## 一 空席
その日の朝、ロズワール邸の食堂は妙に静かだった。
誰か一人が喋っていないだけで、屋敷というのはこんなにも広く感じるものらしい。等間隔に並べられた皿。湯気の落ちきったスープ。そして、引かれたまま誰も座っていない椅子が一つ。
エミリアはその空席をしばらく眺めてから、小さく首を傾げた。
「スバルが居ない?」
「今朝から見当たらないです」
問いかけられたレムは、抱えた盆を胸に押しつけるようにして、困ったふうに眉尻を下げる。
言い方が、いつもより慎重だった。普段なら「またサボりですね」と半分呆れたように笑うところを、レムはそうしなかった。
「厩舎も、庭も、水汲み場も見てきました。門番にも聞きましたが、誰も出て行くところを見ていません」
「大方、どこかの木陰で寝ているのでしょう」
銀の盆を片手に、ラムが食堂へ入ってくる。声にはいつも通りの温度の無さがあった。だが視線は、まっすぐに空いた椅子へ向けられている。
「バルスが居ないだけで、この屋敷はずいぶん静かになるのね。喜ばしいことだわ」
「姉様」
「——ただ、話が合いません」
ラムは盆を置き、指を一本ずつ折り始めた。
「寝間着は畳んで置いてありました。剃刀も櫛もそのまま。財布は寝台の下に落ちたままで、中身は減っていない。外套も掛かっている」
「……上着だけが、無いんです」
レムが補う。
「屋敷の中を歩くときに羽織っているものだけ。あれ一枚では、朝の街道は歩けません」
「書き置きも無い。誰にも声をかけていない。路銀も持たない」
ラムは折った指をすべて開き、掌を上へ向けた。
「自分の意思で出て行ったと考えるには、揃っていないものが多すぎます」
誰も、すぐには言葉を継がなかった。
ラムはそれ以上、何も足さなかった。心配だとも、嫌な予感がするとも言わない。ただ、事実を並べて、そこから引き出せる結論だけを置く。それが彼女のやり方だった。
「……スバルくんなら」
レムが、盆を握る指に力を込める。
「何も言わずに消えるとは思えません。あの人は、黙って居なくなるのがいちばん下手な人です。文句を言って、騒いで、誰かに止められて、それでようやく出て行くような人ですから」
その言い方に、エミリアは思わず頷いた。まったくその通りだった。スバルは去り際にこそ、いちばん喋る男だ。
書斎の扉が、誰も触れていないのにひとりでに開く。
「スバルとのつながりは残ってる。けれど、今にも途切れそうなほど脆くなってるかしら」
現れたベアトリスの声から、いつもの高慢さが抜け落ちていた。ドレスの裾を握る指先が白い。契約という細い糸を、両手で必死に手繰り寄せている子どもの手つきだった。
「切れてはいないのね?」
「切れてないのよ。それだけは確かかしら」
糸は在る。だが、張りが無い。爪の先で弾けば、それだけで断ち切れてしまいそうな細さだった。
「死んでいれば、こんな中途半端な残り方はしないのよ。……でも、この細さが何を意味しているかは、ベティーにも分からないかしら」
「分かることと、分からないことを混ぜないでいただけるのは助かります」
ラムが淡々と言う。皮肉ではなかった。魔法の話でベアトリスが断定を避けたなら、それは本当に分からないということだ。判断材料として、それは十分に価値がある。
エミリアは空席の背もたれに手を置き、そして顔を上げた。
「探しましょう」
迷いの無い声だった。
「どこで何があったのか分からない。だからこそ、探さなきゃ。スバルが自分から出て行ったんじゃないなら、待っていても帰ってこないもの」
「エミリア様。ロズワール様への報告は」
「あとにする。今は一分でも早いほうがいいわ」
その決定に、三人は逆らわなかった。
「あの、それで、皆様」
レムが、エプロンの隠しへ手を差し入れた。
「スバルくんの部屋を探してたら、スバルくんの部屋にこれが落ちていて……」
テーブルの上へ置かれたそれが、カツン、と硬い音を立てる。
それは、光を吸っていた。
窓からは朝の日差しが真っ直ぐ差し込んでいる。それなのに、その表面だけが世界から切り取られたように暗い。角の丸い、親指ほどの石。宝石のようでいて、輝きが一切返ってこない。
ベアトリスの顔つきが、変わった。
椅子の上に膝で乗り上げ、顔を近づける。だが、触れない。掌をかざし、指先で空を撫で、角度を変えて何度も覗き込む。その間、ずっと眉が寄っていた。
「……妙かしら」
「何がですか」
「マナを感じないのよ。込められてもいないし、漏れてもいない。ただの石ころと同じ。……なのに、ベティーの目がこれを『在る』と認めてるかしら」
「ミーティアの類では」
「ミーティアなら術式が編み込まれてるのよ。刻印でも紋様でも、痕跡が必ず残る。これには何も無い。陽魔法でも陰魔法でも、精霊術でも呪術でもないかしら」
ベアトリスは身体を起こし、四百年分の蔵書を頭の中でひっくり返すように黙り込み、そして首を横に振った。
「分からないのよ。……だから、誰も触るんじゃないかしら。術式が見えないものは、避けようが無いのよ」
誰も、その言葉に逆らわなかった。
エミリアもレムも一歩下がり、ラムはテーブルの端へ布を敷いて、石を包む準備を始めた。素手で運ぶつもりは無かった。
「まず、外から視るかしら」
ベアトリスが両手を石の上へかざす。触れない。触れないまま、糸のように細く絞ったマナを、そっと表面へ這わせた。
照らして、影の形を見るだけのつもりだった。ベアトリスにとっては、蔵書の背表紙を撫でるより慎重な手つきだった。
石が、応えた。
黒い表面が、その一点だけ、内側から灯るように滲んだ。
「——っ」
ベアトリスの身体が、前へ引かれる。
流したはずのマナが、戻ってこない。逆だった。吸われている。それも、外側の力ではなく、彼女の内側から。契約という細い糸に指を引っかけられ、そのまま引きずり込まれるような。
「ベアトリス!」
エミリアが動いたのは、考えるより先だった。倒れかけた小さな身体を、正面から抱きとめる。
「ベアトリス様——」
レムが背中へ回り、支える。
「触らないで! その子から離れなさ——」
叫びながら、ラムがベアトリスの肩を掴んで引き剥がそうとした。
四人の身体が、同時に触れ合った。
テーブルの上の黒が、音も無く弾ける。
「まず——」
誰かがそう言いかけた気がした。
その瞬間、足の下から床が消えた。
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## 二 塔と鉄の街
最初に戻ってきたのは、音だった。
人の声。硬い足音。腹の底を叩くような低い唸り。聞き慣れない、甲高い短い音。頭上から降ってくる、抑揚の平たい女の声。何を言っているのかは分かるのに、何のために言っているのかが分からない。
無数の物音が一つに溶け合って、耳の奥をぐわん、と内側から押してくる。
次いで匂い。油と、埃と、嗅いだことのない甘ったるい香りが混ざったもの。空気がわずかに温い。土の匂いが、どこにも無い。
「……あれ? ここ、どこ?」
エミリアは何度も瞬きをした。
屋敷の食堂は無い。代わりにあるのは、見上げても頂上の見えない灰色の塔の群れだった。空が四角く切り取られている。塔の壁面では光の板が絶えず色を変え、意味の分からない文字が滝のように流れ落ちていく。
人。人。人。とにかく人が多い。
その全員が、迷わずに歩いていた。
「転移魔法の類いかしら……!」
ベアトリスが跳ね起き、周囲へ視線を走らせる。だが、その眉はすぐに険しく寄った。
術式の残り香を探ろうとして、探るための足場が無い。
「……薄い」
最初に言葉にしたのは、ラムだった。
こめかみを押さえ、壁に手をついている。顔色が悪い。もともと器の小さい身では、周囲から借りることでようやく釣り合いを取っていた。その借り先が、ほとんど枯れている。
「姉様!」
「……騒がないで。立っていられるわ」
「無いわけじゃないのよ」
ベアトリスが掌を虚空へ差し出し、確かめるように閉じる。
「あるにはある。けど、ベティーの知る空気と比べたら、雫みたいなものかしら。……使えないんじゃない。使ったら、戻ってこないのよ」
水筒一本で砂漠を渡るようなものだ。一口が、そのまま命の目減りになる。
エミリアも同じ手つきで宙へ指を伸ばし、そのまま動きを止めていた。
「……精霊が、居ない」
呼びかけても、応える気配が無い。微精霊の一匹すら、この街の空には浮かんでいなかった。生まれてこの方ずっと周りにあったざわめきが、綺麗に消えている。それは静けさというより、耳を塞がれたような心細さだった。
「レム。あなたは」
「身体のほうは、いつも通りです」
レムは自分の指を握って開き、確かめてから答えた。
「ただ、角を出すのは……ここでは、よほどのときだけにします」
言いながら、レムは既に三人の前へ半歩出ていた。手には何も持っていない。それでも、いつでも動ける姿勢だった。
「凄く人が多くて煩いです。エミリア様、ベアトリス様。どうかレムから離れませんように」
「ここは騒々しくて敵わんかしら。とりあえず、静かな所に移るのよ」
歩き出そうとして、エミリアは足元の感触に眉を寄せた。
踏みしめても、土の柔らかさが返ってこない。踵を鳴らしてみる。硬い。しかも継ぎ目が無い。石を並べたのではなく、地面そのものを一枚の板に変えてしまったような。
「それにしても、地面が硬い。これ、全部石畳……」
顔を上げたまま、一歩。
プー!
「おい、あぶねえだろ! 車道に出るんじゃねぇ!」
鼻先を、鉄の塊が掠めていった。
巻き上げられた風圧に銀髪が舞い上がる。エミリアは咄嗟に飛び退き、胸を押さえながら頭を下げた。
「わ、ごめんなさい!」
過ぎ去っていくそれを、レムの碧い目が追う。透明な窓の内側に人が座っていた。手綱は無い。前にも横にも、引くべき獣の姿が無い。
「エミリア様。あの竜車、でしょうか。地龍も使わずにあの速さ、信じられません」
「魔法やミーティアの類でもなさそうかしら」
ベアトリスが小さく舌打ちする。あれだけの速度を出していながら、マナの揺らぎが感じられない。魔法でないなら、あれは何で動いている。
そして、走る箱は一台ではなかった。
大きいもの。小さいもの。人を何十人も詰め込んだ細長いもの。二輪のものに乗って、足で漕いで進む者もいる。速度も大きさも違うまま、同じ道の上を流れていく。
「……多すぎるわ」
ラムが呟いた。
「一つ一つ驚いていたら日が暮れます」
実際、驚く余裕は無くなりつつあった。
誰も触れていないのに開く扉。耳から白い紐を垂らし、誰も居ない前方へ向かって喋り続ける男。柱の上に据えられた、小さな黒い目玉のような何か。
「レム。あれ、覚えておきなさい」
「はい」
「同じものが、等間隔で並んでいるわ」
それだけ言って、ラムは目を戻した。
そのとき、頭上の光がぱちりと色を変えた。
流れていた鉄の塊が、示し合わせたように一斉に止まる。堰き止められていた水が溢れ出すように、四方から人波が交差点へなだれ込んだ。
「見て、みんな。竜車が止まって、みんな一斉に歩き出したわ」
誰も命令していない。号令も、鐘の音も無い。それなのに、これだけの人間と走る箱が、目の前では破綻せずに流れている。
「合図が読めているのね。ラム達以外の全員が」
ラムの声は平坦だった。だからこそ、その意味は重く響いた。
「エミリア様。さっき、危ないという立て札はありましたか」
「……無かったわ」
「無くても足りているのです。……知らずに破ったから許される、とは限りませんよ」
渡りきった先で、エミリアがまた足を止めた。
地面に、細長い黄色の帯が続いている。表面に規則正しい突起が並び、道が分かれる場所では丸い粒に変わっていた。硬い地面のなかで、そこだけがわざわざ手を加えられている。
「レム、これ何かしら。境界の印?」
「模様にしては、歩きにくくなるだけですが」
二人が屈み込んでいると、後ろから細い棒の音が近づいてきた。
コツ、コツ、と地面を叩きながら歩いてくる老人がいた。目を閉じている。
「……あの人、目を閉じたまま歩いてる」
「この黄色い道を、辿っています」
老人は四人の脇を通り抜け、分かれ道の丸い粒の上で足を止め、それから左へ折れていった。誰も手を貸さなかった。手を貸す必要が無いからだった。
「……そっか」
エミリアは、黄色い帯を目で追った。それがどこまでも、街の奥へ続いているのが見えた。
パシャ!
乾いた音が、すぐ横で鳴った。
「やべ、音出ちゃった」
レムの反応は速かった。滑るように間合いを詰め、男の眼前へ立ち塞がる。
「そこの人、今何かしましたね!」
「待つのよ、レム」
ベアトリスの制止に、レムの足が止まる。確かに、男の顔にあるのは敵意ではない。気まずさと、それを上回る好奇心だった。エミリアは男が構えている黒い板を、覗き込むように見つめる。
「あなた、何か私に向けてるけど、それは何?」
「え、普通にスマホっすけど。え、なに、やっぱそういう設定っすか?」
「あのーこっちも撮っていいですかー?」
いつの間にか、別の女がすぐ横に立っていた。その後ろにも、足を止めた人影がいくつか。誰もが同じ黒い板を掲げ、こちらへ向けている。
「え、すまほ? とる? ごめんなさい、さっぱりわからないわ」
正直に答えたエミリアの周りで、ざわめきが膨らんでいく。
銀の髪に紫紺の瞳。青い髪と、桃色の髪。この世のものとは思えない造作の顔が二つ。そして、金の縦ロールを揺らす幼女。四人が四人とも、この雑踏の中で致命的に浮いていた。
「……エミリア様。あの板、こちらの姿を写し取っています」
ラムが目を細めた。
男の手元を覗き込む。板の中に、確かに自分たちが映っていた。鏡ではない。動きが遅れて追いかけてくるし、男が指を滑らせると、映った四人が小さくなったり大きくなったりする。
「写し絵、でしょうか」
「近いものでしょうね。絵師も要らず、一瞬で」
ラムに分かったのは、そこまでだった。
写し取られた姿がどこへ行くのか。誰が見るのか。どれだけ残るのか。それを推し量る材料は、彼女の中に一つも無い。
男の指が、板の上を軽く二度叩いた。小さな音が鳴り、画面の隅で何かが上へ流れて消えた。
四人は、それが何だったのかを知らない。
レムがそっとエミリアの袖を引いた。
「エミリア様、周囲の目が集まってます。ここを早く離れましょう」
「そうね、離れましょう」
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## 三 善意
人の流れに逆らって歩き続けて、どれほど経っただろうか。
「人が居ない所が全然無いなんて」
エミリアは息を吐いた。森でも、街道でも、王都でさえ、少し外れれば静けさはあった。だがこの街は違う。どこまで行っても人がいて、光があって、音がある。
塔の陰、人通りの細い一角にようやく身を寄せる。
「それより、状況を整理するかしら」
ベアトリスが腕を組む。エミリアは指を折りながら、慎重に口を開いた。
「えっと、変な石? で何処か遠くに飛ばされた、のよね?」
「しかし、こんな奇怪な国、覚えありませんが」
レムの脳裏に、屋敷の書斎で見た大陸図が浮かぶ。ルグニカ、カララギ、グステコ、ヴォラキア。どの国の風土にも、あの塔の群れは当てはまらない。
「文字が違います。服の作りも、髪の色も。それに——」
「亜人が、一人も居ないわ」
ラムが引き取った。すれ違った何百人の中に、角も、鱗も、獣の耳も、一つとして無かった。
「それに、飛ばされた時、妙な感じがしたのよ」
ベアトリスの声が、ほんの少し低くなる。
あの瞬間、身体が引き伸ばされる感覚があった。距離を跳ぶだけなら、あんな抵抗は生まれない。もっと分厚い、もっと根本的な隔たりを、無理やり突き破ったような。
「ただ遠くに飛ばされただけ、という程甘く無さそうかしら」
その言葉を聞いた瞬間、エミリアが顔を跳ね上げた。
「! そうだ、あの石でスバルもここに来たんじゃ」
「という事は、この近くにスバルくんが」
レムが一歩踏み出す。その勢いを、ベアトリスは掌を突き出して押しとどめた。
「落ち着くかしら。……ベティーに分かるのは、契約が切れていないということだけなのよ」
「方角は」
「分からないのよ」
言い切るまでに、ほんの一拍あった。悔しさを飲み下すだけの時間だった。
「近いのか遠いのかも、今のベティーには判じられない。……期待させて悪いけど、ベティーは道しるべにはなれないかしら」
沈黙が落ちた。レムが唇を噛み、それでも小さく頭を下げる。
「……いえ。切れていない、というだけで十分です」
「そうね。今はそれが、いちばん確かなことだわ」
ラムがそう言って、路地の外へ目をやった、そのときだった。
「あの、ちょっといいかしら」
声をかけてきたのは、買い物袋を提げた年配の女だった。
柔らかい声だ。距離の詰め方も、腰の低さも、警戒すべきものは何一つ無い。エミリアは反射的に、微笑みを返していた。
「はい」
「さっきからこの辺、行ったり来たりしてるでしょう。大丈夫? 道に迷ってない? ……その子なんて、こんな格好で、ずっと歩きっぱなしじゃない」
女の視線が、ベアトリスへ落ちる。
豪奢なドレスに、幼い背丈。大人に手を引かれてもいない。この街の理屈でどう見えるのかを、四人は知らなかった。ただ、女の眉が本気で曇っているということだけは分かった。
「お姉さんたち、どこから来たの? 日本語お上手ねぇ。旅行? ご家族は?」
「私たちは、ルグニカ王国の——」
「エミリア様」
止めたのは、ラムだった。だが遅かった。
「ルグ……? ごめんなさいね、おばさん耳が遠くて。どこの国かしら。ヨーロッパのほう?」
答えられない。地図を出しても、この街の誰も指させないだろう。
「ええと、その、遠い所から」
「そうなの。今日はどちらにお泊まり? ホテル、この辺?」
「……宿は、まだ」
「あら、これから? 予約は? ……予約も無し?」
女の首の傾きが、少しずつ深くなっていく。
「人を探していて。ナツキ・スバルっていう、男の子で」
「まあ、人探し。連絡先は分かる? 電話番号でも、ラインでも」
「でんわ、ばんごう」
エミリアが繰り返すと、女は不思議そうに瞬きをした。
「……お嬢さん、スマホは?」
「もっていません」
レムが正直に答える。
「四人とも? 誰も持ってないの? じゃあ、お財布は? パスポートは?」
「ぱす、ぽーと」
「あなた……」
女の顔つきが、変わった。
疑いではない。同情でもない。もっと真剣な、責任の色だった。
宿も決まっていない娘が四人。連絡手段も金も無く、旅券も持たず、そのうち一人はどう見ても子ども。そして、パスポートという言葉の意味すら分かっていない。
女が何を思い浮かべたのか、四人には分からなかった。ただ、その表情が「困った」から「これは放っておけない」へ移り変わったことだけは、はっきりと伝わった。
「ちょっと待ってて。そこの角に交番あるから、お巡りさん呼んでくるから。ね? 大丈夫よ、怖い所じゃないから。ちゃんと話を聞いてくれるから」
善意だった。どこにも棘が無かった。
それでも、四人の背筋を同時に冷たいものが走った。
「待ってください」
レムが半歩前へ出る。だが、その先に続ける言葉が無かった。
行かないでほしい。呼ばないでほしい。だが、なぜ、と問われたら。
「あら、遠慮しなくていいのよ」
女は微笑んで、そして背を向けた。急ぎ足で、人波の中へ入っていく。
「……エミリア様」
「うん。悪い人じゃ、ないわ」
「敵なら簡単でした。追い払えばいい」
ラムは女の背を目で追いながら、続けた。
「でも、あの人はラム達を助けようとしている。……だから面倒なのです」
エミリアは、その意味を一拍遅れて理解した。
助けを断るなら、断る理由を言わなければならない。追い払うのとは違う。あの人は、こちらが言葉を返すことを前提にして、親切をしてくれている。
そして自分たちには、返せる言葉が無い。
「……ちゃんと話せば、分かってもらえるんじゃない?」
言ってから、自分でも縋るような響きになったと気づいた。
「では、何を話しますか」
ラムの声に、責める色は無かった。ただ、確認するように尋ねただけだった。
「別の世界から来ました、と?」
エミリアの唇が、そこで止まった。
考えて、考えて、答えが出なかった。
自分がもしルグニカで、見知らぬ娘に同じことを言われたら。信じるだろうか。それとも、この子は何かひどい目に遭って、頭が混乱しているのだと思うだろうか。
——きっと、後者だ。
そしてそう思った人間は、優しければ優しいほど、その娘を一人にしておかない。
「……そっか」
エミリアは、自分の胸を押さえた。
「私、まだ何も嘘ついてないのに。本当のことしか言ってないのに」
「そうですね」
ラムは、それ以上言わなかった。
「その、おまわりさん、とやらが何かは分かりませんが」
レムが、女の消えた方角を見つめたまま言う。
「事情を説明させられる場所だと思います。説明できなければ、そう簡単には帰してもらえないはずです」
「留め置かれたら、スバルを探せないのよ」
ベアトリスがエミリアの袖を握った。
「ベティー達に、そんな時間、無いかしら」
エミリアは目を閉じた。
助けようとしてくれた人から、逃げる。それは、彼女がいちばんやりたくないことだった。人に手を差し出されて、それを振り払うということが、どういうことなのかを彼女はよく知っている。
それでも。
「……行きましょう。急いで」
人垣の隙間を縫って歩き出しながら、エミリアは一度だけ振り返った。
遠ざかる女の背へ、誰にも見えない角度で、小さく頭を下げた。
「ごめんなさい」
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## 四 残滓
三筋ほど通りを離れたところで、ベアトリスが突然、足を止めた。
「——待つのよ」
人混みの中で、その小さな身体だけが独楽のように回る。鼻先を上げ、指先を宙へ伸ばし、何かを探すように顔を巡らせた。
「今、あの石と同じ匂いがしたかしら」
「スバルくんですか!」
「違うのよ。人の気配じゃない」
即座に否定する。
「あの石が空間をこじ開けたときの、歪みの残り滓みたいなものかしら。似たようなことが、この辺りで起きた——本当に、それだけなのよ」
「バルスだとは限らない、と」
「限らないのよ。石が一つだけとも限らないかしら」
それでも、と四人は同時に思った。
自分たち以外にも、同じやり方でこの世界へ運ばれた何かがある。
「方角は分かるの?」
「一瞬だけ、あっちだった気がするかしら」
ベアトリスが指したのは、人の流れが吸い込まれていく方向だった。
「気がする、だけなのよ。もう感じないかしら。……追うなら、今しかないのよ」
誰も反対しなかった。
他に、行く当てが無かった。
人波は、進むほどに太くなっていく。細い道が合流し、階段が現れ、屋根の下に入る。頭上から降る平たい声が大きくなり、床の材質が変わり、光が白くなった。
そして、開けた。
巨大な建物の口だった。
その手前に、腰ほどの高さの仕切りが横一列に並んでいる。人々が次々とそこをくぐり、向こう側へ流れ込んでいく。
「ベアトリス。まだ感じる?」
「……途切れ途切れかしら。でも、こっちのほうが濃い」
ベアトリスの指が、まっすぐに仕切りの向こう側を示した。
「あの門の、向こうなのよ」
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## 五 低い門
「関所、でしょうか」
「にしては、番人が少なすぎるかしら」
門の脇には制服の男が一人立っているだけで、誰かを検めている様子はない。それなのに、門は勝手に開き、勝手に閉じる。
「見て。あの人たち、何かを門に触れさせてるわ」
エミリアの言う通りだった。ある者は薄い紙片を差し入れ、ある者はあの黒い板を、ある者は小さな札を軽く当てる。そのたびに短い音が鳴り、透明な羽が開く。
「何か通るための札が要るのかしら」
「金を払っているようにも見えます」
レムが冷静に付け加えた。
「もしくは、通行の許可証か。……どちらにしても、レムたちは持っていません」
四人は、その門を眺め続けた。
流れは、一瞬たりとも途切れない。
背広の男が歩きながら片手で札を当て、目も向けずに通り抜ける。母親に手を引かれた小さな子どもが、背伸びをして自分の札を当て、得意げに通る。杖をついた老人が、ゆっくりと、しかし確実に通る。制服の学生の群れが、喋りながら、一人も詰まらずに通る。
誰も戸惑っていない。誰も止められていない。
「……よくできているわ」
ラムが言った。
「これだけの人数を、争いも順番待ちもなく捌いている。門番一人で」
この門は、誰かを締め出すために作られたのではない。大勢を通すために作られている。
それなのに、自分たちだけが通れない。
「レム。何か、あの札に似たものは」
「持ち合わせがありません。金貨も、この国では通じないかと」
「拾った紙で真似られないかしら」
「厚みも、模様も、一枚ごとに違います。おそらく中身が違う」
三人が言葉を交わす間、エミリアは門の向こうを見ていた。
白い光の下に、下りの階段が続いている。人が吸い込まれていく。この先のどこかに、あの黒い石と同じ匂いが残っている。
距離にして、五歩も無い。
高さは、腰ほど。
「あの、大丈夫ですか?」
声をかけられて、四人は同時に振り返った。
制服の男が、いつの間にか近くまで来ていた。慌てた様子ではない。咎める様子はもっと無い。
「さっきからずっとそこにいらっしゃるので。どちらまで行かれますか?」
「……ええと」
「切符の買い方が分からない、とかでしたら、あちらでご案内できますよ。あ、外国の方でしたか。失礼しました。ええと——ホエア、ドゥー、ユー、ゴー?」
男は少し照れながら、それでもきちんと発音しようと努めていた。伝わらないと見るや、今度は懐から黒い板を取り出す。
「ちょっと待ってくださいね。これで……はい、どうぞ。ここに向かって喋ってもらえれば」
差し出された板の中で、文字が並んでいた。
四人には読めなかった。読めないということが、男には伝わらなかった。
「英語じゃない? 中国語? 韓国語……あ、切り替えますね。すみません、ちょっと待って」
男は真剣だった。
この街には、言葉の通じない者を助けるための道具まで用意されている。それを扱う訓練を受けた人間が、門のそばに立っている。四人が息を呑んだのは、まさにそこだった。
迷った異国人を助けられる街なのだ、ここは。
それでも、助けられない。
言葉が通じないからではない。四人が「言葉の通じない外国人」ですらないからだ。
「お連れの大人の方は? そちらのお嬢さんの、保護者の方とか」
男の目が、ベアトリスへ向いた。
「切符を落とされたなら、届いてるかもしれません。交番のほうにも遺失物が回りますから、一度そちらで——」
また、同じ場所へ繋がる。
親切の道は一本ではなかった。何本もあって、そのどれもが、最後には同じ扉の前へ辿り着く。
「……結構です。ありがとうございました」
レムが深く頭を下げ、四人は門の前から退いた。
柱の陰で、エミリアが門を振り返る。
腰ほどの高さ。走って跳べば、一歩だ。
「勝てるのに、戦えないのね」
「勝ってはいけない、が正確です」
ラムが訂正した。
「今のラム達は、あの人から見れば『困っている娘たち』です。門を壊した瞬間、それが別のものに変わります。この街の人間がそういうものをどう扱うかは知りませんが、放っておかないことだけは確かでしょう」
「……さっきの人たちが、みんな敵になる」
「敵に回すには、この街は人が多すぎます」
ラムは門の向こうへ視線を送った。
「エミリア様。あの門は、ラム達を拒んでいるわけですらありません。ただ、通り方を知らないだけです」
知らないというだけで、行ける場所が消えていく。
剣も、魔法も、血筋も、この街では鍵にならなかった。
「ベアトリス。匂いは」
ベアトリスは、答えなかった。
指を伸ばしたまま、何度も角度を変え、そして下ろした。
「……消えたかしら」
「消えた?」
「掴んでいられないのよ。薄すぎるのよ、この世界は。……探るための足場ごと、無いかしら」
悔しさに、幼い声が震える。誰も責めなかった。責められるはずがなかった。
残ったのは、確かではない希望が一つだけだ。
あの石と同じものが、この世界にもう一つ在った。ならばスバルも、どこかにいるかもしれない。
どこかは、分からない。
「エミリア様」
レムの声が、鋭く低くなった。
人波の向こう。先ほどの駅員が、こちらを指さしながら、別の誰かに何かを話している。紺色の制服。腰に何かを提げた、体格のいい男。
その隣には、買い物袋を提げた年配の女の姿もあった。
女はしきりに頷いている。心配そうに、こちらを探している。制服の男は、女の話を最後まで聞き、それから穏やかな顔で頷いた。
「あの人、戻ってきてくれたのね」
エミリアが呟いた。
誰も、四人を追ってはいなかった。急いでもいない。走ってもいない。あの三人はただ、迷子になった娘たちを見つけて、声をかけようとしているだけだった。
それなのに、四人の足は勝手に後ずさっていた。
「……行くわよ。ベアトリス、手を」
「言われなくても掴んでるかしら!」
四人は身を翻し、人の波の中へ滑り込む。
誰も呼び止めなかった。誰かが「あれっ」と声を上げたのが、遠くで聞こえた気がした。それだけだった。
塔と塔の隙間を抜け、光の川を渡り、四人は走った。
走りながら、エミリアは考えていた。
あの人は、買い物の途中だったのに、わざわざ戻ってきてくれた。駅員の人も、ずっと丁寧だった。あの制服の男の人だって、きっと。
悪くない人たちから、逃げた。今日、自分たちは初めて、この街の正しいやり方から外れた。
「悪い人ではありませんでした」
隣を走りながら、ラムが言った。
「それは、忘れないほうがいい」
「……うん」
人混みの奥。光の板が色を変え、放送が流れ、扉が開き、鉄の箱が走り、何十万という人間が今日も運ばれていく。
これほどよくできた街で、四人だけが、どこへも行けなかった。
エミリアは足を止め、息を整え、それから三人を見た。
「決めましょう。門は通れない。お金も無い。宿も無い。……でも、スバルは、たぶんこの世界にいる」
声が、そこで少しだけ強くなった。
「探すわ。何があっても」
「具体的な方策は」
「……今から考えるわ」
「でしょうね」
四人は、また歩き出した。
その頭上で、柱に据えられた小さな黒い目が、遠ざかる背中を黙って見送っていた。