「千雪さん、今日もお綺麗ですね」
「ありがとう……ふふ、ちょっと照れるね」
あくる日。
散々トレーナーと琳に叱られた私を待ち受けていたのは、慈愛に満ちた女神の微笑みを湛える——桑山千雪さんだった。
照れくさそうにはにかんだその姿があまりにも美しくて、これはもう言葉巧みに褒めちぎるしかないと意気込む私の襟首を、真面目でいつも冷静沈着な相棒が後ろから容赦なく引っ張る。……どうやら、まだまだ叱り足りないとでも言うらしい。
「あんたね、その無駄な元気があるのなら、もっとレッスンに集中しなさいよ」
「だってぇ……」
「なになに〜? ふーたん、いつにも増してヨレヨレでお疲れだねぇ」
キッチンの方からひょっこり顔を出したのは、ツインテールのよく似合う女の子——三峰結華ちゃんだった。
今日も今日とて可愛い彼女は、ソファの隅でぐったりと倒れ込んでいた私の頭を、面白がるようにポンポンと撫でてくれる。私が同じことを彼女にしたら間違いなく全力で逃げ出されるのに、本当になんというか、猫みたいな子だ。
「さっきまでダンスのレッスンだったんです。私達はちょっとした演技指導も入るんですけど……楓香はステージに立てば完璧に作り上げますが、それは要点の落とし込みが異常に早いからです」
「……つまり?」
「『一回見れば十分です』って言ったら、めちゃくちゃ怒られました」
「ふーたんが悪いんじゃん」
「事実なんですよぉ……」
だって、記録用に動画も回していたし、それさえあれば目の前のお手本をずっと眺めている必要なんてない。
私の至極もっともな主張は誰の共感も得られず、代わりに千雪さんの困ったような、でも愛おしそうな顔を見て一人で勝手にときめくだけだ。誰か私の理解者を連れてきてほしい。
「楓香ちゃん。そんなにお疲れなら、少しだけここで休んでいく?」
「へ」
「おいで、ほら」
千雪さんはそう言って、自分の柔らかそうな膝をトントンと軽く叩いた。
——それは、つまり。
「……ひざ、まくら?」
「うん。よく、甘奈ちゃんや甜花ちゃんにしてあげているでしょう? だから、楓香ちゃんにもしてあげるね」
千雪さんの、膝枕……?
「……っ、待って、私、今すごく汗をかいてるかも……!」
「ううん、気にならないよ?」
「そういう問題じゃありません! 千雪さんはもっとご自分のことを大事にしてくださいっ!」
「ん? 膝枕の話だよね?」
「私が……っ、このまま」
——何かしてしまったら、どうするんですか。
喉まで出かかった言葉を、私は必死の思いで飲み込んだ。
私と千雪さんは現在、いわゆる「両片想い」と呼ばれる関係性にある。どちらかがヘタレているわけでも、恋心に気づいていないわけでもない。ただ、私がまだ「高校生」という未熟な身分であることのせいで、あえて立ち止まっている状態なのだ。
歳の差は五つ。数字だけを見ればそれほど遠くはないかもしれないけれど、私と彼女の間には、社会的な立場や経験という、簡単に飛び越えられない確かな距離がある。
もし、私の気持ちを彼女がすべて受け入れてくれたとして……万が一にもそれが世間に露呈してしまったら、矢面に立たされるのは大人である千雪さんの方になってしまう。
それが、どうしても嫌だった。
私はこんなにも彼女を愛しているのに、それを対等に証明できるだけのものを、今の私はまだ一つも持っていない。
だから、口にすることはなくても、私が高校を卒業するまでは——この関係がこれ以上急接近することはない。
……まあ、千雪さんの方から時折繰り出される無自覚な好意のせいで、心臓が持たなくなりそうになることは多々あるけれど。
あれは大人の余裕というやつなのだろうか。
だとしたらものすごく反則だ。いつもこうしてドキドキさせられて、頭から離れなくなってしまうのだから。
「……千雪さんに甘やかしてもらえるほどの何かをした覚えはありません」
「理由がないといけないの?」
「いや、なんていうか……推しの膝を借りるなんて、ちょっと本気で土下座して詫びたくなるレベルなんですけど」
「ふーたん、ちょっと感情は隠そうか?」
「無理です」
「ファンの子にはしないよ? 楓香ちゃんだから、してあげたくなるの。駄目かな?」
うーわ、ずるい。
こてんと首を傾げて、上目遣いで私の顔を覗き込む千雪さん。この大人、私の好みのツボを的確に突いてくるんだけど、もしかして事務所の中に内通者でもいたりするのだろうか。脳裏に、すっと目を逸らした甜花の姿が浮かんだ気がしたけれど……まさかね。
「……えっと、じゃあ。失礼します」
「うん、おいで」
促されるまま、私は千雪さんの柔らかい膝へとそっと頭を預けた。
恐る恐る全体重を預けていく私に、彼女は優しい手つきで、何度もあやすように頭を撫でてくれる。
……なんだこれ、ここが天国という場所か。
普段の私は、妹たちをお姉ちゃんとして甘やかす立場だ。けれど、こうして誰かに甘やかされるというのも、案外悪くない。むしろ私の本質を考えれば、圧倒的にこっち側の方が好きかもしれない。
心なしか、少し離れたところで呆れたような、それでいて穏やかな表情を浮かべる琳。……まあ、さっきは少し叱りすぎたと反省してくれてもいいんだよ?
「桑山さん、あまり甘やかし過ぎないようにお願いします。楓香が本当に疲れているわけがありませんので」
「そうなの? でも、レッスン終わりなんだよね?」
「そいつ、フィジカルだけならモンスター並みなので、この程度の練習で脱力するほど疲弊しているはずがないんですよ」
……余計なことを言ってくれる。どうやら反省するのは私の方だったらしい。
「違うんです、千雪さん。今日のレッスンは純粋にすごく楽しくて……なんていうか、心が勝手に踊っちゃうような感覚だったんです」
「ふーたん、事務所でも最近すっごく楽しそうにしてるもんねぇ」
「そう。だから疲れないんですよね。新しい技術や表現を吸収するたびに、むしろ体力が回復していくような感覚というか」
そう!!
千雪さんの太ももの心地よい柔らかさと、彼女からふわりと香る甘い匂いに包まれている今、私の体力なんて最初のレッスン前と同等かそれ以上に回復している!
そんな私を見て、深いため息を吐き出す琳。私の底抜けにタフな性格をよく知っている彼女なら、今の私が何を考えているのかなどお見通しだろう。
「……そういえば楓香、デビューライブの会場のことなんだけど」
「あぁ……あの、プロデューサーがどうにかして押さえたって言っていたところ?」
「ええ。あれ、私たちの演出の幅をもう少し大きくしてもらえるように交渉してもらったの」
「……ん?」
「私のお父様に無理を言ってお願いしたのよ。あの会場の運営元と、昔から旧知の仲らしいから」
「それって、283プロの経費でどうにかなる範囲なんだよね?」
「さあ、どうかしらね」
それは暗に「お父様の個人的なコネとツテによるものだ」と言っているようなものだろう。
後でプロデューサーが知ったら、冷汗をかくこと間違いなしだ。
「ちなみに、その差し出がましいコネの件を、私にも何かお返しをさせてって言ったら?」
「そんなお金があるなら、自分のために可愛いジュエリーでも買いなさいよ」
「私をこれ以上着飾ってどうするの」
「……それもそうね。もともと素材が良すぎるから困るわ」
「ふーたん、元から美人さんだもんねぇ」
「ただでさえ、最近は校内で変なナンパも多いっていうのに……」
男女を問わず、私に声をかけてくる人間は昔から結構多い。
そもそも私自身が他人からの好意を器用に受け取るのが苦手ということもあって、交友関係が狭いのもそれが原因だったりする。「誰それの友達が君を好きらしい」なんて話、私からすれば興味の欠片もないのに、それを理由に周囲から距離を置かれたりしても困るのだ。
「……そっか。そうだよね、楓香ちゃんは昔からモテモテだもんね」
「あ、そういえば今日、下駄箱にまた甘いお菓子が入っていたんですけど……事務所に置いておいたら誰か食べてくれますかね?」
「……それって、ふーたんへの差し入れなんじゃないの?」
「そうですよ。でもほら、私、甘いものそこまで得意じゃないですし。基本的には受け取らないようにしているんですけど、気づいたら下駄箱とか机に直接入れられていて、送り主が分からないものは返しようがなくて困るんです」
「すご……なんか、少女漫画みたいな悩みだね」
「笑い事じゃないんですよ、本当に」
学校の廊下を歩くだけで誰かに何かを渡されたり、用事もないのに声をかけられたりする生活を一度味わってみてほしい。普通に精神力が削られるのだ。
友人や、甜花や甘奈にお裾分けしても、塵も積もればなんとやら。私たちが日々消費できるペースに対して、外から与えられる好意の量が多すぎると、どう処理していいか分からなくなる。
先日の映画の反響があってからというもの、学校での視線は以前にも増して熱を帯びていた。
出演について自分から大々的に話した記憶はないけれど……まぁ、あの映画のクレジットや情報に触れれば、噂好きの生徒たちが私と結びつけるのは時間の問題だ。ただでさえ、私たち大崎三姉妹は顔立ちがそっくりなのだから。
というわけで、今日も事務所の紙袋には、どこから湧いて出たのか分からない贈り物がぎっしりと詰まっている。
移動教室から戻ってきて自分の机を見たら、いつの間にか小さな祭壇と化していたのを見たときの衝撃と言ったらなかった。
「……千雪さんも、これ、食べてもらえませんか」
「だめだよ。これ全部、楓香ちゃんへの差し入れだもん。みんな、あなたのことを心から想っているんだよ?」
「でも、私は特定の誰かに応えるつもりはないと決めているので。受け取るつもりなんて最初からなかったんです」
誰かが自分のことを想ってくれているのは、決して嬉しくないわけじゃない。
それでも、私が本当に欲しいと願ってしまう愛情は千雪さんからのものだけだから。他のものなんて、要らない。
というか、純粋に毎日甘いものを大量に差し入れられても、流石に食べ飽きてしまう。
「甘いものが苦手」から「ちょっと嫌い」になりかけていて、これから本格的に増えていくであろうアイドルの仕事に支障が出たらどうしてくれるんだ。
「……そういう素っ気ない言い回し、一体どこで覚えてくるのやら」
「さあ、どこでしょうねぇ」
「これ以上からかうなら、本当に膝から落としますよ?」
「待ってください……!」
危うく、彼女の柔らかい膝の上から床へと放り出されるところだった私。
「ねえ楓香、そのお菓子、私も一つ貰っていい?」
「いいけど……琳って、そもそも甘いもの好きだっけ?」
「作業中に糖分は必要よ。そこまで執着するわけじゃないけれど」
「まぁ、貰うんでしょ?」
「そう。貰うから」
「顔が良いもんねぇ……」
「結華ちゃん、私になら何言っても怒られないと思ってません?」
「思ってない思ってない、可愛い後輩への褒め言葉だよ」
そこでおもむろに立ち上がった琳は、私をその場に残したまま、居間から出て行こうとする。
今日は珍しく事務所のメンバーが出払っていて、レッスン室も空いている。さっきまで私たちは外部のスタジオを借りていたのだから、どうせ余った体力はそうやって消費すればいい。
「琳、私も……」
「いい、残って休んでいなさい。あんたが『一歩』で進んでしまう距離に少しでも追いつくには、私はこれしか知らないもの」
「……」
だからね。私は、そんなこと思っているわけがなくて。
琳は天才だ。持って生まれた圧倒的なセンスも、血の滲むような努力も、何もかもを惜しまずに全て出し切ろうとする。だからこそ、彼女の生き方はどこまでも不器用で、まっすぐすぎる。
まるで、極限まで張り詰めた琴線のように。
少しでも触れればそのまま千切れてしまうような、そんな危うさを、彼女はいつも心の奥に孕んでいる。
ここで私が追いかけても、その糸が揺れてしまうだけだと言うのなら。私にできることは、ただ一つだ。
「……結華ちゃん。ちょっと、お願いがあるんですけど」
「どしたの?」
「琳のこと、少しだけ見ていてあげて欲しいです」
「……うん。任せて。ふーたんはそこでゆっくり休んでてね」
結華ちゃんは、余計な詮索をする素振りも見せずに、ただフッと優しく微笑んでうなずいてくれた。本当に、持つべきものは心優しい先輩だ。
しれっと一人で出て行った琳を追いかけるべく、彼女は冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのペットボトルを引っ張り出す。気配りのできる彼女がついていてくれるなら、私も必要以上に心配しなくていいだろう。
そうして意識を現実に引き戻され、私は思い出したかのように、千雪さんの膝の上からそっと体を起こした。
私を見上げるその柔らかい瞳が、あまりにも真摯で、なんだか無性に気恥ずかしい。……流さずに調子に乗りすぎたかもしれない。
「楓香ちゃん」
「……はい」
「琳ちゃんがそこまで必死に頑張りたいのは、楓香ちゃんと同じステージに、もう一度しっかり立ちたいからだよね」
「……そうだと思います。あの子、ちょっと見ないうちに驚くほど寂しがり屋さんになっていたみたいだから」
「だから楓香ちゃんも、わざとあんなふうに少しだけ気を抜いてみせたりしたのかなって。事務所の中にいるときくらい、そんなに肩肘張って背負い込む必要はないんだよって、琳ちゃんに教えてあげたかったんじゃないのかなぁって……違った?」
「…………」
どうしよう。
そのつもりがなかったわけではないけれど、千雪さんの前で素直に甘えてみたかったという下心がなかったと言えば嘘になる。
けれど、千雪さんがこうして私の意図の裏側まで優しく読み取って、包み込むように肯定してくれるのを聞いていると……自分のずるさが際立って、顔の良さだけではどう言い訳しても誤魔化しきれなくなりそうだ。
言葉に詰まる私を見て、千雪さんは柔らかく、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
——この女神は、私がどんなに不器用で不純な動機を隠していても、結局すべてを受け止めてしまうのだろうか。良いのかな、そんな。だって、もし私が悪い子だったら、騙してしまうかもしれないのに。
「……分かっているのなら、あなたはあまり、私の前で油断しない方がいいと思いますよ」
「どうして?」
「私が本当に、何もせずに大人しくしていると思ったら……大間違いですから」
ときどき、本当にときどきだ。
千雪さんとこうして肩が触れ合うような至近距離にいると、どうしようもなく彼女に触れたくなってしまう。
それが、私の中にある未熟な焦りなのだと分かっている。
もし、私が高校を卒業するまでの間に、千雪さんの心が別の誰かに向いてしまったら。もし私以外の誰かが、彼女の隣に立ってしまったら。
そんな想像をするだけで、胸の奥が冷たく締め付けられて、私は居ても立ってもいられなくなってしまうのだ。
だから。
あまり、そんな風に無防備な姿を私に見せないで。
「……楓香ちゃんになら、いくらでもいいよ?」
——ダメだ。
これ以上は、本当に理性が危うい。
意味のない牽制のつもりだったのに、千雪さんは困ったように、けれどどこか嬉しそうに、緩やかに首を縦に振ってしまった。
こちとら多感な時期を生きる、一応は思春期の女の子なのだ。
大好きな人が自分の好意に気づいていて、それを受け止めようとしてくれるという状況で、一線を越えずに我慢しているだけでも、心の中で盛大に自分を褒めてあげたいくらいなのに。
いや、正直に言えば数え切れないほど抱きしめたい衝動に駆られているのだから、説得力なんて微塵もないけれど。
「……頭、冷やしてきます。千雪さんも、その……ほどほどにお願いします」
「……うん、行ってらっしゃい」
努めて平静を装い、私はフリーズしそうになる頭を押さえながら、その場から足早に居間を抜け出した。
……冷静に考えたら私、最近の距離感がおかしすぎる。
どうしよう。頭を冷やすなんて言ったけれど、この沸騰しきった熱に浮かされた頭を、一体どこまで元に戻せばいいというのだろう。
楓香のひみつ②
ヒモ適正が高い