ISクロスGS ザ・グレート・ゲーム  【IS世界に横島忠夫を放り込んでみた】   作:監督

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第17話(前)

 

 

 

 

檻は、閉じた。

 

伊豆沖、海上百メートル。

 

抜けるような青空と夏の海。その間に、場違いなものが浮かんでいた。

 

中心にいるのは、千冬の隊長機――《八咫烏》。

 

その両腕には、機能を停止しかけている銀の福音が、固く抱え込まれている。

 

ひしゃげて壊れた背部ユニットから、黒い羽根のような光が伸びていた。完全には開ききらない、歪な翼。脈打つように揺れるその光の周囲を、数枚の大型円環が重々しく旋回している。

 

一枚あたり、直径数十メートル。

 

円形のフレームが、互いに交差する軌道を描きながら空を削る。その内側には、見えない球があった。音もない。発光もない。ただ、そこにある。

 

本来なら、銀の福音のような強敵を一体ごとに隔離し、閉じ込めるための局地的な捕獲フィールドだった。

 

だが今、その球は膨らみすぎていた。

 

《八咫烏》と銀の福音を中心に、海上の戦域そのものを呑み込むほどの大きさにまで広がっている。

 

内側に囚われた十二機のISは、あちこちの空域に散開したまま、宙に釘付けにされていた。

 

球の輪郭は見えない。

 

だが、逃げようとする機体の動きが、その形を空に描き出している。

 

外へ向けてスラスターを吹かした一機が、何もない空中で弾き返された。姿勢が崩れる。別の一機が中心の《八咫烏》へ向かおうとして、見えない分厚い膜に押し戻される。横へ逃げようとした機体は、抵抗のないはずの空間に絡め取られたように速度を失った。

 

透明な標本箱。

 

あるいは、空に置かれた巨大な水槽。

 

その中で、十二機の兵士たちだけが、どうにか外へ出ようともがいている。

 

円環は、ただ回っているだけに見えた。

 

だが、逃げようとした機体の前にだけ、必ず現れる。

 

上へ逃げれば上に。

 

下へ潜れば下に。

 

横へ抜けようとすれば、抜けようとしたその先に、すでに縁がある。

 

旋回しているのではない。

 

見張っているのだ。

 

捕獲フィールドの表面を巡りながら、そこから出ようとする意志だけを正確に潰してくる。

 

円環の縁に触れた機体は、シールドを無惨に削られ、推進力を乱され、姿勢制御を奪われる。

 

破壊はしない。

 

だが、絶対に逃がさない。

 

その加減が、余計に悪い。

 

殺さない程度に削り、逃げる力だけを奪い、また檻の内側へ押し戻す。

 

《八咫烏》は、部下を殺そうとしていない。

 

だからこそ、誰も突破できなかった。

 

さらに絶望的なのは、彼らがただ「見えない球形の部屋」に閉じ込められているだけではないことだ。

 

逃げ場を塞ぐ球。

 

その壁を見張る円環。

 

それに加えて、機体そのものを直接縛る鎖があった。

 

見えない檻の内側に散らばる十二機のIS。

 

その全機が、中心に陣取る《八咫烏》から伸びる赤い供給ラインによって、へその緒のように繋がれていた。

 

その光の線は、本来なら命綱だった。

 

隊長機が、消耗した部下にエネルギーを分け与えるための支援回線。

 

だが今は、流れが逆になっていた。

 

十二の機体から、《八咫烏》へ向けて、じわじわと力が抜かれていく。

 

推進が弱まる。

 

シールドが薄くなる。

 

武装の立ち上がりが遅れる。

 

それでも、完全に動力までは落とされていない。

 

落とせば墜ちる。

 

墜ちれば死ぬ。

 

《八咫烏》は、それを避けている。

 

避けながら、行動能力だけを丁寧に奪っている。

 

銀の福音に近づくものを、味方であろうと脅威として処理しながら。

 

これを暴走と呼んでいいのかも怪しい。

 

システムが壊れたわけではない。

 

『搭乗者と対象を守れ』

 

その命令を、ただ機械的に、抱え込みすぎただけなのだ。

 

『第一班三号機、シールド二十を切りました!』

 

『第二班、射撃不能! エネルギーを抜かれています!』

 

『第三班二号機、接続解除できません!』

 

『隊長機からの優先接続、強制維持されています!』

 

通信回線は混乱していた。

 

だが、怒号ではない。

 

極限の訓練を受けた者たちの、事象を正確に伝える声だった。

 

だからこそ、その声には、抗いようのないものに捕まった恐怖が滲んでいた。

 

どう動けばいいのか、戦術は分かっている。

 

分かっているのに、どう動いても塞がれる。

 

上昇すれば、円環が先回りして天を覆う。

 

下降すれば、網の目のように赤い供給ラインが絡みつく。

 

横へ逃げれば、見えない膜が歪み、機体を中央へ押し戻す。

 

かつて銀の福音を捕らえるために組み上げられた絶対の理屈が、今度は皮肉にも自分たちに向けられていた。

 

空域を平面で考えるな。

 

球で考えろ。

 

そう命じた隊長・織斑千冬の卓越した戦術が、そのまま逃げ場のない檻になっている。

 

『山田先生! 隊長機への外部停止コードは!?』

 

『送っています! でも通りません!』

 

オペレーターに応える真耶の声は、かつてないほど硬かった。

 

日頃の泣きそうな声ではない。

 

泣いている暇など一秒もない、実戦を指揮する人間の声だった。

 

『《八咫烏》側が、停止命令を搭乗者保護に反すると判断して弾いています。織斑先生の生命反応はあります。ただし、意識はほぼ落ちています』

 

『まだ生きてるんですね!?』

 

『生きています!』

 

その一言だけが、絶望的な戦場の中で、部隊を繋ぎ止める細い杭になった。

 

生きている。

 

なら、まだ任務は終わっていない。

 

だが、それは同時に、こちらから隊長機を物理的に撃てないという最大のジレンマでもある。

 

力ずくで撃ち落とせば、いずれ絶対防御が尽き、千冬が死ぬ。

 

撃たなければ、先に十二機がエネルギーを吸い尽くされて海へ落ちる。

 

銀の福音を無理に引き剥がせば、内側にいるナターシャ・ファイルスの生命がどうなるか分からない。

 

膠着状態の中、《八咫烏》は福音を固く抱えたまま、ゆっくりと高度を上げ始めていた。

 

逃げているのではない。

 

戦域そのものを動かそうとしている。

 

檻ごと。

 

中に囚われた十二機ごと。

 

『隊長機、進路変更!』

 

『日本本土側へ向いています!』

 

『駄目です、このまま行かせたら防空識別圏を――』

 

警告の通信がひとつ、ノイズに飲まれて途切れた。

 

円環の一枚が、本来の軌道から滑り出した。

 

包囲網の端から抜けようとした機体の正面へ、ゆったりとした弧を描いて回り込む。緩やかな動きだった。だが、進路を塞ぐには、それだけで十分すぎた。

 

咄嗟に回避できなかった機体が、円環の縁に正面から削られるようにぶつかった。

 

シールドが激しく明滅する。

 

装甲表面が削られる。

 

推進が乱れる。

 

姿勢を立て直す間すら与えず、別の円環が背後から重なった。

 

二枚の円環に挟み込まれた機体は、推進を完全に殺され、その場で空中に縫い留められた。

 

壊さない。

 

だが、逃がさない。

 

それが、純粋な破壊よりも余計に厄介だった。

 

相手は未知の敵ではない。

 

自分たちを導いてきた、千冬の機体だ。

 

人類を守るために作られたはずの支援機だ。

 

その支援機が、人を守るという命令のままに、味方を檻へ閉じ込めている。

 

 

 

 

 

 

その少し前。

 

伊豆半島の南端。

IS学園の臨海学校が使っていた、海辺の前線拠点。

 

砂浜に立てられた天幕の中で、横島忠夫はひとりだった。

生徒と教員のほとんどは、バス編隊と共に内陸へ避難している。海岸の指揮機能も、管制の真耶たちへ早々に引き継がれた。

 

今ここに残っているのは、海上の戦況を中継するための仮設機材と最小限の人員、そして、横島だけだった。

 

仮設のモニターの中で、海上の戦域図だけが冷たく動き続けている。

 

赤い供給ラインは太すぎる。

 

円環の軌道は広がりすぎている。

 

十二の識別点は、動くべき場所で動いていない。

 

どう見ても、設計時に想定した挙動をしていなかった。

 

横島は、もう何度目になるか分からない流し見をして、深く息を吐いた。

 

打てる手は、頭の中ですでに並べ尽くした。

 

外からの停止コードは弾かれる。

このまま正規の指揮系統に任せれば、彼らは部隊を救うために千冬ごと撃ち落とすしかなくなる。

 

自分が空に上がり、外から理屈を緩めても、中の千冬が目を覚まさなければ《八咫烏》は止まらない。

 

横島は、しばらくモニターを睨んでいた。

 

汗が顎を伝って、砂に落ちる。

 

千冬が生きて戻る細い可能性を、頭の中で一つずつ潰した。

 

潰すたびに、道が狭くなる。

 

最後に残ったのは、ひとつだけだった。

 

一夏。

 

今、バスの上空で生徒たちを守って飛んでいる、一介の生徒。

 

一夏に伝える。

 

迎えに行かせる。

 

死ぬかもしれない場所に、教師の責任で引きずり込む。

 

横島は、補助回線へ伸ばしかけた手を止めた。

 

押せば繋がる。

 

繋げば、あいつは来る。

 

そこまでは、ほとんど分かっていた。

 

教師なら、止める。

 

大人なら、隠す。

 

正しい答えは、分かりきっていた。

 

分かりきっていて、それでは千冬が死ぬ。

 

ちっ、と舌打ちが漏れた。

 

自分への舌打ちだった。

 

千冬には殴られるだろう。

 

真耶にも詰められるだろう。

 

それは当然だ。本人が生きて戻れば、いくらでも受ければいい。

 

本人が死ねば――その重さは、横島が一生背中に乗せて歩くしかない。

 

それでも、ほかに手がなかった。

 

横島は、整備用の補助回線に、ゆっくりと手をかけた。

 

「……千冬。お前の弟、借りるぞ」

 

誰にともなく、そう呟いた。

 

それから、回線を一夏に向けて開いた。

 

 

 

 

 

同じころ。

 

伊豆半島の海岸沿いを縫うように走る、国道一三五号線。

 

夏の終わりの凶暴な陽射しが、アスファルトを白く焼いていた。

 

臨海学校の生徒たちを乗せた大型バスが、五台、等間隔の編隊を組んで内陸へ向かって走っている。前後を警察車両が固め、各バスの上空には、IS適合者の生徒が一機ずつ空中護衛として張り付いていた。

 

織斑一夏は、その真ん中――三号車の真上に陣取っていた。

 

純白の専用機、白式が展開している。

 

路面のバスと並走するような低空飛行。

 

本来なら、この速度で飛べば風切り音が耳障りなはずだ。だが、白式のシールドバリアと慣性制御が外気を滑らかに逃がしていて、無骨な風の音はしない。

 

代わりに、シールド面が大気を裂く微細な振動だけが、足裏の装甲を通して伝わってくる。

 

視界の隅のモニターには、外気温や潮の成分までが補足情報として静かに上がっていた。

 

視線の右下には、バスの白い屋根。

 

その奥には、太陽を反射してきらめく海。

 

左下には、ひなびた民家、鬱蒼とした山、灰色の崖。

 

どこにでもある、ありふれた夏の風景だった。

 

ありふれた夏の風景の中を、白式は滑るように飛んでいる。

 

護衛用の戦術回線越しに、各機の現在地を知らせる声が定期的に聞こえてきた。

 

五号車上空のIS生徒。

 

一号車前方の警察車両。

 

後方で待機する予備機。

 

それぞれが微かな不安を覆い隠すように、抑揚のない定型の報告を繰り返している。

 

全体を仕切っているのは、引率の教官だった。

 

臨時の編成とはいえ、IS学園の教師陣に名を連ねるだけあって、かつて第一線にいた実戦経験を持つベテランだ。指示を出す声は、いつも事務的で淡々としている。

 

得体の知れない異常事態が起きている今も、その冷静さは変わらなかった。

 

波乱の起きようがない、退屈な仕事のはずだった。

 

何らかの有事が起きているらしい、という事は一夏にも分かった。

 

だが、具体的なことは何も分からない。

 

学園からは、生徒の動揺を避けるため、徹底した情報統制が敷かれているはずだった。

 

その強固な情報統制を、無遠慮に、いとも簡単にこじ開けてくる声があった。

 

飛行中のISに対し直接音声を割り込ませるなど、通常の通信手順ではありえない。

 

正式な管制回線ではない。

 

横島が海辺の仮設機材から、整備用の補助回線を無理やり噛ませたのだ。

 

機体制御に触れたわけではない。

 

ただ、白式の耳元に、音声だけをねじ込んだ。

 

チリッ、と耳障りなノイズが一度、鼓膜を突いた。

 

『一夏、聞こえるか』

 

場違いなほど、軽い声だった。

 

横島忠夫だった。

 

IS学園の技術教官。

 

整備棟の奥に入り浸っていることが多く、打鉄に話しかけている姿を見たこともある。朝から女子生徒に軽口を飛ばしては「うっとうしい」とあしらわれているが、持ち前の愛嬌のせいで、生徒たちからはどこか憎めない妙な親しみを持たれている男だった。

 

他の教師陣とも、いつの間にか打ち解けている。

 

良くも悪くも、学園の日常にすっかり馴染んでいる。

 

その男の声が、今だけは、妙に遠かった。

 

『……横島先生?』

 

『悪い、勝手に回線入れた。山田先生にも内緒で繋いでる』

 

『内緒で?』

 

『正規ルートだと、お前には何も伝えないことになってるからな』

 

『……何の話ですか』

 

『姉ちゃんの話だ』

 

一夏の手が、操縦桿の上で止まった。

 

『姉さんが、どうかしたんですか』

 

『動けなくなってる』

 

いつもの調子だった。

 

軽くて、飄々としていて、昼休みに購買のパンが売り切れていたとでも言うような声。

 

その声で、横島は血の気が引くようなことを言った。

 

『海上で銀の福音っていうのと接触した。それを抱え込んだ瞬間、姉ちゃんの隊長機――《八咫烏》が、姉ちゃんを守ろうとして、命令を抱え込みすぎた。今、止まらなくなってる』

 

『暴走……してるんですか』

 

『そう呼んでいいかは微妙だな。壊れてるんじゃない。守ろうとして、やりすぎてる。姉ちゃん本人は、機体の中で意識を落としてる。それも、ただ気を失ってるんじゃない。もう一段深いところに沈められてる』

 

『沈められてる、って……』

 

『ついでに、変な抑え込みがかかってる。だが、姉ちゃん本人の中身がそのまま削られてるわけじゃない。動けなくして眠らせてる。その程度で、まだ済んでる』

 

『眠らせてる、って』

 

『起こせば戻る。たぶんな』

 

横島は短く言葉を切った。

 

それから、少しだけ声を低くした。

 

『同じ理屈で福音の中身も削られてるんだが、あっちは桁が違う。多分、人の形を保ててない方向に倒れかけてる。だから福音の方は手当ても面倒だ。だが、姉ちゃんはそこまで深くやられてない。だから、まだ間に合う』

 

『……機体の問題じゃないんですか』

 

『機械の問題と、その先の問題と、両方ある。理屈は全部終わった後で説明してやる。今は呑み込め。無理でも呑み込め』

 

淡々とした声だった。

 

ひけらかすことも、誤魔化すこともない。

 

嘘の入っていない、真っ直ぐな響きだった。

 

一夏は、それ以上は聞かなかった。

 

息が浅くなる。

 

真夏の眩しい光が、急にひどく遠ざかったように感じた。

 

『山田先生たちは、本来ならお前には伝えない。一介の生徒に背負わせるような話じゃないって判断するはずだ。指揮官としては、まあ、それで正しい』

 

横島は続けた。

 

『でもな、外からじゃ届かないんだよ、あれは。撃てば姉ちゃんが死ぬ。撃たなければ部隊が落ちる。今、軌道がじりじり日本側に寄ってきてる。時間がねえ』

 

短い沈黙。

 

『俺ひとりで何とかしたかったよ。今もそう思ってる。教師面して、お前には危ないから下がってろって言えたら、そっちの方がずっと格好いい』

 

その一言だけが、いつもの軽い口調から外れていた。

 

『でも無理だ。俺はそこまで格好よくねえし、万能でもねえ。足りないもんは足りない。だから、お前に頼む』

 

『……俺に?』

 

『ああ。一個だけ、抜けそうな手がある』

 

『何ですか』

 

『お前だ』

 

一夏は黙った。

 

『あの機体、外からの干渉は全部弾いてる。命令も、アクセスコードも、止まれって言葉も、全部だ。だけど、深いところで動けなくされてる姉ちゃん本人に、どこまで届くかは別の話だ』

 

『……俺なら、届くんですか』

 

『姉弟ってのは、思ってるより近い。物理的な距離の話じゃない。もっと別の意味でだ』

 

『別の意味、って』

 

『細かい理屈はいいよ。要するに、どんなにぼんやりしてる姉ちゃんでも、家族の声なら聞き分けられる、って話だ』

 

『そんな、あやふやな』

 

『あやふやだから効くんだよ。機体は、分かりやすい命令しか弾けない。止まれ、解除しろ、接続を切れ、そういうやつだ。お前の声みたいに、機械の理屈の外側にあるもんは、あいつの側でうまく捕まえられない』

 

『……ちょっと、待ってください』

 

一夏は、たまらず口を挟んだ。

 

『行きたいです。すぐにでも行きたい。それは間違いないんです。でも――』

 

声が、半端なところで詰まった。

 

『俺、自分の実力、身にしみて分かってます。実戦経験は浅いし、戦場で出来ることなんて、たかが知れてる。十二機がやられてるって、あれ、俺より遥かに強い人たちですよね。そこに俺が一機で割って入って、姉さんのところまで本当に辿り着けるんですか』

 

一度言葉にしてしまうと、止まらなかった。

 

『家族の声って言われても、辿り着く前に俺の方が落ちたら、意味がないじゃないですか』

 

行きたいのと、行けるかどうかは、別の話だった。

 

ただの怖さではない。

 

実力不足の、容赦のない自覚だった。

 

姉を助けたいという真っ直ぐな気持ちと、その姉に届く前に自分の方が役立たずに落ちるかもしれないという冷静な計算が、同じ場所で押し合っている。

 

ただの臆病なら、奥歯を噛んで振り切ればよかった。

 

そうではない。

 

「行きたい」と「届くかどうか」が、別の話だから苦しいのだ。

 

回線の向こうで、横島は短く黙った。

 

それから、ひどく静かな声になった。

 

『一夏。お前を最強の戦力として送り込むつもりは、最初からない』

 

『……え』

 

『お前が強いから呼んだんじゃない。お前以外には頼めない仕事だから呼んだんだ。実力で言うなら、千冬ちゃん本人が一番強い。その本人が止められてる。実力であいつを越える奴なんて、この場にはいない』

 

一夏は、息を呑んだ。

 

『八咫烏は、姉ちゃん本人の意志を土台にして動いてる。だから、その姉ちゃんの意識が沈んでる以上、外からは誰も触れない。姉ちゃんを姉ちゃんに戻すには、あいつが「織斑一夏の姉である自分」を思い出すきっかけが要る』

 

『姉さんの、意志……』

 

『ああ。それを呼べるのが、お前だ』

 

横島は一息置いた。

 

『戦闘の段取りは、こっちで組む。無茶なところは俺が誤魔化す。八咫烏の前まで運ぶのも、俺の仕事だ』

 

『……俺は、何をすれば』

 

『呼べ』

 

『呼ぶ?』

 

『そうだ。姉ちゃんを呼べ。名前でも、姉さんでも、昔みたいに泣き声でもいい。とにかく、あいつが隊長でも、教師でも、世界最強でもなく、お前の声に返事をする姉ちゃんでいられる場所まで届かせろ』

 

『それが、俺の仕事ですか』

 

『そうだ。戦力じゃない。武器でもない。お前は声だ』

 

『……声』

 

『俺が欲しいのは、最強の一年生じゃない。織斑千冬の弟だ』

 

一夏は、操縦桿を握る手に力を込めた。

 

『お前が今までに一回でも、千冬を姉さんとして呼ばなかったことがあるか』

 

『……ないです』

 

『だろ。だから呼んでくれ。それで届かなかったら、それは俺の手抜かりだ。お前の責任じゃない』

 

横島の声に、ぎり、とした重さが混じった。

 

『山田先生たちは、生徒のお前を巻き込まないのが正しいと判断するはずだ。教師としては、それで間違ってない。だから俺は今、正しい判断を先回りして破って、お前を引きずり込もうとしてる』

 

『……先生』

 

『お前を死なせたら、俺は後で千冬や山田先生に撃ち殺されるだろうな。それは構わない。でも、このままじゃ姉ちゃんが死ぬ。俺の持ってるもん全部突っ込んでも、どうしても最後に足りない。そこに必要なのが、お前の声なんだ、一夏』

 

一夏は、もう一度息を呑んだ。

 

普段は軽口ばかりで、何を任されているのかよく分からない技術教員だと思われることもある男。

 

その男が、自分の首と教師としての立場を引き換えに、すべての責任を背負って一人で泥を被ろうとしている。

 

オカルトじみた理屈の奥に、逃げ道のない理由があるのだと、通信越しにも分かった。

 

一夏は、しばらく無言のまま眼下の景色を睨んでいた。

 

姉を助けたい気持ちは変わらない。

 

その役の中で、自分が一番非力な駒だという自覚も消えない。

 

それでも、横島の言葉が、その不安の置き場所をくれた。

 

戦闘は横島が組む。

 

姉を呼ぶのは一夏。

 

そう切り分けてもらえれば、後者なら、自分にもできる気がした。

 

ただ姉の名前を呼ぶことなら、子供のころから何度もやっている。

 

完全に理解したとは言えない。

 

だからといって、分からないと切り捨てることも、もうできなかった。

 

『……あの、なんで先生にそんなことが分かるんですか』

 

短い沈黙。

 

回線の向こうで、横島はいつものように軽く笑った気配を出した。

 

『あの八咫烏、束作なんだけどな。背中の増設フレーム、設計に俺の方の技術もいくらか噛んでるんだわ。だから内側の動きは、まあ、半分くらいは俺の理屈で動いてるところがある』

 

今、姉をもう一段深く眠らせている「変な抑え込み」も、その半分の方の仕業だ――とは、横島は言わなかった。

 

一夏も、深くは聞かなかった。

 

『……半分は、先生』

 

『聞き流せ。今は段取りの話だ』

 

一夏は、それ以上は問わなかった。

 

ただ、姉が動かなくなっている機体の中枢にも、この男が深く関わっていたという事実だけが、頭の片隅に重く残った。

 

一夏は、右側の海の方向を見た。

 

どこまでも続く水平線。

 

その向こうに、姉がいる。

 

『行きます』

 

ようやく、そう言えた。

 

『……うん』

 

横島は小さく、心底安堵したように息を吐いた。

 

『そう言うと思った。だけど一個だけ言っとく。お前、白式は乗りこなせてるけど、まだ戦場の初心者だ』

 

『分かってます』

 

『戦域には、八咫烏が出した馬鹿でかい輪っかが何枚も回ってる。捕獲フィールドを支えるための円形フレームだ』

 

『輪っか、ですか』

 

『ああ。見た目はのろい。だが、近づく奴の前にだけ、嫌になるくらい正確に回り込んでくる。熟練の十二機が、それで押さえ込まれてる。お前を単機でポツンと投げ込んだら、数秒で捕まって終わりだ』

 

『……はい』

 

『試験機を一機、用意してある。複座仕様だ。お前が前、俺が後ろ』

 

『……どこにそんな機体が』

 

『元々、八咫烏の試験運用に合わせて、束に組ませた俺の足場だ』

 

『足場?』

 

『俺、ISに乗れねえだろ。だけど、八咫烏みたいな代物を空に上げるなら、俺の方の仕事を空中で回す必要があった。だからシールド付きの作業足場として組んでもらってた、そういう機体だ』

 

『……戦闘機じゃ、ないんですか』

 

『戦闘想定なし。武装も最低限。シールドはまあ、それなりに張る。要するに、俺が空中で吹っ飛ばないための保険みたいなもんだよ』

 

『……はい』

 

『ただ、中の支援系は八咫烏と兄弟みたいなもんだ。同じ系統で組まれてる。だから、本来の用途じゃないけど、八咫烏の動きに少しだけ干渉できる。今回はその少しだけを、無理やりにでも引き出すしかない』

 

『……はい』

 

『こんな風に使うなんて考えてもいなかったんだけどな』

 

横島は短く流した。

 

『機体は今、自律で運んでもらってる。俺は海辺の前線拠点にいる。お前は白式で、こっちまで戻ってこい。座標は山田先生から送らせる』

 

『先生のところに、機体が来るんですか』

 

『早い方が早い。お前と俺、二人とも俺のいる場所に集まる方が、無駄な動きが要らない』

 

『……分かりました』

 

『その機体、操縦は俺がするんですか』

 

『そうだ。前はお前の席だ。白式ごと繋いで、進ませるのはお前がやる』

 

『先生は』

 

『俺は後ろだ。ISは扱えないからな。後ろで俺の方の仕事をする。お前が姉ちゃんに届くための道を、外側から保つ役だ』

 

『道……』

 

『さっき言った声の繋ぎだ。八咫烏の前まで行くのは、お前の操縦。姉ちゃんを呼ぶのも、お前の声。俺はその間に、八咫烏の理屈をずらして、声が途中で切れないように支える』

 

『……はい』

 

『だから、お前の本筋は二つだ。機体を進めること。声を出すこと。それ以外は、よっぽどの時だけにしろ』

 

『分かりました』

 

淡々と、澱みなく段取りが渡された。

 

その事務的な調子に、一夏は逆に安心感を覚えた。

 

冗談を言う余裕はある。

 

慌てふためいている人間の声ではない。

 

横島は、まだ諦めていない。

 

助けるために必要な手順を、ひとつずつ見ている声だった。

 

『先生』

 

『うん』

 

『なんで、わざわざ俺に直接』

 

通信の向こうで、横島は少しだけ黙った。

 

『……あー、そういう話か』

 

『はい』

 

『ったく。こういうの、俺向きじゃねえんだけどな』

 

横島は、困ったように息を吐いた。

 

逃げるための軽口ではなかった。

 

言うべきことを、どうにか自分の口に馴染む形へ落とそうとしている間だった。

 

『お前を、知らないままにしたくなかったからだ』

 

『え?』

 

『俺はもう、お前を呼ぶって決めてる。ひどい話だけどな。勝ち筋を全部並べて、潰して、最後に残ったのがそれだった。だから、これから俺は、お前を死ぬかもしれない場所に連れていく』

 

一夏は、何も言えなかった。

 

横島の声は、軽くなかった。

 

いつものように笑って誤魔化すことも、冗談で流すこともできるはずなのに、そこだけはしなかった。

 

『でもな。それを、お前の知らないところで決めて、ただ命令として引っ張るのは違うだろ』

 

『……先生』

 

『姉ちゃんが危ない。お前の声が要る。そこまで分かってて、お前だけ何も知らないまま、後で結果だけ聞かされる。助かりましたでも、間に合いませんでしたでも、どっちにしてもだ。そんな終わり方は、俺は嫌だった』

 

横島は、そこで一度言葉を切った。

 

通信の向こうに、波の音のようなノイズが混じる。

 

そのわずかな沈黙の間に、一夏は、横島がどれだけ考えたのかを少しだけ理解した。

 

選ばせるためではない。

 

迷わせるためでもない。

 

もう、横島の中では答えは出ている。

 

それでも、自分を何も知らない場所に置き去りにはしなかった。

 

『行くかどうかを、好きに選べなんて綺麗なことは言わない。俺は教師として、もうお前を巻き込んでる。そこは誤魔化さない』

 

『……はい』

 

『ただ、命令で連れていくんじゃない。お前自身に、姉ちゃんを迎えに行くって言ってほしかった。それだけだ』

 

一夏は、操縦桿を握る手に力を込めた。

 

強制ではない。

 

けれど、完全な自由でもない。

 

目の前に置かれたのは、逃げ道のない選択だった。

 

それでも、知らされないよりはよかった。

 

誰かが勝手に決めて、知らない場所で姉の生死が決まり、後から結果だけを渡されるよりは、ずっとよかった。

 

『……分かりました』

 

『重く取るな。今は段取りの話だ』

 

横島の声が、そこで少しだけ軽くなった。

 

けれど、その軽さが無理をして作られたものだと、一夏にも分かった。

 

『お前は指揮教官に離脱を申告しろ。こっちで同じタイミングに、管制経由の緊急通達を流す』

 

『山田先生には』

 

『後で俺が直接怒られる』

 

『……後で、ですか』

 

『今、山田先生に一から説明して許可取ってる時間はねえ。だから先に通す。最低限の戦況データと、離脱理由と、護衛交代の要請だけを、管制システムに噛ませる』

 

『それ、大丈夫なんですか』

 

『大丈夫じゃねえよ』

 

横島は、あっさり言った。

 

『だから、怒られるって言ってる』

 

『……先生』

 

『ただ、指揮教官の側から見れば、管制経由の緊急通達として受け取れる。お前が勝手に飛び出した形にはしない。そこだけは、こっちで何とかする』

 

通信の向こうで、横島が何かを操作する音がした。

 

『今、投げた。お前が申告する頃には、向こうの回線に割り込みが入る』

 

『……お願いします』

 

『じゃあ、頼んだ』

 

一夏は、それ以上は問わなかった。

 

通信を、引率教官の公式回線に切り替える。

 

『護衛三号機より指揮教官』

 

『どうした、織斑』

 

淡々とした女性教官の声が返ってきた。

 

『離脱許可をお願いします』

 

短い沈黙。

 

『理由は』

 

『管制経由で、姉さんの件の緊急通達が入るはずです』

 

『そんな話、こっちには来ていない』

 

予想通りの返答だった。

 

『すぐに来ます』

 

一夏がそう言い切った瞬間に合わせるように、指揮教官の回線へ、管制系統からの緊急割り込みが入った。

 

短い、しかし重い沈黙。

 

教官の声が、再び戻ってくる。

 

『……緊急通達、確認した。織斑の離脱認可、降りた』

 

『すみません』

 

『謝るな』

 

彼女の声が、先程より少しだけ低くなった。

 

『お前のところの担当は、後方予備機を繰り上げる。それで足りなければ、二号車側を一機回す。バスは止めない。絶対にな』

 

『はい』

 

『一夏』

 

初めて、名前で呼ばれた。

 

『姉さんを連れて帰ってこい』

 

『行ってきます』

 

三号車の上空に、後方から全速力で繰上がってきた予備機がついた。

 

短く位置情報とセンサー範囲を引き継ぎ、白式は護衛編隊から離脱した。

 

路面の連なるバスたちが、彼を置いて北へ流れていく。

 

白式の機首が、海の方向へ向いた。

 

水平線の向こう。

 

本来なら鮮やかなはずの空が、そこだけ不吉な灰色に濁っている。

 

姉のいる方角。

 

そしてその手前に、横島の待つ前線拠点がある。

 

白式がスラスターを吹かし、爆発的に加速した。

 

横島のいる海岸へ。

 

 

 

 




後編もすぐ投稿します

…難産だった…
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