帰る場所は、ひとつじゃない   作:藤原康政

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第一話「空席と、知らない街」

 

 

## 一 空席

 

 その日の朝、ロズワール邸の食堂は妙に静かだった。

 

 誰か一人が喋っていないだけで、屋敷というのはこんなにも広く感じるものらしい。等間隔に並べられた皿。湯気の落ちきったスープ。そして、引かれたまま誰も座っていない椅子が一つ。

 

 エミリアはその空席をしばらく眺めてから、小さく首を傾げた。

 

「スバルが居ない?」

 

「今朝から見当たらないです」

 

 問いかけられたレムは、抱えた盆を胸に押しつけるようにして、困ったふうに眉尻を下げる。

 

 言い方が、いつもより慎重だった。普段なら「またサボりですね」と半分呆れたように笑うところを、レムはそうしなかった。

 

「厩舎も、庭も、水汲み場も見てきました。門番にも聞きましたが、誰も出て行くところを見ていません」

 

「大方、どこかの木陰で寝ているのでしょう」

 

 銀の盆を片手に、ラムが食堂へ入ってくる。声にはいつも通りの温度の無さがあった。だが視線は、まっすぐに空いた椅子へ向けられている。

 

「バルスが居ないだけで、この屋敷はずいぶん静かになるのね。喜ばしいことだわ」

 

「姉様」

 

「——ただ、話が合いません」

 

 ラムは盆を置き、指を一本ずつ折り始めた。

 

「寝間着は畳んで置いてありました。剃刀も櫛もそのまま。財布は寝台の下に落ちたままで、中身は減っていない。外套も掛かっている」

 

「……上着だけが、無いんです」

 

 レムが補う。

 

「屋敷の中を歩くときに羽織っているものだけ。あれ一枚では、朝の街道は歩けません」

 

「書き置きも無い。誰にも声をかけていない。路銀も持たない」

 

 ラムは折った指をすべて開き、掌を上へ向けた。

 

「自分の意思で出て行ったと考えるには、揃っていないものが多すぎます」

 

 誰も、すぐには言葉を継がなかった。

 

 ラムはそれ以上、何も足さなかった。心配だとも、嫌な予感がするとも言わない。ただ、事実を並べて、そこから引き出せる結論だけを置く。それが彼女のやり方だった。

 

「……スバルくんなら」

 

 レムが、盆を握る指に力を込める。

 

「何も言わずに消えるとは思えません。あの人は、黙って居なくなるのがいちばん下手な人です。文句を言って、騒いで、誰かに止められて、それでようやく出て行くような人ですから」

 

 その言い方に、エミリアは思わず頷いた。まったくその通りだった。スバルは去り際にこそ、いちばん喋る男だ。

 

 書斎の扉が、誰も触れていないのにひとりでに開く。

 

「スバルとのつながりは残ってる。けれど、今にも途切れそうなほど脆くなってるかしら」

 

 現れたベアトリスの声から、いつもの高慢さが抜け落ちていた。ドレスの裾を握る指先が白い。契約という細い糸を、両手で必死に手繰り寄せている子どもの手つきだった。

 

「切れてはいないのね?」

 

「切れてないのよ。それだけは確かかしら」

 

 糸は在る。だが、張りが無い。爪の先で弾けば、それだけで断ち切れてしまいそうな細さだった。

 

「死んでいれば、こんな中途半端な残り方はしないのよ。……でも、この細さが何を意味しているかは、ベティーにも分からないかしら」

 

「分かることと、分からないことを混ぜないでいただけるのは助かります」

 

 ラムが淡々と言う。皮肉ではなかった。魔法の話でベアトリスが断定を避けたなら、それは本当に分からないということだ。判断材料として、それは十分に価値がある。

 

 エミリアは空席の背もたれに手を置き、そして顔を上げた。

 

「探しましょう」

 

 迷いの無い声だった。

 

「どこで何があったのか分からない。だからこそ、探さなきゃ。スバルが自分から出て行ったんじゃないなら、待っていても帰ってこないもの」

 

「エミリア様。ロズワール様への報告は」

 

「あとにする。今は一分でも早いほうがいいわ」

 

 その決定に、三人は逆らわなかった。

 

「あの、それで、皆様」

 

 レムが、エプロンの隠しへ手を差し入れた。

 

「スバルくんの部屋を探してたら、スバルくんの部屋にこれが落ちていて……」

 

 テーブルの上へ置かれたそれが、カツン、と硬い音を立てる。

 

 それは、光を吸っていた。

 

 窓からは朝の日差しが真っ直ぐ差し込んでいる。それなのに、その表面だけが世界から切り取られたように暗い。角の丸い、親指ほどの石。宝石のようでいて、輝きが一切返ってこない。

 

 ベアトリスの顔つきが、変わった。

 

 椅子の上に膝で乗り上げ、顔を近づける。だが、触れない。掌をかざし、指先で空を撫で、角度を変えて何度も覗き込む。その間、ずっと眉が寄っていた。

 

「……妙かしら」

 

「何がですか」

 

「マナを感じないのよ。込められてもいないし、漏れてもいない。ただの石ころと同じ。……なのに、ベティーの目がこれを『在る』と認めてるかしら」

 

「ミーティアの類では」

 

「ミーティアなら術式が編み込まれてるのよ。刻印でも紋様でも、痕跡が必ず残る。これには何も無い。陽魔法でも陰魔法でも、精霊術でも呪術でもないかしら」

 

 ベアトリスは身体を起こし、四百年分の蔵書を頭の中でひっくり返すように黙り込み、そして首を横に振った。

 

「分からないのよ。……だから、誰も触るんじゃないかしら。術式が見えないものは、避けようが無いのよ」

 

 誰も、その言葉に逆らわなかった。

 

 エミリアもレムも一歩下がり、ラムはテーブルの端へ布を敷いて、石を包む準備を始めた。素手で運ぶつもりは無かった。

 

「まず、外から視るかしら」

 

 ベアトリスが両手を石の上へかざす。触れない。触れないまま、糸のように細く絞ったマナを、そっと表面へ這わせた。

 

 照らして、影の形を見るだけのつもりだった。ベアトリスにとっては、蔵書の背表紙を撫でるより慎重な手つきだった。

 

 石が、応えた。

 

 黒い表面が、その一点だけ、内側から灯るように滲んだ。

 

「——っ」

 

 ベアトリスの身体が、前へ引かれる。

 

 流したはずのマナが、戻ってこない。逆だった。吸われている。それも、外側の力ではなく、彼女の内側から。契約という細い糸に指を引っかけられ、そのまま引きずり込まれるような。

 

「ベアトリス!」

 

 エミリアが動いたのは、考えるより先だった。倒れかけた小さな身体を、正面から抱きとめる。

 

「ベアトリス様——」

 

 レムが背中へ回り、支える。

 

「触らないで! その子から離れなさ——」

 

 叫びながら、ラムがベアトリスの肩を掴んで引き剥がそうとした。

 

 四人の身体が、同時に触れ合った。

 

 テーブルの上の黒が、音も無く弾ける。

 

「まず——」

 

 誰かがそう言いかけた気がした。

 

 その瞬間、足の下から床が消えた。

 

---

 

## 二 塔と鉄の街

 

 最初に戻ってきたのは、音だった。

 

 人の声。硬い足音。腹の底を叩くような低い唸り。聞き慣れない、甲高い短い音。頭上から降ってくる、抑揚の平たい女の声。何を言っているのかは分かるのに、何のために言っているのかが分からない。

 

 無数の物音が一つに溶け合って、耳の奥をぐわん、と内側から押してくる。

 

 次いで匂い。油と、埃と、嗅いだことのない甘ったるい香りが混ざったもの。空気がわずかに温い。土の匂いが、どこにも無い。

 

「……あれ? ここ、どこ?」

 

 エミリアは何度も瞬きをした。

 

 屋敷の食堂は無い。代わりにあるのは、見上げても頂上の見えない灰色の塔の群れだった。空が四角く切り取られている。塔の壁面では光の板が絶えず色を変え、意味の分からない文字が滝のように流れ落ちていく。

 

 人。人。人。とにかく人が多い。

 

 その全員が、迷わずに歩いていた。

 

「転移魔法の類いかしら……!」

 

 ベアトリスが跳ね起き、周囲へ視線を走らせる。だが、その眉はすぐに険しく寄った。

 

 術式の残り香を探ろうとして、探るための足場が無い。

 

「……薄い」

 

 最初に言葉にしたのは、ラムだった。

 

 こめかみを押さえ、壁に手をついている。顔色が悪い。もともと器の小さい身では、周囲から借りることでようやく釣り合いを取っていた。その借り先が、ほとんど枯れている。

 

「姉様!」

 

「……騒がないで。立っていられるわ」

 

「無いわけじゃないのよ」

 

 ベアトリスが掌を虚空へ差し出し、確かめるように閉じる。

 

「あるにはある。けど、ベティーの知る空気と比べたら、雫みたいなものかしら。……使えないんじゃない。使ったら、戻ってこないのよ」

 

 水筒一本で砂漠を渡るようなものだ。一口が、そのまま命の目減りになる。

 

 エミリアも同じ手つきで宙へ指を伸ばし、そのまま動きを止めていた。

 

「……精霊が、居ない」

 

 呼びかけても、応える気配が無い。微精霊の一匹すら、この街の空には浮かんでいなかった。生まれてこの方ずっと周りにあったざわめきが、綺麗に消えている。それは静けさというより、耳を塞がれたような心細さだった。

 

「レム。あなたは」

 

「身体のほうは、いつも通りです」

 

 レムは自分の指を握って開き、確かめてから答えた。

 

「ただ、角を出すのは……ここでは、よほどのときだけにします」

 

 言いながら、レムは既に三人の前へ半歩出ていた。手には何も持っていない。それでも、いつでも動ける姿勢だった。

 

「凄く人が多くて煩いです。エミリア様、ベアトリス様。どうかレムから離れませんように」

 

「ここは騒々しくて敵わんかしら。とりあえず、静かな所に移るのよ」

 

 歩き出そうとして、エミリアは足元の感触に眉を寄せた。

 

 踏みしめても、土の柔らかさが返ってこない。踵を鳴らしてみる。硬い。しかも継ぎ目が無い。石を並べたのではなく、地面そのものを一枚の板に変えてしまったような。

 

「それにしても、地面が硬い。これ、全部石畳……」

 

 顔を上げたまま、一歩。

 

 プー!

 

「おい、あぶねえだろ! 車道に出るんじゃねぇ!」

 

 鼻先を、鉄の塊が掠めていった。

 

 巻き上げられた風圧に銀髪が舞い上がる。エミリアは咄嗟に飛び退き、胸を押さえながら頭を下げた。

 

「わ、ごめんなさい!」

 

 過ぎ去っていくそれを、レムの碧い目が追う。透明な窓の内側に人が座っていた。手綱は無い。前にも横にも、引くべき獣の姿が無い。

 

「エミリア様。あの竜車、でしょうか。地龍も使わずにあの速さ、信じられません」

 

「魔法やミーティアの類でもなさそうかしら」

 

 ベアトリスが小さく舌打ちする。あれだけの速度を出していながら、マナの揺らぎが感じられない。魔法でないなら、あれは何で動いている。

 

 そして、走る箱は一台ではなかった。

 

 大きいもの。小さいもの。人を何十人も詰め込んだ細長いもの。二輪のものに乗って、足で漕いで進む者もいる。速度も大きさも違うまま、同じ道の上を流れていく。

 

「……多すぎるわ」

 

 ラムが呟いた。

 

「一つ一つ驚いていたら日が暮れます」

 

 実際、驚く余裕は無くなりつつあった。

 

 誰も触れていないのに開く扉。耳から白い紐を垂らし、誰も居ない前方へ向かって喋り続ける男。柱の上に据えられた、小さな黒い目玉のような何か。

 

「レム。あれ、覚えておきなさい」

 

「はい」

 

「同じものが、等間隔で並んでいるわ」

 

 それだけ言って、ラムは目を戻した。

 

 そのとき、頭上の光がぱちりと色を変えた。

 

 流れていた鉄の塊が、示し合わせたように一斉に止まる。堰き止められていた水が溢れ出すように、四方から人波が交差点へなだれ込んだ。

 

「見て、みんな。竜車が止まって、みんな一斉に歩き出したわ」

 

 誰も命令していない。号令も、鐘の音も無い。それなのに、これだけの人間と走る箱が、目の前では破綻せずに流れている。

 

「合図が読めているのね。ラム達以外の全員が」

 

 ラムの声は平坦だった。だからこそ、その意味は重く響いた。

 

「エミリア様。さっき、危ないという立て札はありましたか」

 

「……無かったわ」

 

「無くても足りているのです。……知らずに破ったから許される、とは限りませんよ」

 

 渡りきった先で、エミリアがまた足を止めた。

 

 地面に、細長い黄色の帯が続いている。表面に規則正しい突起が並び、道が分かれる場所では丸い粒に変わっていた。硬い地面のなかで、そこだけがわざわざ手を加えられている。

 

「レム、これ何かしら。境界の印?」

 

「模様にしては、歩きにくくなるだけですが」

 

 二人が屈み込んでいると、後ろから細い棒の音が近づいてきた。

 

 コツ、コツ、と地面を叩きながら歩いてくる老人がいた。目を閉じている。

 

「……あの人、目を閉じたまま歩いてる」

 

「この黄色い道を、辿っています」

 

 老人は四人の脇を通り抜け、分かれ道の丸い粒の上で足を止め、それから左へ折れていった。誰も手を貸さなかった。手を貸す必要が無いからだった。

 

「……そっか」

 

 エミリアは、黄色い帯を目で追った。それがどこまでも、街の奥へ続いているのが見えた。

 

 パシャ!

 

 乾いた音が、すぐ横で鳴った。

 

「やべ、音出ちゃった」

 

 レムの反応は速かった。滑るように間合いを詰め、男の眼前へ立ち塞がる。

 

「そこの人、今何かしましたね!」

 

「待つのよ、レム」

 

 ベアトリスの制止に、レムの足が止まる。確かに、男の顔にあるのは敵意ではない。気まずさと、それを上回る好奇心だった。エミリアは男が構えている黒い板を、覗き込むように見つめる。

 

「あなた、何か私に向けてるけど、それは何?」

 

「え、普通にスマホっすけど。え、なに、やっぱそういう設定っすか?」

 

「あのーこっちも撮っていいですかー?」

 

 いつの間にか、別の女がすぐ横に立っていた。その後ろにも、足を止めた人影がいくつか。誰もが同じ黒い板を掲げ、こちらへ向けている。

 

「え、すまほ? とる? ごめんなさい、さっぱりわからないわ」

 

 正直に答えたエミリアの周りで、ざわめきが膨らんでいく。

 

 銀の髪に紫紺の瞳。青い髪と、桃色の髪。この世のものとは思えない造作の顔が二つ。そして、金の縦ロールを揺らす幼女。四人が四人とも、この雑踏の中で致命的に浮いていた。

 

「……エミリア様。あの板、こちらの姿を写し取っています」

 

 ラムが目を細めた。

 

 男の手元を覗き込む。板の中に、確かに自分たちが映っていた。鏡ではない。動きが遅れて追いかけてくるし、男が指を滑らせると、映った四人が小さくなったり大きくなったりする。

 

「写し絵、でしょうか」

 

「近いものでしょうね。絵師も要らず、一瞬で」

 

 ラムに分かったのは、そこまでだった。

 

 写し取られた姿がどこへ行くのか。誰が見るのか。どれだけ残るのか。それを推し量る材料は、彼女の中に一つも無い。

 

 男の指が、板の上を軽く二度叩いた。小さな音が鳴り、画面の隅で何かが上へ流れて消えた。

 

 四人は、それが何だったのかを知らない。

 

 レムがそっとエミリアの袖を引いた。

 

「エミリア様、周囲の目が集まってます。ここを早く離れましょう」

 

「そうね、離れましょう」

 

---

 

## 三 善意

 

 人の流れに逆らって歩き続けて、どれほど経っただろうか。

 

「人が居ない所が全然無いなんて」

 

 エミリアは息を吐いた。森でも、街道でも、王都でさえ、少し外れれば静けさはあった。だがこの街は違う。どこまで行っても人がいて、光があって、音がある。

 

 塔の陰、人通りの細い一角にようやく身を寄せる。

 

「それより、状況を整理するかしら」

 

 ベアトリスが腕を組む。エミリアは指を折りながら、慎重に口を開いた。

 

「えっと、変な石? で何処か遠くに飛ばされた、のよね?」

 

「しかし、こんな奇怪な国、覚えありませんが」

 

 レムの脳裏に、屋敷の書斎で見た大陸図が浮かぶ。ルグニカ、カララギ、グステコ、ヴォラキア。どの国の風土にも、あの塔の群れは当てはまらない。

 

「文字が違います。服の作りも、髪の色も。それに——」

 

「亜人が、一人も居ないわ」

 

 ラムが引き取った。すれ違った何百人の中に、角も、鱗も、獣の耳も、一つとして無かった。

 

「それに、飛ばされた時、妙な感じがしたのよ」

 

 ベアトリスの声が、ほんの少し低くなる。

 

 あの瞬間、身体が引き伸ばされる感覚があった。距離を跳ぶだけなら、あんな抵抗は生まれない。もっと分厚い、もっと根本的な隔たりを、無理やり突き破ったような。

 

「ただ遠くに飛ばされただけ、という程甘く無さそうかしら」

 

 その言葉を聞いた瞬間、エミリアが顔を跳ね上げた。

 

「! そうだ、あの石でスバルもここに来たんじゃ」

 

「という事は、この近くにスバルくんが」

 

 レムが一歩踏み出す。その勢いを、ベアトリスは掌を突き出して押しとどめた。

 

「落ち着くかしら。……ベティーに分かるのは、契約が切れていないということだけなのよ」

 

「方角は」

 

「分からないのよ」

 

 言い切るまでに、ほんの一拍あった。悔しさを飲み下すだけの時間だった。

 

「近いのか遠いのかも、今のベティーには判じられない。……期待させて悪いけど、ベティーは道しるべにはなれないかしら」

 

 沈黙が落ちた。レムが唇を噛み、それでも小さく頭を下げる。

 

「……いえ。切れていない、というだけで十分です」

 

「そうね。今はそれが、いちばん確かなことだわ」

 

 ラムがそう言って、路地の外へ目をやった、そのときだった。

 

「あの、ちょっといいかしら」

 

 声をかけてきたのは、買い物袋を提げた年配の女だった。

 

 柔らかい声だ。距離の詰め方も、腰の低さも、警戒すべきものは何一つ無い。エミリアは反射的に、微笑みを返していた。

 

「はい」

 

「さっきからこの辺、行ったり来たりしてるでしょう。大丈夫? 道に迷ってない? ……その子なんて、こんな格好で、ずっと歩きっぱなしじゃない」

 

 女の視線が、ベアトリスへ落ちる。

 

 豪奢なドレスに、幼い背丈。大人に手を引かれてもいない。この街の理屈でどう見えるのかを、四人は知らなかった。ただ、女の眉が本気で曇っているということだけは分かった。

 

「お姉さんたち、どこから来たの? 日本語お上手ねぇ。旅行? ご家族は?」

 

「私たちは、ルグニカ王国の——」

 

「エミリア様」

 

 止めたのは、ラムだった。だが遅かった。

 

「ルグ……? ごめんなさいね、おばさん耳が遠くて。どこの国かしら。ヨーロッパのほう?」

 

 答えられない。地図を出しても、この街の誰も指させないだろう。

 

「ええと、その、遠い所から」

 

「そうなの。今日はどちらにお泊まり? ホテル、この辺?」

 

「……宿は、まだ」

 

「あら、これから? 予約は? ……予約も無し?」

 

 女の首の傾きが、少しずつ深くなっていく。

 

「人を探していて。ナツキ・スバルっていう、男の子で」

 

「まあ、人探し。連絡先は分かる? 電話番号でも、ラインでも」

 

「でんわ、ばんごう」

 

 エミリアが繰り返すと、女は不思議そうに瞬きをした。

 

「……お嬢さん、スマホは?」

 

「もっていません」

 

 レムが正直に答える。

 

「四人とも? 誰も持ってないの? じゃあ、お財布は? パスポートは?」

 

「ぱす、ぽーと」

 

「あなた……」

 

 女の顔つきが、変わった。

 

 疑いではない。同情でもない。もっと真剣な、責任の色だった。

 

 宿も決まっていない娘が四人。連絡手段も金も無く、旅券も持たず、そのうち一人はどう見ても子ども。そして、パスポートという言葉の意味すら分かっていない。

 

 女が何を思い浮かべたのか、四人には分からなかった。ただ、その表情が「困った」から「これは放っておけない」へ移り変わったことだけは、はっきりと伝わった。

 

「ちょっと待ってて。そこの角に交番あるから、お巡りさん呼んでくるから。ね? 大丈夫よ、怖い所じゃないから。ちゃんと話を聞いてくれるから」

 

 善意だった。どこにも棘が無かった。

 

 それでも、四人の背筋を同時に冷たいものが走った。

 

「待ってください」

 

 レムが半歩前へ出る。だが、その先に続ける言葉が無かった。

 

 行かないでほしい。呼ばないでほしい。だが、なぜ、と問われたら。

 

「あら、遠慮しなくていいのよ」

 

 女は微笑んで、そして背を向けた。急ぎ足で、人波の中へ入っていく。

 

「……エミリア様」

 

「うん。悪い人じゃ、ないわ」

 

「敵なら簡単でした。追い払えばいい」

 

 ラムは女の背を目で追いながら、続けた。

 

「でも、あの人はラム達を助けようとしている。……だから面倒なのです」

 

 エミリアは、その意味を一拍遅れて理解した。

 

 助けを断るなら、断る理由を言わなければならない。追い払うのとは違う。あの人は、こちらが言葉を返すことを前提にして、親切をしてくれている。

 

 そして自分たちには、返せる言葉が無い。

 

「……ちゃんと話せば、分かってもらえるんじゃない?」

 

 言ってから、自分でも縋るような響きになったと気づいた。

 

「では、何を話しますか」

 

 ラムの声に、責める色は無かった。ただ、確認するように尋ねただけだった。

 

「別の世界から来ました、と?」

 

 エミリアの唇が、そこで止まった。

 

 考えて、考えて、答えが出なかった。

 

 自分がもしルグニカで、見知らぬ娘に同じことを言われたら。信じるだろうか。それとも、この子は何かひどい目に遭って、頭が混乱しているのだと思うだろうか。

 

 ——きっと、後者だ。

 

 そしてそう思った人間は、優しければ優しいほど、その娘を一人にしておかない。

 

「……そっか」

 

 エミリアは、自分の胸を押さえた。

 

「私、まだ何も嘘ついてないのに。本当のことしか言ってないのに」

 

「そうですね」

 

 ラムは、それ以上言わなかった。

 

「その、おまわりさん、とやらが何かは分かりませんが」

 

 レムが、女の消えた方角を見つめたまま言う。

 

「事情を説明させられる場所だと思います。説明できなければ、そう簡単には帰してもらえないはずです」

 

「留め置かれたら、スバルを探せないのよ」

 

 ベアトリスがエミリアの袖を握った。

 

「ベティー達に、そんな時間、無いかしら」

 

 エミリアは目を閉じた。

 

 助けようとしてくれた人から、逃げる。それは、彼女がいちばんやりたくないことだった。人に手を差し出されて、それを振り払うということが、どういうことなのかを彼女はよく知っている。

 

 それでも。

 

「……行きましょう。急いで」

 

 人垣の隙間を縫って歩き出しながら、エミリアは一度だけ振り返った。

 

 遠ざかる女の背へ、誰にも見えない角度で、小さく頭を下げた。

 

「ごめんなさい」

 

---

 

## 四 残滓

 

 三筋ほど通りを離れたところで、ベアトリスが突然、足を止めた。

 

「——待つのよ」

 

 人混みの中で、その小さな身体だけが独楽のように回る。鼻先を上げ、指先を宙へ伸ばし、何かを探すように顔を巡らせた。

 

「今、あの石と同じ匂いがしたかしら」

 

「スバルくんですか!」

 

「違うのよ。人の気配じゃない」

 

 即座に否定する。

 

「あの石が空間をこじ開けたときの、歪みの残り滓みたいなものかしら。似たようなことが、この辺りで起きた——本当に、それだけなのよ」

 

「バルスだとは限らない、と」

 

「限らないのよ。石が一つだけとも限らないかしら」

 

 それでも、と四人は同時に思った。

 

 自分たち以外にも、同じやり方でこの世界へ運ばれた何かがある。

 

「方角は分かるの?」

 

「一瞬だけ、あっちだった気がするかしら」

 

 ベアトリスが指したのは、人の流れが吸い込まれていく方向だった。

 

「気がする、だけなのよ。もう感じないかしら。……追うなら、今しかないのよ」

 

 誰も反対しなかった。

 

 他に、行く当てが無かった。

 

 人波は、進むほどに太くなっていく。細い道が合流し、階段が現れ、屋根の下に入る。頭上から降る平たい声が大きくなり、床の材質が変わり、光が白くなった。

 

 そして、開けた。

 

 巨大な建物の口だった。

 

 その手前に、腰ほどの高さの仕切りが横一列に並んでいる。人々が次々とそこをくぐり、向こう側へ流れ込んでいく。

 

「ベアトリス。まだ感じる?」

 

「……途切れ途切れかしら。でも、こっちのほうが濃い」

 

 ベアトリスの指が、まっすぐに仕切りの向こう側を示した。

 

「あの門の、向こうなのよ」

 

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## 五 低い門

 

「関所、でしょうか」

 

「にしては、番人が少なすぎるかしら」

 

 門の脇には制服の男が一人立っているだけで、誰かを検めている様子はない。それなのに、門は勝手に開き、勝手に閉じる。

 

「見て。あの人たち、何かを門に触れさせてるわ」

 

 エミリアの言う通りだった。ある者は薄い紙片を差し入れ、ある者はあの黒い板を、ある者は小さな札を軽く当てる。そのたびに短い音が鳴り、透明な羽が開く。

 

「何か通るための札が要るのかしら」

 

「金を払っているようにも見えます」

 

 レムが冷静に付け加えた。

 

「もしくは、通行の許可証か。……どちらにしても、レムたちは持っていません」

 

 四人は、その門を眺め続けた。

 

 流れは、一瞬たりとも途切れない。

 

 背広の男が歩きながら片手で札を当て、目も向けずに通り抜ける。母親に手を引かれた小さな子どもが、背伸びをして自分の札を当て、得意げに通る。杖をついた老人が、ゆっくりと、しかし確実に通る。制服の学生の群れが、喋りながら、一人も詰まらずに通る。

 

 誰も戸惑っていない。誰も止められていない。

 

「……よくできているわ」

 

 ラムが言った。

 

「これだけの人数を、争いも順番待ちもなく捌いている。門番一人で」

 

 この門は、誰かを締め出すために作られたのではない。大勢を通すために作られている。

 

 それなのに、自分たちだけが通れない。

 

「レム。何か、あの札に似たものは」

 

「持ち合わせがありません。金貨も、この国では通じないかと」

 

「拾った紙で真似られないかしら」

 

「厚みも、模様も、一枚ごとに違います。おそらく中身が違う」

 

 三人が言葉を交わす間、エミリアは門の向こうを見ていた。

 

 白い光の下に、下りの階段が続いている。人が吸い込まれていく。この先のどこかに、あの黒い石と同じ匂いが残っている。

 

 距離にして、五歩も無い。

 

 高さは、腰ほど。

 

「あの、大丈夫ですか?」

 

 声をかけられて、四人は同時に振り返った。

 

 制服の男が、いつの間にか近くまで来ていた。慌てた様子ではない。咎める様子はもっと無い。

 

「さっきからずっとそこにいらっしゃるので。どちらまで行かれますか?」

 

「……ええと」

 

「切符の買い方が分からない、とかでしたら、あちらでご案内できますよ。あ、外国の方でしたか。失礼しました。ええと——ホエア、ドゥー、ユー、ゴー?」

 

 男は少し照れながら、それでもきちんと発音しようと努めていた。伝わらないと見るや、今度は懐から黒い板を取り出す。

 

「ちょっと待ってくださいね。これで……はい、どうぞ。ここに向かって喋ってもらえれば」

 

 差し出された板の中で、文字が並んでいた。

 

 四人には読めなかった。読めないということが、男には伝わらなかった。

 

「英語じゃない? 中国語? 韓国語……あ、切り替えますね。すみません、ちょっと待って」

 

 男は真剣だった。

 

 この街には、言葉の通じない者を助けるための道具まで用意されている。それを扱う訓練を受けた人間が、門のそばに立っている。四人が息を呑んだのは、まさにそこだった。

 

 迷った異国人を助けられる街なのだ、ここは。

 

 それでも、助けられない。

 

 言葉が通じないからではない。四人が「言葉の通じない外国人」ですらないからだ。

 

「お連れの大人の方は? そちらのお嬢さんの、保護者の方とか」

 

 男の目が、ベアトリスへ向いた。

 

「切符を落とされたなら、届いてるかもしれません。交番のほうにも遺失物が回りますから、一度そちらで——」

 

 また、同じ場所へ繋がる。

 

 親切の道は一本ではなかった。何本もあって、そのどれもが、最後には同じ扉の前へ辿り着く。

 

「……結構です。ありがとうございました」

 

 レムが深く頭を下げ、四人は門の前から退いた。

 

 柱の陰で、エミリアが門を振り返る。

 

 腰ほどの高さ。走って跳べば、一歩だ。

 

「勝てるのに、戦えないのね」

 

「勝ってはいけない、が正確です」

 

 ラムが訂正した。

 

「今のラム達は、あの人から見れば『困っている娘たち』です。門を壊した瞬間、それが別のものに変わります。この街の人間がそういうものをどう扱うかは知りませんが、放っておかないことだけは確かでしょう」

 

「……さっきの人たちが、みんな敵になる」

 

「敵に回すには、この街は人が多すぎます」

 

 ラムは門の向こうへ視線を送った。

 

「エミリア様。あの門は、ラム達を拒んでいるわけですらありません。ただ、通り方を知らないだけです」

 

 知らないというだけで、行ける場所が消えていく。

 

 剣も、魔法も、血筋も、この街では鍵にならなかった。

 

「ベアトリス。匂いは」

 

 ベアトリスは、答えなかった。

 

 指を伸ばしたまま、何度も角度を変え、そして下ろした。

 

「……消えたかしら」

 

「消えた?」

 

「掴んでいられないのよ。薄すぎるのよ、この世界は。……探るための足場ごと、無いかしら」

 

 悔しさに、幼い声が震える。誰も責めなかった。責められるはずがなかった。

 

 残ったのは、確かではない希望が一つだけだ。

 

 あの石と同じものが、この世界にもう一つ在った。ならばスバルも、どこかにいるかもしれない。

 

 どこかは、分からない。

 

「エミリア様」

 

 レムの声が、鋭く低くなった。

 

 人波の向こう。先ほどの駅員が、こちらを指さしながら、別の誰かに何かを話している。紺色の制服。腰に何かを提げた、体格のいい男。

 

 その隣には、買い物袋を提げた年配の女の姿もあった。

 

 女はしきりに頷いている。心配そうに、こちらを探している。制服の男は、女の話を最後まで聞き、それから穏やかな顔で頷いた。

 

「あの人、戻ってきてくれたのね」

 

 エミリアが呟いた。

 

 誰も、四人を追ってはいなかった。急いでもいない。走ってもいない。あの三人はただ、迷子になった娘たちを見つけて、声をかけようとしているだけだった。

 

 それなのに、四人の足は勝手に後ずさっていた。

 

「……行くわよ。ベアトリス、手を」

 

「言われなくても掴んでるかしら!」

 

 四人は身を翻し、人の波の中へ滑り込む。

 

 誰も呼び止めなかった。誰かが「あれっ」と声を上げたのが、遠くで聞こえた気がした。それだけだった。

 

 塔と塔の隙間を抜け、光の川を渡り、四人は走った。

 

 走りながら、エミリアは考えていた。

 

 あの人は、買い物の途中だったのに、わざわざ戻ってきてくれた。駅員の人も、ずっと丁寧だった。あの制服の男の人だって、きっと。

 

 悪くない人たちから、逃げた。今日、自分たちは初めて、この街の正しいやり方から外れた。

 

「悪い人ではありませんでした」

 

 隣を走りながら、ラムが言った。

 

「それは、忘れないほうがいい」

 

「……うん」

 

 人混みの奥。光の板が色を変え、放送が流れ、扉が開き、鉄の箱が走り、何十万という人間が今日も運ばれていく。

 

 これほどよくできた街で、四人だけが、どこへも行けなかった。

 

 エミリアは足を止め、息を整え、それから三人を見た。

 

「決めましょう。門は通れない。お金も無い。宿も無い。……でも、スバルは、たぶんこの世界にいる」

 

 声が、そこで少しだけ強くなった。

 

「探すわ。何があっても」

 

「具体的な方策は」

 

「……今から考えるわ」

 

「でしょうね」

 

 四人は、また歩き出した。

 

 その頭上で、柱に据えられた小さな黒い目が、遠ざかる背中を黙って見送っていた。

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