ISクロスGS ザ・グレート・ゲーム 【IS世界に横島忠夫を放り込んでみた】 作:監督
名乗りなど、なかった。
相手が言葉を理解するのかどうかすら分からない。
そもそも、互いに名を告げ合うような相手でもなかった。
空を裂いて迫るのは、背に翼を持つ醜悪な石像の群れ。
人に似た胴。獣に似た顔。鉤爪の生えた腕。石を削り出したような皮膚の隙間からは、黒ずんだ粘液が滲んでいる。
ガーゴイル。
横島忠夫の世界では、下級妖魔に分類される存在である。
だが、この世界にとっては違う。
この世界には、妖怪も悪霊も悪魔も、存在していなかった。
少なくとも、人類の前に実体を伴って現れるものではなかった。
だからこそ、それらはまとめて「あいつら」と呼ばれていた。
名前を与えるには、あまりに異質で。
分類するには、あまりに情報が足りず。
そして、放置するには、あまりに危険だった。
その群れに向かって、白い機体が一機、真正面から飛び込んだ。
織斑千冬の駆るIS、白騎士。
その姿は、南洋の陽射しを受けて眩く輝いていた。
白い装甲。背に展開した推進翼。人型でありながら、戦闘機でも兵士でもない異様な存在感。
空に立つ騎士。
その名に偽りはなかった。
千冬は小手調べなど必要ないとばかりに、機体を一瞬沈ませた。
次の瞬間、白騎士が空を跳ねた。
飛ぶ、というより、弾ける。
空間の一点を蹴ったように角度を変え、迫り来る先頭のガーゴイルの懐へ潜り込む。
ガーゴイルの濁った目が、千冬を捉えた。
遅い。
千冬の膝が、みぞおちに入った。
肉ではない。
石に似た硬質な胴体。
だが白騎士の加速と千冬の踏み込みが合わさった一撃は、その装甲のような表皮を容易く砕いた。
鈍い破裂音。
ガーゴイルの胴が内側から弾け、黒い液が空中に散る。
千冬は止まらない。
蹴り抜いた脚をそのまま振り切り、回転の勢いを二体目へ乗せた。
白い脚部装甲が、二体目の頭部を横から叩き割る。
石が砕ける音。
濁った咆哮。
翼を失ったガーゴイルが、海面へ向かって落ちていく。
三体目は、それまでの二体より速かった。
千冬の軌道を読んだのか、翼を大きく広げ、真正面から体当たりを仕掛けてくる。
口が裂けるほど開いた。
石像の顔に、不適な笑みが浮かんだように見えた。
千冬はわずかに眉を動かす。
「少しは考えるか」
ガーゴイルの体当たりが、白騎士を下方へ弾き飛ばした。
地上であれば、足をつく場所がある。
壁でも、床でも、地面でも、何かを蹴って姿勢を戻せる。
だが、ここは空だ。
支えるものはない。
踏みしめるものもない。
弾かれた白騎士は、放物線を描いて海面へ落ちていく。
このままでは、叩きつけられる。
そう見えた瞬間、千冬は仰け反るように背を反らした。
白騎士のブースターが唸る。
海面すれすれで、機体が反転した。
波が爆ぜ、白い飛沫が弧を描く。
千冬はその勢いを殺さない。
むしろ利用した。
反転からの再加速。
すれ違いざま、右手に雪片を抜き放つ。
白騎士唯一の近接武装。
雪片と呼ばれる刀が、陽光を受けてかすかに光った。
刃が走る。
三体目のガーゴイルは、笑みを浮かべた姿勢のまま両断された。
時間にすれば、わずか数瞬。
だが、その数瞬で三体が落ちた。
浜辺から見上げていた横島は、思わず口を開けていた。
「……おいおい」
強い。
単純に、強い。
横島は魔族とも神族とも戦ってきた。
美神令子の助手として、常識外れの戦場に放り込まれることなど何度もあった。
だから、強い相手を見る目はある。
千冬の動きは、ただの兵器の操縦ではなかった。
機械を動かしているのではない。
あの白い鎧を、自分の体の一部として扱っている。
ガーゴイルは怯まなかった。
先頭の数体を瞬殺されても、群れは止まらない。
それどころか、それまでバラバラに飛んでいた個体たちが、誰からともなく動きを合わせ始める。
高く回り込むもの。
低く海面近くを滑るもの。
真正面から千冬の視界を塞ぐもの。
背後へ回り込もうとするもの。
粗雑だが、無秩序ではない。
千冬は舌打ちした。
「群れるだけではない、か」
ガーゴイルたちは、直接爪を立てるだけではなかった。
奇声を上げながら口を開く。
次の瞬間、黒緑色の液体が連続して吐き出された。
それは弾丸ではない。
炎でもない。
だが、空中で糸を引くように伸び、白騎士の装甲へ降りかかる。
じゅう、と嫌な音がした。
白い装甲の表面が、わずかに焦げ、溶ける。
溶解液。
横島の世界でも、ガーゴイルが使う厄介な攻撃の一つだった。
千冬は素早く距離を取る。
装甲の損傷は軽微。
シールドバリアーも機能している。
だが、気分の良いものではない。
白い機体に黒ずんだ液が絡む。
陽光の下で、それはひどく不快に見えた。
「数が多いな」
千冬は空中で姿勢を整え、雪片を構え直す。
見渡す限りの蒼い空と海。
逃げ場は広い。
だが、守るべき者がいる以上、好きに引き離すわけにもいかない。
島には束がいる。
横島という、素性不明の異邦人もいる。
そして、この群れがどこまで増えるのかも分からない。
千冬は一度、大きく息を吸った。
「さて、どうするか……」
かすかに光を帯びる雪片を、ゆっくりと構え直す。
ガーゴイルの群れが、空を黒く染めるように広がっていた。
◇
「う〜ん。さすがのちーちゃんも、あの数にはちみっと苦労するかな〜?」
「いや、苦労するかな、じゃなくてさ」
浜辺では、横島と束が空を見上げていた。
横島は落ち着かない。
当然である。
ガーゴイルの群れが空を飛び、千冬がそれを一人で相手取っている。
横島から見れば、見慣れた妖魔であり、見慣れた危険だった。
だが、ここは異世界だ。
彼は空を自由に飛べない。
文珠を使えば跳ぶことはできる。移動もできる。結界も張れる。攻撃もできる。
だが、いきなり空中で白騎士とガーゴイルの高速戦闘に割り込めるかといえば、話は別だった。
間合いが違う。
速度が違う。
何より、千冬の戦い方をまだ知らない。
下手に手を出せば、援護どころか邪魔になる。
横島には、それが分かっていた。
だからこそ、歯がゆかった。
「ガーゴイルってのは、あれで結構手強いんだぞ?」
横島は空を見たまま言う。
機動力も、防御力もそこそこ高い。
下級妖魔としては知恵も回る。
加えて、あの溶解液だ。
数が集まれば厄介な相手になる。
美神なら、どうにかするだろう。
唐巣神父やピート、タイガー、雪之丞、ほかのGSがいれば、戦い方はいくらでもある。
だが、一人で群れを相手にするとなると話は違う。
横島自身、散々な目に遭った記憶がいくつもあった。
「ん、大丈夫だよ、よこっち」
束は、まるで浜辺で花火でも眺めているような調子だった。
ロングスカートが海風に揺れる。
頭上のマニピュレーターは、千冬の動きとガーゴイルの群れを追うように小刻みに動いていた。
その表情は薄笑い。
捉え所がない。
「結局のところ、どうやって片付けるかの問題でしかないからさ」
「そりゃそうかもしれんが、あの数だぞ?」
「よこっちは元の世界でGS? とかいうのだったんでしょ。ああいう時はどうしてたのさ」
「逃げた」
「……はぁ?」
束が、心底意外そうな顔をした。
横島は当然のように胸を張る。
「いや当たり前だろ。多勢に無勢だぞ? さんざ殴られたり蹴られたり、痛いんだよ?! フルボッコだよ?! しまいに溶解液ぶっかけられた日には、皮膚溶けんだぞ?! 美神さんとか他のGS達がいたらともかく、普通逃げるだろ!」
「えー」
「えー、じゃねえ! だいたい今だって、できるなら逃げてんぞ? 空を飛んでる群れ相手に、地上から何しろってんだ!」
横島の返答に、束が一瞬きょとんとした。
そして。
「ぷっ」
笑った。
「くくくく……あははははははははは!」
腹を抱えて笑い出した。
横島はむっとする。
「なんだよ」
「いい! いいね、それ! そっか、逃げるかあ。そりゃ逃げるよねえ。あ〜、あたし以外にそう思う人がいるとは思わなかった!」
「お前、笑いすぎだろ!」
「だって、おかしいんだもん。よこっちは薄情だね〜。解決してあげなきゃ困る人がいたんだろうにさ」
束は何度も横島の肩を叩く。
その言葉には、からかいだけではない何かが混じっていた。
横島は一瞬、返し損ねた。
普通なら、ここで「逃げるな」と言われる。
美神なら怒鳴る。
唐巣神父なら諭す。
おキヌちゃんなら心配する。
だが束は笑った。
逃げるという選択肢を、まるで当然のこととして受け入れた。
「……お前、変なやつだな」
「よく言われるよん」
「褒めてねえよ」
「知ってる」
束は楽しそうに笑う。
横島は空へ目を戻した。
千冬が動いた。
そう感じた瞬間、白騎士はすでに間合いを詰めていた。
「……速い!」
横島の口から声が漏れる。
白騎士が群れの中へ切り込む。
斬撃が連続して走った。
雪片が閃くたび、ガーゴイルの腕が飛び、翼が裂け、胴が割れる。
千冬は一か所に止まらない。
斬る。
蹴る。
体を入れ替える。
溶解液を吐かれる前に、吐き出す口ごと割る。
飛びかかる個体は、刀ではなく肘と膝で砕く。
近接してきた個体には、爆竹のように途切れることのない連打を叩き込んだ。
だが一撃一撃は軽くない。爆竹というより、至近距離で炸裂する小型爆弾の連続だ。
白騎士の四肢がガーゴイルの硬い皮膚を突き破る。
砕ける感触。
潰れる手応え。
黒い液が装甲に散る。
千冬の顔には嫌悪が浮かぶ。
だが、止まらない。
嫌悪している暇などない。
次が来る。
その次も来る。
ガーゴイルは数で押してくる。
千冬が一体を斬れば、その死角へ二体が入る。
二体を蹴り落とせば、上から三体が溶解液を吐く。
距離を取れば、群れ全体が広がり、島へ向かう個体が出る。
横島は歯噛みした。
「おい、束。ISってモノのことは分かんねーけど、あれで大丈夫なのか?」
「そんなに心配しなくても、大丈夫だよん」
束は指を一本立てた。
「この大天才、束さん開発のIS補助機構、PIC――パッシブ・イナーシャル・キャンセラーも、ハイパーセンサーも、コア・ネットワークも、シールドバリアーも、ついでに絶対防御も、全て絶賛正常作動中!」
「お、おう」
「ガーゴイルの群れの一つや二つ、ちゃちゃちゃーっと片付けてくれますって!」
束は明るく言った。
だが、その声の最後に、小さく付け足した。
「……ちーちゃんなら、ね」
「ん?」
「なんでもなーい」
横島は聞き取れなかった。
あるいは、聞き取れても意味までは分からなかっただろう。
束は空を見ている。
そこに浮かぶ白い機体を、ただの兵器としてではなく、自分の作った可能性として見ている。
そして同時に、そこに乗る千冬を、誰よりも信頼している。
横島は、少しだけ黙った。
白騎士が、空中で弧を描く。
ガーゴイルの群れが、それに引きずられるように形を変えた。
千冬は群れ全体を動かしている。
正面から突っ込むだけではない。
逃げる個体を追うだけでもない。
島へ向かわせないよう、海上へ押し戻し、溶解液を吐く角度を潰し、群れの密度を上げさせる。
密集した瞬間、白騎士が垂直に跳ね上がった。
直後、ガーゴイルたちの吐いた溶解液が、互いの体に降りかかる。
奇声。
混乱。
そこへ、千冬が落ちてきた。
雪片が円を描く。
数体まとめて、翼が切り落とされた。
「うわ、えぐい」
横島が呟く。
「褒め言葉として受け取っておくよん」
「お前が受け取るな」
それでも、横島は目を離せなかった。
千冬は強い。
だが、楽ではない。
数が多すぎる。
いくら一体一体を圧倒しても、連続すれば疲弊する。
白騎士の装甲に浴びた溶解液も、少しずつ痕を増やしていた。
千冬は、それを分かったうえで戦っている。
短期で終わらせるため、群れの動きを誘導している。
そして、その狙いは成功した。
逃げ場を失ったガーゴイルたちが、ひと固まりになる。
千冬は雪片を構えた。
白騎士の出力が上がる。
「終わりだ」
白い閃光が走った。
横島の目には、斬撃が一本に見えなかった。
空中に幾重もの線が重なり、白い花が咲いたように見えた。
次の瞬間、ガーゴイルの群れがまとめて崩れた。
翼を失ったもの。
胴を断たれたもの。
頭部を砕かれたもの。
黒い影が、次々と海へ落ちていく。
波が幾つも立った。
空に残るのは、白騎士ただ一機。
千冬はしばらく周囲を警戒し、それからゆっくり島へ降りた。
着地した白騎士の装甲には、溶解液の痕がいくつも残っていた。
それでも、千冬の姿勢は崩れていない。
「おつかれ、ちーちゃん」
束が手を振る。
「軽く言うな」
千冬は短く返す。
その声には、わずかな疲れが混じっていた。
横島は、無意識に頭を下げた。
「すげえな、あんた」
「褒めても何も出んぞ」
「いや、そういうんじゃなくてさ」
横島は空を見上げる。
さっきまで黒い影で埋まっていた空は、もう青く戻っていた。
「本当に、守ってんだな。この世界を」
千冬は一瞬だけ横島を見た。
何かを言いかけたが、やめた。
「休むぞ」
それだけ言って、白騎士を解除する。
さすがに疲弊していた千冬を気遣い、その後しばらく三人は島で休養を取った。
束は戦闘データを確認し、横島は文珠の残数を確認し、千冬は黙って海を眺めていた。
帰還の準備が整う頃には、夕暮れの太陽は水平線へ近づいていた。
忍び寄る夜の闇が、懸命に赤い光を追い立てている。
◇
帰路。
三人は海上を飛んでいた。
正確には、飛んでいるのは千冬である。
白騎士の背には束。
横島はというと、機体から伸ばされたブランコ状のロープに座らされていた。
待遇の差が激しい。
「なあ、俺だけこれなの?」
「お前を背中に乗せる理由がない」
「束は乗ってるじゃん!」
「私は可愛いからね」
「理由になってねえ!」
「あと、変な動きをしないからな」
千冬が淡々と言う。
横島は即座に視線を逸らした。
なぜなら、さきほど背中に乗せろと要求した際、彼は「不可抗力で密着する可能性」を妙に熱心に説明してしまったからである。
結果、ブランコになった。
自業自得だった。
海風が横島の髪を乱す。
下を見れば、夜へ向かう海がどこまでも広がっていた。
千冬はふと思い出したように問いかける。
「そういえば、横島。お前、どこか暮らすあてはあるのか……と、聞くまでもないか」
「まあな。似ている部分はあるとはいえ、GSが存在しない以上、縁のある人たちがいるとも思えんし」
「戸籍もない。身分証もない。金も使えるか分からん。厄介だな」
「身も蓋もないこと言うなよ」
「事実だ」
横島は唸る。
異世界転移。
言葉にすれば派手だが、実際に起きてみれば問題はひたすら現実的だった。
住む場所。食べるもの。身分。金。帰還手段。
美神の事務所がどれほどありがたい場所だったか、今さらながら身に染みる。
「よこっちのDNAマップくれるなら、あたしん家に泊めてあげてもいいよん♪」
「DNAマップ?」
横島が反応する。
「DNAだって?! それは遺伝子、つまりこんな美少女が、一晩俺にヤラせてくれ――」
「あ、手が滑った」
「ちょ、千冬さぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ?!」
ロープが切れた。
横島の悲鳴が、ドップラー効果を伴って海へ落ちていく。
白騎士は何事もなかったかのように飛び続けた。
千冬は冷めた目で見送る。
「束」
「なあに、ちーちゃん?」
「せっかく、現状を解決する糸口になる鍵が現れたと思ったのだが……」
千冬は深く息を吐いた。
「あんなんに頼っていいんだろうか?」
「別に頼らなくてもいいんじゃない?」
束はあっさり答えた。
「利用すればいいじゃん」
千冬は黙った。
束は続ける。
「DNAマップだって、あたし割と本気だよ? もし必要なら、よこっち自体をコ――」
言いかけて、束は口をつぐんだ。
風の音だけが流れる。
千冬は、束が何を言おうとしたのか、朧に分かった。
コピー。
複製。
解析。
分解。
言葉は何でもいい。
束の頭の中では、人間を人間として扱う線引きが、時折ひどく曖昧になる。
「またお前は、そんなことを……」
「でも、そうしないとどうしようもないし」
束の声は軽かった。
軽いのに、芯が冷えていた。
「できないなら、同じことの繰り返しだよ。このまま、緩慢に滅んでいきたい、ちーちゃん?」
「……」
千冬はすぐに答えられなかった。
夜の海。
月の輝く星空。
街の灯りが届かない空は、ひどく綺麗だった。
綺麗すぎて、寂しいほどだった。
この空の下に、人の住む街がある。
家がある。
学校がある。
千冬の弟がいて、束の妹分がいて、何も知らずに眠る人々がいる。
その当たり前を守るために、千冬は戦ってきた。
だが、守れているのか。
それとも、ただ滅びを先延ばしにしているだけなのか。
答えは出ない。
「しかし束」
千冬は話題を変えるように言った。
「アイツが他の世界から来たという話、本当に信じていいのか?」
「信じる、というか、信じざるを得ないよね〜」
束はいつもの調子に戻った。
「平行世界に関わる理論は、ある程度確立されてるわけで。問題は移動手段がなかったこと。よこっちはどうやら、その手段を行使して、この世界に来ちゃったみたいだし」
「文珠、だったか」
「そうそう。しかも、この世界の人間では到底不可能な物証まで見せられちゃった。あれを手品とか詐欺で片付ける方が無理だよ」
「エネルギー体を物質化するなど、ISコアを利用して初めて可能になった現象を、生身でこなす」
千冬は呟く。
「これだけで、世界はまたひっくり返るだろうな」
「だから大事にしないとね」
「どの口が言う」
「この可愛いお口」
「黙れ」
束は笑った。
千冬は、また空を見上げた。
神や悪魔が、気づけば隣にいるような世界。
横島の話が本当なら、そういう世界が存在する。
人間の概念上の存在でしかないと思っていたものが、現実として存在する世界。
そこでは、人はどう生きているのだろう。
こちらの世界にも光と闇はある。
だが、神の声は届かない。
祈っても、答えは返らない。
それなのに「あいつら」の攻撃だけは、疑いようもない現実として眼前にある。
今日まで自分や束がやってきたこと。
横島が現れた理由。
今までと、これから。
二つの時間が交差し、より大きなうねりとなって、自分たちを呑み込もうとしている。
千冬には、そう思えてならなかった。
「……なんにせよ、明日からだな。今日はもう疲れた。一夏がいれば、マッサージでもしてもらいたいところだが」
「いっくんのマッサージ、気持ちいいもんね〜。あたしん家の箒ちゃんは、最近反抗期で悲しいけど。いい加減にしないと殴るぞ、とか、殴ってから言うの。最近会えてないけど。ぐっすん」
束の頭上マニピュレーターが、本人と同じようにしゅんと垂れる。
自業自得だ。
千冬はそう思ったが、口には出さなかった。
「しかしまた、頭が痛いな。異世界の男がああスケベだとは思わなかった。一夏とはえらい違いだ」
「あはははは。いっくんみたいな鈍感魔神を基準にするのもあれだけど、よこっちは多分、向こうでも十分すぎるほど変態だと思うよ〜。警官に『変質者は取り締まらねばならん!』とか言って追いかけ回されてそう」
「はっ。違いない」
二人は笑った。
風と波の音だけが、月明かりの下で煌めく。
笑い声は、朧月夜に溶けていった。
しばらくして。
「……ん?」
千冬が何かに気づいた。
「そういえば、アイツはどうした?」
「さっき、ちーちゃんが海に落としたじゃ〜ん」
「……!」
千冬の顔色が変わる。
「早く言わんか、束っ!」
◇
「サメ! サメがっ!! 俺はおいしくないぞ、あっち行け!! こら足噛むなっ!! やめろ、そっちはもっとやめろ!! 畜生、女なんて、女なんて、女なんてー!!」
夜の海に、横島の悲鳴が響く。
「死ぬのはイヤああああぁ――!!!」
◇
朝日が、カーテンの隙間から顔を覗かせていた。
薄く差し込む光が、部屋の中を少しずつ明るくしていく。
簡素な部屋だった。
ベッド。
机。
椅子。
最低限の収納。
生活感は薄い。
客間というより、一時的に人を泊めるために整えられた部屋だった。
そのベッドの上に、横島忠夫は横たわっていた。
いや。
横たわらされていた。
両手両足を、ISアームによって固定されている。
動けない。
実に見事に動けない。
朝になっても、その拘束は解かれていなかった。
扉が開く。
織斑千冬が入ってきた。
「よく眠れたか、横島?」
「おかげさまで、ぐうううううっすりと」
横島は両手両足を拘束するISアームを、嫌味たらしく見せつける。
だが千冬は平然としていた。
「一晩で三回も夜這いに来る馬鹿に着せる布団は、それくらいしか思いつかなかったのでな」
「布団じゃねえ! 拘束具だろこれ!」
「似たようなものだ」
「全然違うわ!」
横島はじたばたする。
アームはびくともしない。
千冬は腕を組んで見下ろした。
「あれだけの警備をどうやってかいくぐったんだ、お前は。正直、その点だけは感心したぞ」
「美女と一つ屋根の下で夜這いをかけないなんて失礼だって、俺の本能が告げたんだもん! 仕方なかったんやー!」
「仕方なくない」
「男には、行かねばならない時がある!」
「それは昨夜ではない」
千冬の声は冷たかった。
「全く。私が魅力的なのは否定せんが、おかげでこちらも寝不足だ。今日は今後のことも含め、しっかり話を聞かせてもらうからな。とっとと用意してこい」
そう言って、千冬は部屋を出ようとする。
扉が閉まる直前、ISが量子化され、横島の拘束が解かれた。
用心深い。
実に用心深い。
横島は手首をさすりながら起き上がった。
「……あれだけいい乳してるんだから、一回くらい触らしてくれても罰は当たらんのになあ。減るもんでなし」
扉の向こうから、低い声がした。
「何か言ったか、横島?」
「いえ、何も申し上げておりません! サー!」
横島は即座に敬礼した。
扉が、勢いよく閉まった。
◇
「来たか。とりあえずは朝食だ、食え」
手早く身支度を済ませ、横島が階下に降りると、テーブルには簡素な食事が用意されていた。
インスタントコーヒー。
シリアルコーン。
牛乳。
以上。
実に合理的で、実に味気ない。
元の世界での朝食を思い出し、横島は少しだけ遠い目をした。
美神の事務所に居候するおキヌが作る朝食。
温かい味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
炊きたてのご飯。
それらを思い出すと、目の前のシリアルが急にわびしく見えた。
「……なんだ。朝食は不満か? 贅沢なやつだな」
「いや、そうじゃないんだ。ありがたく頂くよ」
「なら、最初から素直に食べろ。足りなければ、バナナもあるぞ」
千冬が一本のバナナを差し出す。
横島はそれを受け取った。
メイドイン台湾と書かれている。
元の世界と同じなら、確か高級品だったはずだ。
「じゃ、こいつもありがたく」
横島はバナナを見つめ、それから千冬を見た。
「しかし千冬は、そんだけでいいのか? 昨日の戦闘にしろ、俺たちの……と言っていいか、体が資本なところがあるだろ。食わないと、そのうち倒れるぞ」
千冬は一瞬きょとんとした。
次いで、大きく笑った。
「はは。ありがとうよ。お前は、一夏と同じようなことを言うんだな」
「一夏?」
「私の弟だ。今は理由があって同居していないが、何かにつけ役に立つやつだ。食事を作るのも上手いしな」
千冬の表情が少しだけ緩む。
「私は外に出ることが多くて、どうしても料理などは後回しにしてしまった。おかげで目玉焼き一つまともに作れん」
「それはそれでどうなんだ」
「一夏がいる時は不自由せん」
千冬はまた笑う。
だが、その笑顔は戦場で見せたものとは違っていた。
目尻が下がる。
声が柔らかくなる。
横島は、それを少し羨ましく見ていた。
「姉弟か。いいな」
「お前は一人っ子か?」
「ああ。なんで分かった?」
「理由はない。どことなく、大勢の中で過ごし慣れているような印象を受けたから、かもな。弟か妹がいてもおかしくないと思った」
「あー……確かに、大勢の中で過ごしてはいたよ。うん」
横島はシリアルを口に運びながら、少しだけ目を伏せた。
美神の事務所。
美神。
おキヌ。
シロ。
タマモ。
カオス。
マリア。
ピート。
タイガー。
唐巣神父。
雪之丞。
静けさとは無縁の生活だった。
騒がしくて、危なくて、金にはならなくて、痛い目にも散々遭った。
それでも、そこには自分の居場所があった。
今、その全部が遠い。
千冬は、その横顔を見て、少しだけ声を落とした。
「……元の世界へ帰る手立ては、見つからんのか?」
「ああ。昨日も言ったけど、何かに妨害される印象なんだよな」
横島は文珠を取り出す。
小さな光が、彼の指先に浮かんだ。
「時空転移なんかもこなしたことはあるから、帰還用のコンパス――頭の中のな――が完全に狂ってるわけではなさそうなんだけど」
「妨害、か」
「うん。方向は分かる。けど、そこへ行こうとすると、途中で逸らされる感じがする。目の前に道があるのに、見えない壁で横へ押されるっつーか」
「つまり、すぐには帰れない」
「そうなるな」
横島は軽く言った。
だが、その言い方ほど気楽ではない。
帰れるかどうか分からない。
それは、異世界に一人放り出された人間にとって、決して軽い問題ではなかった。
千冬は悪いと思った。
同時に、心のどこかで安堵している自分にも気づいた。
今、横島に帰還されては困る。
それを口に出すことはできない。
認めることもできない。
だが、千冬と束の抱えている問題は、横島という存在によって大きく変わるかもしれない。
その可能性を、手放したくなかった。
「帰還できるか分からないお前には悪いが、これからの身の振り方も相談せんといかんしな」
「ああ。戸籍も金も家もない異世界人だしな。笑えねえ」
「私は取り急ぎ、轡木さんに連絡を取りたいと思っている」
「くつわぎさん?」
「私の勤める職場の用務……いや、実質的な運営者だ。事情を話せば、色々と便宜を図ってくれるだろう」
「用務員が実質的な運営者って、どういう職場だよ」
「説明すると長い」
「なら今度でいい」
横島はバナナをむく。
「ただ、どこまで話せるか、だな」
「まあ、な」
二人はコーヒーを口に運びながら、しばらく黙った。
昨日の簡単な情報交換だけでも、外部へ伝えるべき情報は多すぎた。
横島の存在。
別世界。
文珠。
霊力。
ガーゴイル。
ISとの干渉。
どれ一つ取っても、世に出せば混乱を招く。
だからこそ、今日一日をかけて、より深い情報の交換と、対価の検討を行う予定だった。
千冬の縁故の中で信用できる者を集め、今後の扱いを考える。
そのはずだった。
だが。
「束は?」
「来ていない」
千冬のこめかみがわずかに動いた。
「アイツは本当に気まぐれだからな。予定通りに顔を出さなくても、いつものことではあるんだが」
「今日に限っては困る、と」
「そういうことだ」
千冬は頭を抱える。
横島も動きようがない。
シリアルは空になった。
バナナも食べ終わった。
インスタントコーヒーは少し苦かった。
さてどうしたものかと考えあぐねていると、千冬が先に口を開いた。
「細かいことはいくらでも話せるし、話さなければならないことは山のようにある」
千冬はカップを置いた。
「だが、最初の話題はこれがいいだろう」
横島は顔を上げる。
千冬の目が、まっすぐこちらを見ていた。
「横島」
「ん?」
「お前の目的はなんだ」
「目的?」
「そうだ」
千冬は言った。
「意図せずこの世界に飛び込んできてしまったのなら、とりあえずは帰還することだろう」
「だな」
「それ以外では?」
「それ以外?」
「たとえば、元の世界では。お前は何を目指していた。何のために命を懸ける仕事をしていた」
横島は少し考えた。
千冬は黙って待つ。
命を懸ける仕事。
確かに、GSはそういう仕事だ。
悪霊を祓う。妖怪と戦う。魔族と戦う。
依頼人を守る。
時には世界そのものを守ることすらあった。
それなりの理由があったのだろうと、千冬は思っていた。
だから聞いた。
横島は、真剣な顔で答えた。
「金稼いで、美人の嫁さんを貰って、退廃的な生活を送ろうかと思ってた」
「……お前は本当にアホだな」
千冬は頭を抱えた。
聞かなければよかった。
心の底から、そう思った。
「なんだよ。大事だろ、金と嫁さんと退廃的生活」
「否定はせんが、命を懸ける理由として口に出すな」
「男の夢だぞ!」
「黙れ」
横島は口を尖らせたが、ふと千冬を見る。
「じゃあ、千冬の目的は?」
「私か」
千冬は、すぐには答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
朝の街が動き始めている。
通勤する人々。
通学する学生。
買い物袋を持つ老人。
犬を連れて歩く女性。
何も知らない子供の声。
当たり前の朝。
守るべき日常。
千冬はそれを見ていた。
「私の目的は……そうだな。この世界の現状の打破」
そこまで言って、千冬はわずかに首を振った。
「……いや、違うな」
横島は黙っていた。
千冬の声が、少し変わったからだ。
戦場で聞いた声に近い。
だが、それよりも低く、個人的だった。
千冬は窓の外を見たまま、しばらく沈黙した。
やがて、呟くように言う。
「仇討ちだと言ったら……どうする?」
◇
さらに続け。