石は夜のあいだ冷たさを溜め込んで、朝になってもそれを手放さなかった。
高い道を支える柱の根元、その陰に四人は身を寄せていた。頭上を、何かが定期的に走り抜けていく。そのたび柱がわずかに震え、埃が落ちた。
ベアトリスが、膝を抱えたまま短く息を吐いた。
「寒いのよ。石の下で夜を明かすなんて、ベティーの四百年で一度もなかったかしら」
「申し訳ありません。せめてこれを……いえ、断られる前に着せてしまいますね」
レムが上着を肩にかけた。ベアトリスはそれを払いのける仕草をして、途中でやめた。
「勝手なやつなのよ。……まあ、温かいから今回だけは見逃してやるかしら」
「レム、あなたが先に倒れたら世話がないわ。ほら、ラムのを貸してあげる。ラムは寒さに強いので、これは同情ではなく余裕よ」
「姉様、震えていらっしゃいます」
「気のせいよ。それと、姉の嘘は指摘しないのが妹の務めよ」
エミリアは柱の陰から顔を出して、広い道を見ていた。
昨日の夕方、この道を走る鉄の箱は数えられる程度だった。今は、数えるという発想が浮かばない。同じ方向へ、途切れずに流れている。人の姿も昨日の倍はあった。誰もが同じ速さで歩き、誰も立ち止まらない。
「みんな。昨日より、人が増えてる。このままここにいたら、そのうち見つかる」
「隠れる、という言葉が出るのは結構です。昨日のエミリア様は『走る』しか言いませんでしたから」
「うん。だからね、ラム。私、走るのも隠れるのもやめようと思ってる」
ラムが、片眉をわずかに動かした。
「……続きをどうぞ」
「私たち、ここがどこかも、どっちに行けばいいかも分からない。分からないなら、聞けばいいと思うの。ここの人に」
「エミリア様が仰ると本気に聞こえるので困ります。ここは敵地かもしれない、とラムは申し上げたはずです」
「うん、覚えてる。でも昨日ずっと見てて、誰も剣を抜かなかった。怖がってはいたけど、誰も私たちに向かってこなかったでしょう。剣を持たない人にまず話しかけるのは、そんなに悪い賭けじゃないと思う」
「持っていないのではなく、必要がないだけかもしれません」
ラムはそこで一度言葉を切り、それから息を吐いた。
「……ですが、他に案がないのも事実ですね。ラムは疑ったままお供します。疑うのはラムの担当、信じるのはエミリア様の担当ということで」
「レムも賛成です。水と、休める場所と、ここがどこなのか。それだけでも分かれば、ベアトリス様に無理をさせずに済みます」
「ベティーは無理などしていないのよ。……ただ、水は少し欲しいかしら」
エミリアは頷いて、道の向こうを指した。
白く光る箱のような建物がある。夜通し明るく、中に一人、同じ場所から動かない男がいた。
「あそこの主だと思う。私が行くね」
「レムを先に行かせましょう」
「ううん、私が言い出したんだから、私が行く。二人はベアトリスをお願い」
*
自動扉が開く音に、エミリアは一度だけ肩を跳ねさせた。
中は昼のように明るく、色のついた箱と袋が壁一面に整列していた。目を止めたら動けなくなりそうだったので、見ないことにした。
「ごめんなさい、少しだけいい? 私たち、困っていて……あの、怪我はしてないの。ただ、道が分からなくて」
「あ、はい。えっと……大丈夫ですか? どこ行きたいとかあります?」
若い男は手を止めた。顔に、警戒より先に困惑が出ていた。
「それが分からないの。行きたい場所も、今いる場所も、分からないの」
「えー……あの、失礼ですけど、旅行の方ですか? 日本語めちゃくちゃ上手ですけど」
「にほんご。……あ、ううん。なんでもないの。旅行……そう、たぶん、そういうことだと思う」
「たぶんて。あー、まあいいや。とりあえずこれ飲んでください、水。四人分ありますから、開けますね。立ってるのしんどいでしょ、そこの椅子使っていいんで」
透明な筒が四本、台の上に並べられた。蓋が回されて外れる音が、四回。
「……いいの? 私たち、お金を持ってないの」
「いいですって。減るもんじゃないんで。……減るか。まあいいです」
外の椅子まで運ばれた水を、ベアトリスが両手で受け取り、匂いを嗅いでから一口飲んだ。
「毒は入っていないのよ、これ。ベティーが確かめたかしら」
「失礼しました。この子、疲れると変なことを言うんです。……ベアトリス様、確かめる前に一口飲んでいたことは黙っておきます」
「余計なことを言うなかしら」
冷たさが喉を通って、胸の内側まで降りていった。エミリアはそこで初めて、自分がどれだけ渇いていたかを知った。
「……おいしい。ありがとう。私、エミリア。あなたは?」
「俺はまあ、名乗るほどのあれじゃないんで」
男は言いながら、腰のあたりから小さな板を取り出して、少し迷ってから戻した。
「……あの、勝手にすみません。交番の人呼んでいいですか。俺よりそっちの方が詳しいと思うんで」
「こうばん」
「警察です」
「その人たちは、道が分かる?」
「分かりますよ。この辺の人なんで」
「……うん。それならお願いします」
「エミリア様」
ラムの声は低かった。エミリアは首を振った。
「大丈夫。ラム、大丈夫だから」
「……あの男に悪意はありません。悪意はないまま、ラムたちをどこかへ渡そうとしている。渡した先が何なのか、あの男自身も知らない。ラムが気に入らないのはそこです」
「姉様は、心配性ですね」
「ええ。妹に似たわ」
*
警察官は二人で来た。年上の男と、若い女。二人とも同じ形の服を着て、同じ形の帽子をかぶっていた。
男のほうは、四人を見ても表情を変えなかった。それがかえって、エミリアには読みにくかった。
「おはようございます。店員さんから聞きました、道が分からないって? 急がなくていいんで、ゆっくりで。まずお名前教えてもらえます?」
「エミリアです。……あ、それだけです。それが名前の全部なの」
「エミリアさん、と。お歳はいくつですか」
「十八です」
「十八ね。じゃあ住んでるところ。番地までじゃなくていいんで、この国での住所、言えます?」
「ロズワール様のお屋敷です。アーラム村の近くの」
男は手元の小さな帳面に何か書きかけて、途中で止めた。
「アーラム村……ちょっと聞いたことないな。お国はどちらですか」
「ルグニカ王国です」
「ルグ、ニカ」
男は板を取り出し、指で撫でた。光が顔を下から照らして、その表情をひどく平坦に見せた。
「……調べさせてくださいね。……うーん、出ないな。パスポートか身分証、持ってます?」
「何も持っていません。お金も、一円も。四人ともです」
レムが答えた。男の指が、板の上で止まった。
「……身分証も、携帯も、金もない。泊まるところも決まってない。それで昨日は?」
「大きな道の下で、四人で休みました」
女の警察官が、それまでより半歩前に出た。視線がベアトリスに落ちて、すぐ戻った。
「外で? この子も一緒に? ……ねえ、家族とか、連絡の取れる大人はいない?」
「家族は、いないです」
エミリアは一度、唇を結んだ。
「頼れる人は……ナツキ・スバル。スバルっていう人がいます」
「そのスバルさんの連絡先か住所、分かります?」
「知らないの。今どこにいるかも分からない」
言いながら、自分の声が細くなっていくのが分かった。それでも、そこだけははっきり言いたかった。
「でも、この世界のどこかには絶対いるはずなんです」
「……この世界」
「言葉のあやです。この子、大袈裟な言い方をするので」
ラムが横から挟んだ。男は少し笑って、それから笑いをしまった。
「まあ、いいですけど。……エミリアさん、俺、意地悪で聞いてるんじゃないんですよ。ただ、若い人が四人、身分証も金もなくて、外で寝てて、家族もいない。これ、俺の仕事だとかなり心配な状況なんです」
「私たちは大丈夫です」
「じゃあ聞きますけど、今日の夜どこで寝ます? 何食べます? 答えられないでしょう」
エミリアは答えなかった。答えが浮かばなかった。
「……はい。答えられないから、困ってここに来たんです」
「そう。だから俺も困ってる。お互い様ですね」
*
男が差し出したのは、薄い紙とペンだった。
「じゃあこの用紙に、分かる範囲でいいから書いてもらえます。名前と、生年月日。ペンここです」
「エミリア様、レムが。……お貸しください」
レムが紙を受け取り、膝の上に置いた。数秒、動きが止まった。
「あの、それ……上下逆です」
「…………」
ラムが黙って紙を取り、向きを直した。それから、レムと同じだけの時間、そこで止まった。
男が、初めて姿勢を変えた。
「……ちょっと聞いていいですか。日本語、普通に喋れてますよね。俺よりはっきり喋ってるくらいだ」
「話せます。ですが、読めません。四人とも、一文字も」
「一文字も、四人とも」
「ええ。おかしいでしょう。ラムもおかしいと思うわ。でも事実なの」
男は数秒、紙を見ていた。それから帽子のつばを一度触って、立ち上がった。
「……ちょっと外しますね。すぐ戻ります」
数歩離れたところで、男は肩の近くの黒い箱に口を寄せて、何か短く喋った。声は聞こえなかった。
女の警察官が、代わりに座った。
「ごめんね、少しだけ待ってて。……お菓子食べる?」
「……あの、私たち、何かいけないことをしましたか。さっきから、あなたたちの顔がどんどん困っていくの」
「いけないことはしてないよ。誰も怒ってない。ただね、あなたたちの話を全部本当だとすると、私たちが心配しなきゃいけないことがすごく増えるの。……悪い大人に何か言わされてるとか、そういう心配」
「誰もいないです。私たちだけです」
「そう言うしかないよね。言えない事情があるなら、なおさら」
女はそれ以上追わなかった。追わないまま、視線をベアトリスへ移した。
*
「ねえ、あなた。お名前は? いくつ?」
「ベアトリスなのよ。ニンゲンで言えば歳は四百。数え間違いがなければ、そのあたりかしら」
「……ふふ。じゃあベアトリスちゃん、ちょっとだけお姉さんとあっちでお話ししよっか。すぐ済むから」
女は膝を折って、目線をベアトリスの高さに合わせた。声は柔らかく、手はどこにも触れていなかった。
「何故ベティーだけ。話すことなど何もないかしら」
「話さなくてもいいよ。座ってるだけでいい。一人のほうが言いやすいこともあるからね」
「あの、一緒じゃ駄目ですか。私たちも一緒にいたら駄目な理由が、私には分からないんです」
「一緒だと言えないことがあるでしょう、っていうのが理由。ごめんね、これは私の仕事なの。すぐ終わるから。……ベアトリスちゃん、行こうか」
女が立ち上がった。ベアトリスも、つられるように腰を浮かせた。
その手が、エミリアの袖を掴んでいた。
力は強くなかった。ただ、指が離れなかった。
「……離すな、かしら」
声は、風の音に紛れるほど小さかった。
「……え」
「聞こえなかったのなら、もう言わないかしら。二度も言う台詞じゃないのよ」
エミリアは、袖のその一点を見た。
昨日から、この子は一度も弱音を吐かなかった。寒いとも、腹が減ったとも、事実の報告としてしか言わなかった。
「ううん、聞こえた」
顔を上げる。
「……ごめんなさい。この子は、私たちと一緒にいます」
「うん、分かってる。分かってるけど少しだけ――」
「いいえ。駄目です」
男の警察官が戻ってきていた。二人のあいだに、静かに割って入る。
「エミリアさん。彼女は君らを疑ってるわけじゃなくてね」
「疑ってます」
エミリアは、まっすぐ男を見た。
「口では言わないけど、私がこの子にひどいことをしてるかもしれないって思ってる。……それは、あなたたちの仕事なんだと思う。分かります。分かるけど、駄目です」
「……分かってくれるなら、もう少しだけ協力してもらえませんか」
「ごめんなさい。水をくれた人にも、あなたたちにも、本当にお礼を言いたいの。すごーく助かりました。でも、この子から手を離すのだけは駄目なんです」
エミリアは立ち上がった。レムが先に動き、ラムがベアトリスの反対側に立った。
「行きましょう、みんな」
「待って」
男は追わなかった。手も伸ばさなかった。ただ、声だけがついてきた。
「……止めはしません、止められないので。でも行くってどこに行くんですか。それだけ教えてください」
「……答えられません」
「でしょうね」
男は帳面から一枚を切り取って、差し出した。
「じゃあこれ持っていって。俺のいる交番の場所と番号です。読めなくてもいい、誰かに見せれば分かるから。困ったら来てください、夜中でも」
エミリアはそれを受け取った。読めない文字が、几帳面に並んでいた。
「……ありがとうございます」
「あと一つだけ。エミリアさん、君ら、言えない事情があるんでしょう。言わなくていい。でもそれを抱えたまま外で寝るのは、たぶん間違ってますよ。以上です。気をつけて」
*
角を二つ曲がるまで、誰も口をきかなかった。
最初に喋ったのはベアトリスだった。
「あの女、しつこかったのよ」
「しつこくはありませんでした。無理に連れて行けないから、言葉で引き止めた。それだけよ」
「……悪い人ではありませんでしたね」
レムが、後ろを一度振り返って言った。
「それなのに、どうしてこんなに息が苦しいんでしょう」
「悪人なら殴れるもの。敵なら戦える。あれは戦えない。正しいことをしている人間ほど、ラムたちを放っておけないから」
「……助けてもらいに行ったのに」
「ええ。助けてもらおうとしたから、こうなったんです」
エミリアは、手の中の紙を見た。折り目がついて、汗で少し湿っていた。
捨てる気にはなれなかった。
*
「腹が減ったのよ」
「食べ物を売っている場所なら、いくらでもあります。ですが……」
「お金がない」
「働こうにも、身元も分からない、文字も読めない娘を誰が雇うのやら」
道の両側に、光る看板が並んでいた。中には食べ物の絵が描かれているものもある。絵は分かる。値段らしき数字も、たぶん数字だと分かる。それだけだった。
「……じゃあ、人の少ないところに行こう。ここは人が多すぎる」
「それが、エミリア様」
レムが、歩調を落とした。
「……なに?」
「レムたちは、追われているのだと思っていました。でも違うんです。追ってきているのではありません。どこへ行っても、人がいるんです。川のほうへ行きました、人がいました。道を変えました、人がいました。細い道に入りました、そこにも人がいました。……朝から歩いて、誰もいなかった場所が、一度もありません」
「森はないのかしら。山でもいいのよ」
「見当たりません。遠くに山らしいものはありますが……あれは、建物だと思います」
エミリアは足を止めて、見渡した。
道が続いている。その先にも道がある。家と家のあいだに隙間はなく、隙間があればそこにも道があった。屋敷から森が見えたことを思い出そうとして、うまく像が結ばなかった。
「エミリア様。ラムは昨日、『逃げましょう』と申し上げました」
ラムが、同じ方向を見たまま言った。
「あれは取り消します。この土地には、逃げた先というものがありません」
*
それでも、川はあった。
水の匂いを頼りに歩いて、堤の下へ降りると、草があった。頭上を渡る橋が音を遮り、人の流れは道の上に押し上げられて、こちらには落ちてこない。
ベアトリスが、草の上に腰を下ろして肩の力を抜いた。
「ここは静かなのよ。川の音しかしない。これなら少しは我慢できるかしら」
「エミリア様も、少しお休みください。顔色がひどいです」
「レムのほうがひどいよ。それに、みんな『平気です』って言うでしょう。うちの人たち、全員嘘が下手なんだから」
「ラムは上手よ」
「ラムが一番下手」
「そこは同意するのよ」
束の間、四人とも黙った。水の音がした。
最初に立ち上がったのはラムだった。
「……レム。上を見なさい」
堤の縁に、人が一人立っていた。
こちらを見ている。手には、あの光る板があった。腕がまっすぐこちらへ伸びている。
「昨日、駅の前でも同じことをされましたね。あのとき板を向けてきたのは、たまたま目が合った者たちでした。今のあれは違います」
「どう違うの?」
「昨日の連中は、ラムたちを見つけて驚いていました。今のあれは驚いていません」
ラムは目を細めた。
「探しに来て、見つけた顔をしています」
一人が二人になった。二人目は走ってきて、一人目の隣で足を止め、同じように腕を伸ばした。
「うわ、マジでいた」
「どれどれ。……あ、いる。てか耳やば」
「作り物でしょ」
「今動かなかった?」
「動いてないって」
声は、こちらに向けられていなかった。互いに喋っているだけだった。
ベアトリスが立ち上がりかけて、ラムに肩を押さえられた。
「動かないでください、ベアトリス様。動くと喜びます」
「何なのよ、あいつらは。何かをしているようで、何もしていないかしら」
「行きましょう」
エミリアが言った。堤に沿って歩き、橋の下をくぐって、反対側の階段を上がる。上の道に出れば、人の流れに紛れられる。昨日はそれでうまくいった。
階段を上がりきったところに、三人いた。
こちらを向いて、待っていた。腕は、すでに上がっていた。
「……え」
エミリアは、思わず足を止めた。
「ねえ。あなたたち」
自分の声が、自分でも驚くほど普通に出た。
「どうして、ここにいるって分かったの?」
三人のうち一人が、口を開けた。
「え、喋った」
「日本語じゃん」
「やば」
答えは返ってこなかった。エミリアの問いは、彼らのあいだで別の話題になっただけだった。
「エミリア様」
レムが袖を引いた。振り返ると、川の方角からも二人上がってきていた。先ほどの二人ではない。別の顔だった。
「……道を変えます」
変えた。三つ目の角を曲がったところで、また一人が待っていた。次の通りでは二人。人数は、四人が移動するたびに、減らずに増えていった。
誰も追いかけてはこなかった。誰も走らず、誰も触れず、誰も止めろとは言わなかった。ただ、四人が行こうとする先に、先に着いている者がいた。
「あんな板、壊してしまえばいいかしら。四つくらい造作もないのよ」
「四つ壊して、どうなさいます。この道を歩いている者、全員が持っていますよ」
ラムの言うとおりだった。すれ違う人間の、ほとんど全員が同じものを手にしていた。ほとんどは四人を見もしなかった。見ないまま、その板を覗き込んでいた。
「レム」
「はい」
「あの人たち、私たちを捕まえに来たの?」
「いいえ」
答えたのはラムだった。
「見に来ただけです。捕まえる気のある人間は、あんな顔で笑いません」
「じゃあ、見て、それからどうするの」
「分かりません。……分かりませんが、昨日ラムたちを見た者と、今ラムたちを見ている者は、別人です。ラムたちはこの土地の誰とも知り合っていないのに、ラムたちを知っている人間だけが増えている」
通りの向こうを、赤い光が滑っていった。
音が近づき、遠ざかり、消えた。誰も四人を見なかった。それでも四人は、その光が見えなくなるまで動けなかった。
「……私たち、何も悪いことしてないのに」
エミリアは言った。
「水をもらって、お礼を言って、名前を言って、聞かれたことに全部本当のことを答えて、それでこうなった。……ねえラム、なんで?」
「向こうも、同じことを思っているでしょうね。あの店の男も、あの警察官たちも、今ごろ『こちらは何も悪いことをしていないのに』と言っています」
ラムは、まだ後ろの角を見ていた。
「悪意のある者は、今日一人もいませんでした。それでもラムたちは、朝より追い詰められている」
次の角にも、人が立っていた。
エミリアは、そこで足を止めた。
「待って」
「エミリア様?」
「私、もう走らない」
三人が振り返った。ベアトリスが眉を寄せた。
「……この状況で、また変なことを仰いますね」
「変じゃないよ」
エミリアは、自分の手の中の紙を握り直した。折り目がもう一本増えていた。
「昨日は走った、今日は逃げた。その結果が今でしょう。走るたびに、私たちを知ってる人が増えて、行ける場所が減ってる。だから、走るのをやめる」
「では、どうなさいます」
「次に誰かに会ったら、逃げないで、私から名乗る。ちゃんと目を見て、エミリアですって言う」
声が震えないように、一度息を吸った。
「……この場所で私たちが誰でもないなら、誰かにならないと、ずっとこのままだと思う」
「無茶を言うのよ、この娘は」
「ですが、エミリア様らしいです」
「無茶ですね」
ラムは、しばらく黙っていた。それから、四人の先頭に立った。
「無茶ですけれど、ラムは疑い役ですから、一つだけ言っておきます。……名乗った瞬間に、もっとまずいことになりますよ。それでもよろしいので?」
「うん。それでも、このまま知らない人が増えていくよりいい」
「……了解です。では参りましょう。ラムが先に立ちます。ラムのほうが、嘘が上手いので」
「一番下手なのに」
「今日は上手くやります」
角の向こうから、声が届いた。
「あ、動いた。こっち来る」
「え、待って待って、四人ともこっち来てるって」
エミリアは歩き出した。
角を曲がった先で、光る板が一斉にこちらを向いた。数えるのをやめるほどの数ではなかった。だが、昨日の駅前で数えた数より、明らかに多かった。
エミリアは息を吸い、その中の一人と目を合わせて、口を開いた。