「あー……」
廊下の隅でへたり込んでも、今日は本当に誰にも会わない。
それがありがたいような気もする一方で、自分の暴走を止められる人が誰一人としていなかったことに、私は居もしない神様をちょっとだけ呪った。……こういう時に限って席を外しているはづきさんを恨みたい。
「……呼びました〜?」
間延びした呑気な声が頭上から降ってきて、私は思わず弾かれたように立ち上がった。
目の前には、若草色の髪を揺らした女性——七草はづきさんが立っていた。どことなく目元が笑っていない。
……はづきさん。一体いつから見ていたんですか。
「お疲れ様です、はづきさん。お戻りですか?」
「はい〜。それにしても……楓香さんが“そんな表情”をしているなんて、珍しいですね?」
「……見逃しては、くれないんですよね」
「はい〜」
はづきさんはそれ以上、追求するような真似はしなかった。
代わりに、「そういえば〜……倉庫の片付けをしたいと思っていたんですよね」とだけ言い残し歩き出してしまう。私は慌ててその背中を追いかけた。
どうせ今の状態では、琳の元へ戻ることも、居間に顔を出すこともできない。何より双子が戻ってくるのを待っていなければいけないのだから、帰ることだってできない。
これが本当の理由なのか、それとも私への言い訳なのか……まあ、わざわざ掘り返さなくてもいいだろう。
「……それで? ずいぶんお焦りのようですけれど」
「はづきさんって、たまに信じられないくらい鋭い時がありますよね。プロデューサーとか、千雪さんも少しは見習ってくれたらいいのに」
「プロデューサーさんに並べられた千雪さんがさすがに可哀想では〜?」
「私からしたら同じです。何なんですかあの人、お酒を飲んでいる時もあんなにふにゃふにゃなんですか?」
「『そうですよ〜』って言ったらどうします?」
「二度と外で飲ませません」
というか、実際にもう言ったのだ。「その可愛いお顔を誰にも見せないでください」と。
その言葉の意味を汲み取れないほど鈍い人ではないはずだし……大丈夫だよね?
「……楓香さんって、本当に千雪さんのことが好きですよねぇ」
「まあ……」
「きっかけって、何かあったんですか?」
きっかけ。私が千雪さんを好きになった、理由。
そもそも、私が283プロダクションの事務員バイトに応募した理由はひどく単純で、甜花と甘奈がアイドルになると決めたからだった。
当時は心配のあまりまともに寝付けなくなって、夜中のランニングに行くのすら躊躇われたほどだ。
甜花はあの通り少し怠惰だし、そもそも人前に立つことが得意なタイプではないと思っていたから、甘奈に無理に付き合っているんじゃないか。
甘奈の方だって、しっかり者に見えて本当はすごく甘えん坊だから……私の知らないところで新しい世界に飛び込むことが、とにかく不安で仕方がなかったのだ。
シスコンと言われたらそれまでだし、自覚だって痛いほどある。
けれど、両親と一緒に大切に育ててきた私の可愛い妹たちが、知らない大人に騙されやしないか。そう心配して事務員バイトを始めたのが、すべての始まりだった。
けれど……蓋を開けてみれば、びっくりするくらいアイドルに親身なプロデューサーと、仕事の出来る美人な事務員さんと、そして——綺麗で、とびきり可愛い人がユニットメンバーにいたのだ。
私の心配は、文字通りの杞憂に終わった。
昔から私は、「大崎さんちの長女」だったり、「学校一の美人」だったり……要するに、そこに当てはまる人間が他にいるのなら、私じゃなくてもいいんじゃないかと思わされるような、そんな扱われ方をすることが多かった。
私という「個人」ではなく、集団の中で一番目を引く特定の役割への呼称。
それが、これまでの「大崎楓香」という人間の呼ばれ方だったのだ。
けれど、千雪さんは違った。
アルストロメリアとして、先に甜花と甘奈に出会っていたはずなのに。それなのに彼女は、私のことを「二人のついでのお姉ちゃん」として扱うような真似は一度もしなかったのだ。
……本当に、なんて表現すればいいのか分からないのだけれど。
「……みんな、私のことを『遠い存在』だって思うんです。そう思われていることくらい、私にだって分かります」
「……」
「でも千雪さんは、良くも悪くも……誰との間にも壁なんて作らないじゃないですか。それが……すごく、嬉しかったんです」
「……すみません。これ、私が気安く聞いていい話じゃありませんでしたね」
「いえ。はづきさん以外に話すつもりなんて、最初からないですから」
……ルカさんほどではないにしても。
私だって、まるでどこか「触れてはいけない神様」みたいに扱われる感覚には、少しだけ覚えがあった。それだけ私は知らず知らずのうちに多くの人を惹きつけてきたのだろうし、同じくらい、誰かを傷つけてきたのだと思う。
だからこそ、嬉しかったのだ。一人の人間として、等身大で見つめてくれたことが。
「……つくづくあなたという人は。ねえ、気づいていますか? 楓香さんが人の目を惹きつける理由って、その顔立ちや体質だけじゃないんですよ〜?」
「えぇ……?」
「あなたが自覚していないだけで、あなたに恋をしている子なんて、世の中にいっぱいいるんですからね〜?」
「はづきさんがそれを知っていることの方が驚きなんですけど……」
「ふふ、楓香さんって案外鈍そうですからね〜」
「失礼だなぁ、この人は!」
ついさっき「好意を持たれていることくらい分かります」って話をしたばかりだというのに。
彼女の中での私は、一体どれだけ罪深い人間になっているのだろう。……いや、でも、そう言われても仕方がないのかもしれないけれど。
私はガサガサと分別を進めていくはづきさんに倣って、とりあえず手近なダンボール箱を開けた。
中には見覚えのあるノベルティグッズが入っていた。サンプルとして事務所に送られてきたものだろう。確かにこれは、結構前のものかもしれない。なんだか懐かしいな。
「……楓香さんが誰を好きになろうと、私にとっては関係ないことです。アイドルの皆さんを支えるのが、私の仕事ですから〜」
「はい」
「でも……それでコンディションを落としてしまう子がいることだけは、覚えておいてあげてくださいね〜。あなたは何をしてもきっと、誰かを喜ばせて、同時に誰かを悲しませてしまう……そういう人なんですから」
「それは……」
「ふふ、褒めているんですよ〜?」
「……忠告、ありがとうございます」
要するに、だ。
自分の身の振り方にはくれぐれも気をつけろ、ということなのだろう。
これからアイドルとして正式にデビューして、仕事関係でさらに顔が広くなっていくこれからは、特に。
……いや、私だって誰彼構わずに愛嬌を振りまいた覚えなんて一度もないのだけれど。
けれど、体質云々以前に、「大崎楓香」という人間そのものがきっとそうなのだ。
知らず知らずのうちに誰かの心を救っていて、同時に、誰かの心を傷つけてしまう。
そうして私ははづきさんに連れられるまま、居間へと戻った。
こちらに気づいた千雪さんの顔はまだほんのり朱に染まっていて、私は思わず頭を抱えたくなってしまう。
「……どうしろって言うんですかぁ」
「素直に我慢すればいいんじゃないですか〜?」
「はづきさんの鬼……」
「私は一向に構いませんけど〜、プロデューサーさんがなんて言うでしょうかねぇ〜?」
「……っ」
「……あ、その顔はすでに怒られたことがありますね?」
無いとは言えないのが悲しいところだ。
「あ、はづきさん。甘いものってお好きですか?」
「はい〜、人並みには」
「じゃあ冷蔵庫にお菓子がたくさんあるので、持っていってください。にちかちゃんにもあげてくださいね」
「わ〜、わざわざありがとうございます〜」
「……待って、楓香ちゃん」
「はい? どうしました、千雪さん」
いつも以上に軽快なやり取りをする私とはづきさんの間に、千雪さんが困ったように眉を下げて割り込んできた。
自惚れでなければ、そこにはほんのりと嫉妬の色が混ざっていて、私の背中を少しだけゾクゾクとさせる。
「さっきは……ごめんね?」
「……分かってくれればいいんです。私も、いつまでも我慢できるわけではありませんからね」
だが、私の勝手な都合で千雪さんの気持ちに蓋をさせてしまっているのは事実だ。
子供みたいに独占欲や支配欲だけをチラつかせる私の方にこそ、多くの原因がある。もう少し自制ができればいいのだが……今こうして、千雪さんの柔らかい髪に手を伸ばしてしまうあたり、本当に重症だと思う。
どうやら私は、桑山千雪という女性が関わると、お得意の演技力も自制心も、何もかもが一切機能しなくなるらしい。
「……あ」
「はづき、どうかしたの?」
「いえ……甘奈さんと甜花さんが、そろそろ事務所に戻られるそうで。楓香さん、チェイン届いていませんか〜?」
「へ?」
はづきさんに言われてスマホを確認すると、確かに甘奈から「お迎えにきて!」というメッセージが届いていた。
今日はプロデューサーが送迎に同行していたはずだから、車の中から送ってきたのだろう。相変わらず甘えん坊な末っ子だ。
あと数分で到着するらしいので、私は立ち上がって事務所の入り口で出迎えるべく居間を後にする。どのみち、今日はこれでもう帰宅する予定だったのだ。
「お先に失礼しますね。千雪さん、はづきさん」
「お疲れ様です〜」
「お疲れ様、楓香ちゃん。また明日ね」
「……明日以降は、どうか警戒を高めておいてくださいね」
私の囁きに、肩を小さく跳ねさせる千雪さん。
徐々に顔を赤く染めていくその様子を、もっと見ていたかったのだけれど。私は後ろ髪を引かれる思いで事務所を後にした。階段の下からは、私を呼ぶ妹たちの元気な声が響いてくる。
「お疲れ様です、プロデューサー。今日もありがとうございました」
「楓香もお疲れ様。今日のレッスンはどうだった?」
「……強いて言うなら、振り付けには私も少し関わりたいな、と。納得がいかないというほどではないんですけれど……」
「そうか。琳はなんて言ってた?」
「多分、同じ意見だと思いますよ。自分たちで舞台を作り上げていくことには慣れていますし……表現の細部に関しては、ちょっと譲れませんので」
「分かった。トレーナーさんには俺から伝えておこう。気をつけて帰るんだぞ」
「はい」
プロデューサーと会話を交わしている間中、甘奈は私の右腕にぴったりと抱きついたままだった。
少し離れたところで、甜花が眉を下げて困ったようにそれを見つめている。……可愛い妹たちを従えて、私は帰路につく。
「……お姉ちゃん。何か、あった……?」
「え?」
「……すごく、嬉しそうだから」
「だよね? お姉ちゃん、なんだかすっごくニコニコしてる!」
そう指摘されて、私は通り沿いのウィンドウの反射を覗き込んでみた。
けれど、二人が言うほど私の表情に大きな変化があるようには見えない。無表情というわけではないけれど、尋ねられるほど分かりやすく笑っているわけでもないのだ。
……血を分けた妹たちには、どうしてかそれが筒抜けになってしまうらしい。
「何もないよ。いつも通りだから」
「……ふーん」
「甘奈?」
「なぁに? ……鈍感なお姉ちゃん」
「なんだって??」
甘奈は不機嫌そうに呟くと、さらに強く私の右腕を抱き込んできた。
ただでさえそっくりな三姉妹が並んで歩けば目立つというのに、これでは自ら存在感をアピールしているようなものだ。……というか、鈍感ってどういうことだろう。
首をかしげる私を引きずるように歩く妹たちは、それぞれの思惑で眉をひそめている。……確かにまあ、デリカシーがなかったのは私の方かもしれないけれど。
でもね、ごめんね。
私、こう見えてもものすごく一途なの。
たとえ大切な甜花と甘奈におねだりされたとしても、絶対に譲れないものがあるんだから。
——ユニットメンバーである二人には絶対に見せられない、千雪さんのあんな表情。
それを見ることができるのは、世界中で私だけなのだから。
甘奈のひみつ
初恋は1番上のお姉ちゃん