ワンツースリーフォー、ファイブシックスセブンエイト。
そんな掛け声をBGMに、私はレッスン室の隅っこで台本を読んでいた。本来なら邪魔だと追い出されても不思議ではないのだが、今の利用者はアルストロメリア。つまり、妹達(主に甘奈)の我儘に巻き込まれた形である。
「楓香ちゃん、退屈じゃない?」
「いえ、特に。千雪さんもすみません。気が散るでしょう?」
「私は……うん、大丈夫。楓香ちゃんが見ててくれるの、嬉しいから」
ふわりと、私を覗き込んで笑う人。桑山千雪さん、甜花と甘奈のユニットメンバーで、私の心を奪っていった人。長い癖毛が楽しそうに揺れていて、思わずそれを目で追いかけてしまう。今日も可愛くて、台本から上げた視線を戻せそうにない。
「お姉ちゃん、今のとこどうだった?」
「甜花のこと気にし過ぎ。それでフォーメーション追いつかなくなるんだったら見ない」
「そんなに気にしてたかなぁ」
「甜花に合わせなくていい。だから双子は、その分ちゃんと千雪さんを見て」
双子のお姉ちゃん歴は17年になるが、双子っていうのは少し不思議な力があるのだということを、割と早い段階で私は知ってしまった。
何となく相手の考えていることが分かる。仲の良い2人なら、特に意識しなくてもわずかに行動に出るのだ。だからフォーメーションが入れ替わるような曲の振り付けは、特に千雪さんの位置を意識しないといけない。
「……お姉ちゃん、甜花は、どう?」
「甜花は……うん、その調子。でもちょっと、指先まで意識が行ってないのかな。可愛いから、自信持って」
「分かった……うん、甜花、頑張る……!」
それぞれの反応でアドバイスを吸収していく2人。その楽しそうな後ろ姿を眺めている千雪さんが、私の隣に座り込んだ。不自然にならない程度に台本を閉じて脇に置けば、彼女は膝に頭を預けてこちらを見ている。こてんと首を傾げているような感じ。可愛い。
「楓香ちゃん、私には?」
「え?」
「私には、何かないかな?」
「えっと……そういうあざといことをするのを、やめてもらえればと」
「そういうことを聞いているわけじゃないんだけど……ふふ。素直だね」
何かないか聞かれたから、素直に答えたまでである。
千雪さんは楽しそうに目を細めて笑うと、私の頭を優しく撫でてくれた。この大人は、こうして私をからかって遊んでいるのだ。くそぅ、私だって千雪さんの照れ顔を拝みたいというのに、どうして私ばかり振り回されるのだろう。
「……千雪さんこそ。双子にあまり意識を取られないように、自分が真ん中に立っているということを忘れないでください」
「あ、普通にアドバイスはくれるんだね」
「いりませんでしたか?」
「いる! 欲しいです」
なるほど、と納得したように呟いてアドバイスを反芻する千雪さんに、私は持参していたペットボトルの水を差し出した。まだステップを確認している双子に対して、こうしてきちんと休息を取る姿勢は見習わせるべきだと思う。
「どうぞ。未開封です」
「ありがとう」
「甜花、甘奈。二人も一旦休憩だよ」
「はーいっ!」
運動後の体温は驚くほど高くて、私にくっつくように座り込んできた甘奈の体温から、私は身動ぎをして逃げ出した。いくら私が妹達を大好きなシスコンでも、許せない状況くらい存在する。二人分の体重と熱気を同時に支えるのは、余所のお姉ちゃんには無理な話なのだ。
「お姉ちゃんのいじわるー」
「いじわるなんてしてない。というかいいの? 汗かいてるのに。……嗅ぐよ? 私」
「だめっ!」
自分からくっついてきたくせに、私が意地悪くからかえば一転して身を引く甘奈。
その甘奈に体重を預けていた甜花が小さく声を漏らして倒れ込んできた。慌てて受け止めれば、緩んだ笑顔で私を見上げてくる。
「にへへ……お姉ちゃん、さすが……!」
「甜花ちゃんばっかりずるーい!」
「元は甘奈のせいでしょうが」
……で、結局どっちなんだろう。
甘奈は隣から前へと移動してきて、当然のように私の足の間に収まった。汗の匂いを嗅がれたくないんじゃなかったのかな。まあいいか、どうせ私達は同じ柔軟剤とシャンプーの匂いがするのだから。
「というか私じゃなくて、もっとちゃんと踊れる人にアドバイスを貰った方がいいですよ」
「具体的には誰?」
「ダンストレーナーさんとか……機会があるなら、夏葉さんや美琴さんですかね」
「ふふ、うん。じゃあ私は、今まで通り楓香ちゃんに聞くね?」
「なぜ」
「アルストロメリアの一番のファンは、楓香ちゃんでしょう?」
そう言って優しく微笑む千雪さんに、私はやっぱり敵わないなと思った。
私がこの人のことを好きな理由が、この短い会話の中にこれでもかと溢れている。
——つくづく、歳の差というやつが憎い。
もし私が大人だったら、この胸の中にある気持ちも、隠さずに済んだかもしれないのに。
「……すみません、プロデューサーに呼ばれているので、行ってきますね」
「うん、ありがとう。行ってらっしゃい」
「……そんなこと言われたら、本当に行きたくなくなっちゃいます」
行ってらっしゃい、なんて。焦っている今の私には、火力が高いというか、毒が強すぎる言葉だ。でも、だからこそこの人の優しさを知っている。
私はそっと千雪さんの頭を撫で返すと、名残惜しさを断ち切るようにレッスン室を後にした。
私も近々アイドルとしてのデビューを控えている身だ。今日はその打ち合わせと、明日からの撮影のためにプロデューサーの元へと向かう。
「悪いな。レッスン、見てたんだろ?」
「いえ。元々、あの賑やかな場所は台本を読むのに適していないなと思っていましたから」
「デビューライブより先に映画出演だが……調子はどうだ?」
「問題ありません。明日から、ですよね」
「あぁ。明日は顔合わせと、役の解像度の擦り合わせだな。……台本の読み込みは順調か?」
「え? あぁ……うん、大丈夫です」
台本を読んでいたのは嘘じゃない。
でも、私が注視していたのは自分に宛てがわれた「一条葵」のセリフではなく、「雨宮玲奈」の心の叫びだった。
妙に生々しいその心理描写は、間違いなく本人が直接筆を取ったからなのだろう。葵のセリフなんて、今さら私がおさらいするまでもないのだから。
「……プロデューサー。私って、天才なんですかね」
「その言葉、聞く人によってはブチ切れるぞ」
「え、」
「普通の人が三歩で進む道を、お前は一歩で進んでしまう。目的地までの歩数が、他と比べて圧倒的に少ないんだ」
「……そうですか?」
当然だが、自分ではそんなこと分かりはしない。
「人より少ない労力で、圧倒的な域に達してしまう。それは楓香の強みであり、同時に……お前を一人にしてしまった『大崎楓香』の才能だ。それは、その台本にも書いてあっただろ」
「……そうですね」
「俺は、お前の才能を凄いと思ってる。……辛くなったら、いつだってやめればいい。それでも、お前はまだあのステージに上がりたいんだろ?」
「……はい」
「じゃあ、今は余計なことを考えるな。待ってるぞ、楓香の親友が。お前に謝るために……もう一度、楓香の手を取るために」
プロデューサーの言葉は、とっくに自分の中で答えを出していた私の胸へ、まっすぐに届いた。
ぐるぐると悩んでいたわけではない。ただ、一歩を踏み出すのを躊躇って、足踏みをするための理由を探していた私を、彼は優しく後押ししてくれたのだ。
——なんだ。
私は、あの頃の傲慢な私のままで、よかったんだ。
「プロデューサー。私達のユニットコンセプト、しっかり考えておいてくださいね」
「あぁ、任せろ」
今度こそ。
逃げずに、ちゃんと振り返って言うんだ。
——ごめんね、って。