだ。
もちろん、これで完全に決まったわけではない。
ゲヘナ側との調整は必要だし、具体的な日程も確定していない。
それでも、トリニティ側の正式な方針として延期が認められた。
(……まずは、一歩だな)
俺は、もう一度立ち上がった。
「……皆さん、ありがとうございます」
軽く頭を下げる。
「それと、今回の延期に関する今後の対応について、お伝えしたいことがあります」
「……何でしょうか?」
「今回の延期は、私からお願いしたことです」
俺は、出席者たちを見渡した。
「ですので、ゲヘナ側への説明についても、担当者の方々だけにお任せするつもりはありません」
「…………」
「近日、できれば本日中にも、私自身がゲヘナの空崎ヒナさんと、シャーレの先生に直接お会いし、事情をご説明したいと考えています」
「……本日中に、ですか?」
何人かが驚いたように顔を上げた。
「はい。可能な限り早く、面会の調整を進めるつもりです」
「……しかし、ゲヘナまで出向くとなりますと、移動や護衛の手配が必要になりますが……」
「いいえ」
俺は、静かに首を振った。
「今回は、D.U.でお会いできればと考えています」
「……D.U.ですか?」
「ええ。シャーレの先生のもとに、ヒナさんにもお越しいただく形ですね」
俺は、用意していた資料を示した。
「トリニティとゲヘナの関係を考えると、どちらかの自治区で会談するより、中立的な場所の方が適切ではないでしょうか」
「……確かに」
「それに、互いの自治区を訪問するとなれば、警備や移動の調整にも時間がかかります」
俺は続けた。
「D.U.でお会いできれば、その負担も抑えられますし、一度の会談で関係者の意見を確認できます」
「……なるほど」
「何より、ゲヘナ側でエデン条約の締結を積極的に進めてこられたのは、ヒナさんですから」
俺は、出席者たちを見渡した。
「今回の延期については、できるだけ早く、ご本人に直接説明したいと考えています」
もちろん、ヒナがゲヘナのすべてを決定できるわけではない。
ゲヘナの生徒会に当たる万魔殿も、正式な交渉には関わってくる。
しかし、条約を積極的に推進してきたヒナの理解を得られれば、今後の調整は進めやすくなるだろう。
「正式な日程変更については、これまで通り万魔殿を含めたゲヘナ側との手続きを進めてください」
「承知いたしました」
「そのうえで、まずはヒナさんへ直接お話ししたいと思っています」
出席者たちは、納得したように頷いた。
「また、シャーレの先生には、補習授業部の指導についてもご相談する予定です」
「……補習授業部、ですか?」
「はい。昨日、候補者の方々ともお会いしましたので、先生へ直接ご説明したいと思っています」
俺は微笑んだ。
「せっかくお時間をいただくのですから、そちらのお話も進めておきたいのです」
「……なるほど。承知いたしました」
出席者たちが頷く。
(……よし。これでいい)
延期をお願いした以上、その後の調整にも責任を持つ。
これは当然のことだ。
しかし。
(……どうせ責任を取るなら、ちゃんと皆にも分かるようにしないとな)
会議で頭を下げただけでは、何も解決しない。
延期を認めてもらった途端に、部下へ仕事を任せきりにしてしまえば、無責任だと思われても仕方がない。
だからこそ、今日中に動く。
しかも、その予定を会議の場で明言する。
(……実際に責任を果たすのは当然。でも、それを皆に見せるのも政治なんだよな)
黙って働くだけでは、周囲には伝わらないこともある。
自分から頭を下げた。
その日のうちに関係者へ会いに行った。
そして、延期に伴う調整を率先して進めた。
そうした事実が積み重なれば、今回の延期に対する不信も抑えられるだろう。
(……もちろん、ちゃんと結果を出さないと意味ないけどな)
俺は、静かに頷いた。
◇
――午前十一時四十分。
「……それでは、本日の会議は以上となります」
最後の議題が終わり、出席者たちが席を立ち始めた。
延期の話が決まったあとも、会議は続いていた。
各部署の予算。
今後の行事予定。
警備体制の確認。
そして、補習授業部の設立について。
必要な議題は、一通り終わらせることができた。
(……疲れたぁ)
椅子にもたれかかりたい気持ちを、何とか抑える。
それでも、今朝の体調が良かったおかげで、最後まで集中することができた。
「……ナギちゃん!」
「はい?」
ミカが、こちらへ歩み寄ってきた。
「今日は頑張ったね!」
「ふふっ。ミカさんも、お疲れ様でした」
「えへへ。ありがと!」
ミカは楽しそうに笑った。
しかし、すぐに少し不満そうな表情になる。
「……でもさ、ナギちゃん」
「はい?」
「……あんなに頭下げなくてもよかったんじゃない?」
「……そうでしょうか?」
「だって、ナギちゃんはティーパーティーのホストなんだよ?」
ミカは、頬を膨らませた。
「皆にお願いするだけなら、普通に言えばよかったのに」
「……ふふっ」
俺は小さく笑った。
「そうですね。確かに、他にも方法はあったと思います」
「……でしょ?」
「ええ。ですが、今回はこちらの方が良いと考えたのです」
「……どうして?」
ミカが首を傾げた。
俺は少し考えてから答える。
「理由は、主に二つあります」
「……二つ?」
「はい。まず一つ目は、時間を短縮できることです」
「……時間?」
「ええ。もし、各派閥の方々と個別に交渉して賛成を取り付けようとすれば、相応の時間が必要になります」
「……うん」
「場合によっては、別の条件を提示したり、各派閥の利害を調整したりする必要も出てくるでしょう」
俺は静かに微笑んだ。
「ですが、今回のように私自身が責任を引き受け、直接お願いすれば、そのような調整を省略できる場合があります」
「……なるほど」
「それに、派閥間で余計な貸し借りを作らずに済みますから」
「……あー!」
ミカは納得したように手を叩いた。
「だから、あんなに簡単に頭下げたんだ!」
「……ふふっ。まあ、それも理由の一つですね」
「……じゃあ、もう一つは?」
「……そうですね」
俺は、少しだけ声を落とした。
「こちらの方が、政治的には大きいかもしれません」
「……え?」
「反対意見を、出しにくくできることです」
「…………」
ミカが、きょとんとした顔になった。
「……どういうこと?」
「今回、私は皆さんの前で自分の責任を認め、頭を下げました」
「……うん」
「しかも、セイアさんの件についても、私自身に至らない部分があったことを認めています」
俺は続けた。
「そのような状況で、なお強く反対し続けることは、少々難しいと思いませんか?」
「…………」
「もちろん、正当な反対意見まで封じるつもりはありません。ですが、私がそこまでしてお願いした以上、単に立場や面子の問題だけで反対することは難しくなります」
ミカは、しばらく考え込んだ。
「……あっ!」
そして、何かに気づいたように顔を上げた。
「つまり、ナギちゃんが頭を下げたから、皆も反対しにくくなったってこと?」
「……そういう面もありますね」
「……えー!」
ミカが目を丸くした。
「それ、結構ずるくない!?」
「ふふっ。そうかもしれませんね」
俺は、少しだけ笑った。
「ですが、実際に責任を取るつもりがあることも事実ですから」
「……うーん」
「それに、今回は十五日ほど時間をいただくだけです。そこまで無理なお願いではないでしょう?」
「……まあ、確かに」
「でしたら、時間をかけて政治的な駆け引きを続けるより、私が頭を下げてしまった方が早いと思ったのです」
ミカは、しばらく黙り込んでいた。
そして。
「……ナギちゃんって、そんなこと考えてたんだ」
「……ふふっ」
「なんか、ちょっと大人っぽいね」
(……いや、中身は大人なんだけどな)
もちろん、口には出さない。
「……それに」
俺は、少しだけ微笑んだ。
「私自身、この方法で構わないと思いましたから」
「……そっか」
ミカは、ゆっくりと頷いた。
「……でも、やっぱりびっくりしたよ」
「……そうですか?」
「うん! 前のナギちゃんだったら、絶対にあんなことしなかったと思う!」
「……ふふっ」
俺は、少しだけ笑った。
しかし、内心では別のことを考えていた。
(……まあ、少しだけナギサの権威を傷つけちゃったかもしれないけどな)
ティーパーティーのホストが、大勢の前で頭を下げたのだ。
中には、今回のことを弱みだと受け取る人物もいるかもしれない。
元のナギサが築いてきた立場を、少し損なってしまった可能性はある。
(……そこは、申し訳ないな)
けれど、取り返しがつかないことをしたつもりはなかった。
(……これからの仕事で、少しずつ信頼を取り戻していけばいい)
きちんと結果を出す。
約束したことを守る。
学園の問題を解決する。
そうして実績を積み重ねれば、今日のことも悪い印象だけでは終わらないはずだ。
(……それに、うまくいけば)
もし、この十五日間で大きな問題を解決できたなら。
今日の判断は、むしろ評価されるかもしれない。
あの時、無理に締結式を進めなかったからこそ、被害を防げた。
そう思ってもらえる可能性だってある。
(……まあ、そこまで都合よくいくかは分からないけど)
もちろん、そうならなかったとしても、きちんと仕事をして信頼を返していくつもりだ。
元のナギサに、後始末だけ押しつけるわけにはいかない。
(……借りた名前の分くらい、ちゃんと働かないとな)
俺は、小さく頷いた。
「……ナギちゃん?」
「……あっ、はい?」
「また考え事?」
「ふふっ。少しだけ」
「もう!」
ミカは頬を膨らませた。
「せっかく会議終わったんだから、少しは休みなよ!」
「……そうですね」
「……それに、今日もお出かけするんでしょ?」
「ええ。D.U.へ伺うつもりです」
「……ほんと、忙しいね」
ミカは、少し心配そうにこちらを見つめた。
「無理しちゃ駄目だからね?」
「ふふっ。分かっていますよ」
「……絶対だからね!」
「はい。約束します」
ミカは、ようやく満足そうに頷いた。
「じゃあ、私はそろそろ戻るね!」
「はい。今日はありがとうございました」
「えへへ。またね、ナギちゃん!」
「ええ。また」
ミカが手を振りながら、会議室を後にする。
(……さて)
俺も、執務室へ戻ることにした。
◇
――正午。
「……すみません、少しよろしいでしょうか?」
「はい。何でしょうか、ナギサ様」
執務室へ戻った俺は、職員へ声をかけた。
「先ほど会議でお伝えした面会の件ですが、至急調整をお願いできますか?」
「シャーレの先生と、ゲヘナの空崎ヒナ委員長ですね?」
「ええ」
「承知いたしました。ただ、どちらもお忙しい方ですので、本日中の面会は難しい可能性がございます」
「……そうですね」
俺は頷いた。
「まずは、シャーレの先生へご連絡をお願いします」
「……先生へ、ですか?」
「はい。できれば、D.U.のシャーレでお会いしたいと考えています」
俺は、用意していた書類を差し出した。
「今回のエデン条約延期について、ヒナさんも交えた会談が可能かどうか、ご相談してください」
「……承知いたしました」
「もちろん、ヒナさんにも正式に面会を申し込んでくださいね」
「はい」
職員が頭を下げる。
そして、連絡の準備を始めた。
(……さて、どうなるかな)
正直、ヒナとの面会については少し不安があった。
ゲヘナの風紀委員長ともなれば、当然忙しい。
突然訪問したいと言われても、すぐには対応できないかもしれない。
(……でも、先生がいるからな)
シャーレの先生。
アビドスでの事件を通して、ヒナと知り合っている。
原作では、ヒナも先生を信頼していた。
もし先生に同席してもらえれば、ヒナも多少は安心して話を聞いてくれるかもしれない。
(……何より、D.U.なら警備の問題も少ない)
トリニティとゲヘナのどちらかの自治区で会談するとなれば、護衛や移動の調整が必要になる。
しかし、双方がD.U.へ向かうのであれば、相手の自治区へ入る必要がない。
もちろん、最低限の警備は必要だろう。
けれど、互いの領内を訪問するよりは、調整しやすいはずだ。
(……一度で話が進むなら、それに越したことはないしな)
先生とヒナに会う。
エデン条約の延期について説明する。
そして、ついでに補習授業部の指導についても相談する。
(……うん。無駄がないな)
何より、今回の訪問については、既に会議で公言している。
(……ちゃんと行動しないとな)
そう考えていると。
「……ナギサ様」
「はい?」
職員が、こちらへ戻ってきた。
「シャーレより、ご返答がございました」
(……おっ!)
「……いかがでしたか?」
「はい。本日午後であれば、お時間をいただけるとのことです」
「……本当ですか?」
「ええ。午後二時頃でしたら、面会可能とのことでした」
(……よし!)
心の中で、小さく拳を握った。
「ありがとうございます。それでは、その時間に伺うことにしましょう」
「承知いたしました」
「それと、ヒナさんについては……」
「現在、ゲヘナ側へ確認しております。まだ正式なお返事はいただいておりません」
「……そうですか」
少し残念だったが、予想の範囲内だ。
「では、まず先生のところへ伺いましょう」
「承知いたしました」
俺は、小さく息を吐いた。
(……まあ、まずは一人目だな)
先生との面会が決まっただけでも、大きな前進だ。
そこで今回の延期について説明し、ヒナとの連絡についても協力をお願いする。
その間に、ゲヘナ側から返事が来れば理想的だ。
もし今日の面会が難しいとしても、先生を交えて日程を調整できれば、それだけで意味がある。
(……うん。悪くない流れだな)
俺は、用意していた資料を鞄へしまった。
エデン条約の再調整案。
警備体制に関する確認事項。
そして、補習授業部の資料。
(……これくらいあれば十分かな)
もちろん、機密性の高い資料を無闇に見せるつもりはない。
相手に応じて、必要な情報だけを伝えるつもりだ。
「……よし」
俺は立ち上がり、軽く身だしなみを整えた。
鏡に映るのは、相変わらず桐藤ナギサの姿だった。
美しい白い髪。
整った顔立ち。
そして、ティーパーティーのホストにふさわしい服装。
(……うん。見た目だけなら完璧だな)
問題は、中身なのだが。
(……まあ、何とかなるだろ)
俺は、小さく笑った。
こうして、桐藤ナギサとして迎えた二日目。
エデン条約の延期に向けた第一歩を踏み出した俺は、次の目的を果たすため、D.U.へ向かうことになった。
(……さて、先生)
俺は、鞄を手に取った。
(……まずは、実際にあって信頼できるか確認しなきゃな)
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、頭を下げることまで政治的な交渉に利用するナギサ様でした。
もちろん責任を取る気持ちは本物ですが、それとは別に、相手が反対しづらくなることまで考えているのが大人のずるいところですね
そして次回は、DUに向かう途中、護衛との話し合いです!
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